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23 おでまし

 シャーロットは、三人以上の魔術師が、一挙に魔神を召喚するところを見るのははじめてだった。


 オリヴァーが最初にシャーロットに呼び出されたときに持ち出していた『魔神便覧』とチョークが、複数の魔術師の手を渡り、敷石の上に省略された召喚陣が並んで描かれ、白いほどに透明にきらめき始める。


 軍人の大多数は魔術師ではないから、はじめて目の当たりにする召喚に、「すげぇ」という声が上がるのも聞こえてきた。


 今や軍隊は召喚陣を囲むように大きく広がっており、召喚陣のうち一つの前に立つ魔術師――シャーロットは初対面だったが、彼はマークスと名乗った――が、ぼそりと「見世物か」とつぶやくのも、ばっちりシャーロットの耳に入った。


 魔術師以外の役人たちは、軍人の一部に庇われて、ここよりさらにグレートヒルの外れとなる方向へ誘導されていった――だが、アモンの計らいがあって、グレートヒルの外へ出ることは出来ない現状、どこへ避難しても最終的な危険は変わらないということは、軍人の悲壮な顔が物語っているところだった。



 だが、ともかく、召喚は成功した。


 誰かがシジルを描き損じていたら、あるいは〈召喚〉を唱えるときに舌を噛んでいたら、シャーロットはその人物に喧嘩を売りにいくところだった。



 序列四十一番フォカロルは、巨大な鷲の翼を持った褐色の肌の男として、簡略化された召喚陣の中に現れた。

 身の丈は八フィートばかりあり、見上げるほどの巨躯である。

 翼があって、その身体はいっそう巨大に見えていた。


 序列四十八番ハーゲンティは腰から下は人間、腰から上は強靭な牡牛という姿で現れ、その背中にはやはり大きな鷲の翼が広がっている。

 ねじ曲がった角が頭の両脇から生えて、天を衝くばかりだ。

 フォカロルよりも頭ひとつ分小さかったが、それでも巨躯であることに変わりはない。


 序列五十九番オリアスは、燃え上がるような真紅の馬に跨った、黄金のたてがみの眩しいライオンの頭を持つ男の姿で現れた。

 馬は蛇の尾を持っており、アーノルドはこわごわと、「馬とライオン、どっちが魔神なの」と尋ねてきたが、シャーロットはきっぱりと答えた。


「趣味で二つの生き物に見えるようにしているだけで、あれは全部で一つの魔神なの」


 序列七十一番ダンタリオンは、神秘的なトーガをまとい、奇妙な人間の姿で現れた。

 奇妙というのはつまり、一つの頭に複数の顔があるのだ。

 正面を向いている顔は、見目うるわしい若い娘のものだった。

 その左側で横顔を見せているのは勇壮な若い男のもの、そして後ろを向いている顔はしわくちゃの老婆のもの、若い娘の顔の右側で横顔を見せているのは、上下に重なった小さな顔が二つ――いかめしい老人のものと、無垢そのものの幼い少年のものだった。

 自信まんまんで省略された召喚陣の中に現れたかれだったが、周囲を見渡すなり全ての口で異口同音にうめき声を上げた。

 まさか、格上の魔神をこうも一度に目にすることになるとは思わなかったらしい。



 軍省維持室のフラナガン助官もそこにいて、彼は序列五十八番のアミーを召喚しようとしたようだったが、召喚陣は呪文に応じることはなかった。


「アミーは留守」


 と、フラナガン助官は端的に結論づけた。



 そのころにはマルコシアスは、落ち着かない様子でしきりに夜空を見上げては、コウモリの翼を出したり引っ込めたりを繰り返しており、珍しいことに、足許をネズミが走るだけで飛び上がるほど驚いていた。

