06 格別の親しみ
「うわあ、びっくりした」
マルコシアスが暢気に言ったのは、シャーロットが無事に地面――具体的には、軍省の省舎の広々とした中庭――に降り立ったときだった。
かれはすばやくシャーロットの背中で鉄色の翼になり、シャーロットの落下――あるいは、着地――地点を、先ほどまでいた広間の真下からはずらしていた。
それは先見の明があったといえよう――先ほどの広間の窓から、次々に頭が突き出して、落下したシャーロットの無事を確かめようとする声が聞こえてきている。
「いないぞ!」という声に混じって、シャーロットの名前を叫ぶ声もしていた。
マルコシアスはそれを気にかけた様子もなく、瞬く間に元の少年の姿に戻り、シャーロットの前に回って、彼女をとくと点検していた。
夜陰であっても、軍省の省舎のおびただしい数の窓からオレンジ色の光が落ちてくるため、悪魔にとってはなおいっそう、視界は良好だろう。
「契約を結んだとたんにあんたが自殺しようとしたのかと思ったぜ。珍しく焦っちゃったよ」
「――――」
シャーロットは応じなかった――というのも、応じたが最後、悪態をつきそうだったからである。
とてもではないが平静ではいられない事態に、シャーロットは――少なくとも心情としては――、目が回っていた。
なんとか落ち着こうとしながら、シャーロットは手を叩いて呼ばわった。
「リンキーズ!」
見事に無視された格好になったマルコシアスが、拍子抜けしたように目をぱちくりさせる。
彼女の髪からテントウムシが這い出してきて、じゃっかん迷った様子のあとに、思い切ってカラスに姿を変えた。
シャーロットが差し出した左のこぶしの上に上手くバランスをとって止まり、左脚に鉄色の足枷の嵌まったカラスが、羽をばたばたと動かす。
「マジでどうなるかと思った! 次から、あんな無茶をするなら言ってくれ!
こっちにまであれこれはね返ってくるかと思って走馬灯が見えちゃったじゃん!」
シャーロットは口をぱくぱくさせた。
「こっちだって死ぬ気だったのよ!」という大人げない反撃をなんとか呑み下し、こぶしに爪を立てるカラスに向かって頭を下げる。
「ごめんね、ごめん」
カラスがいっそう羽をばたつかせ、黒い羽根がひらひらと周囲に舞う。
「ってか、こんなとこで立ち止まってどうすんのさ!
動いて! 動いて! 逃げて!!」
「言われなくても」
シャーロットはつぶやいて、すばやく踵を返して、省舎の壁に沿って走り始めた。
省舎の窓から明かりが落ちるほかは真っ暗といっていい時刻だが、窓が多いために辺りはいっそ明るい。
光の池を踏み、夜陰の中を一歩で横断し、また次の光の池へ――
リンキーズが、走るシャーロットの動きに合わせて揺れ、翼を持ち上げてバランスを取っている。
一方、シャーロットを追いかけて走り始めたマルコシアスは、大きく目を見開いていた。
「え、ちょっと待って。ロッテ、そいつ、だれ?」
シャーロットは、直前の出来事のすべてのためにパニック状態に近くなっており、ここにきてそれが爆発した。
思わず、リンキーズが乗ったこぶしをマルコシアスに向かって振り回してしまう。
あわわ、と声を上げ、リンキーズがはばたいて落下をまぬがれ、シャーロットの腕に止まり直す。
「リンキーズよ! 会ったことあるでしょう! それこそ私が十四歳のときに!」
マルコシアスの反応は、「お、おう」というものだった。
じゃっかん引いた目でシャーロットを見て、マルコシアスは走りながらも、落ち着き払って指を鳴らす。
かれが未だに、いつものストールを首に巻き直していないことにシャーロットは気づいた。
そのために、無骨な鉄色の枷が露わになっている。
「まずちょっと落ち着きなよ、レディ。で、ちょっと再会のあいさつでも――」
「こないだしたじゃない!」
シャーロットはわめいた。
マルコシアスが両てのひらをシャーロットに見せる。
「あれは違う――」
「どこが!」
シャーロットは泣きそうになってきた。
おもにパニックのせいである。
リンキーズはリンキーズで、羽をばたばたさせてはしきりに、「で、どうすんのさ!」と迫っている。
「何も解決してないよね!?」
「私が何をどれだけ考えてるかも知らないで、好き放題言ってくれたわね!」
「あーもう! 僕が知ってる! 僕が知ってるから!! だから次のことを考えて! 僕、きみと一蓮托生なんだから!!」
「あ?」
「そもそもあなたがネイサンさまに要らないことを言うから――」
「謝ったじゃん!!」
「ねえ、レディ。本当に話を聞かせてほしいんだけど」
