03 急変
「――ねぇ、ほんとにどうすんの」
耳許でひそひそと姿のない声に囁かれ、シャーロットは苛立ちか緊張か、自分でもよく分からない息を吐き出した。
震える指先をこぶしの中に握り込む。
目立たない程度にきょろきょろと周囲を見渡したが、たとえばウェントワース氏がシャーロットを捜し回っていたりといった、そんな姿は見られない。
(いえ、ウェントワースさんがネイサンさまから、どこまで聞かされていたのかは知らないけれど……)
道しるべのない、家から遠く離れた町中で迷子になったかのような、心臓がぎゅっと握られているかのような、そんな感覚があった。
シャーロットは不安のあまり吐きそうになっていたが、耳許の声にはなんとか応じた。
「とにかく、首相閣下とお話しをしないことにはどうにもならないわ」
社会的地位と、それに伴う絶大な信頼を得ているネイサンを、一般に知られていない事柄で告発するのは無理がある。
――首相に何ごともないことを、シャーロットは心から祈った。
それは庇護者を求めるがゆえの祈りでもあり、そして同時に、彼を心から信じることが出来なかったことを、自己満足とはいえ謝りたいがゆえのことでもあった。
あなたはあれほどの心をくれたのに、私はそれに報いることが出来ませんでした。
耳許で呻き声がした。
シャーロットが苛々と舌打ちすると、負けじと苛立った囁き声がそれに応じる。
「きみがさっき転んだせいで、こっちはとっても痛かったんだよ」
シャーロットは眉間にしわを刻んだ。
「……悪かったわね」
軍省の役人たちは、廊下を行き来しながらひそひそと言葉を交わしている。
素知らぬ顔でそのそばを歩き、耳を澄ませてみたが、具体的な話は聞こえてこなかった。
ただ、「議事堂で騒ぎが」だの、「今日は帰れないかな」だのといった、うんざりしたような声が聞かれたばかりだ。
シャーロットは嫌な予感に胸が潰れそうになりながらも、不審に思われない程度の速足で軍省の省舎を出ようとした。
人とすれ違うたびにどきりとし、衛兵を見かけるたびに動悸を覚えたものの、下手に呼び止められないよう、澄ました顔を作ることに余念はなかった。
そしてどうやら、まだネイサンは、シャーロットを捕らえるべく衛兵を動かす気はないらしい――
(ほんとをいうと、参考役に具体的な指揮権はないはずなんだけど、ネイサンさまのことだから分からないもの……)
シャーロットは半ば顔を伏せるようしながら、足早に廊下を進み、階段をぱたぱたと駆け下りて、そばを通る役人にいちいちびくびくしながらも、ようやく省舎の玄関ホールを望む回廊まで辿り着いた。
そのことにほっとする気持ちはありつつも、省舎を出たからどうなるというわけでもない。
そう思い出して、頭の芯が痺れるような心地を覚える。
玄関ホールはぐるりとガス灯で照らされ、その明かりを受けて、軍省のタペストリーが堂々と照らし出され、巨大なキッシンジャー像は不気味な陰影を湛えている。
開け放たれたままの大きな扉の外に目を向ければ、既に外は薄闇に沈みつつある時間だった。
まだ夜の暗さではないものの、空は薄藍色に染まって日は既に落ちている。
陰影は平らに均されたようで、まるで均一に、水色の絵具を薄めた水の中に沈んでいるかのように昼間の色彩の鮮やかさを失っていた。
その光景の中に、省舎の中から伸びるオレンジ色の光が手を伸ばしている。
シャーロットはすたすたと回廊から伸びる階段を降り、玄関ホールへ行き着いた。
朝方、ここを通ったときには、まさか夕暮れにこんな状況になっているとは思わなかった――
衛兵がそこここに立っている。
心臓が肋骨の中でひっくり返り、痙攣するように打っている。
膝が震えていない自信はないが、しいて自然な表情を作る。
たとえば、仕事に飽きて外の空気を吸うために出てきたような――
シャーロットはまっすぐに歩いた。
あえて衛兵の方は見なかった。
やがて頭上のいかめしい天井が途切れ、彼女は外に立っていた。
震える息をゆっくりと吐き出し、シャーロットは両手で顔を覆った。
