05 レディ・ロッテ
広間はしんと静まり返った。
あまりにも現実離れした言葉が、おのおのの頭に沁み込むまでに時間が掛かったというように。
ネイサンは礼儀正しく、その間を待った。
そして、茫然としたような囁き声が漏れ出すに当たって、片手を挙げてそれを留めた。
辛抱強さすら感じさせる声で、彼は言った。
「――何も無茶な頼みをするつもりはない。今夜にも私は実権を握る。国王陛下の承認を得て、私の地位が正当なものになるまで長くは掛かるまい。
諸君らは、」
片手を下ろし、ネイサンはその両手を、鳩尾の前で握り合わせる。
「ただ、私に諸君らの有用性を示してくれ。出来ると信じている、なぜならきみたちは、優秀であるがゆえにわが省の敷居をまたぐことを許されたのだから。その能力がないならば、取るべき態度はおのずから明らかだ。
反抗してくれて構わない、だが、その代償が高くつくということは、重々承知しておいてほしい。過剰な自信と頭脳の欠陥のゆえの失敗は、時として生命で贖わなければならないほどに重くなる」
そのとき、役人たちが動いた。
あまりに静かで、あまりに小さな動きだった。
最初に動いたのが誰なのかすら、当事者たちにとっても分からないことだった。
あとからこのときのことを回顧した者たちは一様に、「自分が最初に動いたのではない」と言った。
まるで、互いが互いのうちにある、一つの善性を固く信じあって、それゆえに動いたかのように。
じりじりと役人の人波が動いた。
ほとんど茫然としながら、シャーロットも同じく動いていた。
窓際に固まっていた役人たちは、互いを互いの陰に庇うようにしながら、ゆっくりとカタツムリが首を伸ばすかのような動きで、反対側の壁際へと移っていた。
だがそれは、扉から逃走するためではなかった。
動けない怪我人を庇うためだった。
誰かが彼らのそばに屈み込んで、「大丈夫か」と尋ねるためだった。
――まさに、抜き身の剣を突きつけられているに等しい、装填された銃をこめかみに突きつけられているに等しいこの状況において、表出した人間の性質のひとつ、彼らを突き動かした、軽視すべからざる情動は、思い遣りだった。
その一つの、ささやかな、ただし限りなく深い善性だった。
ネイサンは、この動きには無関心だった。
彼は儀礼的に微笑んでいた。
「――そして、長くここに留め置いて申し訳ないが、諸君がただ家に帰り、家族と団欒を囲みたいというならば、私とてそれを邪魔だてするほど無粋ではない。だが、許してほしいが、今夜ばかりは私も諸君を信じて安穏とはしていられない――」
「首相は?」
誰かが声を出した。
その周囲で、一斉に役人たちが首を竦めるのが分かる。
「しっ」と咎めるような声も上がったが、その声の主は懸命に続けた。
「首相は――それに、軍省大臣は――どうなさっているんですか」
ネイサンは頷いた。
「ああ、もちろん気にかかるだろう――安心してほしい、私も疑問を禁じたわけではない。
軍省大臣におかれては、今は執務室においでだ。先ほどまで、私と少々話し合いをもってくださっていた。私のことを理解してくださるには、今少し時間がかかるかもしれないと思っている。
首相は――」
ネイサンは首を傾げた。
口許に薄い微笑が漂った。
「残念ながら、二度と諸君のお目にかかることはない。――残念だ」
マーガレットが声にならない悲鳴を上げて口許を押さえるのを、シャーロットは視界の端に見た。
ざわめきが走り、役人たちが顔を見合わせる。
あるいはぽかんとしてネイサンを見つめている。
ネイサンはそれらは意に介さず、今度は明確な目的をもって、役人たちを見渡した。シャーロットは無意識のうちにその場にしゃがみ込んでいた。
――見つかればただではすまない。
逃げなくては。
この心臓と血を抱えて逃げなくては。
あるいは、今すぐ死ななければ。
シャーロットが死ねば、その瞬間にネイサンの目論見は外れる。
本当に、昨日のうちに死んでおくべきだったのだ――
シャーロットがしゃがみ込んだのを、気分が悪くなったがゆえだと思ったのか、そばにリーが同じく屈み込んでくれた。
彼がひそめた声で囁く――
「――大丈夫?」
シャーロットはこくこくと頷き、人々の肩のあいだを縫って見上げるようにして、ネイサンの顔を見つめた。
耳許でしきりに、「どうするの?」と急かす声がしている。
「どうすんの? 逃げられそう? 牢屋の大佐と、どっかにいるアーニーはどうすんの?
