02 弱者の値
「――ひどい仕打ち、ね」
ネイサンは鼻白んだようにシャーロットから視線を外して天井を見上げ、つまらなさそうに言った。
そうして息を吸い込むと、またシャーロットに目を戻して、首を傾げる。
「なんのことだろう」
シャーロットは眩暈を覚えたが、今度は動揺のためでも恐怖のためでもなかった――軽蔑と怒りのためだった。
「……鞭打ちの痕がありました」
ネイサンは、シャーロットが驚いたことに、拍子抜けしたようだった。
「ああ――そこまでしか知らないのか」
その反応にこそ、シャーロットは怖気をふるうほどの恐怖を覚えた。
「は?」
茫然とつぶやく。
「彼に、他に何をしたんですか?」
「どうでもいいことだと思うよ。もう終わったことだし」
本音の声色で、ネイサンは事も無げに告げた。
絶句するシャーロットをまじまじと見たあと、仕方なさそうに肩を竦めて、溜息を吐く。
「私があの子に鞭を当てていたとして、それ、どうして責められる謂れがあるの?」
「…………」
シャーロットは瞬きした。
そのときばかりは本心から、一点の曇りもない嘲りの声が出た。
「――学校で教わらなかったんですか? 他人を傷つけてはいけないんですよ」
「ああ、そういう、」
ネイサンはくだらない芝居を観るような目でシャーロットを見て、うんざりした様子でつぶやいた。
「弱い連中が生きていくための、大多数の弱者が少数の強者に押しつけたような理論、私は嫌いなんだよね――腹が立たない?」
「――は?」
茫然とするシャーロットに、ネイサンは事も無げに言う。
「それ、いわば、『私は弱いから何もしません。どうか無償で養ってください』って言ってるようなものだろ。そんなもの、才能と強さの搾取だ。――どこに合理性がある?」
唖然として、シャーロットはぽかんと口を開けた。
「……本気でおっしゃっているんですか?」
「本気も何も、そう思わないの?」
ネイサンは真顔だった。
驚くほど真剣に見えた。
窓の外の空は、徐々に夕暮れへと近づき、燃え立つような茜色を映している。
「私は――きみもだが――才能のある人間だ。“生命は尊貴である”? そんなもの、“勝ち獲られた生命のみが尊貴である”、ということの間違いだ。
自分の命ひとつ勝ち獲れない者に、なんらの価値もないとは思わないの?
――私は才能のある人間だ。私は強い。その私に向かって、『殺さないでくれ』と言うなら、私にそれ相応の価値を示すべきだろ?」
「――――」
シャーロットは目を見開き、初めて会う人間を見るような気持ちでネイサンを見ている。
全くの善人ではないだろうと思っていた――グレートヒルの魔神の力を利用しようとしているのならば、考え方に乱暴なところはあるのだろうと思っていた。
だが、これほどとは。
ネイサンは淡々と続けている。
講義のように、というのとも少し違う――時間つぶし、暇つぶしのように。
「いい言葉がある――『適者生存』だ。言い得て妙だと思わない? 適した人間が生き残るんだよ。
つまり、まあ、ある程度乱暴な出来事――それこそ革命だとか――が起こったとして、そこで死ぬ者はそこまでだったんだよ。言い換えれば、べつに何人死のうが構わないはずなんだ。
なぜなら、より優れた人間が生き残るから」
ネイサンは上品な仕草で紅茶を口許に運んだ。
しかしすぐに、それをかちゃんとソーサーに戻す。
そうして彼が顔を顰めたとたん、小さな赤いトカゲが円卓の上に現れた。
かれが小さな口を開けて、ネイサンのティーカップに向かって、淡い色の炎を吹きかける。
とはいえ実際には、それは火ではない別のもののようだった。
すぐに、冷めていただろう紅茶から、また湯気が立ち昇り始める。
トカゲはすばやく円卓の上を走ってきて、まだ口をつけられていない、シャーロットの分の紅茶にも同じようにした。
そして、くるっと回るや否や、かれは姿をくらませた。
ネイサンがもう一度ティーカップを手に取り、今度はゆっくりと味わうように、それを口許で傾ける。
カップを静かにソーサーに戻すと、ネイサンはケーキをひとかけら、口に運んだ。
そうしながらも彼はシャーロットを観察していたが、シャーロットが白い顔をして唇を引き結んでいるので、やがて沈黙に飽きたように言葉を続けた。
「――平たく言えば、才能のある人間、まあ、強い人間と言い換えてもいいけれど、そういう人間には生きる権利がある。
