12 天命を諮れ
四階に達すると、人声も靴音も、これまでとは比較にならないほど聞こえてきた。
耳の中に綿を詰め込まれたような静けさが途切れて、シャーロットはむしろほっとしたくらいである。
役人たちがいるはずの広間に向かう途中の廊下には、衛兵の姿はなかった――だがそれも、最後の角を曲がるまでだった。
最後の角から顔を出し、その向こうを観察したランフランク中佐は、一秒と経たずに壁の陰に戻り、「わんさか」とだけつぶやいた。
シャーロットも好奇心に負けて、ひょいっとそちらを覗いた――とはいえ一瞬後には、腰のリボンを大佐に引っ張られて戻されたのだが。
広間の外には衛兵がかたまっており――マルコシアスはそれを見て、「うじゃうじゃいるね」と評した。
アディントン大佐とランフランク中佐はまず、そこをどう突破するかを話し合わねばならなかった。
が、さすがにここでリスクを冒している暇はなかった。
そもそも時間もさほどない。
ネイサンはまず間違いなく、グレートヒルからシャーロットを出さないよう手を打っているだろう――その手を抜かるほどの間抜けではないだろう――そして徐々に、その包囲網を狭めようとしているはずだ。
シャーロットは、さすがにもうここまで来たときには自分の足で立っていたが、ここぞとばかりに主張した。
「エムがいれば大丈夫です。間を突っ切っていっても、気づかれないようにしてくれます。ね?」
熱心に同意を求められ、マルコシアスは欠伸まじりに。
「まあ、あんたがそうしろって言うならね」
二人の軍人は懐疑的な表情だった。
今の時代、軍の作戦に悪魔を関わらせることがあるとすれば、それは急遽川に橋を架けねばならなくなったときであったり、夜間の明かりを提供させるときくらいである。
あるいは野営の際に、すばやく火を熾させることもあるかもしれないが。
シャーロットはその表情を見て、腹を決めた。
確かに悪魔への信頼はご法度だが、“レディ・ロッテ”が“エム”に向けた信頼が裏切られたことは一度たりともない。
決然として、彼女は宣言した。
「私はこれからあの広間まで歩いて行きます。
私が行くなら、お二人も来ていただかざるを得なくなるはずです」
二人の軍人が目を見開く。
アディントン大佐が手を伸ばして、シャーロットの腕を捕まえようとした。
だがそれを、ランフランク中佐が飛びつくようにして止める。
「大佐、お待ちを――彼女の言うように、この悪魔が他の魔術師の契約下から彼女に乗り換えたのなら、とんでもないことですよ。彼女に何かしたら、怒らせるどころではありますまい」
中佐がそう囁くのが聞こえ、心ならずも悪魔を盾に取ったような格好になったシャーロットは、罪悪感に胸を殴られた。
「おいおい、ロッテ」
マルコシアスから呆れたような注進が入る。
「僕より強い魔神がここを見張ってたら、万事休すだぜ」
「そんなの、さっきからずっとそうでしょ」
迷いなくシャーロットはそう言って、マルコシアスに命じた。
「私を衛兵さんたちに見つからないようにして。このお二人も」
マルコシアスは肩を竦める。
「仰せのとおりに」
「なあ、俺はいつまでここに居なきゃならない?」
ストラスが癇癪を起こしたように言い、マルコシアスはそちらに無感動な目を向けた。
「あんたの主人からの命令は、僕のレディを守ることだろ。僕のレディが完璧に安全になるまでだ、ストラス」
シャーロットは息を吸い込み、二人の軍人の不安そうな、あるいは苛立った眼差しを避けるようにしながら、一歩、角から廊下へ踏み出した。
ストラスがあからさまに溜息を吐いてそれに続き、マルコシアスはその場に立って、面白そうに二人の軍人を眺めている。
シャーロットはまっすぐに歩いた――マルコシアスが、「うじゃうじゃ」と評した衛兵たちの中に突っ込む格好になった――誰もシャーロットの方を見ない。
ストラスにも気づかない。
衛兵たちは規律正しく並びながらも、やはり彼らも人間なのだ、落ち着かなげに話をしている――
「――おい、本当のところ、これは陛下の……」
「カヴァデール閣下のおっしゃることだから――」
「ああ、くそ、煙草を切らしてる。いつまでここに居なきゃならない」
「任務だぞ、しゃんとしろ」
