04 さあ、革命だ
ネイサンは言っていた。
“予定の変更があった”と。
――このことか。
シャーロットは眩暈を覚えてよろめいた。
まるで現実感がない。
聞かされたところで事実が現実になるわけではない。
シャーロットの頭の中では、まだ首相は生きている。
だが一方で、知らせの意味を理解した胸が張り裂けそうになっている。
――では、では、チャールズ・グレースは、もうシャーロットの謝罪の届かぬ場所に行ってしまったのだ。
その事実の、その知らせの、なんと冷たく硬いことか。
シャーロットは両手で口許を覆った。
彼女の心が、何かに向かって激しく抵抗していた。
現実への抵抗だったのかもしれない。
首相は死んでなどいない、と、その一点を現実に呑み込ませようとして、シャーロットの心がむなしく身悶えしている。
その一方で、冷静さを残した頭が、すとんと事情を呑み込んでいた。
――この不可解な衛兵の誘導はネイサンの指示によるものに違いない。
ネイサンがどうして唐突に、これほど大胆な真似に出たのか――それは首相が、ネイサンを留めていたただ一人が、その力を失ったからだ。
ここから先は独壇場。
(手遅れだったんだ)
シャーロットは茫然と考える。
機械的に足が動く。
(ネイサンさまは、ひいお祖母さまの呪文を突き止めた――だからこそ、マルコシアスを召喚して『神の瞳』を手許に置いた……私はもう手許にいたから。それで準備が整ったんだ。
あの人が、マルコシアスを召喚したときには、もう何もかも手遅れだったんだ)
昨日の、首相の顔を思い出した――あの疲れたような顔。
彼はずっとシャーロットを守っていたに違いない、シャーロットが思うより深く。
そして昨日には、終わりが近づいていることも把握していたに違いない――
――このとき、真剣に、シャーロットは自決を考えた。
自分が死ねばネイサンの目的は潰える。
打てる手はおそらくもうこれだけだ。
一矢報いる方法もこれしかない。
そばにいるこの悪魔も、報酬を思ってさぞかし喜ぶことだろう――
そのとき、くだんの広間に行き着いた。
シャーロットにとっては、入省式以来の広間だった。
天井は高く、五階までの高さが吹き抜けになっている。この真上、五階は、ちょうどこの場所が壁になっているはずだ。
天井近くから床近くまで伸びる縦長の窓が、規則正しくいくつも開いているが、今はその全てに深紅の天鵞絨のカーテンが引かれている。
足許は磨き抜かれた寄木細工、壁は象牙色で、見上げた天井は臙脂色に塗り込められている。
大きなシャンデリアが下がり、壁際にぐるりとガス灯も設けられており、広間の中は真昼のように明るい。
広間の前方は一段高くなった壇になっており、そこだけは床が白い大理石になっている。
入省式では、この壇上に軍省大臣が立ったのだ。
衛兵は、広間の中にまで立っていることはなかった。
ただ、広間の外に複数人が立って、ここまで歩いてきた役人の行列を、いかめしい顔で睥睨している。
彼らが乱暴に手を振って、中に入れと役人たちを急かした。
役人たちは辟易とした表情でそれに従う。
その中に、つまずきそうになりながらシャーロットも混じっている。
中にはすでに、相当数の役人が詰めかけている。
百人は下らないのではないかとシャーロットは思った。
どの顔も不満そうで、そこにひとしずくの不安が滲んでいる。
後から広間に流れ込む人波を捕まえて、退屈していたらしき彼らが、「なあ、何がどうなってる?」と声をかけるのが聞こえてきた。
「さあ――」
「いきなり、なんなんだよ、まったく。こっちには明日までの仕事もあるってのに……」
不満の声があちこちから聞こえる。
シャーロットは爪先立って周囲を見渡した。
ここにはおそらく、軍省の人間しかいない――
(他の省の人たちは? 同じような目に遭ってる?)