ねえ、馬鹿みたいに同じことばっかり訊かせないでよ」
シャーロットは思わず、それに応じるために声を荒らげそうになり、
「――――」
――アーニー。アーノルド。
彼をどこから助け出すべきなのか知っているのは、シャーロットただ一人である、彼。
――『そこまでしてくれるって言うんなら、きみこそおれの価値の証明だ』
――『期待外れを神さまと人に向かって言うのはナンセンスだと思ってるけど、きみは期待外れをどうこう言う前に、神さまにでも人にでも、絶対に一枚上手をいってやりこめてやるって感じがしてるよね。そういう態度のきみを思い出してるのは、けっこう楽しい』
(――私が死んだら、誰が彼を助ける? それに、それ以前に……)
ネイサンはあきらかにシャーロットを捜している。
視線が何度も役人たちの上を往復する。
やがて、ふう、と息を吐いて、彼が呼びかけた。
「すまない、皆、そこに膝を突いてくれ」
ざわめき――小さな呻き声。
膝を突け、という、自尊心があれば従いかねる命令に、役人たちが低くどよめく。
ネイサンが面倒そうに片手で合図した。
それを受けて、マルコシアスとモラクスが一歩前に出る。
息を呑む気配があって、役人がばらばらと膝を突いていく。
うつむいて、床を見つめて、震える肩が複数ある。
――この異様な光景。
――この状況にあって怪我人を庇う、確かな善性を多少なりとも持っている人々に対して、なんというふるまいの強要。
シャーロットは眩暈を覚える。
いっそう身を縮めながら、額を押さえる。
(待って、これは……土台から、おかしい)
この局面、まさにネイサンが王手をかけたに等しいこの局面、おのれの生命ひとつで国ひとつを贖うことを考えなければならないこの局面において、本当に久しぶりに、シャーロットの胸の中で、十四歳のときの彼女が声を上げた。
(本当におかしい。どうして私が真剣に死ぬことを検討しないといけないの? 私はただ、夢を叶えて学芸員になりたかっただけなのに、なんでこんなところで死なないといけないの?
あきらかに間違ってるのは私じゃなくてあっちなのに――なんで私が自分を曲げなきゃならないわけ?)
軍省に入省してから二年近くのあいだで、擦り切れ、疲れ切り、徐々に徐々に失われていった彼女の本質、負けん気の強い、おのれが望む人生以外は願い下げだと言い切るだけの苛烈な気性、その激烈な自我が、おのれの生命の尊厳の危機にあって、息を吹き返したようにシャーロットの中で堰を切って溢れ出した。
――シャーロットは息を吸い込んだ。
確かに、ネイサンに見つかればただでは済まない。
ネイサンはチェックメイトを望むだろう、シャーロットの血を望むだろう。
シャーロットにとっての最善手は、ここから上手く逃げ出すことであり、プロテアス立憲王国にとっての最善手は、ここでシャーロットが命を絶つことであり――
(――くそ喰らえだわ)
――『どうした、善人のふりか、レディ?』
――『僕は知ってるぞ――あんたは結局、自分のやりたいことのためなら、あんたが生きたい人生のためなら、大抵なんだって犠牲にするんだ』
シャーロットのこれまでの人生において、彼女に愛情を向けてくれた人は少なくない。
両親、学友たち、グレイ、チャールズ・グレース、アーノルド――
――どうして、この、今まさに壇上に立っている、あの男の歪んだ倫理観のために、彼らがシャーロットを失わなければならない。
どうして、シャーロットが自分の人生を諦めなければならない。
まったく筋が通らない。
そして、ああ、その筋の通らなさがゆえに――
(――本当に腹が立つ!)
