11 懸かる命は
シャーロットから見たとき、異常といえるものはまだ二つだけだった――一つ、急変しつつある天候。
二つ、異様に苛立って見えるマルコシアス。
窓の外を凝視して、マルコシアスは人型の狼のように唸り声を上げている。
これには、シャーロットも声を掛けるのを遠慮した。
シャーロットが静かに口を引き結んで三秒後、マルコシアスがくるりとシャーロットを振り返った。
短い付き合いではあるが、とんでもなく不機嫌な様子であることは顔を見れば一目瞭然だった。
「――さて、ロッテ。悪いニュースが入った。すぐにここから離れるよ」
マルコシアスが穏やかに言った。
まさに悪魔の穏やかさだ――シャーロットは半歩下がって、お伺いを立てた。
「ちなみに、何が起こっているか訊いても?」
「あんたには分からないよ」
マルコシアスは無感動につぶやき、短く息を吸い込んで、いかにも辛抱強い様子で続けた。
「あんたに分かるように説明するとね、ここはとても危ない」
「どうして?」
シャーロットからすれば至極当然の問いかけだったが、マルコシアスはいらいらと息を吐いた。
このとき、かれは頭の中で素早く、言ってよいことと悪いことを区別した――念のために告げておけば、シャーロットを苛立たせるかどうかは勘定には入れなかった。
「お馬鹿な誰かさんが悪魔を召喚したらしい――手に負えていないね。天気が荒れてる」
「そんなこと有り得る?」
シャーロットは控えめに反論した。
マルコシアスは付き合っていられないとばかりに首を振り、窓際を離れてつかつかとシャーロットに歩み寄ると、彼女のことはちらりとも見ずに腕を掴み、教室の出口に向かって引っ張っていった。
引っ張られるがままになりながらも、シャーロットは小声で言い募っていた。
「ねえ、魔術師がこんな町にいるはずないわ。魔術師っていい職業なのよ。みんなお金持ちよ。こんな町には住まないわ」
マルコシアスの指先の合図ひとつで、教室の扉が大きく開け放たれた。
蝶番がついに耐え切れず、ばたん、と扉が向こう側に倒れる。
その扉を踏んで、マルコシアスはシャーロットを廊下に引きずり出した。
「ああ、そうだね。魔術師が旅行でここを通り掛かったんじゃないの」
薄暗い廊下を、腕を引かれるがままに歩きながら、シャーロットは続けて反論した。
「よしんばそうだったとしても、『手に負えない』なんてこと有り得ないでしょう。報酬に納得できないなら、悪魔が契約を了承しないだけだもの」
未熟な魔術師の命令を曲解した悪魔が、いかにも悪魔らしく悪事を働くことはないでもなかったが、いかに未熟な魔術師であっても、「天気を荒らしてくれ」などと頼むはずがない。
そして、それに応える力量のある悪魔もそうそういない。
力のある悪魔を呼び出すときは命令を慎重に下す、これが魔術の鉄則だ。
どの学術書でも最初の五ページめまでには書いてある。
それより手前に書いてあることといえば謝辞くらいだ。
マルコシアスがシャーロットの腕を掴んだまま、ためらいなく外へ向かった。
シャーロットの足許でけたたましく床が軋む。
かれが足を向けると、内側に倒れたままになっていた入口の扉が、まるで道を譲るかのように外へ吹っ飛んでいった。
シャーロットは目を丸くする。
外に連れ出されてみれば、いよいよ天候の不穏さは明らかとなった。
頭上で低く雲が渦を巻いている。
真冬にあるまじきなまぬるい風が吹く。
足許で砂埃が巻き上げられていく。
どうどうと耳を打つ音がしていた――耳慣れないシャーロットには分からなかったが、それは波濤の音だった。
しばし茫然としたシャーロットだったが、はたとわれに返ってなおも手を引くマルコシアスに、手をねじるようにして抵抗した。
「ちょっと待ちなさい」
