12 露見
マルコシアスにとってはほとほと業腹なことではあったが、命令とあらば仕方がない。
『神の瞳』はなおもシャーロットの手の中にあるのだ。
召喚時の契約により、マルコシアスは欺罔や暴力、その他の不正な手段によって、報酬として提示された『神の瞳』を手に入れることは出来ない。
報酬を失いたくなくば、マルコシアスには命令違反は許されないのだ。
レディ・ロッテは巧妙だった――わざわざ、彼女が家に帰ることの条件の一つとして、この嵐を収めることを命令してきた。
そもそも土台の命令が、「主人を家へ帰すこと」なのだから、その命令に絡められてしまえば、いよいよマルコシアスに背反は許されない。
「――まず、何はともあれ、この悪魔とのご対面が必要だ」
マルコシアスは歯軋りしながらも、〈マルコシアス〉の〝真髄〟が生真面目で誠実であるがゆえに、そう言っていた。
「実際に会ってみないことには、この悪魔が僕より格上か格下か、それも分からないからね」
シャーロットは頷いたが、思わず本音が漏れることは防ぎようがなかった。
「格上かどうかも分からず逃げ出そうとするなんて、お前、ちょっと臆病なんじゃない?」
マルコシアスは黙っていた。
召喚された気の毒な悪魔が格上か格下か、それは問題ではないのだ――ということを、いちいち説明するには、かれら悪魔の全員が口を噤んでいる、とうの昔に忘れ去られた〈契約〉について話さねばならなくなるからだ。
シャーロットをこの場に置いていくことは考えなかった。
〈身代わりの契約〉がある以上、知らないところで怪我をされることこそ不都合だ。
それならばいっそ、目の届く範囲に置いた方がいい。
マルコシアスは憤然とシャーロットの手首を掴み、山腹を切り拓く道を戻った。
精霊たちが口々に、悪魔が召喚されたのは海辺であると告げている。
そしてその言葉がなくとも、マルコシアスにとってもその気配は鮮明だった。
大股に進むマルコシアスに引っ張られ、後ろでシャーロットが転びそうになっているが気にしない。
転んだところで、足許は柔らかい土だ。大した怪我はするまい。
風はいよいよ強くなっている。
枯れた木々の枝が揺れ、ざわざわと騒音を奏でる。
シャーロットは片手で顔を庇うようにしていた。
金髪が翻り、日用ドレスの裾がぱたぱたとひっきりなしにはためいている。
マルコシアスの首許の枷を隠すストールも、風の勢いに半ばがほどけて旗のように翻っていた。
雲は重く垂れ込め、時おりそこに雷鳴が絡むようになっている。
山道を下りきってみれば、遮蔽物のなくなった場所にあって、暴風はいっそう顕著だった。
シャーロットがよろめいた。
数少ない家の軒先に、あるいはその窓から、この町の数少ない住人が顔を出して、急変した天候に戸惑った顔を見せていた。
そのうちの幾人かが、シャーロットとマルコシアスに向かって、「家に入るか?」と叫んだ。
どうやら――見たことのない顔なのだから、かれらがよそ者であることは一目瞭然だったのだろう――シャーロットとマルコシアスを、人間の子供二人だと勘違いしたようだった。
路頭に迷った二人の子供を、嵐が過ぎ去るまでのあいだ、親切にも家の中に入れようとしてくれているわけだ。
シャーロットは暴風の中で息も絶え絶えだったが、マルコシアスが代わって、そういった声に端的に首を振っておいた。
――どのみち、召喚された哀れな悪魔をどうにかしないことには、この嵐は酷くなる一方だ。
海は荒れ、シャーロットにとっては耳慣れない海鳴りが轟いている。
岩礁にぶつかって砕ける波が白く弾け、その飛沫は高々と上がるまでになっていた。
むせ返るような生臭い匂い――あれこそが海の匂いだったのだ、と唐突にシャーロットは悟った。だが、いつの間にか鼻が慣れてしまって、もうあれほど鮮明には感じられない。
暴風に引き千切られんばかりの松林の中へ。