今、自分がしたいことはなんだ――自問する。
そして、打てば響くように自答する――ネイサンに一泡吹かせてやりたい。彼の目論見を砕いてやりたい。そして失望した顔が見たい。
今このときのシャーロットには何もない。
庇護者を失い、彼女自身には何の力もなく、シャーロットの独力で出来ることなど何もない。
――だがそれでも、切れるカードがあるとすれば。
――賭けてもいいと、この賭けに負けるならば仕方がないと、そうまで思えるものがあるとすれば。
それは――
シャーロットは大きく息を吸い込んだ。
そばでうずくまるマーガレットが、目を丸くしてシャーロットを見た。
涙で化粧が崩れている。
まったく無意識のうちに、シャーロットは彼女に微笑みかけていた。
そして、立ち上がった。
すぐそばにいるザカライアス・リーが、喉の奥で声にならない悲鳴を上げる。
彼が慌てたようにシャーロットの手を引き、ふたたび膝を突くよう促した。
リーのてのひらも汗が滲んでいる。
シャーロットはそちらを見もせずに、手を振り払ってその場に立っていた。
どよめきが広がっていく。
マーガレットにいたっては、今にも気絶せんばかりに目を見開いている。
シャーロットは眩暈を覚え、膝が震えていることを自覚する。
息が上がるのは緊張のためだ。
足の爪先にも指先にも感覚がない。
この真夏でさえ、背中が冷えていくような感覚――
当然、ネイサンも彼女に気づいた。
シャーロットの橄欖石の色の瞳を見て、彼がにっこりと微笑んだ。
「――やあ、シャーロット」
ネイサンはそう言って、大理石の壇上で、一歩前に出た。
役人たちが息を呑む気配。
いく人かが、見ていられなくなったのか顔を覆った。
衛兵の中にさえ、顔をそむける者があった。
だが、彼らの案に相違して、ネイサンはおだやかに続けた。
「顔を見せてくれて嬉しいよ」
「――――」
シャーロットは応じなかった――そんな余裕はとてもない。
ただ浅い息を継いで、精いっぱい息を吸って、何度も唱えたことのある呪文を、唇に載せ始めた。
――埃っぽい、大叔父の屋敷の無人の一室を思い出しながら。
あるいは使われていない教室で、魔精に追われながら慌てて唱えたことを思い出しながら。
――〈召喚〉の呪文。
シャーロットの耳許で、「はい?」と、面喰らったような声がする。
「召喚陣は!? ちょっとちょっと、正気!?」
ネイサンは怪訝そうに眉を寄せている。
このときばかりは彼も警戒を顔に昇らせた。
「――その子から離れて!」
ネイサンが鋭く声を上げ、とたん、水が引くようにすばやく、シャーロットの周囲の人々が腰を上げ、互いにつまずいて転びそうになりながら、彼女から離れ始めた。
目を見開いているマーガレットを、リーが転びそうになりながらも引っ張ってくれている。
シャーロットの周囲の人波に円形の穴が開いたような状況になって、ネイサンはいっそう訝しげに眉を寄せた。
シャーロットにも分かった――彼は、シャーロットの足許に召喚陣があることを予期していたのだ。
シジルを確認するつもりだったに違いない。
そして、疑惑に満ちたネイサンの瞳がシャーロットの顔に戻ると同時に、シャーロットは〈召喚〉を唱え終えていた。
――召喚する悪魔は決まっている。
彼女が呼び出したことのある唯一の魔神、この状況において、賭けてもいいと思える唯一の悪魔。
七十二の魔神のうち、序列三十五番に数えられる魔神。
「――〈マルコシアス〉!!」
さしものネイサンも、その瞬間はあっけにとられたようだった。
目を見開き、ぽかんとしてシャーロットを見つめている。
同時に、役人たちの中の魔術師からも、唖然としたようなつぶやきが上がり始めていた。