 猫とネズミを同じ納屋に閉じ込めたら、ネズミはこんな態度をとるかもしれない。

 だが、これに乗じてかれをからかおうとしたらしきリンキーズには、断固たる態度で上下を教え、制裁を加えていた。


 ストラスは逆に、魔神にはあるまじきほどに落ち着いた優しげな瞳で、召喚された四人の魔神を眺め渡していた。

 犠牲者が自分以外にも発生するという段になって、その犠牲者たちに、きわめて自分本位な同情心が、突発的に湧いてきたらしかった。


 オリヴァーは静かに興奮していた。

 彼も、これほどの数の魔神を一挙に目にしたのは初めてなのだ。

 これまで彼が目の当たりにした魔神の数は、一度に三人が最大だった。


 ウィリアム・グレイは興奮している余裕もなかったのか、せわしげに煙草を吸いながら召喚を横目で眺め、「大変なことになった」とつぶやいては首を振っている。



 夜陰にきらめく召喚陣の中に、精霊を引き連れて現れた魔神たちが、それぞれがいちおう召喚陣の上でもったいをつけ、自分たちを召喚した魔術師を見据える。


 ほぼ同時に召喚されたとあって、第一声は大体のところで重なっていた。


「さて、召喚者――」


「よろしい、私の要請者――」


「召喚者どの――」


「われわれの召喚者よ――」


「――報酬を――」


「――報酬をうかがおう――」


「――報酬と命令を――」


「――要請と報酬の均衡を――」


 そのこだまのような声の重なりに、状況が状況でなければシャーロットは大笑いしていたところだ。


 召喚された当人たちも気まずそうにしており、ダンタリオンは全ての顔をうつむかせようとして、ぐるぐると頭を回している。



 便宜上はかれらの主人となる魔術師たちが、一斉にシャーロットを見た。

 おのおの、「正気か?」と、最後に念押しするような顔をしている。


 シャーロットは勢いよく何度も頷いた。とにかく今は一刻も早く、かれらを味方につける必要がある。


 かくして四人の魔術師が、それぞれおそるおそるといった様子で口に出した。



「――報酬は、『神の瞳』の在り処」



 その瞬間に四人の魔神の全員が、命令がなんであれ忠実に拝命すると誓い、その頸に枷をかけられることを受け容れたことは、もはや語るまでもなく当然のことだった。





▷○◁





 秘宝の在り処を手中にできるという熱狂が、数秒後に悪態と苦情と罵声に変わった。


 マルコシアスが、格下に格好のつかないところは見せられないということを唐突に思い出したかのごとき堂々たる態度で、悪びれなく発表したからである。


「さて、心優しいきみたちのご主人さまは、報酬を先払いにしてくださるそうだ。――『神の瞳』の在り処は僕から伝えよう。

 あ、ちょっと、そこ、()が高いって言葉は分かる? もうちょっと頭を下げなよ、見ても分かんないと思うから忠告すると、僕は〈マルコシアス〉だぜ」


 召喚されたばかりの四人の魔神が、いちように驚いた様子でマルコシアスを眺めた。


 マルコシアスは尊大に鼻を鳴らしたものの、どうしても気になる様子で夜空を見上げ、それから胸を張って続けた。


「『神の瞳』は、この僕が持っている」


 とたん、自分に飛び掛かってこようとする四人の魔神の気配を察して、マルコシアスは鷹揚に手を振ってみせる。


 とはいえ、仕草の鷹揚さに対して、語調はかなり口早になっていた。


「おっと、わが兄弟たち、早とちりして僕に喧嘩を売るのは後にしてくれ。