一方、有象無象の人間――弱い人間、と言い換えてもいいけれど――には、それはない。生きていくためには、才能のある人間にそれをお願いしなければならない。『どうか無償で養ってください』ってね。
世の中は才能のある人間が作っているんだから」
ネイサンはシャーロットに向かって、いつものように微笑んだ。
「そう思わない?」
シャーロットは息を吸い込み、円卓のふちをぎゅっと握った。
――オーガストという甥とやらとの縁談を持ち出されたとき、どうして反発心以外の感情を覚え、あまつさえ不安にさえなったのか、それがもう分からなかった。
こんな男の手は取ってはいけない。
分かっていたはずだったのに――分かり切っていたはずだったのに。
〈神の丘〉の魔神を利用しようとする者が、道義的なものの見方をするはずはないと、当然に分かっていたはずなのに。
「……思いません」
「本当に?」
ふっと口許をほころばせて笑って、ネイサンは思い出し笑いを唇に昇らせた。
「ああ――そういえば、きみ、言ってたね。首相閣下に向かって――『命に代えても』だっけ。
実を言うと、穏便に事を運ぶためにも、きみにはこちら側についてほしかったんだけれど――」
こちら側、と言いながら、ネイサンは自分のそばを示した。
「――あれを聞いて、その提案を持ち出すのは得策ではないかな、と考えたということもあってね」
「ご賢明でした」
シャーロットはつぶやいた。
かろうじて皮肉めいた言い方が出来た。
「私は絶対に頷かなかったでしょう」
ネイサンは肩を竦めた。
そして、興味深そうにシャーロットを矯めつ眇めつする。
「だが、きみが――意見が合いそうな、首相閣下のことまで疑り深く見ていたとは意外だな」
「――――」
ああ、今まさに、それを何より後悔しているところなのだ。
――黙り込むシャーロットに向かって、ネイサンは愛想よく告げた。
「もうきみを誤魔化す必要もないから言っておくと、グレース閣下と私は、ずいぶん前から折り合いが悪くてね。彼には本当に困っていた――こちらの身辺を嗅ぎ回らせるのも、事あるごとに私を呼び出して自分の監視下に置こうとするのにも。
――きみ、グレース閣下に、私のことを何か言った?」
シャーロットは動かなかった。
心臓が激しく動いて、痛いほどだった。
――ここから出なければ。
出て、助けを求めなくては。
だが、誰がシャーロットの言うことを信じてくれる?
そもそも、ベイリー家の事情を知る人間もわずかだというのに。
そして、そのわずかな人間は、ほぼ全てが軍省の人間――ネイサンの膝元の人間だというのに。
シャーロットが助けを求めたとして、それに対して適切に対処することが出来るのはただ一人、チャールズ・グレース首相だろうが――
(ネイサンさまが、いちばん大きな脅威になる首相に対処せずに、ここで私を相手にのんびり話なんてしているはずがない)
焦燥と危機感にいっそう蒼褪めるシャーロットの、強張った表情に視線を当てて、ネイサンは口許を微笑の形に歪める。
「言ってないだろうね。――だが、そうすると、閣下が私のことを疑い始めた理由は本当に謎だ……リクニス学院の一件までは、完璧に信頼されていた自信があるんだけど。
ただ、閣下は――本当に不可解なほどに執念深く、あの子……アーノルドを捜し出そうとしていたから、それが巡り巡って私に行き着いたのかもしれないが」
そしてそこで、ネイサンは噴き出すように笑った。
「きみは知ってるかな――グレース閣下は伯爵でもあるんだよ。この国でも古い血筋の持ち主で――それがどうして、あんな浮浪児、会ったこともない浮浪児を、ああまで必死に捜していたのか」
シャーロットは手を握り合わせている。
痛いほど強く。
「――それが人間の美徳です」
「その美徳は刷り込みだ」
ネイサンがはっきりと言った。
「さっきも言っただろ? それは、大多数の役立たずが、才能ある人間を搾取するために打ち立てた、小狡い刷り込みだよ」
ネイサンが指を一本立てる。
教え諭すように。
「役立たずは、弱者は、才能ある人間に許しを得て、生きるべきだ。
それが出来ないなら死んでいい。
そうでないとどうして思えるの?」
シャーロットは必死になって落ち着こうとしながら、囁いた。
「――それは獣の理論です」
「いや、それを侮蔑だとは思わないよ」
ネイサンは生真面目に頷いて、認めた。
「弱いものは淘汰されるのが摂理だ。ものの道理というものだ。
きみも、獣はこの摂理の中にいると認めた、そうだろ? ならばどうして、人をその例外に置くんだろうね?