マルコシアスが語調を改めて言って、リンキーズを睨んで黙らせた。
リンキーズは過去のトラウマが甦ったのか、ぴぃ、と、カラスらしからぬ声を上げて、頭をシャーロットの金髪に突っ込んで隠した。
マルコシアスの眉間にしわが寄る。
かれが手を伸ばして、シャーロットの空いている方の腕を掴んだ。
無理やり足を止めさせられた格好になって、シャーロットがつんのめりながら抗議する。
「馬鹿な悪魔ね、急がないといけないでしょ!」
「間抜けなレディだな、まず僕にあれこれ説明して。じゃないとあんたの役に立てないよ」
マルコシアスはそっけなく言って、眉間を指で押さえた。
そしてその指を、ぴっ、とリンキーズに向ける。
「そいつ、思い出したぞ。『神の瞳』を盗んだやつだ」
「ああ、ずっとそれを後悔してる……」
リンキーズが遠い目をしてつぶやき、シャーロットは苛立ちのあまり地団駄を踏みながら、早口言葉もかくやという速度で説明し始めた。
「そうよ! この子があのあと、ネイサンさまに召喚されたときに、報酬が良かったからって全部喋っちゃったの! ほんとに、悪魔ときたら!」
「すみませんでした……」
リンキーズがかぼそい声でつぶやく一方、マルコシアスは堂々と腕を組む。
「まあ、それが僕らってものだからね。
――で、なんで今はあんたといるのさ?」
「アーニーのおかげで、ネイサンさまが怪しいって気づいたから、裏を取るためにこの子を召喚したのよ! それからずっと一緒にいるの」
「ああ、埃っぽい部屋でね」
「お黙んなさい!」
マルコシアスはシャーロットの腕を離し、その場でぐるっと回った。
「まったく分からない。レディ、それっていつのこと?」
「以前にお前を解放したあと、すぐよ」
言いながら、シャーロットはまた足を進め始める。
マルコシアスが小走りになって彼女に追いつき、顔を覗き込んだ。
「あんた、もう二十一になったって言ってなかった?」
「あら、よくご存じですこと」
皮肉っぽくつぶやいたシャーロットに、マルコシアスは膨れっ面を見せた。
「おいおい、レディ。僕はあんたのために、歴史に残るような無粋な裏切りを演じたんだぜ。
ちょっとは過ぎたことを水に流してくれてもいいんじゃないの」
「――――」
シャーロットは息を吸い込み、反駁しようとして、その反駁の中身がないことに思い至った。
――畢竟、悪魔と人間のあいだに成り立つのは、報酬を前提にした主従関係である。
マルコシアスがどこで誰と契約しようが、どのような命令に従事しようが、それはマルコシアスの自由であり、さらにいえば、それはマルコシアスの価値観を物語ることですらない。
自分の価値観をもって仕事を請け負う悪魔などいるはずがない。
なぜならここはかれらの世界ではないのだから――何がどうなろうと、かれらの知ったことではないのだから。
そして何より、悪魔には良心も、慈悲も、愛も、情も、忠誠心もない。
そのはずなのだ。
それを思えば、たった今マルコシアスが示した行動――そこから窺える、あるはずのない忠誠心、あるいはシャーロットへの格別の親しみは、まさに破格のもの、前例のないもの、それこそ歴史に残るものといって余りあった。
「――――」
さらに数秒、黙って足を進めてから、シャーロットはマルコシアスに向き直った。
かれのむっつりした表情が、窓から漏れる明かりの中に見えている。
「――本当にそうね。ごめんなさい。
それから、本当にありがとう」
手品で切り替えたように、ぱっとマルコシアスの表情が変わった。
にやっと得意そうに笑い、マルコシアスが背伸びして手を伸ばし、シャーロットの頭を引き寄せると、そのまま彼女を抱きしめた。
邪険に振り払われたリンキーズが抗議の声を上げる。
それを歯牙にもかけず、マルコシアスはシャーロットの肩に顎を置き、満足そうに囁いた。
「いいんだよ、レディ・ロッテ。
僕のロッテ」
シャーロットは瞬きした。
夏の夜の暖かい風に、どこかで咲く花の匂いが混じって運ばれてきている。
マルコシアスの頭越しに夜空が見えて、白っぽい色で流れる雲のあいだに、星がきらめいていた。
マルコシアスには、人間ならば通常あるはずの、髪や肌の匂いもない。
まるで現実感のない存在が、確かな輪郭と温かさをもってシャーロットを抱きしめている。
迷ったすえに、シャーロットはおずおずとマルコシアスを軽く抱きしめ返した。
それから礼儀正しくかれの肩を押し、距離を取る。
マルコシアスは小首を傾げてみせた。
「――でも、どうして僕をそばに置いておかなかったの?
