17 期待外れ
今やグレートヒルの方々で、議事堂から離れる方向に役人たちを誘導し、ネイサンの名前を挙げて反逆を声高に告発する声が上がっていた。
そして同時に、それを否定し、明朝にもネイサンがなにがしかの明確な権力を握ることが出来る役職に任命されることを宣言する衛兵たちの声も響き渡っており――当然だが、詰め所にいて制圧されたのは、衛兵隊のごく一部の者たちなのだ――、その夜の混乱を象徴するように、真逆のことを叫ぶ声が、下手くそな合唱のように夜空にこだましている。
どこかで銃声も轟き始めており、シャーロットはいよいよ、この革命とそれに対する応戦が、無血で済むものでは到底ないということを感じ取っていた。
夜空に轟き渡る銃声に竦み上がったのは、その一団の中においてはシャーロットとオリヴァーだけだった。
何しろ、他の者は軍人、あるいは悪魔である。
オリヴァーは軍人の手前とあってこらえてはいるものの、「どうして俺がここにいるんだ」という嘆きの表情は隠し切れておらず、銃声が轟くに至って半泣きに近くなっていた。
若い軍人がそれに気づいて、ばしばしと彼の背中を叩いて励ましている。
「大丈夫だって、俺、魔術師のことはよく分からんけど、魔術師は不死身だって言われてるじゃないか!」
「いや、不死身なんじゃなくて、契約している悪魔がだな……」
ストラスは仏頂面だった。
そんなかれをちらりと見て、マルコシアスがきびしく言っている。
「ストラス、ここで手を引いたら、もう絶対に僕の領域には呼んでやらないからね」
ストラスは勢いよく息を吐いた。
その息が、目の錯覚ではなくもくもくとした煙になって立ち昇った。
「これで、お前の領域が思ってたよりしょぼいところだったら、腹抱えて笑ってやるからな」
マルコシアスは鼻で笑った。
「ご心配なく。とてもいいところだ」
シャーロットはシャーロットで、銃声が夜陰に轟くたびにびくっとし、もはや自分が怒っているのか祈っているのか、はたまた案じているのか祈っているのかすら分からなくなりつつあった。
小隊軍曹がそんな彼女を眺めて、シャーロットを落ち着かせるに適切な言葉に思考を巡らせていたときだった。
ガス灯に照らされる省舎のあいだの大通りを駆けて来る、小柄な人影が見えた。
「誰か来るぞ」
小隊の中で誰かが声を上げ、たちまちのうちに数人が前に走り出て、小銃を構えて怒号を上げる。
「止まれ!」
駆けて来る側が歩調を緩め、そして符牒らしき事柄を叫んだ。
それで小隊の中で警戒が解かれ、駆け寄って来る人影を、驚いた様子で迎え入れる空気になる。
「どうした?」
「大佐に何かあったのか?」
「まさか、もう、司法省に踏み込んだのか?」
そんな無数の声に迎えられた、汗みずくになって走ってきた若者は、にきびの目立つ顔をてのひらでぬぐって、こちらも驚愕の表情。
汗でシャツが肌に張りついている。
「いや、どうしたって、それはこっちの台詞ですよ! なんでお嬢さんがもうここにいるんです? 俺、大佐のご命令で、まさにお嬢さんをお迎えに上がったところなんですが」
軍曹が息を吸い込んだ。
「大佐は、司法省にまずい悪魔がいるとご存じか」
「伝言は上手くいったって言ったろうに」
リンキーズが不満そうにつぶやいたが、それに耳を貸す者はいなかった。
若者が頷く。
そして気まずそうに、目を見開いているシャーロットをちらりと窺った。
「ご存じです。それで、お嬢さんを、ええっと……」
「ネイサンのくそやろうに対する盾にしようとのお考えだな。
――あとでビールを奢ってやろう、お前のお蔭で、俺の行動は上官への命令違反ではなくなった」
軍曹がきっぱりと言い、誇らしげに周囲の兵卒を見渡した。
「おい、聞いただろう、俺の考えも、あながち大佐と相違ないじゃないか」