どうして人を殺してはいけないか、きみは考えたことがある?」
「――――」
シャーロットは、背骨が氷にすげ替わったかのような戦慄を覚えながら彼の言葉を聞き、大きく息を吸い込んで、低い声で尋ねた。
「――では、かりにあなたより才能のある人間が、あなたに向かって死ねと言ったら、あなたは死ぬんですか」
「面白いことを訊くね」
ネイサンはほがらかに応じた。
「もちろん、そうだろうね。その人が私よりも才能ある、重要で優れた人だったら。
――だけどね、シャーロット。そんな人はどこにもいないよ」
それに、と言葉を継いで、ネイサンは軽やかに続けた。
「きみは何か勘違いしているようだけれど、そうやって私に価値を示す人間、頭を下げる人間のことは、私は全力で守るよ。彼らの幸福のために力を尽くすよ。
――ねえ、」
円卓に肘を置いて、ネイサンはシャーロットに共犯者めいた微笑を送る。
「私は、きみにとても良くしてあげただろう?」
「…………」
シャーロットはいっそうひどい眩暈を覚えて、円卓のふちをぎゅっと掴んだ。
指先が痛むほど強く。
――そうだ、ネイサンは、初めて会ったときからずっと、シャーロットにはきわめて親切に接していた。
それが、いずれ屠殺されることが分かっている鶏に向けるような、たわむれの親切であったにしろ。
シャーロットがそうとは気づけなかった、たわむれではない親切を向けてくれたのは――
「――首相閣下は、今、どうなさっているんですか」
出し抜けにシャーロットは尋ねた。
ネイサンは肩を竦める。
「さあね」
シャーロットはネイサンの顔色に目を凝らす。
ネイサンはそれを気にしない様子で、もうひとくち紅茶を飲んだ。
そして、親しみ深い笑顔でシャーロットをうながす。
「飲まないの? べつに、一服盛ったりはしないよ」
シャーロットは呼吸が浅くなっていくのを感じる。
ここから出なければ。
背後にある扉を痛いほどに意識する。
その外には衛兵がいる――もう、一人だけとは限るまい――
しかもネイサンは、一声上げるだけで無数の悪魔をそばに寄せることが出来る――
シャーロットは口を開いた。
半ば以上が防衛本能のなせるわざだった。
ネイサンと会話を続けること――それで、ネイサンが決定的な行動に出ることを遅らせること。
「――私をあなたの側につけることはおやめになったと、先ほどおっしゃっていましたが、」
ネイサンは、「うん?」と首を傾げる。
アマレッティを一つ口に入れて、先をうながすような身振りをする。
シャーロットは息を吸い込んだ。
「先日……オーガストさんでしたっけ。彼のお話を持ち出されたのは、では、なぜですか?」
ネイサンは愛想よく頷いた。
「ああ、あれね。――きみは最近、とても大人しくなってくれていたから。以前から考えが変わっていたら、察しのいいきみのことだから頷いてくれるかと思って」
――『きみは最近、とても大人しくなってくれていたから』
――『僕の知らないところで、折れて砕けて、なくなっちゃったんだな』
身動きできないシャーロットの前で、ネイサンが思い出したように指を鳴らした。
「ああ――そうだった。
今日、返答を教えてくれと言っていたね」
シャーロットは瞬きした。
背中側をあまりにも意識しすぎていて、背中にもう一つの目玉が出来上がるのではないかと思えるほどだった。
緊張に頭が痛み、指先が震える。
「今、思い出されたということは、」
シャーロットは必死に言っている。
ネイサンに話を続けさせることに集中するあまり、口にしていい事柄かどうかの見極めがおろそかになっている自覚が明確だった。
「そもそも今日、私をここにお呼びになったのは、別の目的があったということですよね」
ネイサンはアマレッティを口に入れる。
紅茶を飲む。
そうして深紅のナプキンで口許をぬぐって、彼は肩を竦めた。
「目的というほどのものではないよ。きみの居場所を把握しておく必要があっただけ」
シャーロットは思わず、皮肉っぽく笑った。
「それでしたら、私はいつも、維持室にいるとご存じのはずです」
「いつもじゃないでしょ」
ネイサンは苦笑した。
「私がマルコシアスを召喚したとき、きみは玄関ホールにいたんだから」