危ないと思ったなら、僕を召喚すれば良かったでしょ? 僕はこれまでも、あんたをちゃんと守ってやっていたはずだ」
「それは――」
シャーロットは言い淀んだ。
「危ないと思ったのよ。
それに、お前、覚えているでしょう――ベン……ボリスさんのこと。ネイサンさまがあれを見つけてしまって、だから私が魔神を召喚しようものなら、嬉々として私をカルドン監獄に放り込むと思ったのよ。そうしたら、私はあの方に合法的に身柄を押さえられるも同然だし、お前だって……」
ぼそぼそと続けるシャーロットに、マルコシアスはとびきり甘い微笑を向けた。
絶対的な確信と、ほとんど親愛の情すら感じさせるような。
「ああ――可愛いレディ」
かれがシャーロットの手を取って、その手背に頬を寄せる。
「僕がそういうものも含めて全部から、あんたを守ってあげられるとは思わなかったの?」
シャーロットは言葉に詰まり、目をこすり、顔を上げると、答えた。
「――今は思ってる」
マルコシアスは微笑んだ。
かれがシャーロットの鼻の頭をつついて、頷いた。
「それでいい」
リンキーズが払い落とされた地面の上から再度はばたいて舞い上がり、シャーロットの肩に止まった。
そんなリンキーズをちらりと見て、マルコシアスは悪魔の笑みを浮かべた。
「――で? 僕が以前にあんたと会ったのは、あんたが十七のときだ。今はあんたは二十一。そのあいだ、魔精とはいえずっと契約し続けるなんて、それこそ並の報酬で頷かせることは出来ないだろ?
報酬には何を約束したの?」
リンキーズが翼の下に頭を突っ込み、しらばっくれる構えを見せた。
シャーロットも苦笑して、マルコシアスをうながしてまた歩き始める。
だが、意外なことに、マルコシアスは食い下がった。
「レディ? 何を約束したの?」
シャーロットはもろもろを考え合わせ、この話を早く打ち切れるだろう方向に舵を切った。
つまるところ、正直に打ち明けたのである。
「私の死体」
「は?」
マルコシアスがぽかんと口を開けた。
ここまで驚く魔神の顔は貴重である。
シャーロットは真面目に続けた。
「無事にこの局面を乗り越えられたとしても、かれのことは解放せずにおくの。ただ、領域に戻ってくれるのは構わないから、召喚陣を通った正規の手続きで、他の人と契約するのはいいわ。
それで私が死ぬときには、かれに知らせがいくようにして――私に働く側の召喚陣の強制力、あれをちょっといじったのよ。大変だったけれど、頭脳に恵まれていて良かったわ。特製の召喚陣でかれを呼んだのよ」
「――――」
「指一本でも報酬としてはけっこういい方なんでしょ? 身体一つなら、多少の無茶でも絶対に頷いてくれると思ったのよ。読み通りだったわ」
「――――」
マルコシアスは黙りこくっている。
「ただ、かりに私に遺族といえる人がいたら、その人たちに悪いじゃない? だから、頭蓋骨だけは勘弁してねって話にしてるの。お墓に入れてもらえるように。ね?」
同意を求めると、肩の上のカラスは不承不承といった様子で顔を上げ、頷いた。
「――まあ、そうだね。おかげでこき使われて、ひどい目に」
マルコシアスは両手で顔を覆った。
そして顔を上げると、真顔で、きっぱりと言った。
「破棄だ」
「え?」
