13 悪夢の所以を知らないならば
「ミズ・ベイリー! 落っこちて死んじゃったかと思ったよ! 生きててほんとに良かった!!」
ザカライアス・リーに勢いよく飛びつかれ、シャーロットは思わず感涙を覚えたが、続いた言葉にがっくりとうなだれることになった。
「何しろ、あんな召喚が成功したの、絶対に初めてだよ! 当事者の話は記録に残さなきゃ……」
「あ――後でいいですか?」
苦笑いして返すと同時に、号泣するマーガレット・フォレスターが胸に縋りついてきた。
思わず、ぽんぽん、と肩を叩く。
彼女はまだ十八歳なのだ。
さぞかし怖かったことだろう。
そして残念ながら、まだ彼女が安心できるときではない。
とはいえ、目の前で号泣する少女に対しても、リーが遠慮する様子は微塵もなかった。
アディントン大佐とランフランク中佐が、もはや殺意さえ宿っているような目でリーを睨みつけているのだが、それすら感知した様子はない。
リクニス学院卒の研究者としての顔が、今や前面に出ていた。
「きみの魔神――おおぅ、きみの魔神なんだよね――きみの魔神にも、話を聞きたいな!」
シャーロットはたじたじと後退る。
「本人の気が向いたら……」
「気が向くことは未来永劫ないよ、ロッテ」
マルコシアスがきっぱりと言って、後ろからシャーロットの肩を掴み、マーガレットからシャーロットを引き剥がすようにした。
すかさず、ランフランク中佐がシャーロットの腕を掴んで引き寄せる。
マルコシアスはむっとした様子で、再度シャーロットをかれに引き寄せ直した。
ランフランク中佐は軽く手を挙げて、「悪気はない」と示した上で、苛立ちと殺意をみなぎらせる上官をちらりと見て、シャーロットに囁いた。
「ご友人との再会は喜ばしいが、今はこちらへ。きみを一人では置いていけない――麾下を迎えに行く」
シャーロットはこくりと頷き、今度はストラスを見て、「わぁ、文献で読んだことある格好だ、ストラスだね?」と、子供のようにはしゃぐリーを、かれが今にも殺しそうな顔をしていることを認めた。
――こんなところでオリヴァーを犯罪者にするわけにはいかない。
「エム」
「承知。――ストラス、行くよ」
マルコシアスからの呼び掛けで、ストラスは嫌々ながらといった様子で踵を返した。
ランフランク中佐が、銃の具合を見ながら、リーとマーガレットに向かって口早に言う。
「忠告になるが、グレートヒルから出るよう努力した方がいい。
あのネイサンのくそやろう――おっと大佐の口ぶりがうつった――に、いたく胸打たれたというなら別だが」
――ランフランク中佐も、もちろんシャーロットもまだ知らないことだったが、今この瞬間にも、まだクーデターの発生を知らぬうちに、遅い家路に就こうとした垂教省や逓信省の役人たちが、見えない壁にその家路を阻まれ、困惑しているところだった。
グレートヒルから脱出することは、シャーロットだけではなく、今や誰にとっても不可能なことになっていたのだ。
「やらなきゃならんことが山ほどある」
と、広間を飛び出し、困惑しきりの衛兵をかき分けて足早に進みながら、アディントン大佐が毒づいた。
ランフランク中佐は危なげなくそれを追いかけ、マルコシアスを連れたシャーロットは懸命になってその後に続いている。
ストラスは、そろそろ堪忍袋の限界が近づいている顔で、そのあとを悠々と進んでいた。
「麾下を迎えに行く――あのくそやろうが今どこにいるのかを割り出す――くそやろうを上回る戦力を、なんとかして揃える――最悪の場合を考えて、議事堂から全員を避難させる」
シャーロットはその中に、「アーニーを助ける」と付け加えながら、首を傾げた。
「議事堂から――避難?」
シャーロットが訝しげに尋ね返すと、大佐はちらりと彼女を振り返った。
衛兵たちのあいだを抜け、無人の廊下を靴音を響かせながら進んでいく。
