18 弱者の価値
長椅子がいくつもひっくり返り、あるいは砕けて壊れている惨状に、シャーロットが心を動かす余地はなかった。
それどころか、法廷にいるはずのネイサンの姿を探すことも、アモンの姿を見ることもしなかった。
彼女が視界に入れたのはただ一人、その場で唖然とした様子で膝を突いているアーノルドだけだった。
後ろに続いたアディントン大佐とランフランク中佐が、すかさずネイサンに向かって銃を構えたのが分かる。
他の軍人たちが中の様子を把握して、法廷には他にも人がいたのだろう――彼らを守るために動き始める。
ストラスがこれみよがしに呻き、オリヴァーも身の置き所には困ったようだったが、今だけはどうでも良かった。
「アーニー!!」
叫んで、ひっくり返った長椅子を乗り越え、転びそうになりながら、彼の方へ駆け寄る。
――最後に会ってから四年が経っていようが、見間違えるはずがない。
くしゃくしゃの金茶色の髪、しゃがみ込んでいても分かるしなやかな長身、痩せた身体つき、粗末な服装。
最後に会ったときよりも頬がこけている――顔立ちはいっそう精悍になり、しかし変わらない、透き通るような美しさを持っている。
際立って整った目鼻立ちではあったが、今はそれも目立たない――彼は、その整った顔立ちを台無しにするほどの驚きに、唖然としてぽかんと口を開けていた。
「は……?」
リンキーズがひとあし先に彼に駆け寄っている。
アーノルドは無傷ではなかった――左腕からおびただしい出血がある。
その傷を押さえていたのか、右のてのひらも真っ赤だ。
リンキーズがわれを忘れた様子で、必死になってその傷を舐めている。
悪魔がそうも献身的な態度をとることへの驚きも疑問も、今はなかった。
シャーロットも頭が回らなかった。
「私の遣わせた使いからも、まだきみを見つけたという合図はなかったんだけれど、もしかして、自発的にここまで来てくれたの?」
ネイサンが嬉しそうに尋ねているが、答える余裕はシャーロットにはなかった。
ただ、はっきりと分かった――やはり脅迫者はシャーロットに向かっていたのだ。
ネイサンには脅しとして、アーノルドを殺してしまう心積もりがあったのだ。
シャーロットは数秒ののちにようやく、アーノルドのそばに辿り着いて膝を突いた。
アーノルドが軽くのけぞり、傷の痛みだけではない、何かの感情に顔を歪める。
「きみ――」
シャーロットは胸が詰まって何も言えず、ともかくも彼を抱き締めた。
アーノルドも抵抗しなかった。茫然とした様子で、抱き締められるがままになっている。
右手が半端に持ち上げられて、またぱたんと下ろされた。
彼は目を瞠っている。
一秒でシャーロットはその手をほどき、緊張した様子で法壇を見つめるストラスを振り返った。
「ストラス! 彼を治して!」
マルコシアスは、人の傷を癒す魔法は知らない――だがストラスは知っている。
動かないストラスに、オリヴァーが上擦った声で命令した。
「ストラス、彼を治せ」
ストラスが息を吸い込み、あからさまに迷惑そうにしつつも、足音を立てない静かな動きで、すばやくこちらに近づいてきた。
薄紅色の髪を刈り上げた偉丈夫の接近に、通常ならばひるむところだろうが、アーノルドにその様子はない。
彼の双眸、薄雲をまとった青空の色の瞳が、こぼれんばかりに見開かれてシャーロットを映していた。
「きみ、なんで――」
ストラスがアーノルドの首根っこを掴み、引きずるように立ち上がらせる。
よろめくアーノルドには頓着せず、ストラスがもう片方の手で彼の左腕を握った。
握り潰そうとするかの如きその仕草に、シャーロットの方が悲鳴を上げたが、アーノルドは何も言わなかった――直後にぱっとストラスが手を離し、破れたシャツから見えたアーノルドの傷は完治していた。
アーノルドがストラスを見上げ、何かを言おうとする。
「ありがとう」と言いたかったようだが、舌がもつれて言葉にならない。
もごもごと口を動かして、またすぐに彼は、驚愕した様子でシャーロットを見る。
オリヴァーが苦労しながらも駆け寄ってきて、魔術師ではなく悪魔に直接礼を言おうとしたらしきアーノルドに、じゃっかんの驚きを見せた。
だが頓着している場合ではなく、ちらちらとネイサンを窺いながら、シャーロットとアーノルドの腕をそれぞれ引いて、「早くここから出よう」と合図する――
ストラスが、アーノルドの首根っこを掴んでいた手を離した。
