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20 蓋然性

 シャーロットがもっとも恐れたことは、ネイサンが配下の他の魔神をこの場に呼び寄せることだった。


 ――その時間を与えることは愚の骨頂、それよりも早く彼の気を他へ逸らすか、あるいは魔神をそばに呼ぶこと、()()()()()()()ためらわせなければならない。





 粉塵が立ち込め、壊れた椅子が散乱し、絨毯のあちこちが破れた法廷。

 明かりが落ち、壁は崩れ、石造りの高い天井が不吉にきしんでいる。


 その中にあってなお、塵ひとつかぶっていないジュダス・ネイサン――


 彼が周囲を見渡して、嘆かわしげに首を振った。


 今や辺りには大きな石材の破片が点々と落ちており、暗さと粉塵もあいまって、さすがの彼もシャーロットを見失っていただろうが、そのことへの焦りは一切窺えない仕草だった。


 法廷のすぐ外、今にも崩れ落ちそうなアーチのそばでは、ベリトが次の命令を待ち構えるような風情を見せている。

 アーノルドのために一歩譲ったとはいえ、ベリトへの報酬を約束しているのはネイサン、かれの主人がネイサンであることに変わりはないのだ。


 だが、ネイサンはベリトの方は見なかった――なんであれアーノルドのそばでは、もうかれに何かの命令を下すことはないだろう。

 相手を軽蔑してはいても見くびることはないのが、ネイサンのくせだった。



 ネイサンはつかのま、おのれの手札を俯瞰するような表情を見せた。

 いくつかの名前を頭の中で吟味するような一瞬ののち、彼が口を開き――



 シャーロットが、よろめきながらも大きな石材の破片の陰から進み出て、大声で呪文を唱えはじめた。


 その最初の一語で呪文の種類を聞き分けて、ネイサンが笑い出す。


 ――これは、〈召喚〉だ。

 そしてシャーロットの足許に召喚陣はない。


「シャーロット、はったりはやめて」


 彼がシャーロットに視線を振り向けた。

 粉塵と暗闇を透かして見ようとするように、その目が眇められる。


 法廷の後方に彼女がいた――大きな石材の欠片のそばで呪文を唱えるシャーロット、その隣と後ろにいる二人の軍人、そして斜め後ろで、なにかを思案している様子のアーノルド。


 ほとんど習慣めいたもので、ネイサンの瞳が悪魔を捜した――ちょうどそのとき、シャーロットのそばの石材の欠片の上に、目玉の大きな犬の姿をした魔精が飛び乗った。

 すっかり怯えた様子で、しっぽが丸くなっている――リンキーズだ。



 シャーロットがいつ、かれを召喚していたのか、それはネイサンにも分からなかった。


 だが、この場においてリンキーズの主であるのは、シャーロット以外にはありえない。


 軍人のうちのどちらかが魔術師であったとしても、軍人がリンキーズの召喚に成功したとなれば、かならず軍省付参考役である自分の耳に入ったはずだ――リンキーズは優秀な魔精、有名な魔精だ。

 召喚に成功した魔術師がいれば、その周囲にはそれとなくその話が伝わるものだ。


 そしてアーノルドは魔術師ではなく、先ほど彼女といた若者――彼が魔術師であることは、ストラスに命令を下していたことからも疑いはないが、しかしリンキーズがあの若者に仕えているのならば、この場に留まることはしないだろう。

 ストラスが法廷から脱出したときに、かれもここから脱出していたはずだ。



 シャーロットは呪文を続けている。

 ひどく声が震えているが、それでもリクニス学院卒らしく、言い回しの誤りは一つもない。


 ネイサンは苦笑した。


「――きみが、マルコシアス以外にも魔神を召喚していたことがあったとして、召喚陣なしで召し出される悪魔が、あの魔神以外にいるものか」


 だが、指摘されてなお、シャーロットは呪文を止めない。


 橄欖石の色の双眸が、声の震えとはうらはらに、苛烈なまでの意思の光をもってネイサンを睨んでいた。


 ネイサンは目を細めた。


 シャーロットが、これまでに召喚したことのない悪魔を、呪文のみで召喚しようとしている可能性は考えに入れなかった。


 悪魔がすでにこの交叉点(せかい)に現れていれば、理論上は、呪文のみでの召喚も可能――だが、召喚したことのない悪魔が相手となれば、()()()()()()()()()()()()()()()()