シャーロットがぽかんと返すのと、マルコシアスが手を伸ばしてカラスの風切り羽根を掴み、それを乱暴に引っ張ってカラスをひっぱり寄せ、かかえ上げるのが同時だった。
「破棄だ。そんな契約。
レディ、今すぐこいつを解放しなよ。“大変だったけど頭脳に恵まれていて良かった”? なにを馬鹿なこと言ってんの。
確かに、僕はあんたの、目的のためなら手段を選ばない、自分も賭け事のチップにしてしまうようなところは好きだけど、それとこれとは話が違うぞ。
――この雑魚め、僕のレディのそんな条件に頷くとは」
羽根をひっぱられ、リンキーズがあわれな声を上げる。
シャーロットはあわててかれをマルコシアスの手の中から救出した。
「馬鹿な悪魔ね、なにするのよ!」
「間抜けなレディだな、あんたが無茶な契約をするからだ」
マルコシアスがむっつりとつぶやく一方、主人の手の中で安全を確保したリンキーズは、ここぞとばかりに煽りにかかった。
「ふん、そんなこと言って、今となっては僕の方がこの子との付き合いは長いんだからね。ほぼ四年間、毎日べったり一緒にいたんだから。そりゃあ僕の方が信用されるさ」
マルコシアスはためらわず、手を伸ばしてシャーロットの頬をつまみ、ぐいっとそれをつねった。
シャーロットは驚いただけだったが、リンキーズは悲鳴を上げた。
「痛い痛い痛い!」
「やっぱりね」
マルコシアスは満足そうにつぶやく。
「僕にその無粋な契約はないぜ。特別扱いはお一人さま限定らしい、悪いね、兄弟」
「お願いだから、私の悪魔どうしで喧嘩しないでくれる?」
シャーロットは切実につぶやき、手の中に庇ったリンキーズを振り回した。
「わっ、おい」
「とにかく、この子のせいでネイサンさまは『神の瞳』の在り処を知って――……待って」
ぱっとマルコシアスを見て、シャーロットは恐怖の表情を浮かべる。
「『神の瞳』は?」
「ここにあるよ」
即答しながら、マルコシアスはじゃっかん気まずそうな顔をした。
目を逸らし、「えーっと」と頬を掻く。
「まあ、こいつが欲しいって話はされた……」
「なんでその時点で領域に帰らなかったのよ!」
シャーロットが魂の籠もった叫び声を上げる。
リンキーズがシャーロットの手の中から這い出して、近くの窓台に飛び乗った。
そこで、落ち着かなげに周囲を窺い、尾羽を揺らしている。
マルコシアスは肩を竦めた。
「あー、いや、わりと筋が通っててさ。
『神の瞳』なんて、持ってるだけで他の魔神から追いかけ回されるだろ? ついでに、さっきまで僕のご主人さまだったあいつ、相当格上の魔神もそばに置いてたからさ。下手に反抗したらやられそうだったんだよね。
召喚されたときに提示されてた報酬も、ぶっちゃけ『神の瞳』と交換でもいいかなってくらいの、もっといい報酬だったし――」
「もっといい報酬?」
シャーロットは復唱し、頑として目を逸らし続けるマルコシアスの態度にぴんときた。
それと同時に吐き気を催し、彼女はふらっとよろめいた。
「待って、もしかして――ネイサンさま、あの人のお兄さまの……子爵領の人たちを食べさせてあげるなんて言ったんじゃないでしょうね?」
マルコシアスはシャーロットをちらっと見て、素直に感心した顔を見せた。
「よく分かるね?」
「お前が、どうやってアガレスが力を増したか私に教えたんでしょう!