息せき切って合流してきた小隊を迎えて、その場に留まっていた大隊の中のアディントン大佐は慙愧に耐えない顔を見せたが、その表情の所以であるところのシャーロットは、微塵もそちらに気を取られなかった。
ここまで走って息を弾ませたシャーロットは、今度は別の感情で息を詰まらせていたのだ。
彼女が大きく息を吸い込んで、叫んだ。
「――グレイさんっ!!」
アディントン大佐の斜め後ろで、せわしなく煙草を吹かしていたウィリアム・グレイが、控えめに微笑んで、ちょっと片手を挙げた。
煙草を足許に落として踏み潰す。
シャーロットは勢いよくそちらを目指して飛び出し、気を利かせて脇によけたアディントン大佐に衝突しそうになりながら、両腕を広げたグレイに抱き着いた。
「ご挨拶もせずに、本当にごめんなさい!!」
グレイはシャーロットをしっかりと抱き留めて、ぽんぽん、とその背中を撫でた。
「いいとも、いいとも、大丈夫だよ。心配しただけで、怒ってなんていないからね」
そう言って、シャーロットの肩を掴んで自分から引きはがすと、グレイは彼女の顔を覗き込んだ。
「それより、アーニーが……」
「そうなんです」
シャーロットはグレイに向かって言い、それからアディントン大佐に向き合うべきだと判断してそちらを向いた。
アディントン大佐のそばで、ランフランク中佐が顔を顰めている。
「アーニー――例のアーノルドだね」
「ネイサンさまのそばにいるはずです。ネイサンさまにはアモンがついていて――」
その場にいる各人がわっとばかりに話し出した。
「アモンとやらがそれほどたいそうな悪魔なら、なぜあのくそやろうはグレートヒルの魔神まで叩き起こそうとしているんだ」
「王道をいえば人質交換になりませんか。この子を連れていく代わりにアーノルドをこちらにもらう――」
「それがやつの狙いだろうが」
「極論、私をあちらに引き渡していただいても、ネイサンさまの王手にはなりません。『神の瞳』が無事であるうちは」
「シャーロット、無茶を言うんじゃない……」
「ああ、大佐、アモンは大した悪魔ですよ。戦場に登場してたころには、一人で戦況をひっくり返すというので有名でした。確かに、アモンがいれば力づくのクーデターでも成功させられそうなものですが」
「アモンよりはグレートヒルの魔神の方が力の強い魔神です。――ね、エム?」
「僕に訊くなよ」
「アモンなら一日でグレートヒルを制圧できますが、グレートヒルの魔神を御すことさえ出来たら、グレートヒルの魔神は同じ時間で国中を制圧してしまえるくらいじゃないですか。――エム、どう思う?」
「だから、僕に訊くなって」
「馬鹿な悪魔ね、だってお前の領分の話じゃない」
「間抜けなレディだな、おねむの魔神は僕の知り合いじゃないぜ」
大佐が咳払いして、口を開いていた全員がぴたりと押し黙った。
ストラスがマルコシアスを疑うように眺めて、シャーロットを顎で示して眉を上げてみせている。
マルコシアスがとぼけて目を逸らしたままでいると、じりじりとかれに近寄ったストラスが、押し殺した声で囁いた。
「どこまで知ってんだ、そのガキ」
マルコシアスは眉を上げた。
偉丈夫を前にすると、十四歳の少年の姿のかれは、頭ひとつ分以上も身長のひらきがありひ弱に見える。
だが、ストラスを睨み上げたとき、怯んだのはストラスの方だった。
「ガキとは失礼な。僕のレディだ。
――で、どこまで知ってるかって、何を?」
ストラスは口ごもり、肩を竦めて目配せした。
「その……俺たちのことを」
「知るわけないだろ」
マルコシアスは吐き捨てた。
「それとも、僕がたかが人間に話すとでも? それも、こんなにきゃんきゃん騒ぐ子に? 冗談も大概にしろよ、ストラス。まあ、そこのお馬鹿そうな雑魚が喋っちゃったかもしれないが」
視線を向けられ、のほほんと構えていたリンキーズが飛び上がる。