衛兵が全員、ネイサンに従っていると考えるのは現実的ではない。
そもそも彼らの仕事は、上官の命令に従うことだ。
つまりネイサンが、指揮系統の最高位を押さえたと考える方が自然であり、衛兵は下された命令が誰のものなのかを知らない可能性が高い――
「――軍省の人間、みんながみんな集められたってわけじゃないんだな。
良かった良かった、窮屈だけど息が出来なくなるほどじゃないぞ」
リーがぼそりとつぶやいたのが聞こえて、シャーロットは彼の顔を振り仰いだ。
リーは指先で、ぐるっと周囲を示してみせる。
「ぱっと見て分かんない? ここ、文官しかいないじゃん」
「――――」
シャーロットは息を止め、瞬きした。
――もちろんのこと、衛兵も武官だ。
ネイサンがかりに、その指揮系統を押さえたのならば、文官に比べて武官の掌握は簡単に行えると踏んでいたとして不思議はない――
「――ロッテ!」
高い声に呼ばれて、シャーロットははっとした。
声がした方に目を向ける。
ちょうど、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、マーガレット・フォレスターが駆け寄ってくるところだった。
「……ペグ」
シャーロットはつぶやいた。
駆け寄ってきたマーガレットを、半歩進んで出迎えて、茫然と言う。
「大丈夫……?」
「ええ、もちろんよ!」
マーガレットは応じつつも、顔を顰めている。
周りの不平不満を見渡すようにしてから、肩を竦める。
「まあ、今日は夕ごはんを食べ損ねるでしょうけど。
これ、一体なんの騒ぎなの? ロッテ、あなたも知らない?」
シャーロットはただただ首を振る。
唐突に涙が出そうになった。
ペグ、私もあなたも知らないあいだに、世界はすっかり変わっちゃったの……。
シャーロットの仕草を見て、マーガレットはますます不機嫌そうに眉を寄せた。
「維持室にも知らされてないってことね。もう、困っちゃう。
お父さまがどこかにいらっしゃるといいんだけど。でも少なくとも、私、入省以来、帰りが遅くなったことはないから、お母さまが心配なさると思うわ」
そこまで言って、マーガレットは目を見開いてシャーロットの顔を覗き込んだ。
「まあ――ロッテ、あなた、昼間に輪を掛けて顔色が悪いわよ。どうしたの? 具合が悪いの?」
シャーロットは息を吸い込んだ。
震える声で彼女は囁いた。
「――死んじゃいそうなの」
「まあ、駄目よ」
マーガレットは陽気に、事も無げに言った。
「元気でいてくれなくちゃ困るわ、ロッテ」
「――――」
シャーロットは言葉もなくマーガレットを見つめる。
ああ、あなたは、私が生きていることの罪深さを知らないから。
さらに一団の役人が、広間に入ってきた。
かなり年かさの一団で、周囲が一斉に彼らに頭を下げる。
そばでリーが、「対策室の室長かたがただ」とつぶやくのが聞こえてきた。
「一体なんの騒ぎだね、これは――」
「この事態の責任はどこだね」
マーガレットの同僚であろう、まだ若い女性の一団が、出来るかぎり広間の端に寄ろうとしているのが見えた。
全員が辟易とした顔をしていて、「早く帰りたいわ」と囁き合っているのが分かる。
色を失ったシャーロットの、その指先がこまかく震えていることを見て取って、マーガレットが目を丸くした。
手を伸ばして、思い遣り深くシャーロットの手を握る。
「まあ、ロッテ、本当に具合が悪そうね。――ねえ、ちょっとしゃがんでおきなさい。あなた、ふらふらじゃない」
マーガレットの声がじゃっかん大きくなったので、リーがそれに気づいたようだった。
彼が振り返り、シャーロットの顔色を見てぎょっとしたような顔をする。
「わ、ミズ・ベイリー。気分が悪いって本当の本当だったんだ」
マーガレットが眉間にしわを寄せた。
「リーさん、知っててロッテをここまでお連れになったんですか?」