「ああ、きみはそこまでは知らないのか――例の魔神は、位置としては議事堂の真下に封印されているんだ。議事堂は重石として建てられたんだよ。
つまり、ネイサンのやろうが目論見を実現させたときには、議事堂は文字通り木端微塵にひっくり返ることになる」
そこで、大佐は言葉に詰まった。
ランフランク中佐がそれをちらりと窺い、低い声でつぶやく。
「議事堂には、まだ――グレースさまがいらっしゃるはずだ」
「――――」
シャーロットも息を呑んだ。
――チャールズ・グレースの遺体が安置されているということだ。
「せめてお助けしないと――」
シャーロットが当然のことを口走り、アディントン大佐が周囲を窺ってから、苛立たしげな小声でつけ加えた。
「その全部を、衛兵隊に俺の嘘がばれるまでにやらにゃならん。
ばれたら最後、連中はカヴァデールに従うほかなくなる」
「い――いきなりあんなこと言って、耳を疑いましたよ」
ランフランク中佐が、噛みつくように言った。
大佐は悪びれなく肩を竦める。
「切り抜けられただろ。お役人たちも、足が立つ連中は逃げ出すさ」
ちょうどそのとき、後ろから脱兎の勢いで背広を着た役人が駆けてきて、彼らを追い抜いていった。
ちらりと見えた顔は真っ赤で、彼は号泣していた。
「彼が無事に帰られるといいんだが」
アディントン大佐が心配そうに言い、シャーロットはそばのマルコシアスの顔を見下ろした。
「ねえ、お前、精霊はたくさんいるんでしょう。グレートヒルにどのくらい人が残っているか、見て来させられる?」
「お安い御用」
マルコシアスはかろやかに答えた。
シャーロットはさらに考える。
「それに、お前、悪魔よね……」
「そうだね。とびっきりの、あんたの悪魔だ。
どうかした?」
シャーロットはまじまじとマルコシアスを見る。
足早になるアディントン大佐に歩調を合わせているために彼女は小走りになっており、さっそく息が上がり始めていた。
「悪魔なんだから、人間を脅かすのは好きよね……」
「大好きだね」
マルコシアスは認めて、シャーロットの意図を察した様子で微笑んだ。
「ああ――」
「そういうこと」
シャーロットは頷き、懸命に足を速めて、アディントン大佐の裾をつまんだ。
「大佐、私の悪魔に、議事堂からの人の避難を手伝わせることが出来ると思います――少々、心臓に悪い方法になるとは思いますが」
大佐は眉を上げた。
「ほう?」
そのとき、マルコシアスが舌打ちした。
「ロッテ、悪いニュースだ」
シャーロットはぎょっとした。
「どうしたの」
「ここにいる人間だけど」
ここ、と言いながらも、マルコシアスは周囲をぐるりと指差す手振りをしてみせる。
「外に出られないみたいだ。だからだろうけど、まだうじゃうじゃ人間がいるよ。
ねえ、ここで働いてる人間って、半分はここに住んでるの?」
「――――」
絶句したシャーロットに肩を竦めて、マルコシアスはあっさりと続ける。
「考えておくべきだったね。フォルネウスだって、あんたがいた――ええと、なんていったっけ……そう、学院だ――学院を、ぐるっと囲っちゃって出入り禁止に出来ただろ。
さっきまで僕の主人だったあいつに仕える魔神は、わが親愛なるフォルネウスよりも格上だからね。もうちょっと手広く、同じことが出来ても何も不思議じゃない」
シャーロットは頭を掻きむしった。
「閉じ込められるのは私だけだと思ってたわ。ネイサンさまからしても、下手にここに人を残しておいて、その人たちが息を合わせて反抗したら厄介だって、そうは思わなかったのかしら」
顔を上げて、厳しい顔を見せるアディントン大佐とランフランク中佐を窺う。
「司法省からのご注進は、この状況でも走ることが出来るものなんですか。もし出来ないなら――」
「司法省には、このためだけに引かれた、王宮直結の電話がある。