アーノルドがふらつき、ふたたびその場に膝を突く。
リンキーズと、二本のしっぽがある猫の姿をした魔精が、揃いも揃って慌てた様子で、アーノルドの膝の辺りに駆け寄ってぐるぐると回り始めた。
ストラスが無造作に、猫の姿をした魔精を蹴り飛ばした。
蹴り飛ばされた猫の魔精が悲鳴を上げて転がって、無惨に壊れた椅子にぶつかる。
アーノルドがぎょっとしたように腰を浮かせた。
「アットイ――」
シャーロットはその様子には気を配れなかった。
それどころではなかった。
「アーニー、立って!」
シャーロットは抑えた声で叫んだ。
さすがの彼女といえど、もうアーノルドだけを見つめているわけにはいかなかった。
シャーロットは法壇を見ていた――そこに立ち、満足そうに微笑むネイサンを。
そしてそのそばで、のんびりと羽繕いをしている白いオウムを。
――かれがアモンだろうとは、容易に想像できるところだった。
過去にかれを目の当たりにしたマルコシアスは、その序列を一桁と見積もっていた――その見積もりは正確だったわけだ。
同時に、アモンほどの高位の魔神を、年単位という桁外れの長期間にわたって召し出し続けているネイサンの示した報酬に疑問がうずく。
マルコシアスならば三千人の人間を喰わせることで頷くものでも、アモンならばそうはいくまい。
アモンを半時間召し出すために、過去どれだけの魔術師が身を削ぐ報酬を捧げたことか。
「にぎやかになったね」
微笑んだネイサンは、落ち着いた様子でアディントン大佐とランフランク中佐に目を向けた。
親しげでさえある仕草で手を振って、苦笑する。
「撃ってもらってかまわないよ。私には害のないことだから。他にも、やりたいことがあるならゆっくりやってくれ。私は困りはしない」
アディントン大佐が、後ろ手に何かを合図する。
シャーロットにその意味は分からなかったが、他の軍人たちが動いた。
黒いローブを身に着けた男性たちを、軍人たちがそれぞれ庇って誘導し、じりじりと出口のアーチに近づいていく。
シャーロットはようやくその男性たちに気づいたが、気づいてしまえば彼らの立場はあきらかだった。
司法省大臣、副大臣、そしてその側近たちだ。
オリヴァーが、焦った様子でシャーロットの腕を引く。
無理もないが、彼は半泣きになっていた。あえぐようにつぶやく。
「早く行くぞ……!」
ちょうどそのとき、ベリトのわきから身体を滑り込ませるようにして、アーチからマルコシアスが顔を覗かせた。
シャーロットを見てにこっと笑ったかれが、シャーロットの身振りの制止にも気づかなかったのか、軽い足取りで倒れた長椅子を乗り越え、足音も立てずにそばに寄って来る。
淡い黄金の瞳が、ネイサンではなくアモンを見つめていた。
ネイサンはマルコシアスに気づき、予想外の贈りものを受け取ったように嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
シャーロットに目を移して、礼を言うように頷いてみせもする。
シャーロットはこわばった表情でそれを受けた。
さしものネイサンも、シャーロットがマルコシアスに逃亡の許可を与えているとは思うまい――
「……――なんで……」
しゃがみ込んだままのアーノルドが、茫然とつぶやいた。
彼の青灰色の瞳はシャーロットを見つめている。
「なんで、きみ、ここに……」
「あなたがここにいるからよ!」
シャーロットは苛立ちのあまり叫んだ。
ネイサンから視線を引き剥がし、ほとんど間抜けとさえいえる表情を浮かべるアーノルドを振り返る。
手を伸ばして彼の腕を掴み、引っ張って立ち上がらせようとする。
「私を忘れたとは言わせませんからね!」
「忘れるわけ――」
つぶやいて、アーノルドが痙攣するように首を振る。
すっかり混乱している様子だった。
なにを混乱することがあるの、あなたは頭がいいでしょう、と、シャーロットはその肩を掴んで揺さぶりたくなる。
ぱんっ! と、銃声が轟いた。
オリヴァーと、そして司法省大臣たちと見える重役たちが、思わずといった様子で叫び声を上げる。
アディントン大佐が、無表情のままネイサンに向かって発砲したのだ。
弾丸は命中した――間違いなく命中した。
その証に、アーチを守るベリトと、蹴り飛ばされた先でよたよたと立ち上がろうとしていた猫の魔精が、同時に呻いた。
アモンはさすがというべきか、少し不快な様子を見せたのみだった。