周囲で衛兵たちがぼそぼそと交わす言葉――
衛兵たちを避けながら進んでいく。
もはやここまでくれば、シャーロットを単独行動させることの方が肝を冷やすことだと判断したのだろう、後ろからすばやく、アディントン大佐とランフランク中佐が追いついてきた。
アディントン大佐が、腹立たしげにシャーロットの肘を掴む。
いつの間にかシャーロットのそばにいたマルコシアスが咳払いしたが、大佐はそちらには注意を払わなかった。
「まったく、きみ、本当に軍人には向いとらん独断専行ぶりだ。
さっさと学芸員を目指しなさい、軍省にはふさわしくない気性だ」
シャーロットは思わずにっこりした。
「私もつねづねそう思っています」
文字通り衛兵をかいくぐって進み、ランフランク中佐が上官に目で合図してから、広間の扉を開け放った。
同時に、扉に背を向けて立っている衛兵の背中が見える――広間の中にも、見張りの意味で衛兵がいるのだ。
――彼は、奇妙なことに、扉が開いたことに気づいた様子すらない。
シャーロットは思わず、賞賛の眼差しでマルコシアスを振り返った。
かれは満足そうに微笑んだ。
シャーロットはそろそろと前進し、その衛兵のわきから広間の中を覗き込んだ。
周囲の衛兵たちが、それこそぴくりとも反応しないために、自分の身体が透明になったかのような錯覚に襲われる。
ガス灯とシャンデリアに照らされた広間は、今や惨憺たるありさまだった。
恐怖と混乱と自棄が混じり合い、おもに最後のひとつのせいで、衛兵に頼み込んでいったん自分の執務室に戻り、秘蔵の酒を出してきた者が複数いるらしい。
おかげさまで、酒の匂いと煙草の臭い、酒を一気にあおって酩酊した役人が生み出した吐瀉物の臭いが混じり合い、広間の中の空気は混沌たる様相を呈している。
そこに、徐々に緊張を保つことが難しくなった楽天家たちの話し声、まともな神経に恵まれた者の啜り泣き、「家に帰りたい」と訴える涙声が混じり合い、この広間は今夜においては、この国一番の愁嘆場となっていた。
アディントン大佐が、何かの手振りをした。
それを受けて、ランフランク中佐がすばやく、体格を思わせないしなやかさで動き、扉に背を向けて立っている衛兵にぶつからないよう注意を払って、広間の中に滑り込んだ。
アディントン大佐はじゃっかん迷ったようではあれ、シャーロットを廊下に取り残すことは出来ないと考えたらしい、すぐに肩を叩いて、彼女にも同じようにすることをうながした。
シャーロットは、当たり前だが中佐に比べておっかなびっくり、みっともない身ごなしで彼に続いた。
最後には衛兵の脇を四つ這いで通過するような格好になり、マルコシアスはここぞとばかりに笑い転げている。
中佐が手を伸べて、シャーロットが立ち上がるのを助けた。
「お前、後で覚えてなさい」
シャーロットがマルコシアスを睨んで小声でつぶやくと、マルコシアスはやすやすと衛兵の身体を突き抜けて彼女のそばに立って、微笑んだ。
「ご冗談を、レディ・ロッテ。こんなに尽くしているのに?」
「――――」
シャーロットは目を閉じて、マルコシアスの無礼を不問に付すことを認めた。
アディントン大佐が、手品のようにすばやく、衛兵のわきをすり抜けて広間の中に入り込む。
ストラスとオンルもまた、マルコシアスと同様、ずかずかと衛兵の身体を通り抜けて広間へ入った。
ストラスはそろそろ、本気で機嫌を損ねているようだった。
アディントン大佐が扉を閉める。
彼が広間の、ほぼ中央へ向かった。
衛兵たちは広間の扉の前と、窓のある壁際に立って、囚われの身となった役人たちを、ある者は退屈そうに、ある者は冷淡に、ある者は気の毒そうに眺めていた。
その配置をしっかりと頭に入れたのだろう、アディントン大佐とランフランク中佐が、無言のうちに背中合わせに立った。
役人たちは広間のあちこちにかたまっているが、その最も大きなかたまりの、すぐそばだ。
シャーロットはそのそばで足を止め、マルコシアスとストラスに挟まれるような格好になった。
二人の軍人が同時に、先ほど別の衛兵から奪取した拳銃を構えるのを見て、シャーロットは思わず息を呑む。
――本職の軍人が銃を構えるところなど、これまでに見たことがなかったのだ。
撃鉄が起こされる音が重々しく耳を打つ。