ごうごうと吹く風に、松の木々が撓るように揺れている。
もうすっかりシャーロットの息は上がり、金髪はほつれて絡まっている。
ようやっとまともに息がつける場所に辿り着いて、わずかながらもほっとしたようだった。
容赦なくマルコシアスに手を引かれながら、松の幹を辿るように手を突いて、今にも転びそうな足取りを介助する。
その様子をちらりと振り返って、マルコシアスは儚い望みを口にした。
「――ねえロッテ、考えを変えて、今からでも逃げるつもりはない?」
「残念ながら、私、頑固なの」
マルコシアスは唸り声を上げた。
「とんでもないご主人さまだ」
「ええ、お前のご主人さまよ」
シャーロットが盛大に転びそうになった他は無事に、かれらは松林を抜けた。
その向こうに、ごろごろと大きな石の転がる硬い砂の浜辺が広がっており――そして更にその向こうに広がる砂浜は、今や荒れ狂う白い波に呑み込まれつつあった。
マルコシアスは、その硬い砂の浜辺を抉って描かれた召喚陣を見た。
そして、その上に堆積して立ち昇る、灰色の煙の形を取る悪魔を見た。
距離にして百ヤード以上は離れている。
悪魔は叫び続けている。
困惑と怒りに絶叫している。
抑えようもない悪態がかれの口を衝いて吐き出された。
「――最悪だ」
そのとき、マルコシアスに握られた手を動かすことで、シャーロットがかれの気を引いた。
「なに!」
苛立ちを隠そうともしないマルコシアスの語調に、しかし今ばかりは気づく様子もなく、シャーロットは空いた手を持ち上げて、浜辺の一点を示した。
金髪が激しくはためいている。
「人がいる……」
マルコシアスはその指先を辿って視線を動かした。
確かに、浜辺をよろよろと後退り、悪魔から離れていこうとしている人影がある。
その周りを、さかんに彼を急き立てるようにして、犬が走り回っていた。
犬に見えてもあれは魔精だ。
それは分かったものの気には留めず、かれは狼の唸り声を上げた。
「助けろって言うなら断るよ」
「違うわ、馬鹿な悪魔ね、――無関係の人がここにいるわけないでしょう」
シャーロットの呼吸が速くなっていた。
彼女が手を下ろし、その手で無意識のうちにマルコシアスの腕をぎゅっと握った。
「あれが魔術師だわ――あの悪魔を召喚した魔術師だわ」
マルコシアスも事態を呑み込んだ。
シャーロットの橄欖石の色の目が、魔術師が本来立っているべきはずの、悪魔が佇む円と対になる円の辺りを見ていた。
さすがの彼女も棒を呑んだような顔をしていた。
「悪魔に枷がないわ――契約を結んでないのよ。
あの人――あの人、召喚した悪魔の様子がおかしいからって、放り出して逃げちゃったんだわ!」
▷○◁
召喚陣を用いて悪魔を召喚したときは、必ず報酬の提示を行い、悪魔がそれに頷くか否かで契約の成否が決まる。
召喚陣を用いない、呪文のみによる召喚は、理論上は可能であっても、史上一度も確認されたことはない――理由は二つある。
一に、呪文のみによる召喚に応じるのは、既にこの交叉点に現れている悪魔のみ――つまり、既に他の魔術師と契約を結んでいる悪魔のみ――であり、悪魔が二重に契約を結ぶことが出来ない以上、二つめの契約に応じようとすれば、〈身代わりの契約〉が致命的な働きを見せるということ。
二に、召喚陣の縛りがなくば、悪魔から魔術師を守る一切の契約が働かないゆえに、悪魔からすれば契約を結ぶよりも、さっさと報酬を奪って逃げた方が得策であるということ。
わざわざ召喚陣を描いておいて、契約前に召喚陣から逃げ出す魔術師など、普通はいない。
だがそれを言うならば、この状況が普通ではない。
――シャーロットは状況を見て、召喚された悪魔に並外れた悪意があるのだと判断した。
契約を結ばず魔術師が逃げ出したのならば、悪魔は肩を竦めてこの交叉点を去るだけのこと――そのはずだ。