「……なにを考えている……」
呼ばれたマルコシアスもまた、軽い驚きを顔に浮かべ、肩を竦めてネイサンの隣に立ち、かれの主人の顔を窺った。
それを見て、ネイサンは笑いながら首を振った。
身振りでシャーロットを示し、彼がマルコシアスを促す。
「――付き合ってやれ」
シャーロットの足許に召喚陣はない。
円にシジルを描くことすらしていない。
この召喚の方法――理論上でのみ可能であり、現実に成功した事例は一つもない方法。
すでにこの交叉点に顕現している悪魔とのあいだで、一切の召喚陣とシジルを略し、〈召喚〉を唱えることのみで契約に持ち込む方法。
マルコシアスはネイサンに召し出され、ここにいる――ゆえに、理論上は可能だが、一方これは、まったくもって現実的な方法ではない――マルコシアスはネイサンと契約関係にある。
先に契約している魔術師を捨てて、別の魔術師に乗り換えることを迫られているのだ。
そして、それに頷く悪魔は、まずいない。
ネイサンの身振りと言葉を受けて、マルコシアスはまた肩を竦めた。
モラクスがその背後で、何かをつぶやいた。
マルコシアスが振り返り、それに応じるように両手を軽く広げてみせる。
二人の魔神はともに、呆れ果てているようだった。
モラクスがマルコシアスに向ける眼差しには憐憫すらあり、そしてかれがシャーロットに向ける目には、あきらかな軽蔑がある。
マルコシアスが億劫そうに大理石の壇を下り、足音もなく、すたすたとシャーロットに向かって歩き始める。
かれの通り道にいた役人たちが、飛び退くようにして道を開け、固唾を呑んで、少年の姿の悪魔の背中を見送った。
そうして、マルコシアスはシャーロットの目の前に立った。
両者の距離はわずかに三歩、リーもマーガレットも、気絶せんばかりに緊張してシャーロットを見ている。
今にも彼女が魔神に引き裂かれることを予期しているかのような目だ。
マルコシアスがその位置で、わざとらしく踵を鳴らして到着を示した。
そのとたん、おそらく誰もが、文献上ですら知らなかった現象が起こった――マルコシアスの首から、ネイサンの黄金の枷が外れたのだ。
外れた枷が、摩訶不思議にも、ふたたびマルコシアスを捕らえるまで待機するようにして、その高さで震えながら宙に浮かんでいる。
マルコシアスは、枷が外れた拍子にずれたストールを、面倒そうに足許に投げた。
そのストールがたちまちのうちに、すうっと薄れて消えていく。
それを見ることもなく、マルコシアスはトラウザーのポケットに手を突っ込み、伸びすぎた灰色の前髪の下の、その淡い黄金の双眸で、まじまじとシャーロットを眺める。
――今はもう、この姿のかれよりも背が高くなったかつての主人を。
はあ、と、うんざりしたように大きく溜息を吐くと、マルコシアスはポケットから手を出し、両手を軽く広げてみせた。
「――さて、召喚者、要請者、僕の主人たろうとする魔術師さん。
例のない無粋な申出は不快だが、これは約束事だ。あんたの望みと報酬を聞こう」
シャーロットは唇を噛む。
――成功の可能性が、限りなくゼロに等しいことは分かっている。
シャーロットには、この魔神に報酬として提示できるものは何もない。
シャーロットが賭けたのは、かつて何度も彼女を助けてくれた、マルコシアスの稀有な厚情、「あんたのことが好きだよ」と言っていたかれの、魔術師にとっては不幸しか招かないはずの、悪魔からの関心のみで――
――耳許で、あの日のスイセンが風に揺れる音を聞いたような気がした。
冷えた空気の中で座り込んでいた花壇の――
「――お前が、」
囁く。
マルコシアスの、無関心で面倒そうな、淡い黄金の瞳に向かって。
