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19 狂気の沙汰

 ネイサンは溜息を吐いた。


 苛立ちと軽蔑を煮詰めたような息を吐き切って、そして冷ややかにつぶやく。


「この程度のことで溜飲を下げられるなら、何よりだ。

 ――きみは、」


 ネイサンは、言葉を強調するような仕草は何一つとしてとらなかった。

 指を振ることもなければ、これみよがしに靴音を立てることもない。証人台の柵に乗せた手に力を籠めることさえなかった。


 ただ、淡々と、うんざりしたような、軽蔑しきった声音で、事実を並べる口調で、辟易したように続けた。


「育ちのわりに頭はいいが、それだけだ。機転も、洞察力も、人に使われてこそのものだ。

 きみは字も読めず、とうぜん教養もなく、礼儀も知らず、親もおらず、不潔で――」


 ゆるく首を振って、ネイサンは淡白につぶやく。


「――きみを購うよりは、グラスひとつを購う方がよほど値が張る。

 きみの価値といえば、きみを気に入るどこかの貴族にくれてやるくらいだが、」


 シャーロットは現状に焦るがあまり、ネイサンの言葉のほとんどを聞き流していたが、この最後の一言で、アーノルドの全身がこわばったのは感じ取った。


 彼の顎にぐっと力が入って、アーノルドは燃えるような恨みを籠めた瞳でネイサンを睨み据えている。


「アーニー……?」


 囁く。

 アーノルドは反応しない。


 彼が今にもネイサンに向かって飛び掛かるのではないかと思って、シャーロットは彼の腕をぎゅっと握る。


 ネイサンは、アーノルドの表情の変化に、いっそ気づいてもいないようだった。

 平然と続けている。


「ここへきて、最低限のかわいげもないことが分かったわけだ。

 ――字も知らない、発想のひらめきもない、きみのような人間には才能のかけらもない。

 きみの足許にいるその魔精も、あの魔神も、」


 ベリトを示し、


「この魔神も、」


 うやうやしくアモンを示し、


「全てこの私が召喚した、私の才能の結果だ。

 ――その結果をかすめ取るような真似をして胸を張るなど、盗人猛々しいとはまさにこのことだね。――恥を知りなさい」


 アーノルドは無表情だった。

 その無表情の奥に、苛烈なまでの怒りを湛えて、無言でネイサンを睨めつけている。


 シャーロットは彼の腕を握る手の指に、いっそう力を籠めてしまった。


 一瞬の間があり、そしてアディントン大佐が、こればかりは軍人の落ち着きをもって、冷静に返していた。


「――まずおのれの人望の無さを嘆け。悪魔にすら愛想を尽かされるんだ、一国はお前の手に余ると思わないか」


 ネイサンは無表情に大佐を眺めた。

 そして、ごく当然のことを告げる口調で言った。


「きみが私の国を見ることはないよ」


 そして、無造作に呼ばわる。



「――アモン」



 ランフランク中佐とシャーロットが同時に息を呑む。


 リンキーズが悲鳴も上げずにその場で身を固くした。

 法廷のすぐ外で留まっていたストラスも、恐怖に凍りついたようだった。


 マルコシアスが短く息を吸い込む音を、シャーロットだけが聞き取った。



 白いオウムが嬉しそうに頭を上下させ、かちっ、と爪の音をさせて、一歩前に出た――と思うと、全く別の姿がその場から立ち上がった。



 何人かの喉から、こらえ損ねた驚きの声が上がる。



 オウムの姿が溶け出し、表裏が反転したようにうねって形が変わる――一瞬ののちにその場に立ち上がったのは、見るからに悪魔と分かる男性の姿だった。

 長身で――身長は六フィート半はあるように見える。


 姿形としては、モラクスのものに非常に近い。

 首から下はほっそりとした若い男性の姿で、ゆったりとした貫頭衣をまとっているのだが、頭が人間のものではなかった――頭はワタリガラスのものなのだ。


 ゆっくりと開いたくちばしの奥に、普通ならばあり得ない、犬の牙が並んでいるのがほの見える。



 連続して生き物の姿に形を変えるのは、悪魔には負担になることのはずだが、アモンにそれを匂わせる様子は少しもなかった。



 嬉しそうにアモンが両腕を広げ、その場でくるっと回ってみせる。

 シャーロットが目を疑ったことに、その足許でぱっと草地が芽吹いた。


 直径にして一フィートほどの小さな円形に、あふれんばかりに緑が芽吹き、するすると伸びて花が咲き――アモンが一歩を踏み出すと同時に、茶色く萎れて跡形もなく消えていった。