 悪魔からすれば、報酬を約束されたところで、それを魔術師に履行させる召喚陣の強制力がないということになるのだ。

 そのために、すでに約束されている報酬を蹴るなどとんでもない話だ。


 そして魔術師からすれば、身を守るための悪魔への強制力の一切が働かない状態となり――〈退去の呪文〉も効かなければ、〈身代わりの契約〉も当然ない――、さらにいえば、報酬の交渉こそ人の言葉で為せるだろうが、そのあと――契約が切り替わったあと――は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、人の言葉すら通じなくなるのだ。


 だが一方、()()()()()()()()()()()()()()()()()()、マルコシアスと同様、以前の契約を引き継ぐことが出来る。


 ありえない話だが、シャーロットが過去に、ネイサンが()召し出している悪魔のうちのどれかを召喚したことがあるだろうか――そのときに、〈身代わりの契約〉を省いていたことがあるだろうか――マルコシアスから買った忠誠心と同程度のものを、そのときも獲得していたことがあるだろうか。


 その可能性を危ぶんだ数秒のあいだ、ネイサンは〈傍寄せ〉を唱えることを熟考した。

 万が一にもシャーロットが〈召喚〉を成功させるなら、それよりも格上の魔神を呼ばねばならない。


 その数秒に、赤い髪の軍人が両手で銃を持ち上げてネイサンにねらいを定めた。

 金髪の軍人が――魔術師はこちらだったのだ――口を開け、呼ばわろうとした――


「――()()()――」



 だが、そのとき、アーノルドが動いた。



 彼はよく慣れた、滑るような動きで無駄なく動いた。


 手を伸ばし、金髪の軍人の腕を掴んだ――かと思うと次の瞬間には、ふいを突かれた軍人の腕のしかるべき箇所を、強く押さえていた。


 魔法のように軍人の手から力が抜けて小銃がこぼれる――その小銃をアーノルドは、見事に空中で足の甲で跳ね上げ、右手でキャッチした。



 動き出してからここまで一秒たらず、金髪の軍人が低い声を上げたときには、アーノルドは迷いのない仕草で、シャーロットの後頭部に銃口を当てていた。



 石材の欠片の上に立っていた目玉の大きな犬が、あんぐりと口を開けた。

 主人の危機に気づいたのはさすがだが、どう対処するべきかはひらめかなかったらしい――かれが、茫然とした様子でその場でつんのめる。


 ごつ、と頭に銃口が当たる感覚があったのか、呪文を止めないままで、シャーロットが勢いよく振り返ろうとする――それを、後ろから左手で彼女の首筋を押さえ、アーノルドは止めた。