 ――状況がちょっとまずくてね、この『神の瞳』を、なんとアモンがご所望だ」


「だれだって?」


 フォカロルが訊き返した。

 その声があまりに深くて大きいので、まるでブロンズの鐘が鳴ったかのようだった。


 マルコシアスは快く繰り返した。


「アモン」


「私は降りる!」


 フォカロルが宣言し、リーが泡を喰った様子でわたわたと手を動かし始めたが、たまらずシャーロットが口を挟んだ。


「契約を切るのは魔術師側の特権よ。いいこと、あなたのご主人さまは、絶対に契約を切ったりはしませんからね。

 あなたが領域に引き返したところで、何度でも〈傍寄せ〉でこの場に戻してくれるわ」


 悪態と苦情と罵声が巻き起こった。


「悪魔め!」


 フォカロルは叫び、かなりのところでハーゲンティもオリアスもダンタリオンもそれに同感のようだったが、シャーロットはにっこり笑った。


「面白いことを言うのね、どうも」


「レディ、くだらないこと言ってないで。

 ――とにかく、アモンはそろそろお見えになる。しかも、アモンは『神の瞳』を、なにも使おうとして狙ってるわけじゃなくてね。詳しいことは省くけれども、アモンが『神の瞳』を手に入れたら最後、二度とこいつは僕らのあいだに出回らないと思ってくれ」


 フォカロルがハーゲンティを見た。

 その眼差しに横から何を見てとったのか、マルコシアスは苛立たしげに続ける。


「アモンに分捕られる前に、こいつを僕から奪おうなんて考えない方がいい――まあ、どうしてもと言うなら、僕はもうすすんでこいつを譲ってやるくらいの気分にはなってるんだけど。なにしろ、アモンの狙いは僕じゃなくて、『神の瞳』だからね。こいつを手にしたことが分かったとたん、アモンの狙いはそいつに切り替わるだけだ。

 アモンと追いかけっこをするよりは、まずは僕らで共闘してから、じっくりこいつを奪い合う方がお互いのためだと思うんだが、どうかな?」


 四人の魔神たちのあいだに、不承不承ながらも賛成の色が広がるのを見て、マルコシアスはほっとしたようだった。


 とはいえそれを表に出さず、あくまで冷静で尊大な態度を保っている。


「まあ、ちょっと頑張れば、ここにいるわがレディのお友だちが走っていっているはずだから、援軍も見込めるさ」


 シャーロットはアディントン大佐を見た。

 大佐は頷いたが、確信というよりも祈りが籠もった仕草になっていた。


 マルコシアスはまた夜空を見上げ、堂に入った態度で指示を下している。


「じゃ、えーっと、フォカロルと、あとはだれだっけ……いやいや、オリアス、気を悪くしないで、三百年くらい前だっけ、()()会ったのは覚えてるさ――とにかくあんたたちは、僕と一緒にアモンに応戦してくれ。

 アモンはなんとも手の込んでいることに、このグレートヒルからはだれも出られないようにしているから、自分を大事にする気持ちがあるやつは気をつけるようにね。

 あと、人間に怪我をさせたら僕のレディが大いに怒る――つまりは僕も怒る。用心しなよ」


 マルコシアスが戦争をはじめとする荒事で重宝された魔神であることは皆が承知していることであり、魔神たちが不満げながらに頷く。


「フォカロル、悪いけどちょっと離れたところでネズミかなんかに化けててくれない? アモンの馬鹿やろうがこの場に聞き耳を立ててなけりゃ、あんたが上手くすればあいつの背中を突けるようにね。