 アモンの周囲で、空気がきらきらと光る。


 そのきらめきが伝播していき、間もなく法廷のあちこちに、きらきらと輝く粉雪が降っているような具合になった。



 魔術師であるシャーロットとランフランク中佐が、驚きをこらえかねて息を呑む――このきらめきは精霊だ。

 それも、おびただしい数の精霊たち。


 シャーロットであっても、マルコシアスでさえこれほど多くの精霊を従えているところは見たことがなかった。



 ごく自然に、二人の軍人が構えていた銃口が下ろされていた。

 ネイサンを睨み据えていたアーノルドまでが、吸い寄せられるように今はアモンを見ている。


 アモンはまるで、一人だけが異なる空気の中にいるようだった。

 かれが踏む床だけが、異界に断絶されているようにさえ錯覚するほどの、圧倒的なまでの――その格の違い。


 相対する相手が覚えるのは畏怖というより徒労感に近かった。

 どうあがいても無駄だと、身振りひとつで知らしめるような。



 序列一桁の魔神が、その本性をあらわにするところを目の当たりにするのは初めてだった。

 これほどの違い、これほどの風格、これほどの威風――


 シャーロットは息を止めている。



 マルコシアスがひるんだ様子で一歩下がる。

 マルコシアスを前にしたとき、リンキーズやオンルといった魔精が浮かべていた表情――それに近いものを、今のかれは浮かべていた。


 こうしてアモンが本性をあらわす前に、ただ序列の差を感じ取って勝ち目はないと判断していたマルコシアスが、それでも多少なりとも余裕を持ち、彼我の差をキツネとウサギ程度のものだと考えていたとすれば、今やその余裕の全てが吹き飛んでいた。

 キツネだと思っていた相手がクマであり、ウサギ程度だろうと踏んでいた自分が羽虫だった――そう突きつけられたかのようだった。


 一瞬前までと比較しても段違いに焦った様子で踵を上下させ、そしてマルコシアスはためらいなく、シャーロットに向かって手を振った。


「ばいばい、ロッテ」


 そして、ぱっとその姿が掻き消える。

 風より速く、おのれの領域に戻ったのだ。


 リンキーズが呻き声を上げ、アーノルドが驚いたように目を瞠ったが、アディントン大佐とランフランク中佐は一様にほっとした表情を浮かべた。


 シャーロットも、そばから失せたマルコシアスに喪失感はあれど、かれが無事であると分かっているからこそ、軍人たちと全く同じ気持ちで――



 ――そして、違和感に息を引いた。



 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 マルコシアスが消え失せるのを目の当たりにしてなお、平然とした様子で微笑んでいる。



 どこかに穴がある。



 その考えに至り、シャーロットの頭の中で警鐘が鳴り響いた。


 マルコシアスはもう、あの美しいかれの領域に帰り着いて、危ないところだったと息をつき、こちらの交叉点(せかい)での出来事など忘れ去り、のんびりと羽を伸ばしているのだろうが――



 ――だが、シャーロットもマルコシアスも考え及ばなかった、()()()()()()()()()()()



 魔神が一人、その場から欠けたことには気づいているだろうに、アモンにもそれに頓着する様子はなかった。


 かれは両腕を広げたまま、空気を味わうように深呼吸すると、驚いたことに、シャーロットに向かって親しげに手を振った。


「…………?」


 シャーロットが半歩下がる。

 それを見て、序列七番の魔神は苦笑する。


「――やあ、挨拶するのは初めてかな。顔を合わせたことは何度かあるけど」


 シャーロットが、さらに半歩下がって眉を寄せる。


 そんな彼女に、ワタリガラスの頭を持つ魔神は肩を竦めてみせる。

 少し残念そうですらあった。


「血がつながっているという概念はよく分からないが、血がつながっていても別人なんだな。

 スーは僕の顔を見ると嬉しそうにしてくれたものだけど」


「……――()()?」


 シャーロットは聞き返し、愕然として息を吸い込んだ。

 抑えようもなく声は震えた。


「スーザン・ベイリーのこと?