「そんなことするわけないでしょ!」
マルコシアスは冷ややかに笑った。
「どうだろう。さっきも、四年間べったり一緒だったと自慢してくれたね」
「そんな怒らないでくださいよぉ……」
一方人間たちの方は、咳払いした大佐の言葉に耳を傾けていた。
「いいか、少なくともあのくそやろうは、人質をとった上で黙って待っているようなお人好しではない。しかも、場所が司法省だ。下手を打てば、司法省大臣までまとめて人質にとられている可能性もある」
ランフランク中佐が重々しく頷き、軍人たちも顔色を変えずにそれを拝聴する。
それに対して、シャーロットは気分が悪くなってきてみぞおちを押さえており、オリヴァーもグレイも顔色を失っていた。
「あちらにそれほど危険な悪魔が待ち構えているなら、大勢で突撃して多数を死なせるのは得策ではない。俺は行くが、同行は全て悪魔を召喚している魔術師で賄う――他より危険が少ない。
ミズ・ベイリーにも同行いただかねばなるまいが――」
「ロッテ、そこのあんたのお友だちにもついて来てもらいなよ」
悪魔どうしの話からふいと顔を逸らして、マルコシアスが口を挟んだ。
「お友だち」と呼ばれたオリヴァーがいよいよ顔を強張らせるが、ストラスの顔の歪み方の比ではない。
「おい、マルコシアス、てめぇ……」
「当然だろ。あんたの今の役割は、僕のレディのためのクッションだ」
平然とそう言って、マルコシアスはストラスを矯めつ眇めつする。
相手の気に障ることにおいて右に出るものがいないだろう仕草だった。
「せめて、あんたが綿よりは頑丈だといいんだが」
ストラスの堪忍袋の緒が切れたことが、人間であるシャーロットにさえ明確に分かった。
ストラスがマルコシアスをわきへ引っ張って行き、怒濤の勢いで悪態と呪詛とささやかな魔法を降らせ始めている。
マルコシアスは小馬鹿にし切った態度でそれをいなしており、ストラスをますます激昂させている。
リンキーズは「うわぁ」とつぶやいてそれを眺めつつ、シャーロットの肩の上で身を竦めた。
「魔神ってほんと、おっかない」
「のんびりしてると、もっとおっかない魔神とご対面することになるわよ」
シャーロットはきびしく言った。
そのときになって彼女は、『神の瞳』の在り処を、まだアディントン大佐とランフランク中佐には伝えていないことに思い至った。
あわてて大佐に駆け寄って、ストラスの方を気にしつつも、その秘宝の在り処を伝える。
大佐は顔を顰めた。
「あのくそやろうが、わざわざ選んであの魔神を召喚したわけだ」
「何かあれば、かれにはすぐ、自分の領域に逃げ帰るようには言ってあります。かれは悪魔ですから、ためらって自分を危険に晒したりはしません」
「だろうね」
頷き、ランフランク中佐はマルコシアスとストラスのやりとりを窺う。
「――謎が解けた。序列が並ぶあの二人にあって、どうしてマルコシアスの態度ばかりが大きいのか、不思議に思っていたところなんだ」
「ストラスは、マルコシアスのその秘密は知りません――かれには知らせないようにお願いします」
「何しろ、その在り処を教えるのが今回の報酬なので」
オリヴァーが横から言葉を足して、ランフランク中佐は驚いた様子で自分の口を押さえ、頷いた。
「それはそれは、大胆な報酬にしたものだ」
「エムが勝手に言ったんですが……」
シャーロットは呻くようにそう言ってから、マルコシアスに向かって呼びかけた。
「エム、ストラスを連れてこっちに来て。もう行くわよ」
マルコシアスが手を挙げて了承を示し、自分よりも上背のあるストラスの腕を掴んで、軽々と引きずって戻って来る。
シャーロットはそれを出迎え、比喩ではなく頭から湯気を立てるストラスをなんともいえない申し訳なさそうな目で見てから、マルコシアスの腕を掴んで引っ張り寄せた。