マルコシアスは鬱陶しそうに振り返った。
その淡い金色の目を捉えて、シャーロットは勢い込んで尋ねる。
「仮に、お前の言うとおり、どこかのお馬鹿さんが手に負えない悪魔を召喚したとしましょう。
――どの程度まずい事態なの?」
マルコシアスは苛立ちを隠そうともせず、端的に応じた。
「とってもまずいね」
「馬鹿な悪魔ね、程度を訊いているのよ」
シャーロットは憤然と言って、空を見上げた。
橄欖石の色の瞳に、渦巻く雲が映る。
「この天気がその悪魔の仕業だとしたら、いいこと、これからどのくらい悪くなると思うの? このまま収まっていくの、それとも嵐になるの?」
「間抜けなレディだな」
マルコシアスは吐き捨てた。
「このまま収まっていくなら、僕があんたを急き立てると思う?」
「――嵐になるとして」
シャーロットはつぶやいた。
脳裏に、ケルウィックで経験した嵐が甦っていた――夕方から明け方にかけて吹き荒れ続けた風と雨。
屋根と窓を叩く激しい雨音――窓が割れるのではないかというその勢いに、毛布にくるまって縮み上がっていたこと。
そして実際に、翌日に恐る恐る外に出てみれば、割れた窓硝子が道のあちこちに散乱していたこと――怪我人が大勢出たこと――初等学院の友人の一人が、その嵐で家を叩き潰され、親戚の家に移ることとなったこと。
続いて、アーノルドのことを思い出した――不幸そうな痩せた少年。
彼は知り合いと合流できただろうか。
出来たとして、もう既にこの町を出ているのだろうか。
仮にこの町から離れていなかったとすれば、堅牢な建物の中にいるわけではない彼は、嵐の前になすすべがなくなる。
「どのくらいひどい嵐になるものかしら――私、海辺の嵐は経験がないのよ。風がひどくなったら、この辺りの松林が倒れて、道が使い物にならなくなったりするかしら」
マルコシアスはもう一度、強くシャーロットの腕を引いた。
「もちろんそういうことも有り得るさ。呼び出されたらしいかわいそうな悪魔の機嫌ひとつでね。
ロッテ、急ぐんだ」
シャーロットは息を吸い込み、その拍子に少し砂埃を吸ってしまい、軽く咳き込んだ。
「そんなに力のある悪魔がいる?」
「――力のあるなしが問題じゃない」
マルコシアスはつぶやいた。
ほとんど独り言めいていて、シャーロットは危うくそれを聞き逃すところだった。
マルコシアスが再びシャーロットの腕を掴み、よろめく彼女にはお構いなしに手首を引いた。
大股に歩く少年の姿の悪魔に引きずられてよろけながらも、シャーロットは瞬きもせずに考え込んだ。
――嵐になるとして、まずすべきことは建物の中に逃げ込むことだろう――当然ながら、それをマルコシアスも知っているはずだ。
かれには召喚陣から得た知識がある。
にも関わらず、〈身代わりの契約〉が働くと思い込んでいるマルコシアスは、安全を確保するためにシャーロットを町の外へ逃がそうとしている。
つまり、やってくる嵐は――召喚された悪魔が引き起こすという嵐は――この海辺の町の家々が耐えきれる規模のものではないと、マルコシアスが判断しているのだ。
シャーロットは息を吸い込んだ――その拍子に髪まで飲み込みそうになった。
浮かんだのはアーノルドの顔であり、昨夜に彼女の前でそっけなく扉を閉めてしまった人たちの顔だった。
――前触れもなく嵐がくれば、彼らが死んでしまう。
マルコシアスに従って逃げ出せば、シャーロットは助かるだろう――少なくない数の人たちを見殺しにした上で。
――はたしてそうして生き延びて、笑ってリクニス専門学院に入学できるものか?
魔術を学び、悪魔を召喚していたがゆえに、他の人を助けられるかもしれない状況にあって、なお何の手も打たなかったという汚点を抱えたままで?