――二千人も食べていいって言われたの?」
マルコシアスはまた、さっと目を逸らした。
「あ、いや、二千人だと『神の瞳』ととんとんだろ。ちょっとは上乗せしてもらう約束だった」
シャーロットはたまらず、その場でふらつきながら足を止め、省舎の壁にもたれ掛かってしまった。
「――最低。本当に最低。そこまで下衆な人だとは思わなかった」
マルコシアスが迷ったすえに、シャーロットの背中をぽんぽんと叩く。
「僕に言われても」
「お前じゃないわ、あの人よ。
――本当に最低。
それから、お前がその契約を破棄してくれて本当に良かった」
ネイサンがこれまでも、同じ報酬で悪魔と契約を交わしたことがあるのか、その考えがちらりと脳裏をよぎってシャーロットは怖気をふるった。
ぶるりと身震いした彼女を、二人の悪魔が不思議そうに見ている。
胸のむかつきを懸命に抑えながら、シャーロットは頭の中で状況を整理する。
「――でも、ということは、ネイサンさまは、一度は手に入れたはずの『神の瞳』を失ったわけね……」
頭の中がぐるぐると回る。
『神の瞳』、“気高きスー”の血、アーノルド、アディントン大佐とランフランク中佐。
ネイサンはいつ、シャーロットに追手を差し向けるだろう……すぐにではないだろう、ネイサンからすれば、グレートヒルの中からシャーロットを出しさえしなければ、いずれは人海戦術で捕らえることも出来るのだから。
だからまずは、軍省の完全な掌握と、他の省も押さえることに人手を使うはずで――
「――私の最終的な目標は、」
つぶやく。
とたん、マルコシアスが茶々を入れた。
「僕とあんたでコーヒーを飲むこと?」
「お前はコーヒーが嫌いでしょ。――違うわよ、茶化さないで。
まず第一に、」
シャーロットは指を立てた。
「私が生き延びることよ。
さっきまでは、ネイサンさまに使われるくらいなら死んでもいいと思ってたけど、考えが変わったわ。
あんな人のせいで死んでたまるもんですか」
リンキーズががっくりとうなだれる一方、マルコシアスが微笑む。
「それでこそだ。――他には?」
「アーニーを助けること、とにかくみんなが無事であること――それから、」
シャーロットは両手で顔をぬぐった。
「本当なら、ネイサンさまを突き出すべきところに突き出して、監獄に入れてやることなんだけど、難しいわね」
シャーロットはぐしゃぐしゃと髪を掻き乱した。
「普通なら、今すぐ軍に駆け込んであの人を告発するんだけど、あの人が軍隊の指揮官を押さえてしまっているんだもの。
司法省に駆け込んでもいいんだけど、あの人がそこを見落とすとも考えづらい――いちばん頼れるのは首相閣下だけれど、あの方は……」
足許が抜け落ちたかのように錯覚し、シャーロットは唇を噛む。
「あの方は、もう――」
そこまで言って、シャーロットははっとして顔を上げた。
マルコシアスの、淡い黄金の瞳を恐怖を籠めて覗き込む。
「――エム、お前、まさか、首相閣下のことには……」
「ああ、あの人間を殺したこと?」
マルコシアスは事も無げに言った。
シャーロットはぞっとした――分かってはいるが、悪魔は悪魔だ。
良心の呵責も思い遣りも、欠片もない。
「あれには、僕は関わってないね。
僕はこっちの、」
そう言いながら、マルコシアスは軍省の省舎の壁を指差す。
「中で暴れる方を命令されたから。軍省大臣だっけ? あの人間のところにはちょっと顔を出したりしたけど。
あっちの、」
議事堂の方角を正確に示す。
「いちばん偉いやつを殺しに行くのは、もっと格上のやつが行ったよ」
「――――」
シャーロットは息を止めた。
マルコシアスから目を逸らして、必死に分別をつける。
――マルコシアスは悪魔だ。
命令には忠実に従う。
そしてその是非を判断することは、かれには全くもって意義のないことなのだ。
分かっている。
マルコシアスがどう動いていようが、首相の運命は変えられなかった可能性が高いことも。
「――じゃあ、」
なんとか息を吸い込み、つばを呑んで、シャーロットは額を押さえる。
「誰か……私には誰か、後ろ盾が絶対に必要だわ。事情を分かってくれている方が……」
「うん」
マルコシアスが無邪気に頷いている。
シャーロットはぎゅっと目を閉じて、益体のない考えを頭から締め出し、顔を上げた。