銃の内部で、小さなハンマーが人を死に至らしめるだけの威力をもって、雷管を叩く準備をしている。
「――ミズ。もうけっこう――きみの魔神に、そう伝えてくれ」
アディントン大佐が、きわめて落ち着いた声でそう言った。
シャーロットは、そばに立つマルコシアスを見下ろす。
マルコシアスは肩を竦め、頸にかかった枷を指先で叩きながら、低く口笛を吹いてみせた。
――変化は顕著だった。
だが、妙に一拍の間が開いた。
まるで、唐突に部屋の中に人影が生えたように見えたはずだ――数人の衛兵が、「は?」と声を漏らし、条件反射で腰の銃に手を伸ばしながらも、目を疑う様子で目許をこする――
「何者だ――」
役人たちもどよめき、ある者は煙草を取り落とし、ある者は酒の瓶を床に落として割り、そのかん高い音が騒々しく響き、ある者はこの事態の変化にも気づかず、ひたすら啜り泣きを続行し――
そのとき、役人の中から誰かが立ち上がった。
ザカライアス・リーだ。
彼が大きく目を見開き、四十絡みの見目に対してあまりにも幼い身振りで、嬉しそうに手を振る。
彼は左腕に、泣きじゃくるマーガレット・フォレスターをくっつけていた。
「ミズ・ベイリー! 生きてたの!」
そのとき、マルコシアスが断固として、シャーロットをその場に屈み込ませて、彼女の耳を塞いだ。
直後、ランフランク中佐が天井に向かって発砲した。
辺りの空気が破裂したような大音響に、役人たちの悲鳴と罵声が噴き上がる。
臙脂色に塗り込められた天井に弾丸がめり込んだのか、ぱらぱらと漆喰の欠片が落ちてきた。
衛兵たちが色めき立つ。
ランフランク中佐はなめらかな動きで、次の発砲の準備を済ませた。
一方、アディントン大佐は――シャーロットが目を疑ったことに――今しも蜂の巣をつついたような大騒ぎとなっている、役人たちに銃を向けていた。
「――やあ、腰抜け諸君」
大佐が無表情に言った。
銃口は役人を向いているが、言葉は衛兵に向けられていた。
衛兵の誰かが、「アディントン大佐」とつぶやいたのが聞こえた。
指揮系統は違えど、士官の地位にある軍人である――衛兵たちが、つんのめるように動作を止めたのが分かった。
この異常事態にあって、誰が味方で誰が敵なのか、もはや当事者たちにすら分かっていないのだ。
数人の衛兵が、マルコシアスとストラスを悪魔であると見て取った様子で、そばの者に警告している。
衛兵たちが、探るような沈黙を漂わせたのとは裏腹に、アディントン大佐はきわめて冷淡に言葉を続けていた。
「裏切り者のネイサンに寝返った、カヴァデールのくそやろうからはこう命令されているんだろう? “この場にいる方々を見張れ”」
衛兵たちが、次々に銃を構え始めた。
その弾道上に自分たちがいることを把握して、役人たちが悲鳴を上げて頭を庇う。
あるいは、手近にいる者と抱き合う。
「さあ、私がどうするつもりか分かるか?
――私の麾下はどこか答えろ。
さもないと、ここにいる人間の頭を一人ずつ撃ち抜いていくぞ」
新たな悲鳴、パニックの啜り泣き。
茫然とするシャーロットは、マルコシアスに肩を押さえられて立ち上がることが出来ない。
ストラスは、「付き合ってらんねぇ」と言わんばかりに、両手を軽く広げていた。
大佐は容赦なく続けている。
「軍省役人が全滅したとなれば、ネイサンのやろうも面白くはあるまい。貴様らがその代償として、首をいくつか捧げることになるぞ。
――さあ、答えろ。俺のかわいい役立たずどもはどこだ?」
「――虚勢だ」
衛兵のうちの、誰かが言った。
大佐が眉を上げる。
その大佐に向かって、確信の籠もった言葉が飛ぶ。
「あのアディントンが、非武装の国民を撃つはずがない」
「この過激派どもめ。蛆にも劣る虫けらどもめ」
アディントン大佐が笑った。
およそ稼業としては海賊が似合うような笑みだった。
「何を――」
衛兵たちが反駁する。
その機先を制して、アディントン大佐が銃口を衛兵の側へ向け直した。
「私が非武装の国民を撃たない信条をもったまま、ここに立っているとしたら、人倫に照らして正しいのは誰だ?」
「構わん、撃て」
衛兵の側で声が上がる。
「カヴァデール閣下のご命令なら――」