首を傾げ、爪先立ちになったマルコシアスの耳許に口を寄せて、囁く。
「お前は絶対に、機を見てさっさと領域に戻ってね。危ないことはしちゃ駄目よ、本当に」
マルコシアスは笑って頷いた。
首許のストールを直そうとした手が空ぶって、かれは自分の癖に苦笑する風情を見せながら、頸を捕らえる鉄色の枷に触れる。
「もちろん。ストラスを後に引けないところまで突っ込んだら、僕はさっさと退散するさ。
――ほんと、あんたの味方にもうちょっと格上の魔神がいたら良かったんだけどね、レディ」
夜は更けようとしていた。
シャーロットには時刻の把握もままならなくなっていたが、アディントン大佐いわく、今は十時に迫る時刻であるらしい。
アディントン大佐が引き連れた軍は、司法省の省舎を取り囲む形で散開した。
実際に司法省の省舎の中に踏み込んだのはごく少数で、アディントン大佐のほかはランフランク中佐を含む魔術師数名と、シャーロットとマルコシアス、そろそろ一周回って落ち着いてきたらしきオリヴァーとストラス、そしてリンキーズだった。
グレイは軍人に囲まれる形で外に残っており、不安と心配のあまりか、吸いもしない煙草を幾本もぐちゃぐちゃに折り曲げてしまっていた。
シャーロットにせっつかれたリンキーズが、司法省の中をカラスの翼で飛び、あるいは床をかちかちと歩いて、彼らを先導する。
とはいえ、ネイサンが人質を取って待ち構えているならば、道案内がわりに脅迫者が現れてもよさそうなものだったが、リンキーズの伝言のために、それはそれでおかしな具合だが、シャーロットたちは脅迫者とすれ違ったのかもしれなかった。
省舎の中は静まり返っていた。
司法省の役人はどこにいるのかとシャーロットは訝ったが、それをうんぬんして足を止めている場合でもなく、じりじりと音を立てて燃えるガス灯の明かりを頼りに、ぴょんぴょんと跳ねていくカラスを追った。
そのうちにカラスは、屋内でその姿でいることの不便と、おのれが被る苦痛と消耗を秤にかけるような顔をしたあとで、唐突に姿を変えた。
カラスの姿が一回転したかと思うと、そこにいるのはやたらに目玉の大きな犬だった。
きゃん、と一声呻いたあと、犬が軽快な足取りで階段を駆け昇って廊下を走っていく。
追う側も自然と走り始めた。
「――これで、とある曲がり角を折れたとたんにくそやろうの悪魔とこんにちは、という罠だったら笑えんな」
大佐がつぶやいた。
シャーロットはその隣を懸命に走りながら、
「悪魔ですから、それこそどんな裏切りも有り得ますけれど、それだけはないと思います」
息継ぎして、
「私とかれのあいだには、〈身代わりの契約〉がありますから」
「その契約を最初に思いついた人間には、ぜひとも酒でも奢りたいところだな」
大佐が冗談めかせて言って、そのとき一行は、吹き抜けの夜空が見える列柱郭に出る階段の上に辿り着いた。
長い階段を前に、先頭のランフランク中佐がつんのめって足を止め、後続に警告を示したあと、足早に階段を降り始めた。
シャーロットは階段を駆け下りながらも、眼下の中庭にアーノルドがいないかどうか目を凝らし、その血相の変わりように、とうとうオリヴァーがこっそりと囁いた。
「――さっきからお前が言ってる、『アーニー』って誰のことなんだ。
お前の生き別れの兄弟か、それとも恋人か」
「ええと」
シャーロットは口ごもった。
十四のときに誘拐された現場での初対面から、実際にアーノルドと顔を合わせた時間も回数も、長くもなく多くもない。
とはいえ浅からぬ関係ではあり、そしてその関係性はというと――
「どっちでもいいです、そんなようなものなんです」
白亜の階段を下りきり、大理石の床が敷かれた裏庭を踏む。
目玉の大きな犬は迷う様子もなく、その奥の柱廊の向こうへ――ほのかな明かりが見える先へ、猛然と突進していく。