かれの名前を教えてくれた悪魔、かれの領域に招いてくれた悪魔に向かって。
「お前が、もう一度私を助けてくれるなら、私は、」
マルコシアスはただ聞いている。
顔貌は彫刻のように動かず、まだ幼さを残す造形が、その雰囲気とは不似合いな、達観した冷ややかさを浮かべている。
「エム、お前に――私が変わってないってことを、」
マルコシアスが瞬きする。
「十四歳のときから何も変わってなんかいないんだってことを、」
魔神の表情が変わる――淡い黄金のその双眸の奥で、何かが動く。
シャーロットは囁くように。
「見せてやる。
――お前に、十四歳のときと変わらない、私の心根を見せてあげる」
「――――」
ネイサンが、弾かれたように笑い出した。
さすがに彼の意表を突けたらしい、マルコシアスがどう答えようとも、それでわずかに溜飲も下がろうというものだ。
そう思いながらも、しかし必死になって、シャーロットは悪魔の顔色を窺おうとする。
かりそめのその双眸、にせものの顔貌の、つくりものの表情を。
「――ああ、シャーロット。きみはリクニス学院で、もう少しまともに勉強をしていたものと思っていたけれど」
ネイサンがなんとか笑いを収めてそう言って、彼の魔神に合図した。
宙に浮いたままの黄金の枷が、きらりときらめいた。
「マルコシアス、もういい――お遊びはここまでだ。戻れ」
「――――」
マルコシアスは振り返らなかった。
かれが瞬きし、ふいに微笑んで息を吸い込んで、
▷○◁
たぶん、今だった、と、マルコシアスは思う。
かつてかれ自身が、折れないスイセン、砕けない硝子細工と評したシャーロット・ベイリーの心根が、――もう完璧に失われたものだと思っていたその心根が生きていたとしても、それがついに完膚なきまでに折れ、砕けるとすれば、今だった。
つねに頭の中で倫理観を学問し、おのれの突き進むべき道と、その倫理において導かれる道とを天秤にかけ、そのつり合いを取ろうともがく、度外れた頑固者。
その傲岸なあやうさ。
その二つの心根、二つの意地のあいだの矛盾が、今こそ露わになり、明るみに出たはずだ。
――マルコシアスにでも分かる。
シャーロットが今、彼女の倫理のためになすべきことは、〈ローディスバーグの死の風〉の再来を避けるべく、みずから命をなげうつことだ。
そして一方、シャーロットの激烈な自我、おのれが望む人生の他は願い下げだというほどの苛烈な気性は、そのような自決は許容すまい。
――その矛盾のゆえに、シャーロットが折れるとすれば、今だったはずだ。
それに加えて、この魔術師は愚かにも、かつて悪魔に信頼を寄せたことがある。
その信頼すら裏切られているのだ、心根が折れるには、いっそうもってこいの場面だっただろう。
――『もしも自分の心臓を取り出してだれかに預けないといけないのなら、私はお前に預けるわ』
そうまで信頼した悪魔が、彼女ならば決して容認しないだろう命令に従うのを目の当たりにして、彼女の倫理を踏み躙る真似をして、目の前にいるのだ。
かつてマルコシアスが何よりも楽しみにした一幕、――矛盾を抱えてなお、その傲岸なあやうさを掲げて邁進していくシャーロット――彼女が折れて砕ける様を特等席で観覧したいという、以前からのたっての望み。
それが叶うとすれば今しかなく――
――それが叶わないならば。
――この局面にいたってなお、シャーロットが再起してのけるのならば。
かすかな落胆がある。
悪魔の心根が落胆している。
そして、しかし、同時に、ああ――これは。
――かれがこよなく好んだその心根、あの傲岸なあやうさを、シャーロットが今このときでさえ堅持して、運命を許容してなお人生を選び取る、そのあがきを止めないならば。