「――エム、本当を言うと、お前には今すぐ領域に帰ってほしいんだけど」
マルコシアスは礼儀正しく、相手の正気を疑っていることが正確に分かる表情を浮かべてみせた。
「は?」
「だって、そうすれば『神の瞳』は確実に無事だもの。
――でも、しばらくは私といて。このままだと、私が殺されちゃいそうだから、他に私が身を守る手段を見つけるまでは」
ぐるぐると考え込み、シャーロットはマルコシアスと目を合わせた。
「――お前と私で、アディントン大佐とランフランク中佐をお助けしに行きましょう。上手くすれば、そのままお二人が私を守ってくださるもの。道中で、他にも助けてくれそうな人を当たるわ」
マルコシアスは肩を竦める。
「はいはい、承知」
シャーロットはリンキーズに目を移す。
リンキーズは焦りのあまり、羽根をぺったりと寝かせて頭をゆらゆらと動かしている。
「リンキーズ、あなたは、」
「はい、ご主人、早いとこ指示をくれ」
シャーロットは爪を噛む。
「まず、エムにアディントン大佐たちの居場所が分かるように、あなたの精霊に道案内をお願いできる?」
リンキーズは渋い顔をしたものの(カラスの顔面で器用なことである)、頷いた。
「――分かった」
「ありがとう、それから、」
シャーロットは踵を上げたり下げたりしつつ、口早に続けた。
「ネイサンさまが言ってたでしょう――アーニーが人質としてここまで連れて来られてるかもしれない。助けなきゃ。アーニーを捜して、出来れば助けて。出来なくても居場所を知らせて」
リンキーズは嬉しそうに頭を上下させた。
「もちろん! もちろん承知!」
「あと、グレイさんにこの事態を知らせて――グレイさん、分かるでしょう、私が初めてあなたと会ったときに、あなたの主人だった人よ。グレイさんならアーニーの顔も分かるし、力になってくれるわ」
リンキーズが羽を広げる。
「了解、了解。あのときのご主人ね、高いところに立ったら足が震えるタイプの人間だったけど、大丈夫そう?」
シャーロットは呻いた。
「私が頼れる人は少ないの。――もう、グレイさんに、あなたが知ってることは全部話していいわ。隠し立てしてももう仕方ないもの」
こっくり、とカラスが頷く。
「合点。――もう行っていい?」
「ありがとう、もちろん、急いで」
シャーロットは頷くや否や、リンキーズがあわただしく窓台から飛び立った。
それを見送る間も惜しんで、シャーロットはマルコシアスの手を掴んで歩き出す。
「いったん軍省の省舎の中に戻るから、私が簡単に人に見つからないように出来る?」
「お安い御用」
マルコシアスは応じて、シャーロットには見えない一点を見つめた。
そのまま、傲慢といっていい口調でつぶやく。
「――さっさと案内して」
「ああ、待って」
シャーロットはあわてて言って、訝しそうに振り返るマルコシアスに向かって、指を一本立てた。
「その前に、電話を一本かけさせて」
▷○◁
軍省の省舎の中は、驚くほど静まり返っていた。
裏口の一つから省舎の中に戻ってそれを見て取り、シャーロットは二つの可能性を天秤にかける。
一つは、役人たちがあの広間から脱出できていない可能性。
武官は指揮系統を押さえられたことで、早急にネイサンの手に落ちたと思ってよいはずだ。
文官もあの広間に――少なくとも、自身の地位を確固たるものにするまでは――留めておきたいのがネイサンの思惑だろう。
もう一つの可能性は、文官たちはあの広間を――シャーロットの起こした騒動にまぎれて――脱出したものの、単にこの周囲にはいないという可能性。
どちらにせよ、周囲に衛兵もいないのはありがたい話だった。
シャーロットは、ガス灯がずらりと並んで燃える廊下を足早に走り抜ける。
靴音が響くことに異常な恐怖を覚えたため、繻子の靴を脱いで手に持つことまでしたが、対するマルコシアスはいつものように、普段どおりに動いて足音ひとつ立てなかった。
かれは悠々とシャーロットについて進んだ。
が、シャーロットがびくびくしながら階段を上がろうとしたときには、すばやく先に立って進み、「誰もいないよ」と身振りで示してみせる気の利きようをみせた。
「――ありがとう」
囁くと、かれは肩を竦める。
「まあ、僕より格上の魔神が見張ってたら、こっちでは気づきようもないから、どうしようもないけどね」