それをせず、なおも召喚陣の上に留まり、この猛威を揮っているのだから、これは悪意のなせるわざだと。
――一方のマルコシアスは、御しやすいと魔術師のあいだで評判の性質であってさえ、今まさに浜辺を逃げていく魔術師を八つ裂きにしたい衝動に駆られていた。
かれとて血も涙もないというわけではないのだ――哀れな同胞(浜辺で荒れ狂っている悪魔が知り合いだったかといえばそうではないのだが、この異邦においては、悪魔は等しく同胞といってよかろう)の困惑と絶望を思うと胸が痛む。
シャーロットは暴風の中で、溺れた人間が藁を掴むようにしてマルコシアスの腕を掴んでいた。
「エム、あの悪魔を――」
「後だ」
マルコシアスは言下に遮った。
シャーロットが息を吸い込んだ。
「契約が結ばれていないのに大暴れしているのよ、あの悪魔をなんとかして――頭を叩くなり因果を含めるなり何なりして、お前たちの領分に戻らせなさい」
「後だ」
マルコシアスは繰り返した。
「先にあの魔術師を捕まえなきゃならない」
言い終えるより早く、マルコシアスは浜辺に足を踏み出していた。
かれの精霊たちは怯え切っている。
「エム!」
シャーロットが、暴風に嬲られる髪を押さえながら、よろよろとマルコシアスに続いた。
風が強い余りに、海から飛沫が跳ね飛んでくる。
「どうして――」
「理由はいくつかある」
マルコシアスは唸るように言って、どこかへ吹き飛ばされたりしてはさすがに困ると、手を伸ばしてシャーロットの肘の辺りを掴み直した。
「まず第一に、ロッテ、あの悪魔にひっぱたける頭があるなら、ぜひその位置を僕に教えてくれ」
シャーロットは強風に目を細めながら、立ち昇る煙の形の悪魔を見つめた。
煙の奥から苦悶の声が轟くほかには、それが何らかの生き物であることを示すものは一切ない。
「……確かに、それはそうね」
「第二に、因果を含めろとのご命令ですがね、あの悪魔は今、とてもじゃないが話を聞ける状況じゃない」
「どうしてよ」
シャーロットは荒らいだ息の下で叫んだ。
「召喚陣の上にいるじゃない。契約がまだでも、私たちの言葉は通じるはずよ」
マルコシアスは眉を顰めた。
「……それが問題なんだよ」
訳も分からず、未知の言語を唐突に強制的に理解させられる――そんな経験の中にあって、だれが冷静でいられるものか。
▷○◁
アーノルドは息をひそめていた。
松林の中で木陰にしゃがみ込み、頭上で撓る無数の枝のざわめきを聞きながら、息を呑んで荒れた海を見つめる。
荒天の海がどれほど恐ろしいものか、彼は身をもってよく知っていた。
ゆえに彼は、この近くにいるはずのスミスが、この嵐に巻き込まれていなくなりますように、ということを、一心不乱に祈っていた。
シャーロット・ベイリーを見逃してしまった以上、スミスが無事だと非常に困る。
同時にスミスがいなくなれば、グレイも平穏無事に暮らしていけるのではないか、という根拠なき希望を持っていた。
浜辺で右往左往するグレイを見て、早くこっちまで来なよ、と、アーノルドとしては気が気ではない。
だがしかし、その場にシャーロット・ベイリーがお目見えしたとあって、彼は卒倒するほど驚いた。
「うっそだろ……」
腰を浮かせる。
「なんの冗談だよ、シャーロット……!」
シャーロット・ベイリーは見知らぬ少年に縋りつくようにして歩いていた。
あの少年が悪魔に違いない。
少年は、離れていても分かる憤怒の表情で、まっすぐにグレイを目指して浜辺を進んでいる。
「まずいって、まずいって……」
アーノルドはうわ言のようにつぶやき、しかし手出ししようにも、出すことの出来る手など何もなく、その場で茫然と固まった。
頭上で雷光が閃き、とうとう怒濤のような雨が降り始めた。
▷○◁
怒濤のように雨が降り注ぐ中、眼前まで迫った魔神の姿を見て、リンキーズは己の運命を受け容れた。
――グレイを殺しそうな顔をしている。