かつて海辺で、焚火を前に並んで座っていたときに、かれの本当の名前を彼女に教えさせたもの。
おのれの領域に招いてまで、目の前から失せることを防いだもの。
他の魔術師に仕えていてなお、彼女の顔を見るために足を運ばせたもの。
かれの掌中の珠。
それがもう失われないというのならば。
ならば――ならば、それは、もう、
▷○◁
マルコシアスがシャーロットの手を取った。
――シャーロットは大きく息を呑んだ。
心臓が、肋骨を折ってしまうのではないかと思うほど激しく打っている。
目が回りそうで、しかしその一点、マルコシアスに軽く握られた手の感覚、それをもってシャーロットの正気が保たれている。
周囲の、魔術師以外の者たちは、ただただ訝しげにしている――その一方で、リーをはじめとした魔術師たちは、信じ難いものを見たように目を見開き、声も出せずに愕然としてその魔神を見つめていた。
モラクスですら唖然としている。
何かの見間違いかというように、牡牛の頭が左右に振られて、愕然としたようにマルコシアスを見ている。
どうやら、マルコシアスを止めてやるべきかを真剣に思案しているらしく、かれの隆々とした腕が、中途半端に伸ばされていた。
だが、驚きのあまり絶句しているのか、声が出ていない。
広間に静寂が満ちる。
マルコシアスがその場でゆっくりと足を引く。
本当にあの冬の日――スプルーストンのさびれた駅でしたように、かれはシャーロットの前に丁寧に跪き、頭を下げた。
彼女の手背を押しいただき、まさにその瞬間は、主人に忠誠を誓う騎士の手本のような姿勢で。
そして、応じた。
歴史上類を見ない、傲岸不遜なこの召喚に。
「レディ・ロッテ、なんなりとご命令を。
仰せのとおりにいたしましょう、ご主人様」
途端、形容し難い音が轟いた。
――無理に喩えるならばそれは、巨大な錠を下ろす音、あるいは何かの歯車が回り始める音、あるいは時計の針が動く音だった。
――契約成立。
マルコシアスの首に鉄色の枷がかかると同時に、その背後で震えながら宙に浮かんでいた黄金の枷が、あえかな金属音とともに、かすみとなって消失する。
「歴史が動いた!!」
誰かが叫んだ。
魔術師の誰か、前例のないこの事態にわれを忘れ、状況を忘れた誰かだろう。
それを皮切りに、わっと声が上がる。
誰か、今日の日付を覚えておけよ。
シャーロットの目の奥が熱くなり、ほとんどその瞬間は、自分が立っているのか倒れているのかも見失っていた。
あるいはこれは夢なのか現実なのか、その区別もつかないほどの感情の激流があり、しかしそれに屈して泣いている暇などもちろん無く、
「エム、命令よ――」
ネイサンは無表情だった。
信じ難いものを見たような驚きも、まして悔しさや動揺など欠片もない顔で、ただ、すっとモラクスに向かって手を伸ばした。
モラクスが牡牛の頭を軽く振り、溜息をつくような仕草のあと、どこからともなく銀色の小刀を取り出して、それをそっとネイサンのてのひらの上に置く。
なんのためらいもなく、ネイサンがその小刀を鞘から引き抜き、おのれの喉にあてがった。
「私を守って!!」
ネイサンが思い切り小刀を引く。
血がしぶくべきところ、その気配はない――なぜならば彼には多数の悪魔がいる。
モラクスが喉を押さえて呻き、その場に膝を突いた。
同瞬、シャーロットの耳許で、魔精が痛みの気配に息を呑み、
「――――?」
はじめて、ネイサンが純粋な驚きを表情に浮かべた。
「知らなかったの?」
シャーロットのそばにマルコシアスが立っている。