 さすがにシャーロットが口を閉じた。


 赤い髪の軍人が、一拍遅れて事態に気づいた。

 一瞬は状況を呑み込みかねたように見えた。


「――動かないで」


 アーノルドが単調な口調でつぶやいた。


 ――法廷の外で、魔法が雨あられと降り注ぐ轟音が響いている。

 天井からはなおも、ぱらぱらと石くずが降ってきている。


 それら全てを歯牙にもかけず、アーノルドは奥歯を噛み締めた――蒼白な、思い詰めた顔で、ぐっとシャーロットを自分の方へ引き寄せた。


 後ろへ倒れ掛かるような格好になった彼女は、しばらくは声も出ない様子だったが、こめかみに銃口を押し当てられるにいたって、ようやく、細い囁き声を漏らした。


「……――アーニー……?」


「動かないで。軍人さんたち、悪いけどおれから離れて」


 アーノルドがきっぱりと言い、シャーロットを確保したまま、すばやく動いて二人の軍人に背中を見せない位置へ立った。


「おれから離れて。――リンキーズ、離れて。撃つぞ。最初に痛い目をみるのはきみなんだろ」


 石材の欠片の上で、犬の姿の魔精があわれな声を上げた。


「アーニー、おいおい、その子はきみを助けに来たじゃないか……?」


「頼んでないけど、まあ、どうもありがとう」


 アーノルドはつぶやいた。

 蒼白な顔の中で、青灰色の瞳が熱を帯びてネイサンを睨む。


 ネイサンは、その場にいる人間の中でも、わけても平静だった。

 微笑んで、首を傾げる。


「――浅い考えだ。それで私の気を逸らせて、ここから逃げ出そうという算段だろうけれど、きみが本気でないのはよく分かる」


「そう?」


 アーノルドが決然と言って、銃の撃鉄を起こした。


 熟達した仕草だった――アーノルドに銃の使い方を仕込ませたのは、ほかならぬネイサンだった。

 もともと使っていた、表には出せない部下の一人に命じて、十四歳の彼に銃を握らせた。


 撃鉄が起こされる無機質な音に危機感を煽られたのか、リンキーズが大声を上げた。


「待って待って!」


 アーノルドは抑えた声できっぱりと応じた。


「なんか勘違いしてない? おれは別に、自分がどっちの味方とも宣言したつもりはないんだけど」


 二人の軍人も色を失っている。

 赤い髪の軍人が、金髪の軍人を凄まじい目で睨み据えた。


「――なぜ銃を渡した!」


「渡しては――」


 金髪の軍人が言葉に詰まる。


 それをまるで聞いていない様子で、アーノルドはネイサンだけを睨んでいた。


「あんた、ほんとに話を聞いてないな。――いいか、おれはさっき、あんたのことが世界でいちばん嫌いだって言ったんだ。意味わかる? ――あんたへの嫌がらせのためなら、多少の危ない橋は渡れるって言ったんだよ。