彼女の手を引くマルコシアス――かれは魔神だ。
悪魔の中でも格上のものを魔神と呼ぶ。
そしてマルコシアスはその魔神に類される種属の中でも――人間が存在を記録している七十二の魔神の中において――三十五番目の序列に数えられるものだ。
――マルコシアスならば、この事態に対処することも可能なはずだ。
召喚されたのが魔神であるとしても、マルコシアスより格上の悪魔である可能性は二つに一つだ。
シャーロットは踵でその場に踏ん張った。
マルコシアスがその些細な抵抗に気づいて振り返った。
淡い金色の瞳を不機嫌に細めるかれの顔を覗き込み、シャーロットは断固として口を開いた。
「――エム、お前がその悪魔に対処するのよ」
「――――」
マルコシアスは耳を疑った。
丁寧にそれを伝える表情を作ってから、マルコシアスは尋ね返した。
「あんた、正気?」
「もちろん」
シャーロットは胸を張って頷き、辺りをぐるりと見渡した。
「私がお前に下した命令は、私を家に帰すことよ。
もし、この辺りの街道が使えなくなったら、私がたとえどこかで馬車を拾ったとしても、とても帰れなくなってしまうわ――馬車は道を走るものなのよ、念のためにお教えすると。汽車だって、ひどい嵐だととても動けなくなるわ。
このまま嵐をひどくしてしまうと、私が家に帰れなくなるかもしれないの」
マルコシアスは息を吸い込んだ。
「ロッテ――」
「仮に、」
シャーロットは続けて、唇を噛んだ。
「お前が自尊心と折り合いをつけてくれて、私をどこか安全な場所に運んでくれて、それから私をお前が手ずから家に帰してくれるというのでも、だめよ」
これは常識だが、瞬きするほどの速さでとんでもない距離を移動する悪魔は存在する。
だがそれは単に、度外れて足が速いというだけだ。
時空を捻じ曲げて、地点をスキップしてある一点から一点へ忽然と姿を現す――という魔法を使う悪魔は、今のところ確認されていない。
「お前の足が速いとしても、嵐に追い着かれてしまえばそれまでだもの。
――それに、」
更に言葉を継いで、シャーロットは拳を握り締めた。
「この事態に対処できるのは、この町でお前だけでしょう。魔術師が偶然この町にもう一人いるなんて、そんなの有り得ないわ。
予告もなく嵐がきてごらんなさい、この町はめちゃくちゃになってしまうわ」
マルコシアスはまじまじと主人の顔を眺めた。
「あんた、この町に知り合いでもいるの? そうじゃないなら関係のない話でしょ」
「私の良心の問題よ。ここの人たちが死んでしまったらどうするの」
マルコシアスは息を吸い込んだ。
「ロッテ――ご主人さま。あんた、まだ小さいから、事態をよく呑み込めていないんだよ。
たいへん僭越ながら、ここは僕の言うことを聞いていただきたいものですが」
シャーロットは強情に唇を引き結んだ。
「私はリクニス学院に入学して、こうありたいと思った人間になりたいの。そのためにお前を召喚したの。
もしここで怖気づいて自分の良心を無視するなら、こうありたいと思った人間には一生なれない。お前を召喚した意味もなくなってしまうわ」
息を吸い込み、シャーロットは小声でつぶやく。
「――どうせなら、私がここにいたことが、この町の人たちの幸運になった方がいいわ」
それに、と言って、シャーロットはマルコシアスに微笑んだ。
マルコシアスにとってみれば、それこそまさに悪魔の微笑に見えていた。
「懸かる命は私のものだけよ。エム、お前は悪魔だから死んだりしないでしょう?
――私が手を出そうと出すまいと、事態がいい方向に変わりこそすれ、悪い方へ変わることなんて絶対にないのよ」
マルコシアスは両手で顔を覆った。
ひとしきり悪態を吐いてから、かれは顔を上げた。
「ロッテ、例の契約がある。僕も無傷では済まない」
シャーロットは複雑な顔をしてしまったが、幸いにも、その表情の意味がマルコシアスに伝わることはなかった。
シャーロットは小さく息を吐いて、それからきっぱりと言った。
「――いいこと、マルコシアス。この嵐をなんとかしなさい、命令よ」