 ちなみに、それに乗じて逃げようとしてごらん。僕はあらゆる手段であんたの領域を襲いに行くから、覚悟しなよ」


 フォカロルが呻き声を上げ、指示どおりに姿を変えた。

 そのままかれが夜陰にまぎれ、召喚主であるリーが困惑したように周囲を見渡す。


「あらら……僕よりきみの魔神の言うことを聞いちゃったよ、ミズ・ベイリー」


「状況が状況ですから……」


 魔術師どうしの会話は意にも介さず、いよいよ口早になるマルコシアスが矢継ぎ早に言っている。


「オリアス、あんたは格上相手にも善戦できるだろう、頑張ってくれよ。

 あと、えーっと、そこにいる、その気持ち悪いあんた……ダンタリオンか、自己紹介どうも、あんたは何が出来るの」


 オリヴァーが、リクニス学院卒の矜持をもって、反射じみた即答を見せた。


「読心と幻影において勝るものなし」


「あ、そうなの。どうも」


 マルコシアスがさらに口早になって何かを言い続け、そこからはもはや、魔神どうしの、人間からはうかがい知れない合図をもって会話が成り立つような様相を呈した。


 シャーロットをはじめ、魔術師たちがぽかんとすること数秒で、マルコシアスはくるりとシャーロットに向き直る。


 どうやら魔神どうしのやりとりは、言葉を介するよりも膨大な情報をやりとりできるものらしい。


「策を立てたところで、僕らでアモンをぼこぼこに出来るとは思わないでくれよ。

 こっちとしては、さっさとあいつ――僕の()ご主人さまがくたばる方に賭けたいんだ。そうすりゃアモンにだって痛手が入るからね」


 シャーロットは勇気をもって真実を突いた。


「そのアモンがいるかぎり、ネイサンさまはぴんぴんしてらっしゃると思うんだけど」


「腹が立つけど、そのとおり。本当にどうしようね?