 あなた――あなた、()()()()()()()()()()()()()()()()()?」


 アモンは笑い出した。


 朗々と響く笑い声に、つかのま、法廷の中の時間が止まったようですらあった――誰もが身動きできなくなっていた。

 ネイサンを除いては。


「ああ、そう、そうだよ。スー、気高きスー、勇猛なるスー、僕らのレディ・スー。

 断言できるけど、僕のもっとも気に入りの主人だった――きみはスーと違って、それほど頭が切れないようだね。スーに仕えた悪魔がおらずして、どうして……」


 アモンが歩を進める。


 気負いのない、かろやかな、音ひとつ立てない仕草。

 堂々たる足取り。


 おのれが動くあいだ、他の何ものにも動くことを許さない――そういった傲慢さと強靭さのある身振り。


 かれの素足が音もなく床を踏み、その左の足首に、太い黄金の足枷がかかっていることが見て取れる。


「確かに、僕の今の主人のジュダスは、まれに見るほど頭が切れる。これほど頭の切れる人間を見たのはスー以来だ」


「お褒めにあずかり、どうも」


 ネイサンが冗談っぽくつぶやき、ちょうど証人台のそばを通り過ぎるときに、アモンは親しげにその肩を叩いた。


 そして、鳥の顔貌にあるはずのない、いたずらっぽい笑みを浮かべて、シャーロットに目配せする。


「けれど、スーに仕えた悪魔がおらずして、どうしてジュダスがわが親愛なる友人、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()の名前を知ることが出来たと思うんだ?」


「――――」


 シャーロットは息を引く。

 そうだ、ネイサンは()()()の魔神の名前を知っていた。


「――あなたが教えていたの」


 囁く声が震える。


 アモンは愛想よく頷いて、その場で踊るようにかろやかな身振りで、くるっと回ってみせる。


「そのとおり。そもそもジュダスは、それが知りたくて、当時のスーが召喚していた悪魔を総当たりに近い勢いで当たっていたわけだけど。

 ――力が強いあまりに召し出されなくなって忘れられた魔神、その名前を探していたってわけ」



 アモンが含みを持たせてそう言って、その場にいる人間の中で、その含みを正確に理解したのはシャーロットだけだった。


 ――ネイサンが探した悪魔の名前は、忘れられたのではない。

 はなから第二の〝真髄〟で名付けられていなかっただけだ。



 アモンが歩くにともなって、ひっくり返っていた長椅子が、音もなく自然に、かれに道を開けるように、左右に滑るように動いていった。

 傍聴席と法廷を区切る柵もまた、自然にへし折れてかれに道を譲った。


「スーに似ていないとはいえ、スーの子ども――きみにはちょっぴりだけど感謝しているんだ。いつぞやジュダスの采配がまずくて、僕の友人の一人がかわいそうな目に遭ったが、きみがかれを送り返すのに一役買ってくれた。