「そのご命令は陛下のものか? ここに缶詰めの貴様らは知らないだろうが、司法省が動いたぞ――これから国王陛下に注進が向かう」
大佐がさらに言い、シャーロットもようやく理解した――アディントン大佐は、圧倒的数の不利があるこの場において、もはやその場の勢いとほのめかしだけで、これを乗り切ろうとしているのだ。
国王、という言葉を聞いて、衛兵がどよめいている。
「貴様らに下された命令はカヴァデールのものだろうが、知っているはずだ、貴様らが真に従うべきはどなたの勅命であるのか」
衛兵の中でも、まだ若い面々が蒼白になっていた。
――この国において、国王は飾り以上の何ものでもない――だが、この国で最も尊い飾りだ。
そして国王が「逆賊」といえば、それ以上のものは必要ない――呼ばれた者は逆賊となる。
「落ち着け――」
年かさの衛兵が叱りつける小声。
「実際に事態が動くまでは、ここで――」
「事態が動くまで、俺が待つと思うか?」
アディントン大佐が大声を上げ、衛兵よりも役人たちが身を竦める。
「何人かの頭蓋骨は風通しが良くなると思え――さあ、貴様らは国王陛下の犬か、それともたかが一将軍の走狗か!」
衛兵たちは銃を下ろさない。
だが、発砲もしない。
司法省が動いたという言葉の真偽を量りかねて、その場の空気が膠着している。
アディントン大佐が、にやりと笑った。
顔に走る傷痕もあいまって、恐ろしい形相に見えた。
「くそやろうのネイサンは、畏れ多くもこの馬鹿騒ぎを、革命とのたまったそうだな?」
「――――」
「ネイサンの天命を諮ってみろ。
――真実ネイサンに大義があるなら、貴様らが何を言おうが俺の試みは頓挫しよう。違うか?」
衛兵たちは身じろぎもしない。
さすがに、このアディントンの言で左右されるほど、彼らの衛兵としての心構えは甘くはない。
彼らのあいだで、余人からはうかがい知れない何かの合図が伝播していっているのではないかと、シャーロットは気が気ではない。
そんなシャーロットを抑え込んで、マルコシアスはまるでつまらない演劇を見物するかのように、目の前の一連の流れを眺めている。
そのとき、フクロウの姿の魔精が、ほぅ、と鳴いた。
数人の衛兵の視線が横へ逸れる。
それと同時に、ランフランク中佐が銃を下ろした。
「――大佐、もうけっこうです。自分の魔精が見つけました。
われわれの麾下は衛兵の詰め所です」
衛兵のうち、反応した者は誰もいなかった。
アディントン大佐はそのうちの、シャーロットから見れば、胸の徽章が他に比べて派手という以外には、他とさしたる差のない一人に目を留めた。
そして、鼻を鳴らした。
「当たりだな。そちらへ向かおう――」
衛兵のうちの数名が、間違いなくアディントン大佐の心臓に的を絞った。
だが、それを片手で制して、徽章の立派な一人が問う。片手で銃を構えたまま。
「――アディントン、士官学校の同輩として訊くが、――司法省から陛下へご注進が走ったという話は本当だろうな?」
大佐は肩を竦めた。
「士官学校の同輩として答えよう。――本当だ」
衛兵は表情を歪めた。
「あとは陛下の叡慮を待つのみと?」
アディントン大佐は、シャーロットが「もしや本当に司法省から陛下へご注進が走っているのでは」と思う程度には、堂々としていた。
「そのとおり」
「陛下は天秤をどちらへ傾けられると思う。われわれのどちらが逆賊になる?」
衛兵たちは緊張している。
彼らをぐるりと見渡して、アディントン大佐は肩を竦めた。
そして、親指で役人たちを示した。
「彼らに尋ねてみたらどうだ。お前たちが武器を下げて扉を開け放ったとき、ネイサンのやろうの演説とやらに胸を打たれた人がいれば、ここに残ってくれるだろうよ」
衛兵が冷笑した。
「陛下の叡慮と、ただの役人の考えが一致するとでも?」
「一致するとも」
アディントン大佐は力強く請け合った。
「なぜなら、どちらも人間だからだ。そして人間には、守るべき道徳の一線があるからだ」
大佐の淡い紫色の眼差しが、鋭利な刃物のように光った。
「さあ、選ぶといい。ここで木偶として逆賊の汚名をかぶるか、あるいは人倫に則って、明日という日をまた陛下の犬として迎えるか」
衛兵は、数秒、逡巡の間をとった。
そのあいだに、大佐の右手が緊張のあまりに銃把を握り潰しそうになっていたことを知る者はいない。