そしてグレイが受けた傷は、〈身代わりの契約〉によって、洩れなくリンキーズが肩代わりすることとなる。
リンキーズも悪魔だ、死ぬという概念はないが、それでもしばらくは再起不能な損傷を受けることに間違いはない。
ここはしもべとして、主である魔術師を庇うために一度は魔神に噛みつくべき場面であったが、リンキーズはその役目を放棄した。
グレイは、少なくともかれの目から見れば、余りにも残酷極まることをした。
どのみちただでは済まないのなら、せめてリンキーズも意地を見せたい。
目の前に迫った魔神は、当然ながら後ろに少女を――シャーロット・ベイリーを庇っている。
降り出した怒濤のような雨に、シャーロット・ベイリーは溺れそうになっていた。
金髪はさっそく濡れそぼり、滴がしたたり、茶色い日用ドレスはたっぷり水を含んで黒に近い色に変色している。
グレイ同様、彼女にも事の次第は呑み込めていないようだった――無理もない、知らないことなのだから。
主人であるシャーロットとは違って、魔神は一滴たりとも濡れてはいなかった。
かれの周囲で精霊が働き、かれを叩きつける雨粒から守っている。
それが、燐光が魔神の輪郭を光らせているように見えていた。
黒いシャツに羊毛のズボンを身に纏った少年に見える魔神が、ちらりとリンキーズを一瞥した。
ちょうど光った稲妻が、その淡い金色の瞳に反射して、瞳が束の間燃えるように輝いて見えた。
リンキーズは竦み上がった――相手は魔神だ、魔精であるリンキーズでは相手にもならない。
そしてこの魔神は、つい先日に旧王宮を脱出したかれを追い詰めた魔神たちよりも、まだなお格上だ。
リンキーズは激しく首を振った。
この事態は知らなかったという、精一杯の無実を訴える仕草である。
魔神は人間をそっくり真似た動きで瞬きし、そしてリンキーズから視線を外した。
かれが右手を伸ばして、蹌踉とした足取りで後退るグレイを指差した。
少年の姿をした魔神よりも、グレイの方が上背はある――だがその仕草の尊大さたるや。
魔術師が、もんどりうってその場に倒れ込んだ。
尻餅をつき、もがくようにして起き上がろうとするが、如何なる力が働いたものか起き上がることが出来ていない。
そんな魔術師をまじまじと観察して、魔神は指を鳴らした。
――悲鳴を上げたのはリンキーズだった。
首を絞められる痛みと苦しさに、犬の姿のままリンキーズはその場で倒れ込んだ。
グレイが目を見開いてリンキーズを見下ろす。
魔神が、悪魔に独特の表情で微笑んだ。
「――あんた、分かってないみたいだから言っておくと、僕は魔神で、そこの雑魚より格上だ。あんたを助けるのは、そこの雑魚には荷が重い」
まったくその通り、ということを示すために、リンキーズは再度、力なく悲鳴を上げた。
魔神はいっそう深く微笑んだ。
「僕としても同じ悪魔を痛めつけるのは心苦しいが、仕方ないね。僕があんたを痛めつけ続ければ、そのうちそこの魔精は使い物にならなくなって消え失せる。あんたが今、何人の悪魔を召喚してるのかは知らないが、繰り返せばだれも居なくなるよ。そうすれば次はあんた自身が苦しむことになるわけだ。
ここまでを、まず理解してくれ」
愛想がいいまでの口調でそう言って、魔神はまじまじとグレイを見下ろして首を傾げた。
本当に、人間の子供のようなあどけなさで。
「で、理解した上で答えてくれ。
――あんたは一体、どこであの可哀想な悪魔の名前を知ったんだ」
シャーロットは息を止めて目を見開いていた。
降り注ぐ豪雨が視界を霞ませる。
周囲の数十フィートより遠くは、白雨に煙って光景が見えたものではなかった。
あっという間に全身がずぶ濡れになり、骨の髄まで響くような寒さに歯の根が合わない。
マルコシアスが、淡々と目の前の魔術師を問い詰めていく。
――どこであの悪魔の名前を知ったの、なんのために召喚したの、責任を持ってあいつを送り返せるの?