 かれに何かあったら、僕も少しまずい立場になっていた――」


 シャーロットは瞬きも出来ずに息を詰めた。


 ――ベイシャーでのことだ。

 それ以外には有り得ない。



 歩み寄ってくるアモンに、シャーロットの身体が本能的な恐怖のるつぼに嵌まり込んだかのようだった。

 胃袋には氷が詰め込まれたかのよう、恐怖に髪が逆立つよう。



 アモンはゆったりと首を振り、身振り手振りを交えて話している。


 その両の手首に、青銅色の細い腕輪が幾重にも通されている。

 腕輪がしゃらしゃらと鳴っている。

 つい先ほどまでとは打って変わって静まり返った法廷に、そのあえかな音がはっきりと響く。



「スーは本当にいい主人であり、友人だったからね。わりあいに無謀な命令を下すこともあったが、失態を咎めることはなかった。僕のことは気に入ってくれていたしね。


 ()()()()()()()()()()()()()、かれらのことも気に入った」



 シャーロットは眩暈を覚える。


 ――では、()()()()()()()()()()()()()()、知られるはずのない()()()の悪魔の名前を、スーザン・ベイリーに伝えていたのだ。



「かれらもあの子が気に入った――まさかそれが、あの子を死なせることになるとは思わなかったけれど……」


 アモンはもはや、シャーロットから見て九フィートのところに迫っていた。


 歌うように話を続け、それはどちらかといえば懐古の独り言のようでもあった。


 かれが近づいてくる様はさながら、大波が音もさせずに打ち寄せてくるのを眺めるような、どこか現実味のない恐怖をもたらすものだった。



「ジュダスはスーに似ている。とても似ている。面白い子だ。

 だから気に入っているし、行く末に関心がある。

 この子が僕に約束してくれた報酬は破格のものだし、出来るかぎりでなんでもしてあげるつもりでいるんだけれど――」


 アモンが立ち止まり、首を傾げた。



 シャーロットは戦慄している。

 背筋を氷で撫で上げられたかのよう。


 マルコシアスはよく、彼女に向かって、「あんたのためなら頑張るけど」と言う。

 彼女はそれを頼もしく思って聞いていた――その言葉を、同じ意味の言葉を、敵のために(くらい)の高い悪魔が口に出す恐怖がこれほどとは。



 アモンが腕を組み、しばらく考え込む様子を見せた。


 そして顔を上げたとき、そのワタリガラスの顔に、ほんもののカラスには有り得ない、満足そうで残忍な喜びが満ちていた。



 ――シャーロットの心臓が、一拍を飛ばして肋骨の中で宙返りをした。


 不吉な予感に鳥肌が立つ。

 息が詰まり、血の気が引くその一瞬――



 アモンがはっきりと言った。


「――よし。僕のかわいい精霊たちは優秀だ」



 アモンがネイサンを踊るような足取りで振り返る。

 ネイサンが笑って頷いた。


 アモンが胸に手を当てて、その場で舞台役者のように大仰に一礼し――



 ――その姿が掻き消えた。



 法廷に満ちていた重圧が雲散霧消する。

 それと同時に深く息を吸い込んだ者は複数あり、しかし状況は――


「――は?」


 シャーロットであっても、事態を呑み込むまでに一秒を要した。


 ランフランク中佐が、信じられないものを見た驚愕にあえいだ。


 ありえないはずの事態の勃発に、人間どころか悪魔であるアットイまで茫然としている。


 法廷の外にいるストラスとオリヴァー、そしてベリトまでが、今だけは敵味方の区別も人間と悪魔の区別もなく、唖然として口を開けていた。


「――嘘でしょ」


 リンキーズがこわばった声でつぶやいた。


()()()()()()()()こっちの主人の言いつけに従うやつなんか、いるわけないのに……」


「何が起こった!」


 アディントン大佐が怒鳴り、答えようとしたランフランク中佐が言葉に詰まる。



 ――おのれの領域に身を隠したマルコシアスを、アモンもまた悪魔の(せかい)に戻って追跡したのだ。



 ありえないはずだった。



 シャーロットはそれを知っている。


 ――悪魔の(せかい)に戻ったアモンが、もはや〈アモン〉の名では呼ばれないことをも知っている。

 ネイサンが使役しているのはあくまでも〈アモン〉であり、かれのもう一つの、()()()〝真髄〟ではないのだということまで知っている。


 〈アモン〉はネイサンを主人とするが、本来のかれはそうではないということも。



 だからこそ、領域に戻りさえすればマルコシアスは安全だと信じていたのだ。



 ――今こそシャーロットは、おのれの傲慢を自覚した。


 マルコシアスがシャーロットに示した格別の親しみ、それと同等の献身を示す悪魔が他にいようとは、彼女は一度も想像したことがなかったのだ。


 その傲慢な確信こそが計算違いだった。



 考えるよりも先に、シャーロットは夢中になって〈傍寄せ〉を唱えていた。

 〈マルコシアス〉の真髄が影響する限り、領域に戻ったとはいえ、かれはこの呪文でそばに戻るはずだ。



 ネイサンがその呪文を聞き取って、おかしそうに微笑む。


 シャーロットにもその気持ちは分かった――こちらの算段が水泡に帰したところを目の当たりにしたのだ、笑いのひとつも出てこようというものだ。


 直前のアーノルドへの意趣返しもあって、笑みはいっそ生き生きとして楽しそうだった。


(ぜんぜんおかしくない!)