グレートヒル外部への、いざというときの伝達手段は残しているはずだ――古臭い方法でも機能するだろう。鏡を使った合図とか、蝋燭を使った合図とか、鐘の音とか、よくある暗号とか。詳しいことは知らんがな。
だが、軍省も司法省も、いざというときに備えることが仕事のひとつだ」
アディントン大佐はそう言ったものの、面白くはなさそうだった。
「だが、ああくそ、ランフランク、『やるべきこと一覧表』を代筆してくれ。
麾下を迎えに行く――あのくそやろうが今どこにいるのかを割り出す――くそやろうを上回る戦力を、なんとかして揃える――最悪の場合を考えて、議事堂から全員を避難させる――グレートヒルを解放する」
「あいにくですが、紙もペンもなくて。ただ、覚えやすい方法があります――それを全部実現できたら、明日のわれわれはヒーローだっていう覚え方です」
ランフランク中佐はつぶやいた。
一同は足早に階段を降りていく。
ガス灯の明かりに、ただでさえ疲れているシャーロットの頭はくらくらしてきた。
隣で元気よく足を進めるマルコシアスの腕を掴んで、シャーロットは小さく尋ねる。
「エム、お前、ネイサンさまに仕えてたときに、このあとの計画とかは聞かされてなかったの――」
マルコシアスは飄々と答えた。
「聞いたかもしれないが、忘れたね。それにあいつ、悪魔に腹のうちを話すようなやつじゃないぜ」
シャーロットは、そばの魔神の頭を叩きたい衝動をこらえた。
「じゃあ、あの人がどこにいるかも分からないの?」
「おお、レディ」
マルコシアスが笑った。
「あいつはいつも、僕より格上の魔神に自分を守らせてるんだよ。僕に千の瞳があっても、あいつを見つけられるもんか」
「普通に考えれば、やつはどこかの省舎だ」
ランフランク中佐が、シャーロットに向かって言った。
「司法省がもっとも可能性が高い。次が技術省」
「麾下を動かすことが出来れば、われわれの頭数も増える」
大佐がきっぱりと言った。
「そうすれば、ミズ・ベイリー――きみを麾下に任せられる。
私とランフランク、あと数名で司法省に乗り込むことも出来る」
シャーロットは頷いた。
さすがに、自分の安全を確保することの重要性は分かっている。
だが同時に、マルコシアスさえ無事であれば、ある程度は自分を危険に晒してもいいこともわきまえていた。
「――ネイサンさまは、」
頭の中を整理するためにつぶやく。
「同時に二つのことをしようとしているはず――まず、軍省を制圧したあとだから、他の省を制圧して、グレートヒルを押さえてしまって、実権を握る準備。司法省を押さえてしまえば、ネイサンさまの行動はぜんぶ合法ってことになって、国王陛下が……よく分からないけれど、ネイサンさまに本当に権限を与えてしまう。
それでもう一つが、絶対にネイサンさまの地位を確実なものにしてくれる、最終兵器である例の魔神を叩き起こす準備」
つまり、と独り言ちる。
階段を下りきって、一行は廊下を進む。
「ネイサンさまは司法省にいる可能性が高くて、同時に私を捜しているはず。
――私たちは、とにかくネイサンさまが権力を握ることは止めなきゃならない――もっといえば、例の魔神は絶対に目を覚ましちゃだめ。
ネイサンさまだって馬鹿じゃないんだから、〈ローディスバーグの死の風〉を起こす気はないんでしょうけど、後ろに凶悪な魔神を従えた人が議会を取り仕切るなんて、そんなのもう武力政治だもの」
シャーロットは少し考えた。
彼女の曾祖母、“気高きスー”が魔神を封じた呪文のうち、一部だけを解呪する呪文を、ネイサンは編み出すことが出来ただろうか。
――答えは是。
スーザン・ベイリーの呪文の特定は、それこそ神業じみた才能がなければ不可能だっただろうが、呪文を再現できてしまえば、その一部のみを解呪する呪文の考案ならば、シャーロットにも出来る。
「問題は、ネイサンさまが例の魔神を御せるかということですけれど……」