ネイサンは控えめに微笑んでいる。
いっそ申し訳なさそうに。
そして無傷を強調するかのように、ゆっくりと背広の襟を直す。
アーノルドの視線が、一瞬、彼から離れたところで痙攣する猫の姿の魔精に移った。
だいじょうぶ? と尋ねるように唇が動いた気がしたが、声にはなっていなかった。
猫の姿の魔精が、ぶるぶると身体を揺すって、自分の腹を舐め始める。
怪我をした猫にそっくりの仕草だった。
アーノルドの青灰色の瞳がそれを見て取って、またシャーロットに戻された。
まるで夢を見ているような顔をしている。
「――待ってくれ、きみの方こそ、おれのことは忘れてるはずじゃ……」
支離滅裂につぶやいたアーノルドの頬を、シャーロットは真面目にひっぱたきたくなった。
「そんなこと約束した? あなたを助けるためならなんでもするって言ったわよね!? 忘れちゃった!?」
「あれは……」
アーノルドが熱に浮かされたように囁く。
「だって、あれは、その場の……」
「その場の勢いなんて言ったら、あなたのこと嫌いになるわよ!」
シャーロットは叫んだ。
銃声が立て続けに轟く。
大佐と中佐の目的はあきらかだった。
ネイサン本人に手傷を負わせることではなく、ベリトを行動不能にして、アーチを突破して退路を確保しようとしているのだ。
他の軍人たちもまた、司法省大臣らに耳を塞ぐよう警告して、それに加わった。
耳を聾する銃声にも気づかない様子で、アーノルドは息を止めている。
間違いなく、シャーロットが彼のことを一日たりとも忘れたことはないなどとは、想像もしていない顔――あのときのシャーロットの言葉を本気で受け取ったことはないと分かる表情――彼自身の価値など、一度も信じたことがないといった面差しだった。
「でも……」
なおもつぶやく彼の腕を、シャーロットは遠慮なく引っ張って、彼を立たせようとした。
「首相閣下だって、ずっとあなたのことを気に懸けてらっしゃったのよ! 私があなたのことを話してからずっと! あなたのためにどれだけの人間が動いたと思って? あなたを助けに来たの!」
「た――助けに?」
アーノルドはおうむ返しにし、唐突にシャーロットの腕を振り払った。
「要らない。頼むよ。
なんで……なんで来たんだ」
銃声が正確に、淡々と続く。
ランフランク中佐が銃を撃ちながらも立ち位置を変えて、じりじりとシャーロットに近づいて来ている。
シャーロットは目を見開いてアーノルドを見つめていた。
その表情――たくさんの重荷のあいだから、かろうじて息をしているといったような、その表情を。
「アーニー?」
囁くように名前を呼ぶ。
オリヴァーはもはや頭をかかえている。
ストラスはじりじりと後退り、マルコシアスはアモンを見据えて微動だにしない。
リンキーズは発狂したようにシャーロットの周りを走り回っている。
猫の姿の魔精は、壊れた長椅子の陰に隠れて、銃弾がネイサンに命中するたびに世にもあわれな鳴き声を上げている。
リンキーズはもちろん猫の姿の魔精も、今や怯え切っているようだった。
アーノルドが息を吸い込み、シャーロットの手を握った。
彼の唇が震えた。
「頼む、どこかに行ってくれ――きみがここに来るなんて、そんな馬鹿なことはあるはずがないと思って安心してたのに。
頼む、もう――」
シャーロットは身構えた。〈ローディスバーグの死の風〉のことを持ち出して、アーノルドが人質らしく自己犠牲に走ろうとしているならば、返す言葉の準備は十も二十もある。
だが、アーノルドは囁いた。
「――もう、死なせてくれ」
「――――」
シャーロットは息を吸い込んだ。
オリヴァーが目を見開いている。
アーノルドが懇願する。
「ずっと死にたかったんだ。もう死なせてくれ。頼む」
「――っ」
シャーロットは息を止め、そしてまた息を吸い込んで、
「知らないわよ!」
叫んだ。
「いい、私は十四であなたと知り合ったけど、一緒にお茶をしたこともないのよ。グレイさんと一緒にあなたを家に招いてお茶会をするわ。お父さまとお母さまにあなたを紹介する。
あなたとどうでもいい話がしたいのよ、アーニー。お腹いっぱい食べてぐっすり休んでるあなたが見たいの。
それは私がそうしたいって話であって、あなたがどう思うかって話じゃないわ!」
アーノルドが息を詰めた。
「シャーロット……」
シャーロットは噛みつくように怒鳴った。
「期待外れを神さまと人に向かって言うのはナンセンスよ!