 心胆が冷える気分で呪文を唱え終えた彼女のそばに、息を切らせたマルコシアスが立ち現れる。


「危なかった! レディ、どうも!」


 かれは霞が形をとるような自然さで、神秘的なまでの光景を醸して現れたのだが、振る舞いは優雅でもなければ深遠でもなかった。

 息を弾ませて汗まで浮かべている。


 ここまで動揺しているかれを、シャーロットは見たことがなかった。


「冗談だろ!」


 マルコシアスがわめいた。


「あいつ、向こうでまで僕を追いかけてきたぞ!!」


「きみが逃げるからだ、マルコシアス」


 ネイサンがおだやかに指摘して、マルコシアスはシャーロットが初めて目にする、ほとんど燃えるような怒りを籠めた瞳で彼を睨みつけた。


 リンキーズとアットイが、怯えた様子でマルコシアスから一歩離れる。


「あいつをどう脅しつけたんだ! あっちでは僕らは自由だ。

 それが、あんたが生まれる前からの決め事だぞ!」


 ネイサンは無関心な様子で肩を竦めた。


 シャーロットはあわててマルコシアスの手を掴む。

 マルコシアスがはっとした様子でシャーロットを振り返り、その瞬間に淡い黄金の瞳の険がぬぐわれた。


「お前の領域が見つかったの?」


「見つかった。あっちであんたを心配してたら乗り込んで来たよ」


 マルコシアスは口汚い言葉を続けたが、シャーロットはそれどころではなかった。


「どうしよう――お前の領域が襲われてしまう」


 招待されたことのある美しい景色を思い出して、シャーロットは胸が潰れそうになったが、マルコシアスは苦い顔だった。


「あいつがあっちで、のんびり僕の領域の占拠に勤しんでくれるならまだいいけど、――ほら、もう」


 つぶやいたかれの眼前で、みずからこちらの交叉点(せかい)に舞い戻ってきたアモンが、こちらは霞が形をとるような登場のしかたにそぐう神秘性と優雅さをもって、のんびりと立ち上がってみせた。