魔術師は泡を喰っている。
どの質問にも、口が回らないのかまともに応答できていない。
その度に、マルコシアスが魔術師に指を向けている――犬の姿をした魔精が悲鳴を上げる。
――まさに悪魔。
低く垂れ込めた雲に、辺りは時間が分からぬほどの薄闇に包まれている。
雷光がひっきりなしに光り、頭上は罅割れを生じた陶器のようでさえあった。
海に稲妻が突き立つ様すら見える。
風はますます強くなり、波濤が砕ける音は間断がない。
町では既に倒れた建物もあるのでは――と思うとシャーロットは気が気でない。
叩きつける雨はもはや痛いほどで、吹く風の強さにまっすぐ立っていることも難しい。
額を頬を雨粒が伝い落ちていく。ドレスが身体にぴったりと張りついて気持ちが悪い。
召喚陣の上で、それこそ雷鳴のような叫び声を上げ続ける悪魔――やはり、進んで悪魔の世界に戻ろうとする様子はない。
「――そういえば」
マルコシアスが、繰り返した質問からようやく語調を変えた。
この豪雨の中にあって、かれは少しも水を被っていない。
「あんたに見覚えがあるんだけど、もしかして、僕の主人を誘拐したのはあんたかな?」
シャーロットは目を見開いた。
その拍子に雨粒が目に入った。
――あのときは気が動転していたから、犯人の姿を覚えるどころではなかったが、仮にこの魔術師が、シャーロットを誘拐した張本人だとすれば。
「――まさか、私を捕まえるためにこんな大騒ぎを起こしてるの?」
シャーロットは素っ頓狂な声を上げた。
そうせずにはいられなかった。
「でも、なんでそんな――」
「あんたたちがどうしてこのおちびさんの身柄を欲しがったのかも、僕にはどうでもいいんだよ。
――あんた、あの悪魔を送り返せるの?」
魔術師が痙攣するように首を振った。
倒れ込んだまま、濡れた地面を掴むようにして後退ろうとしているが、上手くいっていない。
その手が震えている。
雨に濡れた砂を掴んだ指が、一風変わった手袋を着けているかのように砂まみれになっている。
彼は吐き出すように悲鳴を上げた。
「違う――違う、誘拐など知らない!
どうして――どうしてあの悪魔がああなっているのかも――」
マルコシアスが舌打ちした。
そのとき、海辺で絶叫していた悪魔が、ぴたりとその叫びを止めた。
――叩きつける豪雨と、荒れた波濤と、吹き荒ぶ暴風の音だけが響き渡る数秒間――
その直後、辺り一帯で雷が炸裂した。
▷○◁
――少なくともマルコシアスはそう感じた。
周り中で同時に空気が弾け飛び、真横から凄まじいエネルギーで吹き飛ばされたのだ。
気がつくと硬い砂の上に叩きつけられて横臥する格好になっており、地面に激突した身体の左側がずきずきと痛んでいた。
これだから身体があるというのは不便だ、と思いながらも、それはマルコシアスの本心ではなかった。
身体がない状態での争いごとの方がよほど怖いと、悪魔なら大抵はそう言うだろう。
断続的に爆発の音が響いている。
爆発しているのは周囲の空気そのものであるようだった。
邪魔物を排除するときに魔神がよく使う魔法の一つだが、これは規模が桁違いだ。
あの悪魔は、まだ召喚陣の中にいる分際で、これだけ強力な魔法を使ってのけるらしい――どう考えてもマルコシアスより格上の魔神だ。
かてて加えて、あの悪魔に従ってこちらに引きずり込まれた精霊たちも、あくせくと悪魔の不満と混乱を周囲に伝えることに精を出している様子だ。
荒れ続けている天候がその証拠だ。
精霊は、風であり光であり音であり――そういったもの全て。
この交叉点においてさえ、精霊はあらゆるものに干渉してのける。
ごうごうと吹く風に雨が煽られている。
マルコシアスに従う精霊たちが忠実にかれを守っているが、それもそろそろ限界だろう。
精霊たちは怯え切っている。
薄暗い上に雨音と風音が激しく、周囲の様子がなかなか分からない。
頭上でひっきりなしに雷光が閃く。
ぱっ、ぱっ、と、断続的に照らされる海辺の景色――
「――ロッテ?」
マルコシアスはつぶやいた。
ざっと身体を改める。
かれ自身が地面に激突したこと以外での傷はない。
シャーロット・ベイリーの運の強さに乾杯、と内心でつぶやいてから、しかしまだ油断は出来ないと、よろめきながら立ち上がり、マルコシアスは周囲を見渡した。