シャーロットは爪先に力を籠めながらも、眉を寄せる。
「――今日、なにか……あの日みたいに、噂になることがあったということですか?」
それこそ、シャーロットが席を外すような。
シャーロットの怪訝の表情に、ネイサンがますます苦笑を深くする。
「ああ――その可能性もあると思ってね。ただ、最初に言っただろう――少し予定の変更があったんだ。
その意味では、きみをここで待たせておくことは、当初以上に重要なことになっていた。なにしろ、他からの手が伸びてしまうとまずい」
シャーロットは薄く口を開けて呼吸した。
咄嗟に、マルコシアスに何かあったのではないかと思った――シャーロットを手許に置いておくことがいっそう重要になったということは、ネイサンが『神の瞳』を手中にしたことを意味しているのではないかと考えたためだ。
だがすぐに、「まだだ」と気づく。
ネイサンは複数の魔神を召喚しているはずだ。
かりに、彼が『神の瞳』を手にしていたとすれば、ネイサンが全ての魔神に『神の瞳』とつり合いの取れる報酬を約束しているなどということはあるはずがなく、ネイサンにそもそも約束されていた報酬に見切りをつけ、契約を反故にしてでも、『神の瞳』の奪取に動く魔神がいないはずがない。
ネイサンも当然、それには気づいているはずだ――事が動くぎりぎりまで、彼は『神の瞳』の所在を、召喚している他の魔神には秘匿しようとするはずだ。
では、グレートヒルの魔神のために必要となる三つの要素のうちの、最後のひとつは――
――『困難であることのみをもって、人間がその歩みを止めることを信頼できるかい?』
「――ネイサンさま」
シャーロットは声の震えを抑えようとしながら、つぶやいた。
「私のひいお祖母さまの呪文は、突き止めたんですか」
ネイサンは莞爾と微笑んだ。
いっそ優しげなほどに。
「言っただろ?
私は才能ある人間だって」
シャーロットは息を止めた。
ネイサンはむしろ気の毒そうに続ける。
「とはいえ、本当に難解だった――認めよう。
きみがそれほど魔術師として優れているのも、スーザン・ベイリーの血を引いていることを思えば当然だったのかもしれないね」
シャーロットは息を吸い込む。
「……私の努力を、血筋なんてもので片づけないでください」
心臓が激しく動いている。
この心臓を作り変えて、身体中の血液をまったく別のものにしてしまうことが出来れば話は早いのに。
ここから出なければ。
この心臓と血を抱えて逃げなくては。
――『きみをここで待たせておくことは、当初以上に重要なことになっていた。なにしろ、他からの手が伸びてしまうとまずい』
これは、聞きようによっては、つい先刻まで何かの騒動があり……その騒動の中で、ネイサンの敵方、十中八九が首相だが、そちら側にシャーロットを確保されるとまずかった、という意味にもとれる。
もしもその意味だった場合――ネイサンが、この用心深いネイサンであっても、今このときは油断しているかもしれない。
突けるとすればその油断だけ、賭けることが出来るのはその好機だけ。
シャーロットは、今の盤面を知らない。
ここから出て、盤面を把握したときにはすでに詰みの状況にあるのかもしれないが、諦めなどという選択肢は、シャーロットの人生には必要ない。
「血筋にないものは生まれてこないよ」
シャーロットに応じて軽やかに告げてから、ネイサンは円卓に両肘をついて、指を組む。
そして、まっすぐにシャーロットを見据えた。
「じゃあ、せっかくだから訊いておこうか。
――可愛いシャーロット、先日の私からの申出への返事は決まっているかな?」
シャーロットはネイサンと視線を合わせた。
手が震えるのを堪えるためにこぶしを握る。
そのこぶしを膝に押し当てる。
眩暈がするような緊張に、頭の中の複雑な思考をすべて白紙にしながら、ただ目の前のことだけに集中する。
(――ああ、この緊張の感覚、覚えがある)
かすめるようにそう思った。
(あの日だ。議事堂で、はじめて首相にお目にかかったときと同じだ)
あの日も、シャーロットは頭のてっぺんから爪先まで震えながら、首相の前に進み出たのだ。
シャーロットは大きく息を吸い込んで、
「――はい」
応じた。