シャーロットは動じなかった。
「そのときはそのときよ。今は運を天に任せるときよ」
かくして、シャーロットは寿命の縮む思いで、二階の廊下の電話ボックスに辿り着いた。
木の板で簡単にスペースが区切られ、三つの電話が並んでいる一画である。
こうした一画は各階にいくつかある――というのも、全てのデスクに電話を設置することは出来ず、他の省の役人とも連絡をとる必要は、頻繁に発生するものだからである。
「どうかどうか、まだお仕事が終わってませんよう……」
つぶやきながら、電話機から釣鐘型の受話器をとって耳に当てる。
マルコシアスはそのそばで気怠そうに壁にもたれ、淡い黄金の瞳で周囲を見渡していた。
この異常事態において驚くべきことに、疲れのみえる、ただし明るい交換手の声がただちに聞こえてきた。
――ネイサンはまだ、交換台を押さえてはいなかったのだ。
「――はい、遅くまでお疲れさま。
どなたさま? どちらへお繋ぎしましょう?」
シャーロットは上ずった声で、電話機からにゅっと生える、釣鐘型の送話口に向かって囁いた。
「軍省のベイリーです。
――技術省の、オリヴァー・ゴドウィンをお願いします」
「技術省――ミスター・ゴドウィン――少々お待ちを。
帰ってたって不思議じゃない時間ですからね」
シャーロットは受話器にしがみつくようにして、祈りながら待った。
雑音のあと、ややあって、ぶっきらぼうな声が受話器の向こうから聞こえてきた。
「――はい、ゴドウィンです」
シャーロットは息を吸い込んだ。
オリヴァー・ゴドウィン――リクニス学院における先輩であり、ショーン・オーリンソンが起こした事件の際には多大な迷惑をかけた相手であり、誰が味方かも分からないこの局面において、頼れる相手として思い浮かんだ、数少ない魔術師。
オリヴァーの声はうんざりしたような苛立ちに満ちている。
電話の向こう側で、殺気立ったような声もしている。
申し訳のなさを覚えると同時に、シャーロットは確信した――ネイサンはまだ、技術省の掌握には至っていない。
もしもネイサンが技術省の支配に乗り出していれば、オリヴァーは電話を取ることは出来なかったはずだ。
――ある意味では、ネイサンがすぐさま技術省の掌握に動かなかったことは、納得できることでもあった。
なにしろ、技術省には魔術師が多い――ネイサンがこの反乱の主旨を告げれば、諸手を挙げてそれを大歓迎する人間も、おそらくは多いのだ。
つまり、脅威になりやすい軍省と司法省に、まずは人手を回したのだと考えるべきだった。
「――オリヴァーさん」
シャーロットは囁いた。
「あの……お久しぶりです。ベイリーです。リクニスで一緒だった……あの」
「なにを怖気づいてんのさ」と、マルコシアスが舌打ちしたが無視する。
シャーロットは四年前からこちら、決して褒められたものではない態度を、オリヴァーに対して示している。
はたせるかな、電話の向こうで、オリヴァーが軽く驚いたような皮肉を籠めて言った。
「ああ、俺のことを覚えてたのか。びっくりだな。
――で、急にどうした? こっちはこっちで、かなり立て込んでいるんだが」
「本当にすみません」
シャーロットは囁き、周囲を窺う。
マルコシアスがその視線をとらえて頷き、「まだ大丈夫だよ」となだめた。
ほっとして、シャーロットはのっぺりとした電話機を睨んだ。
「オリヴァーさん――オリヴァーさんだけではなくて、ノーマの人生にも関わることなんです、お願いします、聞いてください」
「――は?」
オリヴァーが、電話の向こうで大きく溜息を吐いた。
「おい、落ち着けよ。軍省はかなりしんどいって言うが、そのせいか?
まあ、今日はもう帰れ。俺が言うことじゃないけどな」
「オリヴァーさん、あの――」
シャーロットは息を吸い込んだ。
「――お願いがあるんです」
オリヴァーの声に、あきらかな警戒が籠もった。
「お前、リクニス学院でも俺をひどい目に遭わせただろ。そのあとは急に無視してきたし」
「本当にすみません」
シャーロットは喰い下がり、ぎゅっと受話器を握り締めた。
「あのときと同じ問題なんです。
――お願いします、オリヴァーさん」
息を吸い込む。
「……チョークと『魔神便覧』を持って、助けに来てください」