あなたの希望を私に言わないで! 私があなたの思うとおりに動くなんて期待しないで!
ここから逃げてあなたは明日も生きるの! あなたには他の人と同じように、明日を自分のための日にする権利がある!!」
ふたたび、シャーロットはアーノルドの腕を引っ張った――今度はアーノルドも立ち上がった。
そして、そんな自分が信じられないようだった。
彼が片手で自分の口許を覆う。
その指が震えている。
銃声が轟き続けている。
耳がおかしくなりそうだった。
ランフランク中佐が、シャーロットとアーノルド、そしてオリヴァーをひとまとめに背中に庇って、アーチの方へと彼らを進ませようとしながら、繰り返し発砲している。
身近で銃口が火を噴く空気の震えは耳が痛いほどだった。
黒いローブの役人たちが、恥も外聞もなく耳を塞いでいる。
「助けが来ているのかね?」
中の一人が、おのれの腕を取る軍人に尋ねた。
軍人が、発砲しながらも頷く。
老いた役人は怒りに震えているようだった。
ネイサンを睨む彼の瞳に執念が籠もる。
「これほどの暴挙、かならず法廷に引っ立てねばなるまい」
「今まさに、その場所がひっくり返ろうとしているところです」
軍人は生真面目に答えたが、シャーロットはすかさず、叫ぶようにして応じていた。
「そのときは、このアーノルドがかならず証人になります! 余罪も山ほど証言してくれるはずです!」
人を鞭で打ったり、と、内心でつけ加える。
アーノルドはたじろいだ。
「おい、シャーロット、おれなんかの……」
「ああ、そうだ」
軍人が事も無げに言って、また発砲する。
憤っている役人も、間近で響く轟音に身を竦める。
「閣下がしきりに気にされていたのが彼ならば、そうだろう。重い余罪を証言してくれるでしょうな」
「おお、おお」
黒いローブの役人は、身に沁みついた習性なのか、真面目に言った。
「証人は守らねば。わしより彼を。さあさあ」
軍人は首を振った。
彼からすれば、アーノルドのそばに二人の魔神がいることを心得ているのだから、自然なことだった。
だが、シャーロットの方は、そばのマルコシアスに、今までにない緊張と不安を感じ取って気がおかしくなりそうになっていた。
「ここから出なきゃ」
シャーロットは頭のてっぺんから爪先まで震えながらつぶやいた。
ストラスが嫌味っぽく囁く。
「おう、ようやく気づいたか」
銃声が轟く。
逸れた銃弾がネイサンの足許に突き刺さり、石くれを噴き上げている。
「よく考えるまでもなく、全員で中まで乗り込んできたのって馬鹿だったわ。私が飛び込んじゃったせいだけど」
シャーロットが外に留まりさえすれば、シャーロットをいわば餌にしてネイサンを法廷の外に呼び出すことが出来たはずであり、そうなれば退路も確保しやすかったことは言うまでもない。
さらにいえば、その筋書きこそが、この場にいる軍人の全員が思い描いていたものだろう。
ランフランク中佐が横目でシャーロットを振り返った。
「やっと気づいた?」と言わんばかりのその表情に、シャーロットも罪悪感で胸が痛む。
とはいえ数分前の彼女は、アーノルドの無事な姿を見ることしか頭になかったのだ。
「ほんとそうだよ」
アーノルドがくぐもった声でつぶやいた。
「きみが外にいたら、おれが自分でけりをつけて、きみがさっさと退散できるように出来たっていうのに」
「ありがとう、それを聞いて分かったわ。ここまで飛び込んできて正解だった」
息を吸い込み、シャーロットは囁いた。
「エム、ここから出なきゃ。ベリトをなんとか出来る?」
序列二十五番グラシャ=ラボラスに、辛勝とはいえ勝利をおさめたマルコシアスならば、序列二十八番ベリトを相手にも善戦できるはずだ。
だが、ちらりとアーチの下にいるベリトを見たマルコシアスは、すぐにアモンに視線を戻した。
アモンはあきらかにマルコシアスに注目している。
オウムの冠羽が逆立ち、きらきらする小さな瞳がマルコシアスを見つめている。
「出来るけど、レディ。僕がそっちに集中できると思う?」
「馬鹿な悪魔ね、なんでこっちに入って来たのよ!」