リーはたじたじと頭を掻いている。
「だって、怖い顔した衛兵に詰め寄られたんだよ?」
「それは分かりますけど……」
シャーロットはマーガレットの手の中から自分の手をそうっと引き抜いて、吐き気を覚えて口許を押さえた。
(昨日のうちに死んでおけばよかった)
真っ白になった頭で考える。
(昨日のうちに私が死ねば、閣下は殺されたりしなかった)
息を止めることが、どうしてそれほど困難であったはずがあろう。
「――ねえ、ちょっと」
ひそめた声が耳許で聞こえる。
「どうすんのさ。さっさと逃げなきゃやばいってば。アーニー、近くにいると思う? 牢屋の大佐はどうする?」
シャーロットは両手で顔を覆う。
「……分からない……」
「ロッテ、大丈夫?」
マーガレットがシャーロットの顔を覗き込んだ。
綺麗に化粧が施された顔が、憂慮に翳っている。
「ねえ、衛兵さんに事情をお話しして、帰らせてもらったらどうかしら?」
「――――」
シャーロットは思わず、乾いた笑いを漏らした。
「絶対に無理だと思うわ――」
――少なくともシャーロットは。
マーガレットは怪訝そうにした。
そして、実際に衛兵に声を掛けようとしたのか、背伸びして周囲を見渡した。
――そのとき悲鳴が轟いた。
広間が水を打ったように静まり返り、皆が一様に凍りつき、顔を見合わせた。
その表情を占めていた不満や不信が徐々に退き、やがて恐怖と不安が、忍び寄るように全員の表情を占めていった。
「――なんだ、今のは?」
やがて誰かが、囁くように言った。
それに触発されたように、あぶくのようにいくつかの声が、辺りをはばかるようにして、上がり始める。
「……廊下か?」
「誰かが怪我でもしたか?」
「何が起こっている?」
誰も動かず、衣擦れの音すらしない。
荒い呼吸の音だけが、天井に向かって幾重にも響いている。
ガス灯が燃えるかすかな音すら耳につく――
足音が近づいてきた。
よろめくような、不規則な足音。
ややあって、広間の外で衛兵が声を上げる。
彼らも驚いたようだ。
低い声が交わされる。
廊下に声が反響しているのか、言葉の内容を上手く拾えない。
十数秒ののち、衛兵の一人に肩を借りるようにして、背広姿の一人の男性が、まろぶようにして広間の中に転がり込んできた。
シャーロットが人並みを通してかろうじて見て取れたのは、そして目を奪われたのは、彼の蒼白な顔色だった。
しん、と広間が静まり返る。
衛兵が広間の壁際、扉の近くに彼を座らせて、そのそばに膝を突いた。
しばらくのあいだ、茫然としたような、不可解なものを見るような、そういった沈黙が続き――
――誰かが大きく息を呑んだ。
それが皮切りになったように、次々と小さな悲鳴が上がる。
シャーロットは人波を通してよく状況が見えず、そばのリーを見上げた。
いつもは背筋を屈めているリーも、今は伸び上がるようにして状況を見ていた。
リーが大きく目を見開いているのを見て、シャーロットは嫌な予感に胸を掻き毟りたくなる。
「……どうしたんですか」
「いや……」
リーは喉を痙攣させて息を吸い込むと、ごく小さな声で囁いた。
「――血が出ている」
シャーロットは息を止めた。
彼女は声を絞り出したが、意図に比べて声はあまりにも小さかった。
「……誰か、ストラス――治療のできる魔神を……」
どうやら、怪我人を壁際に座らせ、衛兵がてきぱきと手当を施しているようだった。
広間をざわめきが走っていく。
「ひどい」「すごく血が」などという言葉が切れ切れに聞こえてきて、シャーロットは脚が震えるのを自覚した。
気のせいかもしれないが、鉄錆のような臭いが鼻をかすめている。
「――どうなってるの?」
シャーロットは小さく囁いた。
はた目には独り言のように映っただろうが、シャーロットの言葉の意味を正確に理解して、小さなテントウムシがひょいっと床に下りると、身をひそめるようにして前進していった。