はたから見れば、ただ仕事にうんざりし、手許の仕事をいかに片づけるか、それに途方に暮れた仕草のように見えたかもしれない――だが実をいえば、それはあまりに深い安堵の表れだった。
シャーロットが顔を上げたとき、誰かが軍省の省舎の壁にもたれるように立っていて、彼女に向かって片手を挙げたのが見えた。
シャーロットはどきりとし、弾かれたようにそちらを向いたが、やがて息を吐いた。
それは維持室の同僚で、ザカライアス・リーの――そう呼ぶことが正しいかは分からないが――とりなしがあった後に口を利くようになった一人だった。
どうやら煙草を吸いがてら外の空気を味わいに来たらしい。
つまらなさそうな顔で紫煙を吐き出しながら、煙草を指に挟んだ手をシャーロットに向かって挙げている。
シャーロットも控えめに手を振り返し、不審に思われる前にと、その場をすたすたと歩き去った。
「……――びっくりしたぁ……」
耳許で声がして、シャーロットは小声で叱りつける。
「しっかりしてよ、あなたにはどきどきする心臓もないんだから」
「まあ、今はこんな格好だしね」
「それより、」
シャーロットは歩きながらも周囲を見渡し、暮れゆく暗さの中で、道行く人々の顔色を読もうとした。
「――上を下への大騒ぎって感じじゃないけど、廊下で聞いたひそひそ話からして、私が暢気にあの応接室にいたあいだに、何かは起こったみたいね」
ごく小さな声でそうつぶやいて、シャーロットは心持ち、自分の左肩のあたりを振り返るようにする。
「ねえ、あなた、精霊を遣って様子を探れたりは……」
「無理むりむり」
言下の即答があって、シャーロットは眉間にしわを寄せる。
その表情を見たかのように、声は続けて言った。
「僕の精霊を遣ってごらん、魔神についてる精霊にはすぐにばれるから。あの参考役の魔神も勘づくよ。
だいいち、いいかい、僕にはそんなに、ひょいひょいあっちこっちに遣れるほどの数の精霊はいないんだよ。きみに仕えてた魔神と一緒にしないでくれ」
シャーロットは無言で唇を引き結んだ。
――確かに、マルコシアスは何かと精霊を使って細工をしてくれることが多かった。
シャーロットのそばを離れるときには、つねに彼女を精霊に守らせていたこともあったほどだ。
「――いいわ」
気持ちを切り替えて、シャーロットはごく小声でつぶやき、また周囲を見渡す。
「とにかく、議事堂の様子を知らないことには話にならないもの。あなたをそばから離すのも、色んな意味で怖いし。――自分で行くしかなさそうね」
「ああ、ほんとに」
かれの声は切羽詰まっていた。
「飛んで火に入る夏の虫になりませんように。きみが痛い目に遭っても、痛い思いをするのはこっちなんだから」
「なにに祈ってるのよ」
シャーロットは喰いしばった歯のあいだから囁いた。
歯を喰いしばっていなければ、歯の根が合わないほどに震えそうだったのだ。
「神さまたちを滅ぼして、その道を空っぽにしたのはあなたたちでしょ」
シャーロットは戦々恐々としながら議事堂に向かったが、どうあってもその中に入ることは出来なかった。
議事堂の正面玄関に面する芝生の上には、それこそおびただしい数の衛兵が立ち並んでおり、それを見てひるんだシャーロットが、十四歳のときの記憶を呼び起こしながら、使用人用の裏口に回ってみたものの、そちらにも尋常でない数の衛兵が待機していた。
――何か重大なことが起こったのだ。
「――え、この中に突っ込むの?」
耳許できょとんとした声がしたが、シャーロットはそれに応じるどころではなく、いったん議事堂から離れ、司法省の省舎の仰々しい柱の陰に隠れて、しゃがみ込んだ。
衛兵たちが持つ明かりが闇を払い、議事堂が光り輝いているようにも見える。
見つめていると目が痛くて、シャーロットは目を細めた。
「ううん、とてもじゃないけど入っては行けない……」
そこまで言って、シャーロットははっとした。
今いる場所はまさに、初めて首相に会ったとき、その直前にアーノルドとマルコシアスとともに身を隠していた場所だ。