うながすように首を傾げるネイサンの目を見ながら、震える声で、しかしはっきりと答える。
「断じてお受けすることはありません」
ネイサンが苦笑し――しかしその表情を、シャーロットがゆっくりと眺めることはなかった。
シャーロットは合図のために叫んだが、そのときは焦燥と緊張がないまぜになり、「今!」と叫んだのか、「急いで!」と叫んだのか、はたまた「なんとかして!」と叫んだのか、彼女自身であっても記憶にはなく、実際にはおそらく言葉にならない怒鳴り声でしかなかった。
椅子を蹴立ててシャーロットが立ち上がると同時に、円卓の上のクロスが勢いよく引かれて、その上の茶器も甘味の皿も道連れに、かんだかい騒音を響かせて床の上に落下した。
紅茶や菓子のクリームが床の上に飛び散り、クロスにしみを作り、そばの椅子の脚にまではね返る。
夕陽の赤色がきらめく窓があってなお、無数の皿が砕ける音とともに、室内が暗転する。
同時に、誰も触れていない、シャーロットの背後に位置する扉が音を立てて開いた。
その扉の前に立っていた衛兵――五人に増えている――が、ぎょっとした様子でいっせいに室内を振り返り、そして暗くなった室内に、怪訝と違和感を覚えたのか、一瞬のあいだ硬直する。
ここまでが一秒たらず、茶器と皿が割れ砕ける音の残響が漂っている――
――シャーロットは立ち上がると同時に身を翻していた。
絨毯を踏み、笑いそうになる膝を叱咤して、必死になって扉めがけて突進する。
悪夢の中であるように、焦る気持ちと動く身体が合致せずに、進めど進めどいっこうに扉が近づかないような錯覚――
だが実際には、ものの二秒程度で、シャーロットは扉に到達していた。
衛兵が、ぎょっとした様子でシャーロットに向かって手を伸ばす――
――シャーロットはその場で転んだ。
決して意図的なものでも、ましてや策略があったわけでもなく、緊張のあまりに絨毯に足を取られたのだ。
が、結果的にそれが良かった。
衛兵の伸ばした手は空を切り、転倒して床にしたたかに膝をぶつけたシャーロットには、当然ながら痛みはなく、彼女は即座に跳ね起きる態勢に入ることが出来ている。
同時に衛兵の頭上で、大きな銅鑼を力いっぱい叩いたかのような凄まじい轟音が響き渡った。
おそらく、その音は耳許で轟いたように聞こえただろう――危機感をじゅうぶんに煽るほどに強く。
衛兵たちが、弾かれたように一斉に上を見る――その隙を突いて、というよりはその隙に向かって命懸けで突っ込んでいくようにして、シャーロットが走るというより磨き抜かれた床の上を滑るようにして、衛兵のあいだを抜けていく。
「――どうすんの! どうすんの!」
耳許でパニックを起こした声がした。
シャーロットは息も絶え絶えに走り、階段を転がるように駆け下りながらなんとか息を吸い込み、叫ぶように応じた。
「誰にも怪我をさせなかったのは偉いわ!」
「だってきみ、それはめっちゃ怒るじゃん!」
踊り場で壁に激突しそうになりながらも方向転換。
足を踏み外しそうになりながら、飛ぶように階段を降りていく。
とにかくネイサンと距離を取りたい一心で。
ネイサン――ネイサンは。
「ねえ! ネイサンさまが後ろで、ちょっとでも私を止めようとするの見た――もしくは、聞いた!?」
「いや全然!」
「私はもう外に出てもいいって思ってたってこと? それとも――」
シャーロットはつばを飲む。
ようやく人のいる廊下に辿り着いた――ガス灯が次々に点されていく廊下を、役人たち、つまるところがシャーロットの同僚たちが、足早に行き来している。
その姿が、磨き抜かれた大理石の床に映り込み、まるで忙しなく動き回る無数の亡霊が足許にいるようだった。
――異変はない……そう見えるだけだろうか……いや、行き来する人々の顔が一様に深刻なものになっている。
それに――なんだろう、浮足立ったような雰囲気がある。
普段はみずからの目的地だけを見据え、前だけを向いて歩いていく役人たちが、ひそひそと何かを囁き交わしている姿が目につく。
「――ああ」
立ち尽くし、シャーロットはつぶやいた。
独り言だと誤魔化せる程度に小さく。
「グレートヒル全体が、もうネイサンさまの用意した蜘蛛の巣になってしまったなんて、どうかそんなことは言わないで」