ここへきて、警戒から足を緩めたランフランク中佐を、後先を考えなくなったシャーロットが追い抜いた。
軍人たちがぎょっとする中、マルコシアスがその後を追った。
リンキーズが駆け寄るアーチの下で、手持ち無沙汰そうに立っている魔神を見たのだ。
シャーロットが無策で突っ込んだ結果、魔神の手の一振りで片がついては笑えない。
普段はもっと冷静だろうに、と内心で毒づきながらも、マルコシアスはかれに手を振り、ほとんど親しげとさえ言える声をかけた。
「――やあ、ベリト!」
オリヴァーがぎょっとして息を吸い込んだ。
魔術師が軒並み息を呑む。
アディントン大佐に向かって、ランフランク中佐が「序列二十八番です」と囁く。
人間たちの挙動をしり目に、マルコシアスがじゃっかん声を張り上げる。
「僕のご主人様はそこを通っていいかい? 駄目なら僕があんたを吹き飛ばすけど」
アーチの下にいた、やたらと頭が大きい小男が振り返る。
小男はごてごてと飾り立てられた赤い服を纏っており、頭上には派手な黄金の王冠を戴いていた。
「マルコシアスじゃないか、これはこれは。格下の分際でなんという大口を」
小男は答え、ちょうど足の下を走っていったリンキーズを、ひょい、と片脚を上げることで通してやった。
そして、まさに怒髪天を衝くといった表情でマルコシアスを睨みつける。
その王冠の先端で雷光がひらめいた。
「そしらぬ顔でよくも現れたものだね。お前のおかげでかなり痛かった」
「おっとごめん、そっちは忘れてた」
マルコシアスがあっさり言って、足を止めろと促すためにシャーロットの肩を押さえようとする。
だが、それよりも早くベリトが道を譲った。
「だが、とはいえ、今の私への命令は、このアーチを通る者を中へ通し、外へ出ようとする者を追い返すことだ。――通れ、マルコシアス。それからそこの人間」
シャーロットは転がるようにアーチの中へ飛び込んだ。
悪態をつきながら、軍人たちがそれに続く。
マルコシアスはその場に立ち止まって軍人を見送り、あからさまに不服そうにするストラスをアーチの向こう側へ押し遣り、オリヴァーも通したうえで、ベリトと目を合わせた。
淡い黄金の瞳が、光源によらずにきらめいている。
「あんたたちをひとまとめに痛い目に遭わせたのが僕だとは、モラクス以外には知られていないと思ったけどな」
ベリトは歯をむき出す。
「モラクスが話して回ったよ。話をつけるか、マルコシアス。
お前と話をつけたい連中が列を作っているよ」
マルコシアスは両手を挙げた。
「あんたがお馬鹿だっただけだ、僕のせいにするなよ」
「私が?」
かっと目を見開いて凄むベリトに、マルコシアスは鮮やかな微笑を向けた。
「あの子は僕の贔屓の主人だと知ってただろ? まあ、僕はあんたにそれを言ったのを覚えてなかったが、とある雑魚魔精によると、僕は四年ばかり前のつい最近、あんたにそれを伝えていたらしい。
――だったら、僕なら、僕の気に入りの主人と僕を引き離した人間には仕えないぜ。
あの子も僕を気に入っているからね――遅かれ早かれ、僕を取り返してくれるに決まってるでしょ?」
ベリトはマルコシアスの言葉の意味を取れず、あっけにとられた様子だったが、すぐに苦笑して首を振った。
「焼きが回ったか、マルコシアス。
――ともあれ、お前の気に入りの主人もここまでだよ。中にだれがいるか知らないか?」
マルコシアスは肩を竦めた。
「どうだろう――僕のレディは諦めが悪いから」
そしてすばやくベリトのそばを通り抜けて、法廷に足を踏み入れた。
▷○◁
法廷の中の様子は、先刻にアーノルドが足を踏み入れたときから一変していた。
法壇の側に変化はないが、傍聴席にあたる長椅子は、軒並みひっくり返り、あるいは一部が砕かれている。
脚が折れて傾いた長椅子もあれば、壁に叩きつけられて壁に傷を刻んだ長椅子もある。