「ロッテ?」
断続的な爆裂音に、マルコシアスの声が掻き消される。
マルコシアスが吹き飛ばされたように、傍にいた連中は軒並み吹き飛ばされたようだった。
魔術師はすっかり伸びてしまったようで、犬の姿の魔精が甲斐甲斐しくもその襟首を噛み、海から離れる方向へ引きずって行こうとしている。
マルコシアスが目を向けると、魔精はぼとっと魔術師の襟首を離し、「連れて行ってもいいでしょうか」とお伺いを立てるかのように首を傾げた。
マルコシアスは顔を顰めた。
魔精は悲しそうな顔をして、その場でぐるぐると回り始めた。
視界の隅で何かが動いた。
叩きつける雨が視界にも邪魔だった。
われ知らず片手を掲げて目庇を作りながら、マルコシアスはそちらを振り返った。
そして、少し離れたところに倒れ伏した、かれの今の主人を発見した。
濡れそぼった金髪がばらりと地面に散らばって、砂まみれになっている。
日用ドレスも同様で、砂が張りついて白っぽい色になっていた。
弱々しく呻いて、シャーロットはぎこちなく身じろぎし、起き上がろうとしている。
この少女の悪運に感嘆しながら、マルコシアスは急ぎ足でそちらに歩み寄った。
〈身代わりの契約〉があるのだから、自傷趣味でもない限り、マルコシアスはシャーロットを守らなければならない。
マルコシアスはシャーロットのそばに膝を突き、彼女を助け起こそうとした。
シャーロットがかれに気づき、ほとんど跳ね起きるかのような勢いで身を起こした。大きく目を見開いている。
「ロッテ?」
断続的な爆裂音。
マルコシアスは眉を寄せた。
だが、深く拘泥している場合でもない。
「ロッテ、立って」
魔術師にあの可哀想な悪魔を送り返させることが、最も確実な手段だった。
それが出来ない以上は、命令を果たすためには、マルコシアスがあの悪魔を叩きのめして正気に戻し、その上で力づくでも元来た道を辿らせねばならない。
容易ではあるまい――今、あの悪魔は人間の言葉を理解できるようになっているはずだが、そのことでいっそう混乱しているはずだ。
その言語で話しかけたとして、困惑が先に立ってしまい、こちらの意図を伝えるのには手間取るだろう。
そして手間取っているあいだに、この辺りは壊滅的な被害を受けることになるだろう。
本来ならば、マルコシアスは悪魔の言葉を話す。
だが、それも今に限っては無理難題となっていた――召喚陣をくぐったことにより、マルコシアスの話す言葉は全て強制的に、人間の言葉に置き換えられてしまっているのだ。
悪魔の言葉を聞き取って理解することは出来ても、同じ言葉を話す能力を、この交叉点にいるあいだは失っていると思っていい。
つまるところ、どうにかしてさっさとあの悪魔に現状を理解させ、なんとかして悪魔の道へ送還しなければならないわけだが――
「――ロッテ?」
シャーロットが動かない。
凍りついたように固まっている。
マルコシアスは瞬間、自分の後ろに例の悪魔が迫っているのかと思ったが、そんなはずはない。
あの悪魔はまだ、召喚陣から出られないはずだ。
「ロッテ、どうした――」
そこまで尋ねて、もう一度まじまじとシャーロットを観察し――マルコシアスも気づいた。
――倒れた拍子にだろう、シャーロットの靴が脱げている。
剥き出しになった白い靴下に、この薄暗がりでも分かる、赤い血の染みが広がりつつある。
石ころにでもぶつけて足裏を切ったらしい。
――怪我をしている。
自分という悪魔を召喚している魔術師が。
マルコシアスは瞬きした。
前例のない事態に、かれの思考も数秒止まった。
「――ははあ……」
やがて、かれはゆっくりと言った。
じわじわと事態に理解が追いつき始めた。
抑えようもなく、じんわりと、自分の顔に微笑が昇ることを自覚した。
「――はああ……。これはこれは、レディ・ロッテ。
あんたは本当に間抜けなレディだね」
そう言って、マルコシアスはシャーロットの顔を覗き込んだ。
雷鳴が轟き、閃いた雷光がシャーロットの橄欖石の色の瞳を照らし出す。
シャーロットは透き通るほどに蒼白になっていた。
「あんた、〈身代わりの契約〉を結び忘れたんだね」