だが、やがて、その衛兵は首を振って銃を下ろした。
最後に彼を動かしたのは、この非日常において、おのれが寄って立つべき正義がどこにあるのか、それが分からないという不安に他ならなかった。
「銃を下ろせ」
かちゃかちゃと音がして、衛兵たちがためらいがちに銃を下ろしていく。
シャーロットの心臓は痛いほどに打っていた――これが危ない虚言の賭けだと分かっているがゆえに。
いつのまにかマルコシアスが、シャーロットを屈み込ませていた腕を解いている。
それにも気づかないほど、シャーロットはからからに渇いた喉に呼吸を留めていた。
徽章の立派な衛兵が、溜息を吐いて、言った。
「――皆さま、長らくご不便をおかけしました。
今より、この広間の外へ出ても恐ろしい目にはお遭いにならないとお約束しましょう」
▷○◁
アーノルドは、夜陰から唐突に光が溢れる建物の中に足を踏み入れることになり、思わずぎゅっと目をつむった。
もっとも、彼の隣を歩く、仰々しい王冠をかぶった、赤い衣服の頭の大きな小男は、その彼の生理現象が理解できなかったらしい。
「どうした、目玉が鬱陶しくなったのか」
アーノルドはそろそろと細く目を開け、悪態を吐いた。
背後で扉が閉まる音がする。
「目玉じゃないよ、おれの人生が鬱陶しい」
その声を思わずひそめてしまったのは、周囲があまりにも立派で仰々しく見えたからだった。
磨き抜かれた木の床、壁に掛けられた(どうやら続き物らしい)複数の絵画、この廊下に等間隔に下がる小さなシャンデリア。
壁紙にはじゃっかん古びた様子が窺えるが、全体として格調高い雰囲気だ。
周囲に人影はない。
光に目が慣れたアーノルドは、眉を寄せて、あらためて周囲を見渡した。
「どこ、ここ?」
「〈神の丘〉。仰々しい名だと思わないか。私が以前の主に仕えていたときは、こんな丘には名前どころか建物のひとつもなかったんだぞ」
アーノルドは頭を振った。
嫌な予感に頭ががんがんと痛んでいる。
胸がざわめき、彼は顔を顰めた。
「グレートヒルだってことは分かってる……来るのは初めてじゃない」
それこそ、わけも分からず馬車に乗せられてから、さほど時間が経っていないのだ。
馬車の窓から見た景色も、十四歳のころの記憶を刺激するものだった。
とはいえ、用心深い彼が馬車の中からずっと外ばかりを見ていられなかったのは、同行していた悪魔が道中で、この世のものとも思えぬ悲鳴を上げてのたうち回ったからだ。
アーノルドとしては手当のしようもない事態だったが、彼を茫然とさせ、慌てさせるには十分な事態だった。
「おれが訊きたいのは、グレートヒルのどこかってこと。
――どっかの省の裏口だろ、今の」
窓を探して、アーノルドは首を巡らせる。
そんな彼の肘を掴んで、仰々しい王冠の小男はずんずんと歩き始めた。
「行くよ。うちの主人がお待ちだから」
「手ぇ離してよ、歩きにくい」
アーノルドがつぶやき、赤い服の小男は、ぱっと彼から手を離す。
同時に、アーノルドの足許から、ひょっこりと黒い猫が顔を出した。
紫水晶と氷の色合いの双眸と、二本のしっぽを持つ猫だ。
かれを見下ろして、先ほどのとんでもない異常の後遺症が残っていないことを確認しながら、アーノルドは尋ねた。
「ああ、アットイ。ここがどこか分かる?」
「さあ」
猫は二本のしっぽを振って答えた。
アーノルドは少し考えて、質問を変えた。
「議事堂って分かるだろ? あれはどこにあるか見えた?」
アットイは少し考えた。
そのあいだに、この質問には赤い服の小男――序列二十八番の魔神、ベリトが答えていた。
「議事堂? あれならすぐそこだ」
「すぐそこ」
思わず復唱し、アーノルドは顔を顰める。
「ってことは、ここ、めちゃくちゃグレートヒルの真ん中じゃん」
とはいえ、その構造に詳しくない彼からすれば、ここがどの省の省舎なのかを割り出すことは無理難題といえた。
肩を竦めて、ベリトに従って歩を進める。
辺りは静まり返っており、アーノルドはふとそれを不思議に思った。
確かに、もう夜だ――役人がわが家に帰っていたとしても何も不思議ではないが、ならばなぜ、シャンデリアにはこうも煌々と明かりが入れられているのだろう?