どう思います? と言わんばかりにランフランク中佐を見上げてみる。
ガス灯の明かりに、彼の金髪が赤く透けている。彼は苦笑した。
「ミズ。やつの魔術の腕は天与のものだ」
「それでも、報酬が――」
そこまで言って、シャーロットははっと息を呑んだ。
――そうだ、十四歳のとき、初めてこの話を聞かされたときに、彼女は疑問を持ったはずだ。
「――いえ、そもそも……この下にいる魔神は、だれなんですか」
ランフランク中佐は訝しげな顔をした。
「魔神の名前? さあ……伝わっていないと思うが」
「七十二の魔神のうち、この七十年に亘って召喚されていない魔神は確かにいます――でもそれは序列一番でも序列二番でもない。
この地下に封印されているのは、バエルでもアガレスでもない」
シャーロットはつぶやいた。
ランフランク中佐は訝しげにしている。
「ミズ――その魔神の名前がそんなに重要かな。確かに、歴史上には、他の魔神と仲が良くて、決して争いごとを起こさなかった魔神たちも知られているが――今はそういう、魔神どうしの都合もあてには出来ないんじゃないかな」
マルコシアスが小声で、「ああ、わが親愛なるフォルネウス」とつぶやいたが、誰もそちらには注意を払わない。
シャーロットは眩暈を覚えていた。
「七十年前に〈ローディスバーグの死の風〉が起こされたとき、その魔神に序列で勝る魔神がいるなら、何を措いてもその魔神を召喚して対処させたはずです――それが出来なかったということは」
シャーロットはマルコシアスの顔を見た。
マルコシアスは無表情だった。
ストラスはそれに輪を掛けた無表情になっており、何が何でもかれらの秘密、その昔の契約を秘匿し続けようとしている。
――だが、シャーロットはもうそれを知っている。
彼女は小声で、確信をこめて言った。
「地下に封印されている魔神は、――名無しなんだわ」
ベイシャーでの一幕が脳裏に甦る。
理不尽な召喚に絶叫し、海を煮立たせて暴れ狂っていた、あの――
(――でも、ネイサンさまは、その意味は知らない。
知っていれば対策を打つ方だけれど、――このことはご存じない)
呪文を突き止める過程で、ネイサンもその魔神の名前を知ることにはなったはずだ。
そしてその名前が、彼がよく知る七十二の魔神の中にはない名前であると分かったはずだ。
――だが記録によれば、それは魔神に相違なく、桁外れの力で疫病をもたらしたとなっている。
ならば、彼がどう考えたか。
遠い昔に存在を忘れ去られた強力な魔神――おそらくそう納得したはずだ。
――その昔の契約を知らなければ。
――悪夢の所以を知らなければ。
そうとしか納得の出来ないことだから。
(だとしたらその魔神は、報酬うんぬんの、悪魔の流儀も知らないかもしれない)
マルコシアスが、シャーロットに目配せする――“確かに、レディ、あんたの言うとおり”。
ストラスどころかオンルも、警戒したようにシャーロットを見つめている。
その昔の契約のことを、シャーロットが知るはずはないと思いつつも、何かを疑うような眼差し。
だがその眼差しにも、シャーロットは気づかなかった。
シャーロットから見るネイサンの計画に、いま大穴が開いていた。
「ネイサンさまがかれの目を覚まさせても――かれを御せるとは限らないわ。
下手をすれば、ネイサンさまごと、この辺り一帯が木端微塵になってしまう」
それこそ、名無しの魔神の寝起きの悪さで。
――だが、シャーロットには分からなかった――なぜ、スーザン・ベイリーは、名無しであるはずの魔神の名前を知り、あまつさえ召喚することが出来たのか。
▷○◁
軍省の省舎から彼らが走り出てきたタイミングで、この一時間ほどで胃袋が擦り減っていただろうオリヴァーが、そばの生垣の陰から立ち上がった。
彼の顔色はすこぶる悪く、夏の夜の気温に汗が滲んでいる。
「ベイリー!」