アーノルドはそのほぼ真ん中で、膝を突いてしゃがみ込んでいた。
吹っ飛ぶ長椅子が衝突した左腕に激痛があり、打撲と同時に、運悪く椅子の装飾の一部が喰い込んだためにシャツの袖が破れ、出血があったが、これはぼんやりしていたアーノルドが悪いのであって、椅子を吹き飛ばした側に、彼に怪我をさせようという意図があったわけではないようだった。
動きにくそうな黒い服を着た五人の男性たちは、そのうち二人は法壇からそれほど離れていないところで手を握り合って身を縮めてうつむいており、一人は悲鳴を上げて後方へ逃げて壁に張りついており、あとの二人はよろよろと逃げ回りながら、言葉にならない何事かをしきりに言い立てている。
その様子を見ていると、アーノルドとしても錆びついた良心が激しく痛むところであり、取るべき行動は間違いなく、アーチを塞ぐベリトを突破してこの五人を外に逃がしてやることだ、と分かっていたが、どうにもその力が出なかった。
アットイはすっかり怯えて、アーノルドの周囲をぐるぐると走り回っている。
しっぽが二本とも丸まっていた。
普段なら、落ち着けよ、と促しているところだ。
どう見ても、まだ誰かが殺される雰囲気ではない――
法壇に立つネイサンが白いオウムを振り返り、何かを話しかけている。
声が低くて聞き取れないが、オウムが首を傾げたり頭を上下させたりしているところを見るに、会話は成立しているのだろう。
オウムは見るからに焦れていた。
人間も、焦れているときに貧乏ゆすりを見せたり、あるいはこつこつとテーブルを爪で弾いたりする――まったく同じだった。
オウムの軽い貧乏ゆすり、あるいはこつこつとテーブルを弾く仕草こそが、傍聴席の長椅子が吹き飛び、あるいは砕かれていく光景なのだった。
ネイサンは、アーノルドがシャーロットに対する人質として作用するかどうかを見定めたいと言っていた。
ならば、今ごろはおそらく、グレートヒルのどこかにいるシャーロットに向かって、「ここに来なければアーノルドの命はないぞ」という脅迫が走っているのだろうが、
(まあ、大丈夫だろ……)
アーノルドはいっそ暢気に考えた。
左腕の激痛は、神経が燃えているのではないかと思うようなものだったが、気にはならなかった。
右手で傷をぎゅっと押さえてはいたが、これは一種の反射であって、本心では血が止まろうが止まらなかろうがどうでも良かった。
十四歳の冬、カラスに襟首を掴まれて空中に持ち上げられていたときの記憶がよみがえる。
窓越しに盗み聞きした、シャーロットと首相の会話――
(この人の目的は、〈神の丘〉の神を叩き起こすことで、シャーロットの血がそこに必要っていうことだろうけど、――シャーロットに逃げられて万策尽きたかな。下策にも程があるだろ)
そんなことをぼんやり考える。
(どこの馬鹿が、自分が痛い思いをするうえに、国中がそうとうやばいことになるって分かってて、ふらふら誘き出されてくるんだよ。
しかも、百歩譲ってあの子の家族を人質に取るならともかく、おれだぞ。数回しか会ったことのないおれだぞ。浮浪児のおれだぞ)
下手をすれば、ものものしくシャーロットのもとへ向かった脅迫者に対して、シャーロットが「それが何か……?」と生真面目に返してしまって、脅迫者が気まずい思いをするのではないか――と、全くそんな場合ではないにも関わらず考えてしまい、アーノルドは場違いに微笑んだ。
アーノルドにとってシャーロットは、打算のない無垢な親切をくれた人であり、まだなんとかまともな生活に戻ろうと邁進していた数日の象徴であり、周囲を顧みずにおのれの目的に向かって突っ走る、すがすがしいまでの無鉄砲さを持っている人だった。
そして何より、彼を助けるためならばどんなことでもすると、お世辞ではあろうがはっきりと言ってくれた人だった。