「きみ、マルコシアスだっけ? つれないな、少しは相手をしてくれよ」


 マルコシアスは二歩下がった。


「あんたの相手が出来るほど、僕は頑丈じゃないもんでね」


 シャーロットは顔をこわばらせた。


「お前、向こうにいるのとこっちにいるのとでは――」


「向こうに戻るのはもう勘弁して」


 マルコシアスは口早に応じた。


「あっちでやられるなんて、こっちでやられるより数段悪いよ」


 シャーロットはめまぐるしく考えを巡らせた。


 ――ここから脱出しなければならない。少なくともアモンと距離を取らねばならない。

 だが、アモンに比肩する魔神を召し出すのは非現実的な考えといわざるを得ない――


「〈アモン〉の()()はだれ?」


 ほとんど独り言じみたその問いに、リンキーズとアットイが、弾かれたように顔を上げる。

 マルコシアスだけが動じず、口早に応じた。


「確か、〈バルバトス〉だ。すぐに呼べるの?」


「序列八番じゃないの。呼べたら苦労はしないわね」


 口早に毒づくシャーロットをしり目に、アモンから逃げるようにじりじりと後退っていたマルコシアスが、そのとき不意に、何かにひらめいた顔をした。


「待てよ、あんた――」


 アモンを指差す。


 アモンが首を傾げて、一歩踏み出した。

 その一歩に法廷が震える。


「なんだろう、おしゃべりなら付き合ってくれるの?」


「ああ、いくらでも。あんたが僕と僕のレディに悪さをしないなら、あんたの話がいくら退屈でも、五百年くらいなら聞いていてやるんだが。

 ――あんたさっき、僕の領域に乗り込んできたとき、妙に手加減していたね。――今もだ」



 ランフランク中佐がシャーロットの腕を掴み、アモンから離れる方向へ後退らせる。

 シャーロットは壊れた椅子につまずきそうになりながら、促されるがままに彼女の悪魔から離れた。


 アディントン大佐が、小突くようにしてアーノルドにもそのあとに続かせる。


 リンキーズがあわてたようにシャーロットを追いかける一方、アットイはぐるぐるとその場で回っている。


 アーノルドがそんなアットイを見て、焦ったように声を低めてかれを呼ぶ――



 マルコシアスが、軍人に庇われるかれの主人を一瞥した。


 そしてすぐにアモンに目を戻す――荒事において重宝された魔神、戦場において働きを賞賛された魔神の真骨頂、追い詰められたときの冷静な観察眼が顔を出しつつあった。


「あんたなら、この建物ごとひっくり返して僕の足を止めることだって出来るはずだ。それをしないのは、僕のレディがいるからかと思ったけど、違うね。

 ロッテに遠慮してるだけだっていうなら、僕の領域で僕を追い詰めたときは、もうちょっと容赦なく襲ってきてよかったはずだ――」


「期待外れだったみたいで、ごめん」


 アモンはすがすがしく言った。


「おふざけは好きじゃないんだな、きみ。

 さすが、()()()()()()()()()()()()()〉だ。

 じゃあ、今度はもうちょっと本気でやろうか?」


「いや、出来ないはずだ」


 はらはらするシャーロットをもはや一顧だにせず、マルコシアスは断言した。


 鎌をかけているにしても、口調に確信が籠もり過ぎているようにシャーロットには聞こえた。



「きみの悪魔は何を言っているんだ?」


 ランフランク中佐がシャーロットに耳打ちしたが、皆目見当がつかないシャーロットはふるふると首を振ることしか出来ない。


 ただ気が気でないのは、マルコシアスがアモンに今にも八つ裂きにされるのではないかと危ぶんでいるだけではなく、今にもネイサンが他の魔神を〈傍寄せ〉で呼びつけるのではないかと思っているせいもあった。


 ここにモラクスでも現れようものなら目も当てられない。

 マルコシアスは対処できない。



 マルコシアスの言葉を聞いたアモンは、いかにも面白そうにしている。

 かちかちとくちばしを鳴らして、肩を竦める。


「へえ?」


「なんでかって言うと、」


 マルコシアスが言いながらも、踊るような足取りで数歩を下がった。


 その足許で、マルコシアスを避けるように、大音響とともに壊れた椅子が大破し、壁際に吹き飛んでいく。



「あんたが全力を出すと、『神の瞳』を壊しかねないからだ」



「――――」


 アモンが瞬きした。

 その瞼が目玉の上下にではなく左右についていることに、シャーロットは唐突に気がついた。


 マルコシアスが息を吸い込む。

 その淡い黄金の瞳が、生き生きと輝き始めた。


「『神の瞳』は、僕は知ってるが、この足許で()()()()しているわれらが同胞の、今や()()()()()()なんだろ。

 僕の考えが正しければ、まあ正しいんだろうが、足許で寝ているわれらが同胞は、僕らの歴史上初の、()()()()()()()()()()()っていうことだ。

 ――そうなれば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 シャーロットはそのとき、直前にアモンが話していた――グレートヒルの魔神とアモンは、一時期とはいえスーザン・ベイリーという共通の主に仕えていたことを思い出し、二人の魔神のあいだに、一種の友情めいたものがあるのかと勘繰ったが、同じ悪魔であるところのマルコシアスの分析はきわめて正確だった。


「傷ひとつつけようものなら、いざ目が覚めたわれらが同胞は怒り狂うだろうね。そして、あんたはそうなると困るわけだ――何しろ、()()()()()()()()()()()()んだから。

 この足許で()()()()している魔神は、あんたよりずっと強いんだから、そうなればあんたに勝ち目はない。

 だからあんたは遠慮しなくちゃならないわけだ」



「――――」


 シャーロットは瞬きした。


 ゆっくりと、しかし着実に、考えが頭の中で積み上がっていった。

 この場で使える材料が、頭の中に並んでいく。


 ネイサンへの人質として作用するのは、シャーロット――正確には、その血。

 そして、マルコシアスが持つ『神の瞳』。


 ネイサンは今夜、シャーロットが成功するはずのない召喚を成功させるところを見ている――


 とっさに、ランフランク中佐の腕をぎゅっと掴み返す。

 「どうした?」と囁く中佐に考えを耳打ちしたくて、しかしそのためには、周囲はあまりにも静かだった――



 アモンが短く息を吐き、両手を挙げた。


 どうやら、白を切って誤魔化さねばならないと思うほど、マルコシアスに脅威を感じることはないらしい。


「――半分は正解だ。この足許で眠っているわが兄弟の毒は厄介だからね――僕でもあんまり喧嘩はしたくない。

 マルコシアス、()()()()()()()()、わが兄弟には立ち向かえるかもしれない――なにしろきみは、()()()()()()()()()()()()