それに気づき、わけもなく動揺してから、動揺を呑み込むように大きく息を吸い込んで、シャーロットは囁く。
「万が一、ネイサンさまが私を捕まえるつもりで、私の……」
「過去の犯罪を?」
「――そう、それを、告発してたらどうするのよ。
あそこに突っ込んだが最後、私が捕まっておしまいよ」
シャーロットは爪を噛み、しばらく考えた。
そして、ためらいがちにつぶやいた。
「もし首相閣下が、私と連絡をとれなくなることもあるかもしれないと考えていらっしゃったなら……」
思い返す。
「――昨日、閣下が私に会いにいらっしゃったとき、お二人、お連れがいらしたの」
首相みずからがシャーロットを訪ったのは、あきらかに不自然だった。
あれが、異常事態の前兆を察知してのことだったとしたら――
「お二人……アディントン大佐とランフランク中佐。
もしあのお二人が閣下の腹心なんだとしたら、私があのお二人のうちどちらかと連絡を取ることを、閣下は期待してらっしゃるかもしれない」
自分が首相の考えを読み間違えているのではないかと不安になる。
一方で、これしかないという思いもあり、しかし暗澹たる気持ちが胸の中に広がっていく。
同じ気持ちを共有しているらしく、「うへぇ」と、いかにも嫌そうな声が耳許で聞こえた。
「大佐と中佐って。思いっ切り軍人じゃないか」
シャーロットは両手で顔をぬぐい、目をこする。
「……首相が、万が一のときに、私にあのお二方と連絡を取らせる気だったなら、きっとあのお二人は、閣下とは離れた場所にいたはずよね」
「おっしゃるとおり」
シャーロットは口を開けて息を吸う。
「お二人としては、怪しまれないような場所にいることが肝心よね。目をつけられたら困るもの。
――軍人がいるなら、議事堂以外なら軍省よね」
耳許の声は嘆かわしげな語調になった。
「だから嫌なんだよ。きみ、軍省まで取って返す気?」
「あなたは察しがいいわよね」
シャーロットはつぶやいた。
「どこかの魔神とは大違い」
シャーロットはしばらく、その場で膝を抱えて考え込んだ。
昼間に陽光を吸い込んだ石畳は、今であってもなお熱を放っている。
空気が熱をはらんでいるようで、首筋や額に汗が浮く。
「――ねえ、あなた、離れたところで私が危ない状況になったら、どのくらいの速さで戻って来られるの?」
「きみが〈傍寄せの呪文〉を唱え終われば、そのときに」
声は皮肉っぽく言った。
「どこからともなく助けに現れるなんて思わないでくれ。そういうのは、腐るほど精霊を持ってる魔神の専売特許だよ」
シャーロットは呻いて、金色の前髪をぐしゃっと握り締めた。
その状態でなおしばらく考えて、やがて彼女はそばの柱に縋って立ち上がった。
「分かった。じゃあ結局、自分で軍省まで取って返すしかなさそうね」
勘弁してくれ、と聞こえた気がしたが無視した。
「軍人がいるとなれば、私がいつもいるような場所じゃないわ――軍省軍事部よ」
▷○◁
シャーロットが普段勤めている維持室は、広い軍省の省舎の一部、つまるところが、軍省に勤める中でも文官が詰める位置にある。
一方軍省の省舎のほとんどの場所は、まさしく武官――軍人に供されるためにあった。
とはいえ、唐突にそこに踏み込んで、「アディントン大佐かランフランク中佐はいらっしゃいますか」などと呼ばわろうものなら、最悪の形で目立つことに間違いはない。
しかも、ネイサンが労せずしてシャーロットの身柄を確保しようとしていれば、彼女の過去の犯罪を告発している可能性すらある。
ネイサンのことだから、「証拠は後日」と言うなりなんなりして、即席の逮捕許可くらいはもぎ取ってしまいそうだ。
――つまり、一度抜け出した軍省の省舎の中におめおめと舞い戻ることは、愚の骨頂といって差し支えなさそうだった。
「――というわけで、あなたが行ってちょうだい」
シャーロットは大きな軍省舎の灰色の石壁の際にしゃがみ込んで、小声で囁いた。
正面玄関の反対側に当たる場所で、普段は人が立ち入ることもないため、足許には夏に向かって背伸びする雑草がぼうぼうと生えている。