「ベリト?」
思わず呼びかける。
半歩先を歩く小男が――歩幅はアーノルドの方があるはずなのだが、奇妙なことに、悠々と歩いているベリトに追い着けない――、不自然な首の角度でアーノルドを振り返った。
「うん?」
「きみ、今日、何してたの?」
ベリトは少し考え込む様子を見せた。
それから、大きくひとつ頷く――頭上の大仰な冠が揺れる。
「うん、主人からは特に、命令の内容を口外するなとは言われていないな」
アーノルドはちらっと笑った。
「それで?」
「今日は主人の旗揚げの日だからね」
アーノルドは息を止める。
つかのま、ぎゅっと目をつむる。
――シャーロット。
(どうか無事で、まだ無事で……)
心臓を掴まれるほどの不安にさいなまれている彼を知らぬげに、ベリトは楽しげに続ける。
「ここで人間を脅し、走り回り、また脅し――」
忙しげな身振りをしてから、ベリトは嘆息する。
「あげくに、あれだ。おい、そこの猫。お前はそうとう痛かったろう」
アットイは不機嫌に鳴いた。アーノルドは困惑して瞬きする。
「何があったの? アットイ、確かにきみ、すげぇ声で鳴いてたけど」
アットイがぷいとそっぽを向く。
それを後目に、アーノルドを階段に誘導しながら、ベリトは苦い声で言った。
「〈身代わりの契約〉だよ。うちの主人が、どうやら自分の首を斬ったらしいね。
これは又聞きで、とても信じられない話だが、うちの主人に仕えていながら、反旗を翻した阿呆がいるらしい。主人はそれが腹に据えかねたようだが、いやはや、巻き込まれるこちらはたまったものではない……」
「うわぁ……」
アーノルドは屈んで、足許をちょこちょこと歩くアットイを両手で抱き上げた。
そうして、また歩き出す。
小さな子供をあやすようにアットイを持ち上げながら、アーノルドは気の毒そうに言った。
「そりゃ痛かっただろ。今は大丈夫なの?」
アットイは二本のしっぽで、アーノルドの両方の手を同時に叩いた。
意図を察して、アーノルドがぱっと手を離すと、器用に床に着地して、そのしっぽを優雅に揺らしてみせる。
「耐えましたよ。
ですが、主人を怒らせた同胞については、憤りを覚えます。われわれは同じ魔術師に仕えるものどうしですから、最低限の礼儀というものがあります――穏健に過ごすための。いつか話をつけなくては」
ベリトは重々しく頷いた。
王冠もあいまって、その仕草はどこかの王族めいていた。
「モラクスもたいそう怒っている」
「モラクスがここにいるんですか……?」
悪魔のやりとりを聞きながら、アーノルドは誘導に従って階段を昇った。
さほど幅は広くない階段だったが、手摺に凝った細工がほどこされている。
躍り場で向きを変えて、さらに昇る――二階へ。
相変わらず、明かりは点いているが無人だ。
ここは人の通らない区画なのだろうか――だが、そうであれば明かりは落とされるはずだ。
「ここで働いてる人たち、今、どこにいるんだ?」
アットイは分からないと言わんばかりにしっぽを振ったが、ベリトが応じた。
「アロケルが嬉々として追い立てていったが」
アーノルドは顔を顰めた。
「アロケルって、だれ」
「序列五十二番」
「魔神ってことね、了解」
促されるままに、さらに階段を昇る。
三階に達すると、階段を離れて廊下を歩くよう促される。
やはり、頭上には等間隔に吊るされた小さなシャンデリアが並ぶ。
足許には緋色の絨毯。
広々とした廊下を進みながら、アーノルドは首を振った。
「こんな豪勢なとこを歩くの、おれの人生でこれが最後だろうな」
アットイが愉快そうにしっぽを揺らす。
「なら、記念に走り回りますか」
「いや、やめとく。ここで働いてる人たちに悪いし」
そう言って、アーノルドはふっと笑った。
「てか、悪魔がそんなこと言うなよ。なんか不安になるだろ」
そのとき、アーノルドはとある額縁のそばを通った。
彼に文字が読めたなら、それが司法省の訓示を書き表したものだと気づいたはずである。
誰か読んで下さってる方はいらっしゃいますか?