 けど、まあ、残り半分は、僕の報酬に関することだから――」


「あそこの性悪はあんたになにを約束したの?」


 興味深げに二人の魔神を見守るネイサンに目配せしながらマルコシアスは言って、にやっと笑った。


「あいつが僕に約束していた報酬は、僕のレディのお気に召さなかったが」


 ちら、とネイサンを見てから、アモンはゆっくりと手指を組み合わせた。


「ジュダスが僕に約束したこと? 興味があるなら教えていいが――」


 あきらかに時間稼ぎを察した声音でそう言って、アモンは気の毒そうに目を細めた。

 時間稼ぎが何の意味もなさないことを、だれよりよく分かっていると言わんばかりに。



「まず、人間五千人。それからとっておき、ジュダスの血族の目玉が五つと、心臓が二つ。腎臓と肝臓がそれぞれ三つに、頭蓋骨とその中身を二つずつ」



「――は?」


 シャーロットは思わず声を出した。


 周囲の味方におのれの考えを伝えなければならないというのに、その方法に巡らせるべき思考がいっとき止まった。

 中佐が焦ったようにシャーロットの腕を掴む手に力を籠める。

 そんな場合ではないと思い出させるように。


 シャーロットの反応がおのれに向けられたものとは思わなかったのか、アモンは淡々と続けている。



「それからもう一つ。

 召喚されたときに約束させた――その約束を呑めるのなら、僕のかなりの時間をあの子にあげようと応じた」



「というと? 戦争でも起こしてもらおうと思った? あんたほどの魔神なら、最近めっきり暇だろ?」


 マルコシアスが、好奇心というよりも時間稼ぎのために尋ねている。


 かれの淡い黄金の瞳が、アモンとその周囲をせわしなく捉えている。

 かれの周囲で、アモンにおびえるかれの精霊たちが、ほのかに白く輝いて、主人であるマルコシアスを守ろうとしていた。


「戦争? 違う違う」


 アモンがあっさりと否定して、爪先で床を叩いた。

 そこから、ぱっ、と色とりどりの花が顔を出し、そしてあっというまに萎れていく。



「僕がこの子にに約束させたのは、」



 ネイサンを示して、アモンはごくおだやかに言った。



「――かならずこの足許にいるわが兄弟の目を覚まさせて、僕らのスーの遺志を継ぐこと」



 マルコシアスが目を見開く。

 これには純粋に驚いたようだった。


「なんだって? ――いや、待てよ、あんたも僕のレディの……なんだっけか、おばあさんだったかひいばあさんだったか、そいつに仕えてたの?」



「そのとおり、“気高きスー”は僕らのレディだ。

 ――言葉のとおりだ」



 アモンは断言して、周囲を見渡すように視線を遊ばせた。

 その光景の裏側にある、過日の光景をなぞるように。



「僕は、スーが志半ばで倒れるところを見た。あの子の夢が叶わなかった今を知っている。

 ああ、なんていうんだろうね、きみに分かるかな――()()()()()()()()()()()()()()()