そして数秒ののち、すばやく戻ってくると、シャーロットに小さく耳打ちした。
「ありゃひどいね。右脚をばっさりやられてる。死にゃしないだろうけど、脚がもう一回使いものになるかは分かんないね。
いやはや、ひどい怪我をしたらぽっくりいなくなっちゃうなんて、きみたちは本当に不思議だね!」
シャーロットはよろめいた。
リーがさっと手を伸ばして彼女を支えて、目を丸くして、「大丈夫?」と尋ねる。
小さなテントウムシは、リーの視線を避けてシャーロットの髪の中にもぐり込んだ。
「――おい」
衛兵が、低くしっかりとした声を上げた。
たちまち広間が静まり返る。
「おい、寝るなよ。死ぬほどの怪我じゃない、しっかりしろ。――分かるか?」
怪我人が頷いた、らしい。
見えたというよりは、そういった気配をシャーロットは感じた。
「自分の名前を言えるか?」
衛兵が尋ね、どもるような震え声がそれに応じた。
はっきりとは聞き取れなかったが、「ハワード」あるいは「ハーバート」と聞こえた。
一拍置いて、衛兵が応じる。
「ハワード。そうか。ゆっくり息をしろ。落ち着け、大丈夫だ。
――誰にやられた?」
広間は静まり返っている。
針一本が落ちる音でもこだまになりそうな、全員が息をひそめるその静けさの中で、荒らいだ息を漏らした怪我人が、もつれる舌を叱咤するようにして、応じた。
「子供……」
「子供?」
衛兵が繰り返して、訝しげに尋ねる。
「お前、子供を連れていたのか?」
「違う……」
息を整えるような間。
「書庫にいて……ここに来るように言われて……断ったんだ。それからしばらくして、子供が来て……」
乱れる呼吸音。
衛兵があわてて、「落ち着け」と声を掛ける。
別の衛兵も広間に入ってきて、二人の衛兵が怪我人を挟むような格好になったようだった。
「子供が……よく分からない、とにかく引きずり出されて、――わけが分からなくて怒鳴ったんだ。そうしたら、血が……」
「――子供が?」
衛兵の、慎重な声。
怪我人の声がやや大きくなる。
「本当だ、まだ十四か――十五か、そんな背格好だった。
にやにや笑ってて――そうだ、金の目だった、悪魔みたいな……」
「悪魔?」
衛兵が鋭く言って、息を吸い込んだ。
「悪魔を使ってこんなことをしてみろ――カルドン監獄行きだぞ」
「――でも、」
もう一人の衛兵が、低く言った。
「この傷、刃物じゃないぞ」
シャーロットは両手で口許を押さえた。
十四歳程度の子供の姿。
金色の目の悪魔。
(マルコシアス――)
――かれは確かに、シャーロットのしもべであるうちは、彼女の倫理に従って命令を果たすことを約束していた。
だがもう違うのだ。
かれはもうシャーロットの魔神ではない。
かれは今、この独壇場に立つ魔術師を仰ぎ、彼に仕えている。
▷○◁
広間の空気は殺気立ち、不安と怪訝にはち切れんばかりになった。
狭い範囲をぐるぐると歩き回る者もあれば、壁際で座り込んでいる者もある。
何人かはカーテンを開けて、すっかり暗くなった外の様子を窓から見下ろそうとしていた。
誰もが恐慌一歩手前の強張った顔をしており、その原因はあきらかだった――運び込まれた怪我人が一人ではなかったためだ。
重傷と軽傷の違いはあれど、最初の一人を皮切りにしたように続々と怪我人が広間に運び込まれ、あるいは自力で辿り着き、あっという間に広間の中には――錯覚ではなく――血の臭いが漂い始めた。
衛兵は等しくその手当てに尽力したが、一方で「ここから出してくれ」という、役人たちの希望を容れはしなかった。
「こちらにも命令がある――」
「あきらかに異常事態だろう! 誰の命令だ――申し出て撤回していただけ!」
「そういうわけにはいかない」