 あんたが面白半分におれを鞭で打ったのはまだ許せるけど、そのあと、趣味の悪い貴族におれを一晩下げ渡したのを許すと思うか?」


 シャーロットのぽかんとした顔を見て、はじめてネイサンは疑念を覚えた。


 シャーロットは嘘が上手いが、それでもこれは、とても演技には見えない――彼女はぽかんとし、そして続いて、裏切られた者にふさわしい怒りを浮かべ、それから涙ぐんだ。

 唇が震えている。

 あえぐような息遣いをしているのが分かった。


 まだ二十一の娘が、これほど真に迫った演技をするだろうか。


 そして、これが演技ではないとすれば――


「――アーノルド」


 ネイサンはつぶやくように呼んだ。


「どういうつもりだろう」


「あんたのやろうとしていることに、この子は絶対に必要なんだろ。だったら、」


 アーノルドはますます強く、シャーロットのこめかみに黒光りする銃口を押し当てる。


「生き延びるついでに、あんたのたくらんでることをお釈迦にするのだって悪くない」


 シャーロットが何か言おうとして、言葉に詰まったようだった。

 それを感じ取ったのか、アーノルドが冷ややかに口を開く。


「ろくに知らないおれのために、あれこれ骨を折ってくれてありがとう」


 アーノルドは囁いた。


「悪いとは思うんだけど、きみ、言ったよね。おれには生き延びる権利があるとかなんとか。それを聞いたら、生き延びたくなっちゃって」


 アーノルドはまっすぐにネイサンを見ていた。


「それでついでに、そこの性悪に、おれが出来る最大の嫌がらせをしたくなっちゃってね。

 ――あんたが忘れたこと全部をおれは覚えてて、そのひとつひとつで、取り返しがつかないくらいにあんたを恨んでるんだよ」


 アーノルドは周囲の人間と悪魔を見渡した。


「あんたが悪魔を呼びつけたら、この子を撃つ。

 その軍人さんたち、出てって――そっちの人、銃を下ろして。こっちに向けたら、この子を撃つ」


 二人の軍人が、じりじりと下がった。


 赤い髪の軍人が持つ銃が、ゆっくりと下ろされる。

 金髪の方が、徒手を強調するように両のてのひらをアーノルドに見せ、うわずった声を上げた。


「きみ、落ち着け――」


「すっごく落ち着いてるよ、どうも」


 アーノルドは息を吸い込んだ。


 ネイサンにも目を配りながら、アーノルドはかすかに震える手で、しかししっかりと、シャーロットのこめかみに銃を押し当てる。


「シャーロット、きみの悪魔を呼んだら撃つ。

 ――軍人さんたち、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」


 アーノルドが声を荒らげ、その瞬間、銃口をシャーロットから離して、銃を振り回そうとしたように見えた――あきらかにそれを期待して、二人の軍人が前のめりになった。


 だが、アーノルドは直前で思いとどまったようだった。

 代わりとばかりに、彼が床を踏み鳴らす。


「出ていって!!」


 二人の軍人が、さらにじりじりと下がった。

 壊れた長椅子にぶつかって体勢を崩しながらも、アーノルドから目を離さない。


 アーノルドは鼻を鳴らした。


「あんたたちも、この性悪のたくらみが実っちゃうとまずいんじゃないの。じゃあ、おれを応援してくれてもいいくらいだと思うけど」


 金髪の軍人が、迷うように赤い髪の軍人を見た。


 赤い髪の軍人は、頸に筋が浮き上がってみえるほどの力を籠めて、奥歯を噛み締めている。

 そして、麾下であろう金髪の軍人に合図した。

 下がれという合図だ。


 ネイサンはゆっくりと瞬きした。


 これが、軍人が発案した茶番であるという可能性の方が高いと見積もった。

 なにしろこの作戦を採れば、上手く法廷から脱出できるのだから。

 シャーロットには何も伝えていなかったのだとすれば、シャーロットの真に迫った様子にも説明がつく。


「――アーノルド」


 ネイサンが低く呼ばわり、一歩を踏み出したときだった。



 ネイサンを見たアーノルドが、まったくなんのためらいも逡巡もなく、即座にシャーロットのこめかみからわずかに銃口を浮かせ、引き金を引いた。



 ばんっ! と、破裂音に似た轟音。

 アーノルドの一見細い腕が、完璧に発砲の衝撃を抑え込んだ――銃口の位置のぶれはわずかだ。


 シャーロットが悲鳴を上げる。

 そのこめかみから半インチの位置で銃口が火を噴き、銃口から細く煙がたなびき――



 ネイサンは発砲のその瞬間に、シャーロットを見てはいなかった。

 リンキーズこそを見ていた。


 リンキーズが呻き声を上げ、その場でぱっと消え失せたのを、間違いなく目の当たりにした。



「――これはこれは」


 驚きとわずかな賞賛を籠めてそうつぶやいて、ネイサンは手を叩いた。

 アーノルドに視線を移し、首を傾げる。


「私は、どうするべきだろうね――きみの安全を保障するからその子を寄越してくれと、そう提案するべきかな?」


「いいね」


 アーノルドは唇を舐めた。

 余裕はなさそうで、額にも鼻の頭にも汗が浮いていた。


 そして唐突に軍人に顔を向けると、ふたたび銃の撃鉄を起こしながら、顔をのけぞらせるようにして怒鳴った。


「出てけってば! あと一発でこの子はくたばるぞ!」


 さしものシャーロットも、恐怖のあまりにか息を止めている。

 顔色は蒼白と真っ赤をいったりきたりしていた。脚が震えている。


 二人の軍人は、今や法廷の中を後退り、壁に開いた大穴のすぐ手前にまで来ていた。


 ベリトが、どうしたものかを迷ったように、二人の軍人の方を覗き込もうとしている。


 その外ではなおも、アモンから逃れようとする二人の魔神が、あられのように魔法を降らせ、柱廊の屋根は一部が崩れ、大理石が敷き詰められた中庭は、早くも目も当てられないような惨状を呈していた。