シャーロットは叫んだ。
マルコシアスがむっと眉を寄せる。
「間抜けなレディだな、外にいろなんて言わなかったでしょ」
シャーロットは金髪をかきむしった。
「言われなくても、外から私たちを援護しようとは思わなかったわけ?」
「あんたのその無茶苦茶を言うところ、十四歳のときから変わってなくて、最高」
マルコシアスはつぶやいた。
「けど、ほら、あんたが心配だから」
「悪魔のくせになに言ってるのよ!」
小声でなじったシャーロットは、しかしすぐに短く息を吸い込んで切り替えた。
口早に囁く。
「エム、とにかくお前は、早く自分の領域に戻って」
その言葉に、ストラスが耳を疑うような顔をして、がばっとオリヴァーを見る。
「おい、ご主人さま、聞いたか? うるわしい人間愛ってやつだ、俺にも同じことを言ってくれ」
「お前は駄目だ」
オリヴァーが断固としてつぶやくが、その唇は震えていた。
マルコシアスは淡い黄金の目を細めて、いっそ訝しそうにアモンを見ている。
アモンは動いていない。
小さな瞳ではっしとマルコシアスを見つめているが、まだ何もしていない。
「――アモンが噂どおりのやつなら、この馬鹿馬鹿しい建物ごと壊してでも、僕を仕留めに来ていいはずだけど……」
「怖いことを言わないでくれ!」
「私がいるのにそんなことするはずないでしょう!」
オリヴァーとシャーロットの声がかぶる。
ランフランク中佐が、アーチの下にたたずむベリトにしきりに気を配る。
「ベリトをどうにかして……」
アーノルドが息を吸い込んだ。
「ベリトなら――」
そのとき、ネイサンがゆっくりと片手を持ち上げた。
億劫そうな、面倒そうな仕草で。
「銃弾の無駄遣いはそこまでにしてくれ。――アットイ」
呼ばれた猫の魔精が、びくっとして動きを止めた。
同時に、マルコシアスがためらいなく猫の魔精を指差した――その指先が爆発した。
少なくともシャーロットにはそう見えた。
アーノルドが低く悲鳴を上げたが、視線の先はマルコシアスではなく猫の姿の魔精だった。
法廷全体をあますところなく照らし出すような閃光がまたたき、轟音が響く。
シャーロットが目を強くつむって耳を塞ぎ、そして一瞬後に目を開けたときには、猫の魔精がその場にひっくり返り、すすり泣くような声を上げていた。
床が黒く焦げて煙を噴き出しているが、それ以外に変化はない。
アディントン大佐たちも、さすがに耳を塞がねば身が危ういと感じたのか、銃声が止んでいる。
銃声が止んでみれば、法廷は恐ろしく静かに思われた。
「――仕留め損ねたの?」
シャーロットが信じられない思いで囁くと、マルコシアスは顔を顰めてアモンを睨んだ。
「そんなわけあるかよ。
――どうも、アモン、手出しは無粋じゃないですかね」
「ごめんごめん」
アモンが頭を左右に揺らしながら、歌うように応じる。
「まさかきみが本気でそこの猫をやる気だとは思わなかったんだ。本気なら本気らしく見せてくれなくちゃ――今のじゃそよ風程度だよ」
「むかつく……」
マルコシアスがつぶやいた。
その悪態をマルコシアスが漏らすのを聞いたのは、シャーロットにとっても初めてだった。
アットイと呼ばれた猫の魔精が、もがくようにして体勢を立て直して座り込み、二本のしっぽをゆっくりと振って、用心深く椅子の陰で伸び上がり、主人を見つめた。
そんな魔精に向かって微笑んで、ネイサンがシャーロットを指差した。
「私が考えていたよりも騒々しい展開だけれど、まあいい。こちらはアーノルドをくれてやった。他にも何かしたいことがあるならばと思って待っていたけれど、もう飽きた。
シャーロットを連れておいで」
淡い灰色の瞳が動いて、マルコシアスとストラスを均等に眺める。
「今ので分かったと思うけれど、魔神は気にしなくていい――ねえ、アモン?」
白いオウムが軽く翼を広げてみせる。
首を傾げて、無邪気に頭を上下させる。
「気にしようがないだろう、あんなに弱いんだから。
ともあれあの子が欲しいなら早くして、ジュダス。僕がやると潰してしまう」
シャーロットは一歩下がった。