 しかも僕の元ご主人さまには、アモンの他にもまだまだ魔神がついているときた。さっきまで僕の……なんていうのかな、同僚? にいたの、聞いたらびっくりするよ。

 ベリトにモラクスにガープにセーレ、よりどりみどりだ。

 ――で、ストラス、あんたは僕のレディを守れ。怪我ひとつさせるなよ」


 ストラスは「うげぇ」と言わんばかりの顔をした。

 そして実際に言った。


「うげぇ。ガープがいるのかよ」


「そうだよ。あんたたちのあいだの()()()()()仲を活かして、あいつに戦線離脱を勧めてくれたって全然かまわないよ」


 ストラスに指を突きつけたマルコシアスが、嫌そうに足許に目を向ける。


「そこの雑魚も、ちゃんと僕のレディを守りなよ」


 リンキーズが、「いちいち失礼なやつだな」とつぶやいたものの、マルコシアスの一睨みで黙り込み、従順に「おすわり」の姿勢をとった。


「はいはい、マルコシアスさん、喜んで」


 マルコシアスはシャーロットを見て、肩を竦めた。


「頼りにならない連中ばっかりだね、あんたの味方。まあ、当然、僕をのぞけば、って話だけど。

 ――で、僕があんたなら、さっさとアモンに対抗できるくらいの魔神のための召喚陣を描き始めるけど?」


 シャーロットは息を吸い込み、暑さで額に滲む汗をてのひらでぬぐった。


「そうしたいところだけど、召喚陣をイチから描くとなると、数時間仕事よ。それに、私が用意できる報酬を、序列一桁の魔神が気に入ってくれるかも分からないし。

 もろもろ考えると、お前に朝まで頑張ってもらわなきゃいけなくなるわ。出来そう?」


 マルコシアスは誠実な悪魔らしく、安請け合いはしなかった。


「努力はするよ。なにしろ、回れ右して逃げられない立場だからね。回れ右して無事でいられるなら、僕はこの場のことは放り出して、さっさと領域に引き籠もるんだけど」


 マルコシアスが不機嫌そうに言って、息を吸い込んだ。


「もう、本当に最悪だ。なんだって『神の瞳』なんて欲しがってしまったんだ、僕は」


 リンキーズが小声で追従した。


「なんで僕は『神の瞳』を盗んでしまったんですかね……」


 グレイが、流れ弾を喰らって呻いた。


「本当に悪かったね……」


 マルコシアスは魔精と魔術師の嘆きは相手にせず、伸びすぎた灰色の前髪の下から、からかうような瞳をシャーロットに向けた。

 かれが時おり見せる、数多の魔術師を騙して骨抜きにしてきたであろう、魅惑的な笑みの片鱗を浮かべて。


「『神の瞳』があって唯一良かったことは、あんたが僕を召し出したことくらいかな」


「――――」


 シャーロットは言葉に詰まった。

 マルコシアスが本気で言っているとは思えなかったが、同時に、本気()()()とも思えなかったからだ。


「エム――」


 だが、マルコシアスはさっさと、実際的なところに話題を戻していた。

 ほとんど独り言じみて、かれがつぶやく。


「序列は低いが、フォカロルはまだ頼りになる。あいつが軍艦を転覆させるのは見たことがあるから……」


 それからかれが、なんともいえない案じるような目でシャーロットを見上げた。


 淡い黄金色のその双眸を、何も知らずに見た日には、シャーロットはそれを人間の瞳だと思ったことだろう。


 シャーロットは精いっぱい強気に微笑んだ。


「私の方は大丈夫よ。ネイサンさまからすれば、まずは『神の瞳』が必要なはずだもの。なにしろ、私の血は――」


 言葉を探し、結局はこう締めくくった。


「――()()()だから。ね?」


 マルコシアスは悲観的に頷き、周囲にひしめく軍人たちを見渡した。


「ともかく、この連中があんたの役に立つことを祈ろう。

 僕がどうしようもないピンチになったら助けに来てくれよ、相棒。あんたは頼りになるから。

 ――あとは僕らが二人そろって夜明けを拝めるようにね。感慨深い朝になりそうで、楽しみだ」



 シャーロットは応じようとして、――そしてそのとき、今夜の運が尽き果てたことを悟った。



 夜陰に幽霊のように浮かび上がり、滑空してくる白いオウムの姿を見たとき、シャーロットは、隠すべき人物や悪魔を、この目立つ大集団の中に置いておくことの愚かしさについて、一万語をもって語ることが出来ると確信した。

 だが一方で、守るべき人物や悪魔を、大勢の目が届かない場所に置くことの不安も否定できない。


 この二律背反について哲学的な思考を巡らせるよりも早く、アモンは嬉しそうにその場に舞い降りて、ふたたびワタリガラスの頭を持つ偉丈夫に姿を変えていた。


 そしてそれよりも早く、その場の人間に退避を命じる声が轟き渡る。

 シャーロットは両脇からアディントン大佐とランフランク中佐に挟まれて、垂教省の省舎へと追いやられていた。


「銀の砲弾があったりしないんですか!」


 シャーロットは悲鳴じみて叫んだが、アディントン大佐はきっぱりと答えた。


「そんなものがあるなら、()()()()にやつに向かって叩き込んでいると思わないか」


 シャーロットは呻いたが、同時に、アモンほど高位の悪魔となれば、純銀のかたまりにであってもかなりの長時間は耐えるだろうと認めざるを得なかった。


 背後から、おもに魔神の悲鳴が聞こえてくる。

 痛手を喰らった悲鳴というよりも、眼前に立ったアモンを目の当たりにして、彼我の格の違いを悟ったがゆえの悲鳴のようだった。


 そしてアモンの、嬉しそうに責める声が聞こえてくる。


「やあ、マルコシアス。ずいぶん捜しちゃったじゃないか。こんなところにいたんだね。

 そして、きみの主人はぴんぴんしているらしい。ジュダスが喜ぶよ。心配していたみたいだから」


「あと五百年くらい捜し続けてくれてよかったのに」


 マルコシアスの、おそらく本音のつぶやきが聞こえ、どうやらそれは耳に入れなかったらしいアモンの、楽しそうな声が続いた。


「マルコシアス、その中のだれかに『神の瞳』をやってしまっただなんて言わないでくれよ。

 自分のほかには七十一しかいない同胞たちの腹を裂いて調べるなんてこと、僕だってしたくないからね」


「けっこうだ」


 マルコシアスの声が簡潔に応じた。


「それはしなくていい。

 ――僕が持っている」


 間髪入れずに、背後から轟音が響く――地面が揺れ、敷石が砕ける音が続けざまに耳を聾し、シャーロットはその場に倒れそうになる。


 砂塵が一気に舞い上がり、辺りは一瞬で濃霧に包まれたようなありさまになった。


 マルコシアスを案じたシャーロットが振り返ろうと身をよじると同時に、目の前で垂教省の省舎の扉が開き、シャーロットはほとんど倒れ込むようにして、垂教省の品のいい玄関ホールの中に放り込まれていた。