すかさずランフランク中佐がシャーロットをそばに引っ張り寄せて庇い、アディントン大佐が銃をオリヴァーに向ける。
出し抜けに玄人の手つきで銃を向けられ、オリヴァーは天変地異が起こったかのような顔で両手を挙げた。
唖然としている。
「オリヴァーさん!」
シャーロットが叫び、ランフランク中佐の腕の中を脱出すると同時に、ストラスが大きく一歩前に出ることで大佐に並び、人間のものではない膂力でその銃口を下げさせていた。
「おい、てめぇ、この人間やろう。撃ってみろ、ただじゃおかねぇぞ。
お前が銃を向けてるのは、この俺ってことになってんだよ」
アディントン大佐は、人ならざるものの脅しにも、顔色ひとつ変えなかった。
「ああ」とつぶやき、ストラスの手を振り払って銃を腰にしまう。
「この魔神の主人か――ミズ、きみの知人だね?」
「そうです」
シャーロットはまろび出て、オリヴァーの腕に手を置いた。
「学院の先輩です――」
「惜しむらくも一年だけの」
「――今は技術省にいらっしゃいます」
大佐が問うように眉を上げたため、シャーロットは言った。
「頼れる人が本当にいなかったので、彼なら魔神を召喚できますし、頼ったんです」
大佐の眉が下りない。
中佐が咳払いした。
シャーロットは目を閉じて、自白した。
「――機密に該当することも、ご協力を得るために話しました。もうご存じです」
「おめでとう」
アディントン大佐が淡々と言って、進み出てオリヴァーの腕を掴んだ。
シャーロットから引き離される形で、オリヴァーが数歩を連行される。
オリヴァーの顔が強張り、彼がシャーロットに顔を向けた。
「ベイリー? この方々が、お前が言っていた頼れる軍人だろ?
俺はもうお役ごめんで家に帰っていいんじゃないのか? ノーマが待ってるんだが……」
シャーロットは無言で、彼に向かって頭を下げた。
アディントン大佐は、オリヴァーの腕を掴んだまま、断固たる足取りで踏み出している。
「おめでとう。きみは今や機密保持者として監視対象となった。平凡なる人生からの卒業、おめでとう」
オリヴァーは強張った半笑いを浮かべた。
「は?」
アディントン大佐はそれに構わない。
無表情で淡々と続けている。
「ついでに言っておくとすると、今夜のうちにきみが知り得た機密情報が価値を失うようならば、きみは明日からふたたび平凡な人生に足を踏み出すことが出来る。そのためにも、全力を尽くして協力してくれ。今は魔術師の協力も必要なものでね。
――さらに言えば、今現在、グレートヒルから出て行くことは誰にとっても不可能だ。われわれのそばにいた方が、多少なりとも安全だ。きみはまことに運がいいな」
オリヴァーは一瞬ぽかんとし、それから怒髪天を衝く勢いでシャーロットを振り返った。
省舎の窓から落ちる明かりの中で、その頬が見事に真っ赤になっているのが見える。
「ベイリー!!」
シャーロットは身を竦めた。
「ごめんなさい」
「お前は! いつもいつも!! 助けてやったら仇で返しやがって!」
「本当に申し訳ありません」
そう言いながらも、シャーロットも開き直ってきた。
「とはいっても、ここにいれば事態がどう動いたかよく分かりますよ。ある意味とっても安全です」
「ネイサン参考役がクーデターに成功したら、世界一危険な立ち位置だったってことになるだろ!」
シャーロットはひるまなかった。
「そのときは、魂を売るか人生を売るかの二択を迫られるはずなので、どこにいたって危険は変わりません」
シャーロットはきっぱりと言って、オリヴァーに駆け寄って、ふたたび彼の腕に手を置いた。
「それで、ものは相談なんですけれど。議事堂の中にいる人間を脅かして、ただし怪我はさせずに、議事堂の外に出てもらうよう、ストラスにご命令いただいてもいいですか。
マルコシアスだけでは、きっと手が回らないと思うので」
オリヴァーは両手で顔を覆った。
「もう、最悪だ」