頭上には窓が一つあり、細く開けられている。
その隙間から、オレンジ色の明かりが差していた。
辺りはもうすっかり暗い。
見上げるばかりにそびえ立つ省舎のそこここで窓が開き、そこから射すオレンジ色の光だけが光源になっている。
振り返れば、技術省の省舎も確認できる。
技術省の省舎もまた、不夜城のごとく輝いていた。
「別にいいけど、僕、きみの尋ね人の顔は知らないよ」
耳許でひそひそと囁かれ、シャーロットは顔を顰めた。
「そんなの、耳を澄ましていれば、誰かが名前を呼ぶでしょう。佐官の地位にある方々だし、それなりの場所にいらっしゃるはずよ。
――アディントン大佐は顔に傷痕があったわ。赤い髪で、けっこう大柄だった。ランフランク中佐はもっと体格が良くて、がっしりしてて、金髪だった。――探せる?」
耳許の声は呻いた。
「僕の優秀さが呪わしいね! たぶん大丈夫だ」
シャーロットは頷いた。
「良かった。何かあったら〈傍寄せ〉で呼ぶけれど、よかったら精霊を一人、つけておいてくれない? 何が起こるか本当に分からないから」
「たとえば、後ろから不意打ちされていきなり猿轡を噛まされたり」
暗い声で言われて、シャーロットは思わず後ろを振り返ってしまった。
「もう! やめてよ!」
声をひそめて叱りつけ、息を吸う。
そばの声は、渋々といった口調で尋ねてきた。
「――で、首尾よくそいつらを発見したら、どうすりゃいいの? 下手したら僕、あの参考役の悪魔だと勘違いされて、銀を突きつけられるんじゃない?」
シャーロットは即座に応じた。
「“私が、昨日の首相の指示に従った”と言ってみて。それでぴんときてくださるんじゃないかしら。それでも駄目そうなら、なんとか逃げて戻ってきて。
話が出来そうだったら、とにかく今の状況を聞いて――それから、私と合流していただけるようにして」
「了解」
シャーロットの肩のあたりから、小さなテントウムシが飛び立って、省舎の壁に張りついた。
と思うと、その壁をすばやく這い進み、また飛び立って、開いた窓から中に入り込む。
その小さな影を見守って、シャーロットはごつごつした壁に手を突いて、その場にそろそろと立ち上がった。
左右を見渡す。
耳を澄ましてみたが、聞こえるのは意味のないざわめきばかりで、都合よく誰かが窓際に寄ってきて、何か重要な事実の噂話を始める、といったこともなかった。
(衛兵があんなにいたことを思うと、)
と、シャーロットは落ち着こうとしながら考える。
(何かが起こったのは議事堂――閣下がご無事でありますよう! それから、議事堂から軍省にも知らせがあって――でもその内容は、まだおおやけにはされていないってところかしら)
ただ、その知らせに準じた指示が下されて、その指示の内容から、何かが起こったことが察され、それが小声の噂になって広がっている――といったところか。
シャーロットはしばらくそこで立ち尽くし、これまでのことを考え、これからのことを混乱した頭で思い描き、そして早くかれが戻って来ないかと待ち構えた。
周囲の雑草が風にざわめく音にびくびくし、とにかく誰か、頼れる人がそばにいてくれることを心から祈った。
一人になってどのくらいが経ったか、そのとき唐突に、頭上の窓が大きく押し開かれた。
シャーロットは硬直した。
どうしてもう少し陰に入っていなかったのか、そのことを後悔してももう遅い。
咄嗟に見上げた先で、窓からあふれるオレンジ色の光を遮って逆光になった顔が、はっきりとこちらを見下ろしているのが分かった。
シャーロットは絶望のあまりその場に膝を突きそうになったが、こちらを見下ろした顔の持ち主は、どうやらシャーロットと同じ程度には驚いたらしい。
「わっ!」と声を上げ、その声に聞き覚えがあることにシャーロットが思い当たると同時に、今度はばたんと窓が閉まった。
(今のは、どっち……?)
シャーロットは警戒しながら考えた。
(単純に、私がここにいたことにびっくりしたのか――それとも、捜してた私を見つけて、それが不意打ちだったからびっくりしたのか、どっち?)