 断続的に地面が揺れている。


 そちらをちらりと見てから、アーノルドはネイサンに向き直る。


 シャーロットを引きずるようにしながら、アーノルドもまたじりじりと法廷の外へ向かっていた。

 小さな石材の破片をひっきりなしに蹴飛ばすような具合になっている。


 シャーロットは今や、ぎゅっと目をつむっていた。


「アーノルド」


 ネイサンは落ち着いた声で囁いた。


「私としては、その子が生きていようが死んでいようが構わない――その子が死んだ場合、血液をいただくのに制限時間が生まれてしまうと、それだけの話だ。その子の貴重な血が、その子の身体の中で固まってしまうから」


「ふうん、そう」


 アーノルドはわずかに動揺したようだったが、それを押し殺した。

 二人の軍人を窺ってから、また油断なくネイサンに目を戻す。


「でも、生きてた方が都合いいんじゃないの?」


「まあ、きみの方でその子の舌を引き抜いておいてくれれば、それに勝ることはないが」


 ネイサンは真顔でそう言って、ゆったりと腕を組んだ。

 片脚に体重を預ける。


「きみがその子から手を離してくれれば、私としては、きみの無事を保障するにやぶさかではない――」


「ああ」


 アーノルドは落ち着かない様子で、ちらりと法廷の外を見遣った。

 そしてまた、すぐにネイサンに視線を返す。


 唇が震えようとするのを、懸命にこらえているようだった。


「それ、あんたにとっては腹立たしいことかな」


 ネイサンは唇をゆがめた。


「業腹だ。――きみにこの言葉の意味が分かるかな」


 アーノルドはにやっと笑った。


「だったら――」



 そのとき、シャーロットが叫んだ。



 起死回生を賭けたのか、それともネイサンに引き渡されるくらいならばこの場で撃たれた方がまだいいと考えたのか、その真意はネイサンには分からなかった。


 ともかくも彼女のかん高い声が、崩れつつある法廷に響いたのだ。


「――エム!!」



 その次の瞬間、二つのことが立て続けに起きた。



 ――このときであっても、主人に精霊をつけ、様子を窺っていたことは感嘆に値する。

 魔神マルコシアスの魔法が、法廷の壁の、その高い天井付近を突き破って降ってきた。


 分厚い石の壁に亀裂が入り、それが紙細工のようにたやすく引き裂かれる。

 その大小さまざまの破片が降り注ぎ――



 ――そして、銃声。


 乾いた、無機質な、断固たる、銃声。



 ネイサンは、アーノルドが無表情のまま、ためらいなく銃の引き金を引くのを、降り注ぐ壁の破片と粉塵越しに見た。


 銃口が火を噴く瞬間を――シャーロットの頭が勢いよく、頸が折れるような勢いで傾げるさまを――その瞬間を。


 ぱっ、と、暗い中であっても、血しぶきであろうと分かる暗い色の液体が弾けるところを見た。


 アーノルドの頬と胸に返り血がかかるのを。



「――――」


 さすがに目を見開いたネイサンに、アーノルドは怒鳴るように告げた。


「この子の死体が欲しかったら、おれの無事を保障して!