咄嗟に、ストラスの陰に隠れるような格好になって、猫の魔精に捕まるのが早いか、あるいはアモンに半身を潰されるのが早いかと考える。
心臓の鼓動が激しいあまりに眩暈がしたが、ここで気絶している場合ではなかった。
「あー、レディ?」
マルコシアスがひそひそと囁く。
「本当に逃げる算段をした方がよさそう。アモンが手を出してくるなら、僕もストラスも、魔精からだってあんたを守ってあげられないよ」
「算段ならさっきからしてるわよ……!」
猫の姿の魔精が立ち上がった。
アーノルドが気遣わしげにアットイを見つめている。
その視線にシャーロットは、あのアーノルドのもっとも稀有な才能を垣間見た。
すなわち、悪魔と会話し、対等に関係を築いてのけるあの能力を。
アットイが振り返ってアーノルドを見上げて、二人の目が合った。
アットイが瞬きして、ふい、と顔を逸らす。
猫が二本のしっぽをなびかせてその場でくるりと回って、壊れた長椅子の上に飛び乗った。
そしてそこから、紫水晶と硝子の色合い、それぞれの瞳で主を見つめた。
そして、唐突に答えた。
「――その命令は、当初の契約にありません」
ネイサンが瞬きした。
彼の虚を突かれた顔を見たのは今夜で二度目、一度目はマルコシアスに対してシャーロットが報酬を示したとき、そして二度目が今――
「なんだって?」
彼が訊き返した。
おそらく、長く魔術師として生きてきて、悪魔にものを尋ね返したのはこれが初めてだろう、ネイサンが眉を寄せている。
アーノルドがゆっくりと息を吐き出した。
それから大きく息を吸い込み、彼が周囲を見渡す。
まるで、いま初めて、この場をまじまじと見るかのように興味深く。
五人の役人を見て、そのそばの軍人を見て、アディントン大佐を窺い、ランフランク中佐の背中を見た。
アーチの下のベリトを見て、そして彼はシャーロットに視線を向けた。
シャーロットに向かって、アーノルドが、安心したような微笑を浮かべている。
その表情の意味が分からず、シャーロットはぽかんとする。
彼女も一魔術師として、アットイの言葉の意味をとりかねているところだった。
――悪魔が魔術師の命令を拒否するのは、その命令があまりにも軽微かつ、おのれの趣味に合わないときだけだ。
今この場でシャーロットを確保することが、ネイサンにとっての重大事だということは、悪魔であっても分からないはずはない。
その命令を拒否するなど、本来あってはならないことだ。そのはずだ。
特にネイサンのような、悪魔を御すことに慣れた魔術師の配下にあっては。
アットイが背中の毛を逆立てる。
しっぽが丸くふくらんでいる。
「主人、あなたは私を召し出したとき、言いました――子供を一人見張ってほしい、そのために必要になる追加の命令にも応じるように、と。つまり私が召し出されたのは、アーニーを見張るためです。他の子供のためではありません――今の命令はあなたの当初の契約にはありません。
私がそれに背いたとしても、あなたには召喚陣の強制力が働きます――私は報酬を受け取ることが出来ます」
マルコシアスとストラスが瞬きし、そっくり同じ仕草で、壊れた長椅子の上に立つ魔精を凝視した。
二人がそろってぽかんとしている。
このときばかりは双子のように似通った面差しで。
「は?」
「主人、あなたは、」
アットイが続けている。
声はどんどん上擦って、背中の毛はハリネズミのように立っており、四肢が傾斜する座面の上で落ち着きなく小さなダンスを踊っているが、言葉は断固としていた。
「いつものようにご自分の首を自刎ってしまわれることも出来るでしょう――けれど、主人、あなたが私への強制力から逃れようとするなら、私に致命の一撃を与えるに足る傷を負わねばなりません。そうなれば、主人、あなたが数多く召喚している、私よりも格下の同胞たちを失いますよ。あなたのお気に入りのブーウゥもです。
――そして、あなたが私に致命の一撃を与えないならば、主人、私は最初に約束した命令にしか従いません」
「――――」
眉を寄せたまま、ネイサンがゆっくりと首を傾げた。