どう立ち回れば致命的な事態を避けられるのか判断がつきかね、シャーロットはその場でぐずぐずと足踏みした。
〈傍寄せの呪文〉を唱えるべきかどうかを考えること少しして、雑草を踏み分けて駆け寄ってくる足音が聞こえてくる。
シャーロットは全身を緊張させて壁に張りついた。
固唾を呑んで待ち構えることしばし、目の前、硝子から漏れるオレンジ色の光の中に、見慣れたザカライアス・リーの顔が現れた。
彼はじゃっかん息を切らしていたが、捜し回った犯罪者を目前にしたような、勝ち誇った顔はしていなかった。
むしろ純粋に驚き、安心したような顔をしている。
「……ミスター・リー――」
「ミズ・ベイリー!」
シャーロットの呼び掛けを遮って、リーはほっとした様子で呼ばわり、近い距離にいるにも関わらず、子供のような仕草で手を振った。
「良かった、見当たらないから捜してたんだ」
シャーロットはかろうじて笑顔を浮かべてみせた。
背中に冷たい汗を感じる。
「何か――何か、あったんですか?」
「いやあ、分かんない」
リーは邪気のない様子でそう言って、当然のようにシャーロットを促して、省舎の中に戻ろうとする。
シャーロットがそれに従うことをためらっていると、怪訝そうに彼女を見た。
ここで騒がれた方が困る、と判断して、シャーロットはのろのろと彼に従って動き始める。
「ただ、なんか変な感じでね――今日は珍しく、『帰るな』ってはっきり指示があってさ。きみのお友達の、ミズ・フォレスターも帰れてないみたい。その状況でさ、きみが見当たらないから、維持室はひっくり返ったみたいな大騒ぎだよ。先に帰っちゃったのかと思ってさ」
シャーロットは強張った笑顔を維持した。
「帰るはずないじゃないですか、お仕事もあるのに」
「だよね。――なんでこんなとこに?」
そう尋ねながら、リーは裏口に行き着き、裏口までの三段の階段を上がって、扉を開けた。
シャーロットは心臓が皮膚を突き破るのではないかと思えるほどにどきどきしながら、扉の両脇を守る衛兵の視線から、すばやく顔を逸らして目を伏せ、迫真の様子で囁いた。
「気分が悪くて――ちょっと吐き気が」
リーはシャーロットの蒼褪めた顔を見て、得心したように頷いた。
「なるほどね。でも、とりあえず今は部屋にいてくれなくちゃあ。
僕たちみんなが連帯責任で怒られるのは、さすがにちょっと遠慮したいからね」
シャーロットは眩暈を覚え、壁のガス灯に照らされ、きらきらと輝いて見える大理石の廊下のきらめきに目をつむった。
「はい。――申し訳ありませんでした」
かくして、リーはシャーロットを連れて維持室へ戻ろうとした。
シャーロットには馴染みのない場所だったから、自分が軍省の省舎のどのあたりにいるのか、その把握さえもが難しかった。
だが、リーはさすがの年季というべきか、現在地も知悉しているらしかった。
迷う様子もなく廊下を歩き、行きあう軍人に頭を下げながら小さな広間に行き着くと、そこから擦り切れた絨毯を踏んで、幅広の階段を上がっていく。
シャーロットは軍人とすれ違うたびに心臓を吐き出しそうになってはいたものの、彼らの顔色には注目していた。
どの軍人も、唇を真一文字に引き結んで厳しい顔をしている。
そのことにシャーロットが嫌な予感を募らせる一方で、リーもさすがに違和感を覚えたらしい。
「なんかあったのかな」
と、階段を昇り切ったあたりで、彼はシャーロットに囁きかけた。
「なんか、怖い顔をしてる人が多いね」
「――そうですね」
かろうじてシャーロットはつぶやいた。
「何もなかったのならいいんですけれど」
様子を探りに行かせた悪魔はまだ戻らない。
とはいえ、かれの姿がリーの目に触れれば、リーもリクニス学院で腐るほど悪魔の擬態は見てきただろう――魔精の擬態は見抜かれてしまう。
(もうどうしたらいいの……)
柄にもなく涙ぐみそうになったとき、シャーロットは、どん、とリーの背中にぶつかった。
「――っ、ごめんなさい!」
あわてて顔を上げる。
リーは怒ってはいなかった――それどころかシャーロットに頭突きをされたことにさえ気づいていない風だった。
彼は大きく目を見開いて足を止めている。
その視線の先を追いかけて、シャーロットは今度こそ心臓が止まるかと思った。
ちょうど、リーが向かおうとしていた廊下、シャーロットにも見覚えのある廊下を、衛兵が練り歩いている。
人数でいえばさほどでもないが、普段に比べれば確実に多い。
皆が皆きびしい顔をして、廊下を歩く役人に声をかけている。
方々から射すガス灯の光が、彼らの影を放射状にあらゆる方向に伸ばしている。
シャーロットはひゅっと息を吸い込んだが、リーはただただ驚いただけであるらしい。