シャーロットは頭の芯が麻痺したようになって茫然としていたが、そばのマーガレットは不安に駆られ始めたのか、「お父さまはどこ?」としきりにつぶやいていた。
彼女の父もまた軍省勤めのはずで――姿が見えないようだった。
「お父さまはどこ?」と聞こえるたびに、シャーロットの心臓が縮む。
「お父さまはどこ?」という言葉が、「お父さまをどこへやったの?」と聞こえてくる。
私が昨日のうちに死んでおけば、こんなことにはならなかったのに。
広間の壁際には三十人ほどの怪我人が、ある者は壁に寄り掛かりある者は床に横たえられ、死んだようにじっとしている者もあれば、痛みを訴えている者、衛兵やこの状況を罵っている者もある。
徐々にその壁際から人が離れ、いつの間にか無傷の役人たちは、窓のある壁の側に集まるようになっていた。
怪我人の周囲から衛兵の他の人が掃け、シャーロットははっきりと、床に血のしずくが滴っている状況を目の当たりにした。
――息が止まる。
そばにいるリーはどうやら、シャーロットの蒼白な顔色の原因を、怪我人の様子にショックを受けたからだと結論したらしく、心持ちシャーロットから怪我人を隠すような位置に立つことを選び、彼自身は窓の方を向いた。
シャーロットは怪我人がいる方向に立ち塞がったリーの胸のあたりを凝視しながら、マーガレットの震える手を握り締めていた。
マーガレットのてのひらは汗ばんでいる。
汗ばみ、激しく震えて、強張っている。
「……ほんと、何がどうなってるんだ? これ、帰れるのかな」
リーが気分の悪い様子で呟くと同時に、シャーロットの耳許で囁き声がする。
「ねえ、ほんとにこれからどうするの? 牢屋の大佐はどうする? アーニー、近くにいるかな?」
シャーロットは片手で目許を覆う。
「分からない」
シャーロットにとって、こうまで自分の前に伸びる道が見えないのは初めてのことだった。
十四歳のときの――あの、状況がまるで分かっていなかったときでさえ、シャーロットは自分の進むべき道、進みたい方向を、一度たりとも見失うことはなかったのだ。
今、彼女は真っ暗な三叉路の上に立ち、道を失って茫然と立ち竦んでいる。
「でも、ここでぐずぐずしてるわけにもいかないだろ?」
耳許のひそひそ声が、焦った様子でそう囁いた。
シャーロットは息を吸い込み、広間の入口に詰める衛兵を見て、ぴったりと閉ざされた全ての窓を振り返る。
たとえば、今ここでシャーロットが窓の一つに駆け寄り、それを開け放って下に飛び降りたとして――
――取り押さえられる自分の姿が目に浮かぶ。
衛兵だけでなく、周囲の役人たちも、四階の高さから身を投げようとする若い娘のことは止めるだろう。
だが、試す前に諦めるのは――
いや、試したとて――
「――ああ、駄目だ」
耳許で声が呻いた。
シャーロットは小さく息を呑んだ。
苦り切った声が、耳たぶのすぐそばで囁いた。
「時間切れだ。お出ましだ」
数秒ののち、扉の外の廊下で、いく人かのあわただしい声が聞こえ始めた――声が反響しており上手く聞き取れない。
シャーロットの心臓の鼓動は痛いほどに激しく乱れた。
広間の中で、怪我人までもが息を詰め、事態が動いたらしいことを受けて、張り詰めた沈黙が訪れる。
衛兵が二名、広間の中に入ってきたが、後ろ向きに、まるで向き合っている人物に押されるようにしての入室だった。
彼らが戸惑ったように言っている――
「――参考役閣下、われわれはカヴァデール将軍のご命令で……」
それに応じるかろやかな声。悠然とした声。
「そのカヴァデールに命令したのは私だよ。
構わないから下がりなさい。きみらが叱責されることはないと約束しよう」
二人の衛兵は困惑した様子で目を見交わし、結局のところわきへずれた。
ひざまずいて怪我人の様子を見ていた衛兵が顔を上げ、堂々と広間に入って来たジュダス・ネイサンの姿に目を瞠る。