それゆえに、シャーロットにまつわる記憶は鮮烈だった。
彼にとって彼女は、真っ暗な道の上で遠くにぽつんと見える、ただ一つの明かりだった。
誰とも親しい付き合いがなく、生きていることすらほとんどの人間に知られていない――そんな彼にとって自分の価値の証明は、シャーロットからの親切と言葉だった。
彼女が今、どういう状況に置かれているのかは、正確には分からない――だが、あの性格からして、まず第一に置くのは自分自身の無事、そして〈神の丘〉の神を復活させないこと、それをこそ重視しているだろうと分かる。
ならば、絶対に、シャーロット・ベイリーはここへは現れない。
それが意味することは明らかだ。――人質としての価値がないアーノルドは、今度こそお役御免になるはずだ。
つまり、ネイサンによってこの場で殺される。
ようやく死ぬことが出来る。
十四歳のとき、議事堂から逃げ損ねて捕まってからというもの、待ちかねてきた救済の瞬間だ。
シャーロットは彼に文字を教え、親切な言葉で彼の価値の証明となった。
そして最後には、ここに現れないことで彼を決定的に救ってくれることになるはずだ。
それを確信し、このあとに何が起こるにせよ、彼女が幸運に恵まれることを心から祈った。
ネイサンに仕える悪魔たちとは上手くやってきたつもりだ――かれらがアーノルドの頼みを覚えていることも、ついでに祈った。
そうして、アーノルドは気が早くも、内心における遺言を決めて、最後の瞬間を待ち構えていた。
――だというのに。
法廷の外、アーチの向こうで声が上がった。
「やあ!」と、場違いに明るい少年の声が聞こえた気がするがさだかではない。
黒い服の五人の男性たちが、はっとしたようにアーチに注目する。
切実な救助への期待が、それらの瞳に強く滲んだ。
アーノルドも、自分のことはわきに置くにせよ、彼らへの助けが来たならば嬉しかった。
アーチの下で手持ち無沙汰そうにしていたベリトがくるりと外を振り返る。
外からの明かりを拾って、その王冠がきらりと光る。
「マルコシアスじゃないか、これはこれは。格下の分際でなんという大口を」
ベリトの声が聞こえた――直後、アーノルドは、外の様子に耳を澄ましているどころではなくなった。
「――アーニー!」
聞き覚えのある声がして、見覚えのあるやたらと目玉の大きな犬が、ひっくり返った長椅子を跳び越え、あるいは下をくぐり、転がるように走って来たのだ。
七年ぶりに聞く声であり、七年ぶりに見る姿だが、さすがに印象が深くて忘れてはいない。
アーノルドはぽかんと口を開けた。
まさかここで見るとは思ってもいなかった悪魔だった。
「……リンキーズ?」
茫然と返し、「どうしてここに」と尋ねればいいのか、「なにしてるんだ」と尋ねればいいのか、「よくおれの名前を覚えてたな」と言えばいいのか、決めあぐねて口をぱくぱくさせる。
そして次の瞬間、それらの思考の全てが吹き飛ぶほどの衝撃に、冗談抜きに頭の中が揺れた気がした。
「――アーニー!!」
聞こえるはずのない声、彼の名前を呼ぶはずのない声だった。
衝撃に息が詰まり、頭の中が揺れ、眩暈がする。
時間が止まったようにすら思え、アーチに振り向ける視線が震える。
その瞬間、どういう原理か腕の傷の痛みが何倍にも膨れ上がったように感じた。
(……は?)
――そんなはずはない。
――ここに来るはずはない。
法壇に立つネイサンが、ぱっと嬉しそうに微笑むのが視界の端に見えた。
「思ったよりも早かったね」
アーノルドは無意識のうちに、右手で床を探っている――そうしなければ、その場に倒れそうだったのだ。
この場に現れないことで彼を救ってくれるはずだったシャーロット・ベイリーが、息を切らせていくつもの長椅子を乗り越え、こちらに走って来ようとしていた。