危機感も焦燥もその表情にはなかったが、ありあまるほどの不快感が、その目尻のしわ一本一本にまで満ちていた。
「――お前がそんなことを言うとは、らしくないな、アットイ。
お前は素直な、よい魔精のはずだけれど」
アモンが笑いを堪え損ねたかのような、奇妙な声を出してむせた。
悪魔は悪魔らしく、主人に予想外の不幸が起こることは嬉しいらしい。
かれが初めてマルコシアスから視線を逸らせ、かたわらの主人をかえりみて――
――複数のことが同時に起こった。
アットイが何か答えようとして――その声が銃声に呑まれる。
ネイサンに予想外の事態が起こったのならば、この隙を捉えずにいつ行動を起こすのだと言わんばかりに、アディントン大佐がふたたびネイサンに向かって銃弾を降らせていた。
弾丸をこめ直した時間がどこかにあったはずだが、シャーロットには分からなかった。
全ての軍人の中でアディントン大佐がもっとも事態への対応にすばやさを見せたのは、場数もあれば、魔術師特有の驚きがなかったがゆえかもしれない。
それとほぼ同時、銃声が弾けたその瞬間に、アモンの視線が逸れた機を捉えて、マルコシアスが手を上げていた。
狙いはアモンではなくアーチの下にたたずむベリト、不意を突いたとしても、序列に開きがあるあまりに、自分ではアモンの傷になれないことは心得ている。
そしてそこから、シャーロットの激しく打つ心臓の一拍を置いて、アーノルドが叫んだ。
シャーロットに向かってではなく、マルコシアスに向かって直接叫んだのだ。
「――壁を壊して!!」
マルコシアスは眉ひとつ動かさなかった。
シャーロットは、主人以外の人間の言葉に従うかれを初めて見た。
爆音が轟き、アーチのやや左側の壁に亀裂が入ったかと思うと、内側から巨大な圧力がかかったかのごとく、壁が爆発四散する。
粉塵が巻き上がり、大小の壁の破片があらゆる方向に吹き飛び、音を立てて柱廊を転がり、あるいは内側に吹き飛んできて法廷の壁や絨毯に穴を開ける。
ストラスがオリヴァーを抱え込むようにして、飛散する石の破片から庇った。
さすがに軍人は声は上げなかったものの、五人の役人が悲鳴を上げる。
その悲鳴を上回って、アーノルドが怒鳴った。
「ベリト、きみへの今の命令は、アーチを守ることだろ!」
ベリトはまさに、崩壊した壁の方へ足を向けようとしているところだった。
しかしその瞬間につんのめって足を止め、アーチの下に留まる。
そして、その場にいた魔術師全員にとって、信じ難い言葉をつぶやいた。
「ああ――そうだった」
「走れ!」
アディントン大佐が怒鳴った。
それが競走開始の合図だったかのようだった――軍人たちが役人の腕を引き、あるいは背中を押して走り出す。
軍人に庇われた役人たちは、おのおの黒い服の裾を踏んで転びそうになりながらも、壊れた長椅子につまずき、絨毯に足をとられつつ、転がるようにして外を目指している。
目指すはむろん、壁に開き、ぱらぱらと石くずを落としている大穴だ。
ストラスが、有無を言わせずオリヴァーを抱え上げた。
ためらいのない仕草で、かれが壊れた長椅子やひっくり返った長椅子を蹴り飛ばして、一直線に出口を目指す。
リンキーズがすっ飛んできて、シャーロットの膝に犬らしい仕草で縋りついた。
「行こう! 行こう! 僕らも逃げよう!」
「待って!」
シャーロットは小さく叫んだ。
アモンを見る――こちらに注意を払ってはいないように見えるが、さすがにシャーロットがこの場から逃げ出そうとすれば、ネイサンはためらいなくかれに対処を命じるだろう。
ネイサンにとって、司法省大臣たちは、あくまでついででしかない。
ここでシャーロットが動いた結果、逃げ出せるはずの彼らの退路までが絶たれては目も当てられない。
そして、ここでシャーロットの身柄を押さえられたとしても、マルコシアスが領域に引き返せる限り、ネイサンの王手にはならない――
司法省大臣たちが、転がるように法廷から脱出した。
それに付き従う軍人たちも中庭に脱出し、役人たちを追い立てるようにして安全圏へ逃がそうとしている。