同様に、広間に押し込められた格好になっている役人たちもまた、口々に囁き始めていた。
「参考役……」
「どういうこと、どういうこと?」
「何か聞かされてた?」
シャーロットは息を止め、身を竦めて、広間の扉をくぐったネイサンを――そして、その後ろで淡々と足を運ぶ二人の魔神を、目を見開いて見つめていた。
ネイサンから一歩の距離を置いて並んで足を運ぶのは、序列二十一番のモラクスと、序列三十五番のマルコシアスだった。
モラクスは褐色の肌の筋骨隆々とした男性の身体を持ち、腰布を巻いただけという格好、そしてその首は人のものではなく、立派な角を備えた牡牛のもの。
見上げるほどの巨体だったが、足音もなく静かに、おだやかでさえある歩調で進んでいる。
マルコシアスの方は、いつもの十四歳程度の少年の格好――清潔な白いシャツに、黒に近い濃紺のウエストコートとトラウザーという、省舎で見ても特段に違和感のない服装を作っている。
そして首許には、お決まりのストールを巻いて、黄金の枷を隠している。
モラクス同様、足音もなく歩みを進めているが、おだやかな様子ではなかった――はた目にもうきうきとして楽しそうだった。
ネイサンは落ち着いた様子で歩を進めて、当然のように、広間の前方、大理石の壇の上に立った。
彼の後ろに、つつましく二人の魔神が控えた。
そのネイサンの姿を、困惑に満ちたいくつもの瞳が見ていた。
だが、衛兵たちの困惑はすばやく失せていった――というもの、ものの数分後、立派な軍服を着た上背のある男がやって来て、壇の下に歩み寄り、恭しくネイサンに頭を下げたからだった。
シャーロットは軍人の徽章に詳しくなく、ゆえに確信をもってその階級を断言することは出来なかったが、あれこそがカヴァデール将軍だろうと推測することは出来た。
衛兵たちは驚嘆すべき順応性で事態を呑み込んだ。
指揮命令権はカヴァデール将軍にあり、そしてその将軍が頭を下げるならば、参考役は主に等しい。
将軍は顔を上げるとすぐに、壁際に下がって背筋を伸ばし、軍人の立ち姿を見せた。
だが一方、文官たちはそうすばやく事情を呑み込んだわけではなかった。
一人の声を契機として、次々に声が飛ぶ。
「――参考役、これはどうしたことでしょう!」
「何かの訓示でしょうかな、それにしては大臣のお姿もないが――」
「どなたの指示でいらしたのか、お聞かせ願えましょうか」
ネイサンは壇上で微笑んだ。
ガス灯の明かりを受けて、淡い色合いの髪が金色を帯びて目に映る。
シャンデリアのきらきらした光が、彼の灰色の瞳に映り込んで、彼をいかにも生き生きとして見せていた。
そして実際、彼は本当に嬉しそうだった。
無数の声が一通り鎮まるのを待ってから、彼はよく透る声で応じた。
「この事態のわけはこれからお話ししよう。そしてこれは訓示ではない、悪ふざけでも、何かの訓練でもない。
私は誰の指示でもなく、私の意思をもってここにいる――」
彼はそこで言葉を切って、ゆっくりと役人たちを見渡した。
そしてにっこりと笑った。
血気に逸った様子も、荒々しい様子も、何もなかった。
いつもとなんら変わらぬ落ち着いた微笑――それをもって、彼は続けた。
「さて、軍省の諸君。私はこのグレートヒルにおける中で最も、諸君にこそ重きを置いている。だからこうして最初に話すのだ。
――とはいえ演説の時間はない。そこで私は同志に話す」
シャーロットは凍りついていた。
そんな彼女を、そばに立つリーが、窺うように覗き込んできた。
彼が何か、問うような顔をしている。
シャーロットはわけも分からないままに首を振った。
役人たちはいちように、怪訝そうな、気後れしたような顔をしている。
日常とこの非日常が上手く結びつかず、ネイサンの言葉も、半ば以上は聞き流すような格好になっているのだ。