 僕はスーに約束した――あの子の夢を叶えるためならなんでもすると。


 今もその約束は終わっていない」



「…………」


 マルコシアスは絶句したようだが、やがて面白そうに首を振った。


「――まさか、自分以外にも、そんな風変わりな同胞がいるとは思わなかった」


 マルコシアスも周囲に視線を走らせる。


「あんたもさぞかしあんたのレディが大事なんだろうが、僕のレディはあんたのレディと違って、今も元気に生きてるもんでね。こっちを優先させてもらうよ」


 ワタリガラスの頭の魔神が、苦笑のような声を立てる。


「悪いが、マルコシアス。きみにはとてもそれは無理だ」


「一人なら、確かに」


 認めて、マルコシアスは、事ここに至っても法廷のすぐ外に留まっていた、序列三十六番の魔神を見遣った。


 そして悪魔らしく微笑んで、悪魔にもっとも似つかわしくない言葉を吐く。



「――ストラス、()()だ」



 高らかに宣言する。


 さすがのアモンも怪訝そうにしたが、その瞳がいかにも面白そうにきらめいている。


 マルコシアスはそんなアモンを見据えながら、言葉はストラスに向けて。



「もうお察しだろうが、あんたが欲しがっている『神の瞳』は、()()()()()。僕が持っている」



 余裕がないながらもにっこりと笑って、マルコシアスはアモンを指差した。


 いつもの、子供がたわむれに拳銃を真似るときのような手つきで。



「僕を仕留めて奪うこともあんたなら出来るだろうが、アモンに獲られるとそうもいかないぜ。

 ――ストラス、今回ばかりは仲良く共闘しようじゃないか」



 ストラスは頭をかかえたらしい――その拍子に、オリヴァーが取り落とされた形になって地面に尻餅をつく。


「マジで、お前――最悪だな」


「最悪なのは悪魔(ぼくら)の常道」


 マルコシアスが歌うように応じると同時に、シャーロットは迷わず叫んでいた。


「エム、なんでも――派手にやっていいわ! なにがなんでもここから離れて、逃げて!」



 その瞬間、マルコシアスの撃った光弾がアモンに弾かれ、迷走した光弾が宙を錯綜し、ものの見事に法廷の天井に大穴を穿った。


 足許が揺れるような衝撃、轟音に続き、天井の破片がばらばらと落ちてきては絨毯を叩く。

 粉塵が立ち込め、法廷の中はあっという間に、濃霧が立ち込めるようなありさまとなった。


 それでもネイサンの周囲だけが、球形に清浄な空気を保っている。


 天井の大きな破片がいくつも床を叩き、そのたびに法廷全体が揺れ――



 アモンの眼前一フィートで、空気がきらっと赤くきらめいた。


 一瞬ののちにはそのきらめきが伸び上がり、アモンを呑み込むがごとき勢いで、真紅の紅玉が空気を喰い潰すようにその場に現れる。


 だが、アモンは表情ひとつ変えず、軽く首を傾げるのみでその度外れて巨大な紅玉のかたまりを、塵ひとつ残さず粉砕してのける。



 マルコシアスが無造作に手を振った。

 かん高い音がして、法廷の四方の壁に亀裂が走り、耳を聾する轟音とともに壁が崩れていく。


 壁際のランプが砕けて消えていき、視界は一気に悪くなった。


 さすがに建物の骨組みには手を出さなかったのか、省舎が崩れる気配はないものの、立て続けに崩れていく壁から響く轟音には、迫力以上の危機感がある。

 頭上の天井が不吉にきしむ――



 そして、マルコシアスがそれこそ矢のような勢いで、外に向かって駆け出した。



 地面を踏むというよりは蹴って、低空を飛ぶかのような速さで、外の柱廊めがけて突進する。


 ストラスがさすがにぎょっとした様子で、かれの()()()であるオリヴァーを抱え上げ、ひとあし早く空中に舞い上がり――



 ――その瞬間、緊張のあまりにシャーロットは自分が気絶するのではないかと思った。



 アモンがネイサンを振り返り、落ち着いて首を傾げ、指示を待っていた。



 ネイサンが頷き、手を振ってアモンを促す。


 シャーロットが心から安堵したことに、そして頭の芯が痺れるほど緊張したことに、ネイサンはアモンに、マルコシアスを追うよう命令を下したのだ。


 アモンは頷いて、悠々と、まるで舞台に進み出る役者のように落ち着き払って、マルコシアスを追った。



 シャーロットは時間を無駄にはしなかった。

 即座に彼女は、砕けていく壁の轟音にまぎれるようにして、そばの味方におのれの考えを伝えていた。


 焦るがあまりに舌が回らず、しかも法廷から抜け出したマルコシアスとストラスの魔法があられのように柱廊の外の中庭に降り注ぎ、轟音を絶えず響かせていたので、シャーロットは誰にも自分の声が聞こえないのではないかと危ぶんだ。



 だが、そんなことはなかった。



「きみ、正気か。それとも馬鹿なのか」



 アディントン大佐が真面目にそう言ったので、シャーロットは自分の考えが、その場の人間にきっちり届いていたことを悟ったのだった。



 そしてあわせて、彼女の魔神が、このときであっても彼女のそばに、少なくない精霊を残していったであろうことも確信していた。

 その精霊を通じて、かれも彼女の言葉を聞いただろうことも。
















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― 新着の感想 ―
[気になる点] その含みを正確に理解したのはシャーロットだけだった。 >すると、ネイサンも名無しの魔神の仕組みについては正しく理解していないのですね。このことがどう影響してくるのでしょうか......…
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