もがくオリヴァーをかかえたストラスが柱廊に出て、すぐそばに接近した形になったベリトを気にしつつ、さすがにこちらを振り返る――法廷の中で二の足を踏んだのはシャーロット、そしてその彼女に引っ張られる形になったマルコシアス、大佐と中佐、そしてリンキーズ――
シャーロットがアーノルドを強く押した。
ここに彼がいては、人質としての利用価値を残してしまう。
だがアーノルドは動かなかった――アットイと呼ばれた、猫の魔精をじっと見ている。
シャーロットは苛立ちに叫びそうになったが、それをこらえた――こらえざるを得なかった。
法廷の空気が変わっていた。
――ネイサンが、寄り掛かっていた法壇のマホガニーの机から、ゆっくりと離れ、真っ直ぐに立っていた。
ランフランク中佐が、シャーロットの腕を掴んでいる。
いっそ痛いほどだった。
一瞬の静寂――崩れた壁の軋み、小さな石の破片が転がる音が法廷の高い天井に響く――
ネイサンは、今はアーノルドを見ていた。
困惑したというよりも何かを考え込む様子で、顎に手をあてがっている――執務室でよく見せていた仕草と、寸分たがわぬ同じ仕草で。
そして、ふ、と、その視線をアーチの下で緊張した様子を見せるベリトに向けた。
「――ベリト?」
ベリトが肩を竦める。
ネイサンは首を傾げた。
「いつものお前なら、私の命令の意図を察したはずだね。
なにを子供のような屁理屈をこねているんだ――ここからだれも出すなと命令しただろうに」
ネイサンが法壇から動いた。
静かな足取りで前に出る。
証人台のそばまで進んで、その弧を描く柵に手を置いて、彼はアーノルドを初めて見る人間のようにまじまじと観察した。
アーノルドがゆっくりとその場で屈みこんで、指先でアットイを招くような仕草を見せる。
アットイが猫のような足取りで壊れた長椅子から飛び降り、アーノルドに駆け寄って彼の指先に頭をすり寄せた。
アーノルドが微笑むのを、シャーロットは信じられない気持ちで眺めた。
ランフランク中佐も、もはや、マルコシアスがシャーロットの今夜の召喚に応じた話を聞いたときよりも驚愕して、茫然とした眼差しで痩せた若者を凝視している。
アーノルドはアットイの背中を撫でて、はっきりと言った。
「ありがとう、アットイ」
顔を上げたアーノルドと視線を合わせて、ネイサンは、このときばかりは本心からの驚きを籠めて囁いた。
「――きみが、私の悪魔たちに妙な入れ知恵をしたの?」
アーノルドは引き攣れた笑顔を浮かべた。
「あんたがどうしてだか禁止しなかったから、こいつらと話す時間はいくらでもあったからね。
命令に厳密に忠実でいてくれ――特にシャーロットが関わる場合は、って、そう頼んだだけだよ」
シャーロットが息を呑む。
息を吸い込んで、アーノルドは万感の憎しみを籠めてつぶやく。
「あんたは知らなかっただろうけど、あんたがおれにしたことは、おれに世界で一番嫌われるのにじゅうぶんなことだったし――」
ちらりとアットイとベリトを見てから、アーノルドは皮肉に微笑む。
「それに、ずっと思ってたんだけど、あんた、手下に暴力を振るい過ぎだよ」
ネイサンの表情が冷ややかなものに変わっていく。
彼の覚えているだろう不快感と苛立ちが、手に取るようにありありと分かった。
そんなネイサンをじっと見つめて、アーノルドは心底馬鹿にしたように告げた。
「そんなの続けてたら、あいつらが多少はあんたに嫌がらせをしたいと思ったとして、なんの不思議もないだろ。そもそも悪魔なんだしさ。
――そういうことは、」
軽蔑を籠めてつけ加える。
もはや、これを言わずに死ねるかと言わんばかりの執念さえ感じさせる口調で。
「文字も読めないおれよりも、お偉いあんたの方が分かってるはずじゃなかったの。さんざん馬鹿にしてくれたじゃん。
――でもまあ、これで」
アーノルドは立ち上がった。
「弱者が強者の鼻を明かしたぞ。これでちょっとは溜飲も下がった。
あんたは勝つかもしれないが、いわゆる一点の曇りもない完勝だけはなくなったな。
気分はどうだ?」