 そばにはアーノルドとリンキーズ、グレイ、そしてストラス、かれにしっかりと守られたオリヴァーや、身の安全よりも魔神どうしの闘争を見たいという熱い思いを訴えている軍省の魔術師たち、そしてアディントン大佐とランフランク中佐をはじめとした軍人たちがいる。


 アーノルドが、ふっと目にかかった金茶色の前髪を吹いてどかし、悪態をつく。


「くそっ、あのオウム、きみがいてもお構いなしじゃないか」


「とんでもない」


 と、これはオリヴァー。


「アモンなら、息ひとつでこの辺り一帯を文字通り瓦礫の山に出来るはずだし、俺たちはあいつがその気になるだけでミンチになってたさ」


 アーノルドはさらに悪態をついてから、シャーロットに向かってやけ気味に言った。


「近くにいてくれてありがとう、シャーロット」


「いつだって」


 シャーロットはあえぎながら答え、そのときには魔術師たちは、大興奮で叫び声を上げていた。


「アモンだ! 本物だ!」


「オリアスの得意の魔法が見られるかもしれない――敵を懐柔してしまうという、あれ」


「ダンタリオンもだ――序列は低いが優秀なはずだ、あれの幻影が百年前のオーソーズの決戦の雌雄を決したというのが本当なら」


「そのダンタリオンを召喚したのは私だぞ」


 軍人たちがきっぱりと垂教省の扉を閉めたために、魔術師たちはなだれを打って、玄関ホールの色付き硝子の窓に殺到し、そこに互いに押し退け合い、相手の背中に乗っかるような具合になって、硝子に頬や額をつけんばかりにして、外の様子を窺おうとした。


 そのさまに、軍人たちが彼らの正気を疑う顔をしている。


 そのとき、分厚いはずの省舎の壁を、さながら溶けたバターを銃弾が貫通するようなたやすさをもって、だれかの魔法が貫通し、天井近くの壁にこぶし大の丸い穴が開いた。


 その穴のふちが――信じ難いことに――しゅうしゅうと音を立てて沸騰している。


 これでは、省舎の外の惨状は、目にせずとも想像に難くない。


「これだから悪魔を争いごとに巻き込むなと!」


 アディントン大佐が叫び、ランフランク中佐があわてた様子で、最後にチョークと『魔神便覧』を持っていた魔術師からそれらを回収してくる。

 そして、言った。


「さあ、私よりも、リクニス学院卒のきみたちの方が、召喚陣は正確に描けるはずだ。

 とにかく、バエルでもアガレスでもウァサゴでも、呼ぶだけ呼んでみてくれ。軍省が提供できる限りの報酬を提供する」


 垂教省の省舎が揺れる。

 玄関ホールに堂々と立つ誰かの銅像が、不吉な軋みを上げている。


 オリヴァーが苦い声を出した。


「問題は、()()()()()()()ですよ――高位の魔神ほど御しにくい。

 特に暴力的なことを命令しなければならないとなれば、命令を曲解されたあげく、この辺りをその魔神に瓦礫の山にされかねない」


 アディントン大佐が悪態をついた。


「なるほどね、今夜が始まってからこちら、誰もその行動に出ていなかったのはそのためか」


「ですが、もうやるしかありません」


 壁にひびが入り始め、魔術師が殺到する色付き硝子の窓に亀裂が入る。

 壁に走った亀裂が天井に広がり、ぱらぱらと石の欠片が落ちてくる。


 床に、地割れの前兆のような不吉なひび割れが入り始め、さすがの魔術師たちも窓から離れ、後退った。


 それらを見て、ランフランク中佐が生唾を呑み下す。


「召喚陣は、もう少し奥で描いた方がよさそうだが」


 シャーロットはただ頷き、恐怖と緊張と、マルコシアスへの心配で心臓が暴れ狂い、胸が張り裂けそうになっている中で、粉塵をかぶった震える指に、ランフランク中佐からチョークを受け取った。