目を丸くしたままシャーロットを振り返って、蒼白な彼女の顔を見て、真面目に問い掛けた。
「何があったんだろうね?」
シャーロットはとぼけるために首をひねったが、そのとき衛兵の一人が二人を見つけた。
シャーロットは思わずリーの背中に引っ込んだが、リーは好意的に、シャーロットがものものしい武人に怯えているだけだと思ったようだ。
なだめるような声を喉の奥で出した。
「――そこの二人!」
衛兵がかつかつと歩み寄ってくる。
シャーロットは震えながら半歩下がった。
だが予想に反して、衛兵は特定の一人を捜している様子ではなかった。
ただ一方向を示して、居丈高に言った。
「四階の広間へ!」
「えっ」
リーがぽかんと声を上げて、まるで武器を持っていないことをアピールするようにして両手を挙げながら、きょとんとして尋ねた。
「なんでまた? 何かあったんです?」
「説明はあとだ。とにかく行け!」
高圧的な言葉に首を竦めながら、リーは「はいはい」と応じた。
シャーロットは彼の陰に隠れたまま歩き出すことを選んだ。
「ほんと、衛兵って乱暴な人が多いよね……」
リーがうんざりしたようにつぶやく。
シャーロットがあいまいに唸り、彼に歩調を合わせて廊下を歩くうちにも、「四階の広間へ!」と、そこここで声が上がるのが聞こえてくる。
(何が起こってるの……)
これほどわけが分からない状況に置かれたのは、スプルーストンで誘拐されたとき以来だ。
混乱したつぶやきが廊下に満ちていた。
衛兵に居丈高に命じられて、歩いていた役人たちは、おのおのがぶつぶつと文句や疑問をつぶやきながら、ある者は書類を抱えたまま、ある者はコーヒーのカップを持ったまま、ある者は煙草に火を点けるタイミングを失って、ぞろぞろと四階に向かいつつあった。
どうやら衛兵は、各階の執務室にも踏み込んで、同じ命令を繰り返しているらしい。
「いやいや、あの広間でも埋まっちゃうよ」
リーは皮肉っぽくつぶやいた。
四階の広間は確かに大きく、入省式でも用いられることがある場所だが、確かに省舎内の人間をすべて集めてしまえば、立錐の余地もなくなるだろう。
廊下を歩くうちに、リーが顔見知りを見つけたらしい。
「おっ」と嬉しそうにつぶやくと、そちらに人混みをかき分けて近づき、「何が起こってるか分かる?」というようなことを訊き始めた。
相手も肩を竦め、首を振っている。
そのとき、シャーロットの耳許で声がした。
「なんでこんなところにいるのさ! 外で待ってるはずじゃないの?
精霊をつけてたからいいようなものの、なんでそうふらふらするのさ!」
シャーロットは思わずぱっと耳を押さえたが、声を出して返答するのははばかられた。
うつむいていると、耳許の声はぼそぼそと続ける。
「まあ、いいけどさ。
――よし、いいかい、ご主人。首尾を報告するけど、叫んだり倒れたりするなよ」
シャーロットは小さく頷いた。
耳許の小さな声が早口に言う。
「まず、僕が見つけたのはアディントン大佐のほう。
驚くなかれ、彼はなんと、この地下の牢屋みたいなところに閉じ込められてる」
シャーロットは目を見開いたが、声を上げることはなんとか堪えた。
ただ、咳払いにまぎらわせて、尋ねる。
「――なんで?」
「これから説明するって。僕が行って、きみの使者だと伝えると、あっちも二進も三進もいかないからだろうね、あっさり信じてくれた。
で、彼を脱出させると大騒ぎになっちゃうからね、先にきみに状況を伝えるように勧められたわけ」
シャーロットは咳払いして、先を急かした。
耳許の声が深刻になる。
「いい、ご主人。きみが想定してるより五百倍くらいは悪いニュースをお届けするよ。
――まず、アディントン大佐たちが捕まってる容疑はね、内乱罪だ」
「――は?」
シャーロットは思わず声を出した。
あわてて口許を押さえたものの、頭の中の混乱は留められない。
(は? どういうこと? 逆でしょう? 冤罪――)
「どういうことかというと、」
廊下の角を曲がる。
まるで行進するように、一方向に向かって流れていく人波。
まるで現実感がない。
「いいかい、きみが会いたがってる首相は、べつに失脚させられたわけじゃない――」
次の言葉を聞いたとたん、シャーロットは足許の床が霧のかたまりに変じたような、そんな心地を味わった。
腹の底が抜けて、胃袋が落下したような。
心臓が数秒のあいだ止まり、耳鳴りがした。
「――死んだんだ。首相がついさっき暗殺されたらしい。
大佐はその罪を着せられてる。
ご主人、早いとこ逃げないと、まずいよ。
アーニーはどこだろうね? 拾えるかやってみようよ」