シャーロットの肩を抱き寄せ、神秘的な契約が厳正に定めるところに従ってはね返った損傷を、かれ自身の魔法で妨害している。
――〈身代わりの契約〉を、その契約外にいる悪魔ならば堰き止めることが出来るということを、シャーロットは初めて知った。
彼女としては、ネイサンも――召喚している他の悪魔、具体的にいえば、マルコシアスよりも格下の悪魔たちを、一息に使いものにならない状態に陥らせることは避けるだろうから――、自傷するにせよ限度を守るだろうという考えがあった。
ならばその傷を、契約している悪魔に負担させることになったとして、恨み言はもらうだろうが致命的な事態にはならない。
――そう考えていたのだが。
通常ならば起こり得ないこの事態に、周囲はいっそう騒然としている。
シャーロットを完璧に庇いながら、マルコシアスはまっすぐに、誇らしげなまでの仕草で、ネイサンを指差した。
「僕のレディは僕とのあいだに、その無粋な契約を結んでいたことはない!!」
――先に契約していた魔術師を裏切り、他の魔術師の召喚に悪魔が応じた場合、その悪魔と一人目の魔術師と結んでいた〈身代わりの契約〉が、二人目の――新しい主人となる――魔術師に転嫁されることになる。
順当にいえば、さらにその二人目の魔術師も悪魔とのあいだに〈身代わりの契約〉を結ぶ以上、結局のところ一人目の魔術師がその瞬間に自刎すれば、その損傷は悪魔に跳ね返ることになる。
――それがなかった。
マルコシアスに、なんらの損傷も転嫁されなかった――それどころか、シャーロットが転嫁された傷を受けるところを、間一髪で防ぎすらした――
――その驚きが、はじめてネイサンの瞳を満たしている。
シャーロットは状況を見てとった。
ネイサンはおそらく、〈身代わりの契約〉を逆手にとって、結局のところマルコシアスを傷つけることが出来ると踏んでいた。
だからこそ、躊躇いなくみずからの首を斬った。
そしてその損傷は、等しく他の悪魔にも跳ね返っているはずだ――ウォルポールの、『不可分性の原理』によれば。
つまり、モラクスも浅くはない傷を負ってあえいでいる。
それどころか、他の悪魔たちも――
(今しかない!)
少なくともこの状況、ネイサンが王手をかけた状況から、わずかでも猶予を生むなら今しかない。
「エム!」
シャーロットは悲鳴じみた声で命令した。
ネイサンがちらりとモラクスを振り返って、何かをつぶやいている。
モラクスの牡牛の頭は苦しげにうなだれている。
その手がぴくりと動いて腕が上がる――
シャーロットは総毛だった。
「この場の全員を守って!!」
マルコシアスはくるっと手を動かした。
かれが囁く。
考えるまでもない、かれの精霊に向かって告げているのだ。
「命令は全部取り消し」
シャーロットは一歩後退り、茫然とした役人たちを見渡して、
「どいてください!」
叫んだ。
「は?」
愕然とした声がいくつも上がり、しかしそれを待つ余裕もなく、シャーロットは窓に向かって走り出した。
突進してくるシャーロットを避けようと、役人たちが次々に立ち上がっては飛び退いていく。
モラクスが腕を振った。
序列二十一番はさすがというべきか――ネイサンの自傷による打撃から、すばやく立ち直りつつあるようだった。
まだ苦しげに膝を突いているが、顔を上げることはしている。
マルコシアスがその場に立って、ぱちんと一度、指を鳴らした。
無数の火花が広間のあちこちで弾け飛び、銅板が打ち鳴らすような音がして、役人たちが悲鳴を上げる。
シャーロットの目の前でも一つ火花が散って、シャーロットは目がおかしくなるかと思った。
「――ついさっきまで仲間同士だったのに、悪いね、モラクス」
マルコシアスが飄々と言った。