▷○◁





 マルコシアスにとってはまったく腹立たしいことに、そして予想通りであることに、アモンは余裕綽々だった。



 マルコシアスは背中から巨大なコウモリの翼を生やし、夜空に舞い上がっていた。


 グレートヒルの心臓部、そしてさらにその中心は、無数の省舎から溢れるガス灯の明かりでまばゆく、少し舞い上がってみれば、星空が足許にあるかのような錯覚に襲われる。


 マルコシアスのそばには、牡牛の上半身を持ち、図体に対してはやや小さく見える鷲の翼をはためかせたハーゲンティ、夜目にきわめて目立つ真紅の馬にまたがり、これまた派手に目立つ黄金のたてがみをなびかせたライオンの頭を持つオリアス、そして複数の顔を持つダンタリオンがおり、おのおのが開き直って覚悟を決めていた――少なくとも、そのようには見えた。

 ダンタリオンは勇壮な若い男の顔を正面に向け、その顔はりりしく引き締まっていたものの、他の全ての顔が恐怖と嘆きに歪んでおり、本音を隠し切れていなかった。


「徒党を組んで僕とやり合うことにしたの?」


 アモンが地上に立ったまま、とはいえその足許は、かれの()()一撃で砕け、敷石を全て引きはがして丹念に砕いてからばら撒いたような有様になっているのだが、眩しそうに――これは演技だ、そもそも悪魔には眩しさを感知するための目玉はなく、あったところで夜空が眩しく見えるはずがない。アモンはどうやら、空を見上げるときには眩しげに目を細めるべしという確固たる信念を持っているらしい――マルコシアスたちを見上げていた。


「傷つくな、降りてきて僕と握手をしてくれ」


「嫌だね」


 地上七十フィートの高処から応じて、マルコシアスはいらいらと眼下のアモンを見下ろした。


「うすのろ、上がって来い、上がって来い、上がって来い――」


「頼むからその呪いの言葉をやめてくれ」


 ダンタリオンの、いかめしい老人の顔についた口が呻いた。


「あいつとは距離が開いていた方が、まだしも余裕が持てる」


 マルコシアスは目を走らせて、人間の軍隊がすばやくその場から撤退しているのを見届けた。


 とはいえ、満足がいくほどの距離はまだ開いていない。

 ()()()()、アモンのそばの垂教省には、かれの主人が逃げ込んでいる。


「いいや、駄目だね。アモンの馬鹿やろうがあそこで暴れたら、少なくない人間が怪我をする――僕のレディはそれを喜ばない。

 ついでに、僕らのご主人さまたちは、みんな揃ってあの建物の中だぜ。主人の頭にアモンの一撃を落としたいのか?」


「上がって来い、上がって来い」


 そばの三人の魔神が声を揃え始めた。


 ダンタリオンは空いている口のひとつ、無垢な少年の口を使って、マルコシアスに窺うように質問を始める。


「序列三十五番、あなたはこれほど格上の魔神とやり合ったことがありますか?」


「ない」


 マルコシアスは端的に応じた。


「僕が相手にした中でいちばん格が上だったのは、序列二十五番のグラシャ=ラボラスだ。結果は一勝一敗。つい最近勝ったところだ。

 それ以上序列が上のやつの前からは、さっさと逃げることにしている」


「ところが今回は逃げられない?」


「そういうこと。

 遭遇したって意味では、もっと格上のやつとも遭遇したことはあるけど――」


 そこまで言って、マルコシアスは息を引いた。



 アモンが面倒そうに、目に見えない階段を昇るようにして、空中に足をかけたところだった。



「――おでましだ。

 頑張ろうぜ、兄弟」



















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― 新着の感想 ―
[良い点] 格下に対して偉ぶるマルコシアス、なんだかかわいらしいです。そして迷うことなくいろいろ指示を出しているのはさすがっていう感じでかっこいいですね。やっぱり戦争とかで活躍していた頃は、こうして格…
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