「もう、最悪だ」
リンキーズはつぶやいた。
カラスの格好のかれは、腹立たしげに自分の羽根をむしりながら、かつての主人の肩に止まっている。
「アーニー、どこにもいないじゃないか」
「私にとっては、そう最悪でもない」
ウィリアム・グレイはつぶやいて、半分ほどまで吸っている煙草に口をつけ、煙を吐き出した。
もうそろそろ六十歳になる――妻は煙草をやめてほしいと彼に訴えるが、彼はなかなか手放せないでいる。
夜陰に、煙草の先端が赤く光る。
「ただでさえ、グレートヒルからどうしたわけか出られなくて、何が起こったんだろうと思っていたからね……。お前に声を掛けられたときは驚いたが」
「だから言ったじゃん、僕の今のご主人が、きみを引っ張って来いって言ったんだって。何しろ、アーニーの顔を知ってる人は少ないからね」
あと、と厳しく言葉を継いで、リンキーズは後ろを振り返った。
「きみが召喚してる魔精、さっきから僕の尾っぽを引っ張ってるんだけど。叱ってくれない?」
グレイは振り返らずに言った。
「エセラ、やめなさい」
身長八インチ程度の、ふわふわした金髪の少女の――ただし、背中から薄緑色の翼が生えている――姿をした魔精が、ぷうっと頬を膨らませ、リンキーズの尾を引っ張るのをやめた。
リンキーズは、カラスのものとも思えぬ凶悪な表情でそちらを睨む。
「アーニーが、本当に近くにいるのかね」
グレイはそう言いつつ、今もせかせかと歩いている道の先を見通そうとするような顔をした。
ここはグレートヒルの隔壁の内側ではあったが、周囲にあるのは省舎ではなく、ここに社屋を置くことを許された企業の壁だった。
すでにすっかり灯は消えて、社屋は静まり返っているものばかりだ。
道にぽつぽつと立つ街灯が、ガス灯のオレンジ色の光を投げ掛けて、夜陰を申し訳程度に払っている。
耳をすませば、夜陰を這うような小声で、グレートヒルから出られなくなった人々の不安や不満の声が聞こえてきていた。
――“技術省の魔術師が何かしたんじゃないの”……“せめて何か言ってからにしてほしいわ”……“こりゃあ、明日になったら技術省からの謝罪が入るぜ”。
リンキーズはグレイの肩を掴む足に力を入れた。
それを咎めるようなグレイの咳払いには気づかず、かれはまくし立てる。
「そのはずなんだよ。少なくとも、僕のご主人に対する人質として、この辺りまで連れて来られてるはずなんだよ。だから、この辺のどこかに監禁されて取引の材料にされてると思うんだよね。
だけどあいつ、けっこう頭が回るしすばしっこかっただろ、だからもしかしたら――」
「お前の今の主人は、本当にシャーロットなんだね」
グレイは言いながら、足早に歩いた結果として、額ににじんだ汗をぬぐった。
「すっかり元気を失くしていたから、心配していた……手紙を出しても返事もないし……」
「だから、もう説明したじゃん!」
リンキーズが叫ぶ。
「理由だって話しただろ! あの子、誰とでも口を利いたり文通したり、そういうことが出来る自由な身分じゃなかったんだって!」
「聞いた、聞いたよ――まったく、本当に悪趣味な冗談だ」
ぼと、と、手が滑って煙草が落ちる。
はかなく紫煙をくゆらせる煙草を踏み消してから、グレイは次の一本を取り出そうとして、あやうくシガーケースを取り落としそうになった。
空中でシガーケースをなんとかキャッチして、彼は煙草を引っ張り出す。
「この地下に魔神が封じられてるって? けれどもまあ、どうしてあの子を誘拐するように言われたのかは、それが本当だとすれば腑に落ちるよ――あぁ、エセラ、火を……」
身長八インチの少女が翼を翻して、グレイの正面に飛んでいった。
そこでぎゅっと目をつむり、何かに集中する顔を見せ――ぽっ、と、煙草の先端に火が点く。
「ありがとう、エセラ」
魔精ははにかむように微笑んで、今度はグレイの頭の上に、両肘をついて寝そべるような格好で止まった。