 死体が固まるまで、そんなに時間はないけどね!」


 そして、降り注ぐ石壁の破片のあいだに、シャーロットの死体――死体だろうか、ともかくも身体――を、かつぐようにして持ち上げたアーノルドが、すばしっこい身のこなしで姿を消す。



「――――」


 ネイサンは平静だった。


 まず、降り注ぐ石壁の破片に、おのれが潰されることはないと分かっていた。

 そして、今しがた見た光景――



 ――あれは現実だろうか。



 悪魔であれば、あの程度のまやかしを作り上げるのは難しくはない。

 半インチの距離から撃たれた銃弾も、それこそ魔法や精霊を使って、どことも知れぬ虚空へ飛ばして見せるだろう。


 つまり、アーノルドが一芝居打っていた可能性は依然として否定できず――



「……アットイ」


 ネイサンは囁いた。

 アットイは彼らの近くにいた――一芝居のためのなにがしかの合図があったのならば、それを見聞きしていた可能性もある。

 アットイ自身は気に留めていないことでも、ネイサンが聞けばそれと気づけるだろう。


 だが、アットイからの(いら)えはどこからもなかった。


「――――」


 ネイサンは眉を寄せる。


 壁や天井が崩れているこの状況、アットイがなにかの拍子に()()()()()を意図せず受けていたとして不思議はないが――



 ――そのとき唐突に、ネイサンのすぐそばに、魔神アモンが姿を現した。



「やあ、ジュダス。元気?」


 かれはほがらかにそう言って、周囲を見渡す仕草をとった。

 ワタリガラスの首が傾げられる。


「――僕らのスーの子どもはどこ?

 まさかと思って来てみたんだけど――」


 ネイサンは息を吸い込んだ。

 ――頭の中で、ちくたくと音を立てて、時計の針が動き出した感覚があった。


 もしもあれが茶番でなかったのならば、気高きスーの血を得るまでには、明確な時間制限が生まれたことになる。


 とはいえ、ネイサンはその焦りを、欠片も表情には昇らせなかった。

 首を傾げ、おだやかに微笑む。


「ちょうどよかった、アモン。私をこの、埃まみれの場所から連れ出してくれ。

 ――それで、まさかと思ったというのは、どうして?」


「ああ――」


 アモンは手を伸べて、ネイサンの手を取った。


 うやうやしくお辞儀するように腰をかがめ、そして次の瞬間には、ネイサンは砕かれた大理石の中庭に立っている。


 夜空が高く深く広がっており、周囲を囲む司法省の省舎に、四角く区切られて見えている。

 辺りには粉塵が漂っていた。

 ランプが叩き壊されたのか、辺りは暗い。


 列柱の一部が崩れており、ネイサンはうずたかく積み上がったそれらの瓦礫の真ん中にいた。

 視界は真上にのみ開けている。


 ネイサンは深く息を吸い、背広からほこりを払おうとしたが、そもそも彼の背広には、一片たりともほこりは付着していなかった。


 アモンはネイサンの手を離し、肩を竦めてみせる。


「いきなり、マルコシアスだっけ? ()()()()()()()()()


「――――」


 ネイサンはゆっくりと瞬きした。


「ほう」


 つぶやいて、額に手を当てる。

 その仕草を見て、アモンがくちばしをかちかちと鳴らした。


「ジュダス?」


 ネイサンは顔を上げ、はっきりと命じた。


 その表情は苦笑めいていたが、一概に余裕があるわけではなく、蓋然性を見積もるような慎重さと、わずかな賞賛と、それよりもかすかな焦燥が混じっている。



「アモン、早いところきみたちの(せかい)に戻って、マルコシアスから『神の瞳』を奪い返してきてくれないか。もしもかれがきみたちの(せかい)に戻っているなら、私たちの計画には、制限時間が出来てしまったということになる。

 ――そしてもしも、」



 彼は唇をゆがめる。アモンが不思議そうに瞬きしている。


「もしも?」



「マルコシアスが()()()にいなければ、この私が迫真の演技に騙されたということだ。

 ――そうだとすれば、あのアーノルド、」



 ネイサンは溜息を吐いた。



「舞台役者にでもなれば、一財産築けたかもしれないな」





















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