「あと、まだ本調子じゃないみたいだから、無理しないでおけば」
モラクスが雷鳴のような声で応じる。
「序列をわきまえろ、マルコシアス」
「気が向いたらね」
のんびりと応じながらも、マルコシアスはさらにすばやくいく度か指を振って、モラクスの魔法を喰い止めた様子だった。
「ロッテ!?」
マーガレットが混乱して叫んでいる。
今や、膝を突いていた姿勢を維持している者は一人もいない。
広間中が混乱し、騒然とし、逃げようと扉に走る者、怪我人に駆け寄る者が錯綜し、足音が入り乱れ、あちこちで役人どうしが衝突しているありさまだ。
怪我人の中には、マルコシアスに襲われた者もいる――彼らが、状況が分からず悲鳴を上げている。
シャーロットはようやく窓に辿り着いた。
焦るがあまりにもたつきながらカーテンを開け放つ。
彼女が手を触れる前に、音を立てて窓が開いた――これはマルコシアスのしわざではない。
シャーロットは窓枠に手をかけた。くるりと振り返る。
ネイサンがシャーロットの動きに気づいて、初めて声を荒らげていた。
「モラクス!」
モラクスがこちらを見る。
表情の読めない牡牛の顔。
その顔が、まさにそのときマルコシアスが放った魔法を受けて、もんどりうって後ろへ倒れた。
シャーロットはネイサンだけを見ていた。
二人の目が合った。
ネイサンが眉を上げる――“きみが〈身代わりの契約〉を結んでいないなら、落下の衝撃からきみの身を守るものは何もないぞ”。
その意味を理解して、シャーロットはかすかに微笑んだ。
もちろん、〈身代わりの契約〉はある――相手がマルコシアスではないだけだ。
その契約に繋がれた悪魔が耳許で、「早く早く」と急き立てている。
シャーロットは手を振った。
戦略ではなく、腹が立ったがゆえにそうしていた。
そして、顎を上げて言い切った。
「――それでは、ごきげんよう、ネイサンさま」
そして、一切の躊躇いを見せず、窓の外へ身を躍らせた。
広間が沸騰したような騒ぎになる。
マーガレットがリーの腕にしがみついて悲鳴を上げる。
無人になった窓辺にカーテンが揺れる――
その瞬間、顔色を変えたマルコシアスが、聴衆などものともせずに、前のめりになって窓へ向かって駆け出した。
駆けるというより飛ぶといった方がふさわしいその疾走、一秒とかからず、マルコシアスは主人を追って、暗い窓の外へ飛び出していた。
「…………」
ネイサンは瞬きして、室内に目を戻した。
そして、鼻を鳴らした。
――役人たちには厳重な魔法がかけられている。
序列三十五番といえど、『神の瞳』で力を増した状態のマルコシアスが、おそらく全力で掛けた守護の魔法だ。
モラクスといえど突破には時間がかかろう――〈身代わりの契約〉がもたらした衝撃から立ち直り切っていない今は、なおいっそう。
当の役人たちは、その魔法には気づいていないのか、もはや広間の中は恐慌状態といっていい事態だ。
若い娘が一人、窓に駆け寄り、カーテンに縋りつくようにしてシャーロットを呼んでいる。
ネイサンは息を吐くと、懐から懐中時計を取り出し、時刻を確かめた。
――七時過ぎ。
「……少し予定に遅れている」
彼はつぶやくと、大理石の床の上で踵を返した。
「行くよ、モラクス」
指を鳴らす。
とたん、そばに不自然に頭の大きな小男の姿をした魔神が現れた。
魔神は頭上に大仰な王冠を戴いており、飾り立てられた赤い服を着ている。
「――ベリト」
呼ばわって、ネイサンは横目で序列二十八番のベリトを見遣った。
かれもまた仏頂面で、つらそうに頸を押さえている。
そんなかれに、ネイサンはおざなりに手を振った。
「――アーノルドを連れておいで」