彼らが最も気にかけているのは、いつわが家へ帰ることが出来るのか、その一点だった。
そしてネイサンもまた、それはよく分かっているというように、いっそ彼らを安心させるように微笑んだ。
彼は続けた。
「私は断りを入れたいのだ、明日から国が変わるから。
――七十年前からこちら、われわれは、魔術師は、その知見と貢献のほとんどを軽視されてきた。
議会に立ち入ることを許されず、愚鈍な人間の蒙昧な頭におのれの知見を示してやるのが精々だと。――それを変えよう。
明日からは魔術師が、正当な権力を取り戻す」
一瞬の間。
そして、当惑したようなつぶやき。
「……なにを言っているんだ……?」
ネイサンが肩を竦めた。
そのとたん、つんざくような音がした。
シャーロットは弾かれたように顔を伏せた。
先ほど声がした辺りで、悲鳴が上がる。
何が起きたのか、正確なところで彼女は理解した――理解して、指先が冷えていくのを感じていた。
今、ささいな疑問を表した彼、彼に恐ろしいことが起こったのだ――その手を下したのかモラクスであるのかマルコシアスであるのか、シャーロットには分からなかった。
どちらでも変わりはなかった。
悪魔に倫理観はない。
悪魔には愛も、情も、忠義も、何もない。
この交叉点において、悪魔は報酬を与える主人の命令に従うのみなのだ。
人の首を斬るのはギロチンの刃ではなく、その刃を落とした手の持ち主なのだ。
「――何が……」
シャーロットの片手を握るマーガレットの指に、痛いほどに力が籠もる。
「――何が、どうなってるの……」
帰りたい、と彼女がすすり泣いた。
シャーロットは答えられなかった。
リーが息を呑んでいる。
悲鳴と怒声がぷつりと途切れ、やがて上ずってかすれた声が怒鳴る。
「ネイサン参考役、気でも違ったか! 悪魔をもって他人を侵害したな――カルドン監獄行きの重罪だ!」
ネイサンは微笑んだままだった。
「へえ?」
興味深げに彼は言った。
「誰が私を引っ立てていくと?」
ネイサンに向かって声を荒らげたその人、そして周囲の役人たちが、一斉に衛兵を振り返った。
シャーロットからは、衛兵は皆、のっぺりとした無表情をしているように見えた――むろん、そんなはずはない。
彼らとて動揺し、判断に迷っていたはずだ。
だが、軍人にとって、何よりも判断の基準となるものは上官の判断だった。
軍人に求められることは命令に従うことであり、その命令の是非を考えることではない。
衛兵たちは将軍を見た。
将軍は壁際で、きりりと顎を上げて立っていた。
――衛兵もまたそれに倣った。
「……狂っている」
誰かがつぶやいた。
「諸君の生命の価値を決める天秤はなんだ?」
ネイサンは丁寧に言った。
「何をもって、私が私の能力を使って、私の目的を遂げることを責めるんだ? 力があるのにそれをふるってはならない――そう制限するものはなんだ?」
「憲法だ!」
誰かが叫ぶように応じた。
「『人民の最も神聖な権利とは、次のものである。生存、平等、自由』――」
「ああ」
ネイサンはいっそうなごやかに微笑した。
まるで、五つの子供に足し算を教える教師のように。
「その憲法は、この夜よりも短いあいだしか、きみたちの上に君臨しない。
夜が明けるころには有名無実のものとなり、数日のうちに撤廃されると約束しよう」
「――――」
ようやく事態を呑み込んで、役人たちが静まり返った。
ネイサンは、晩餐会の招待主が賓客に向けるような微笑を浮かべて、大理石の壇上からぐるりと役人たちを見渡した。
そして、ごく落ち着いた、聞き取りやすい声で告げた。
「私は今、諸君らに剣を向けているが、この剣を諸君らの肩に載せるか、あるいはその心臓に突き刺すかは、諸君らの選ぶことといって過言ではない」
ネイサンは両手の指を優雅に組んだ。
このときばかりは微笑を消して、彼は宣言した。
「――さあ、革命だ」