「――それで、とうとうクーデターだって? 本当に、悪夢だよ」
リンキーズは苛立たしげに身ぶるいした。
「クーデターとか、そういうのはいいんだって。地下にだれがいるにせよ、たぶんきみがベイシャーで呼んだやつの――ある意味で同類だから、人間にどうこう出来る相手じゃないだろうし」
「同類? なんだって?」
リンキーズはひょこひょこと頭を動かした。
「あ、いや、いいんだ、忘れて。――とにかく、アーニーだよ。
あいつ、けっこうすばしっこかっただろ。だから、危ないと思ったらさっと逃げて、どこかに隠れてるんじゃないかと思ったんだけど――」
「アーニーの顔を知っている者は少ない……」
言いながら、グレイは深々と紫煙を吸い込む。
「私も――最後に見たあの子の顔ははっきり覚えているけれども、最後に会ってから七年だからね……。会ったときは十四歳くらいだった――今はもう二十一か、さぞかし綺麗な青年になっているだろうけれど……」
「頼むから、アーニーを見分ける自信がないなんて言わないでくれ」
リンキーズは、悪魔らしからぬ必死さで言った。
「僕だって、顔なんてとっくに忘れてんだからね。覚えてるのは、きみに無茶苦茶な命令をされて大変だったときに、あの子が唯一味方をしてくれたことだけ……」
「あのときはすまなかったね」
気まずそうなグレイに、リンキーズは羽根を逆立てる。
「もう忘れたよ。――ただ、ご主人が言うには、いよいよあの子もやばいっぽいからね。ご主人はあの子を気にかけてるし――」
そのとき、グレイははたと足を止めた。
リンキーズは慣性でつんのめってから、「ちょっと!」と翼をばたつかせる。
「なんなの、なんか見つけたの?」
「――アーニーは、ここ七年ずっと、そのクーデターの主犯の……あの方、ネイサン参考役のところにいたんだろう?」
ぼろ、と煙草を取り落としながらグレイがそう言った。
自分が火を点けた煙草が地面に転がったのを見て、その頭の上でエセラが悲しそうな顔をする。
リンキーズは羽根をふくらませる。
「そう言っただろ――」
「じゃあ、今も彼のところにいるんじゃないのかい?」
グレイの悲鳴じみた囁きに、リンキーズは思わず――カラスらしからぬことに――鼻を鳴らした。
「馬鹿を言うなよ。アーニーだって頭はいいだろ。やばいと思ったら、今度こそ逃げ出すに決まってる。
それに、あの参考役にしたって、人質を手許に置いとく意味なんてないだろ。僕が何年きみたち人間と関わり合ってきたと思ってるのさ、きみの年齢に桁を足しても追いつかないくらいの年数だよ。こういうときにきみたちが考えることは重々承知なんだからね。奪還の可能性を考えれば、多少は離れたところに置いとくはずで――」
グレイは息を吸い込む。
「でも、捜したところにはいなかった」
「まだちょっとしか捜してないじゃないか」
リンキーズの答えに、グレイは首を振った。
この四年で頭髪は薄くなり、頭に汗が光っているのが見えている。
「だいいち、あの子が逃げ出そうと思って逃げ出せるところなら、もうとっくに逃げ出していたはずじゃないのかい」
「――――」
「参考役の狙いは、あくまでシャーロットの血なんだろう――野蛮にも。
だったらアーニーは手許に置いて、確実にあの子をそばに呼ぼうとするんじゃないのかい。その、なんていうのか……アーニーを餌にして」
「……――おっと、まずい」
少しのあいだ黙って、リンキーズは自分のミスを認めた。
そして、翼を広げた。
「きみはこのまま歩いててくれ。
僕は――僕は――心当たりのあるところを、こっそり覗いてくるから」
ちら、と、グレイの頭の上のエセラを見遣る。
エセラはふわぁと欠伸を漏らし、無邪気にリンキーズに手を振った。
「その魔精を連れておいてくれよ。
何かあったら、僕の精霊にそいつの精霊への伝言を頼むからさ」