12 お茶会
一歩入った応接室は、火の気のないマントルピースを背景に、大きな円卓が置かれている広い部屋だった。
円卓は磨き抜かれたオーク材で出来ていて、細かいレース編みのクロスが優雅に掛けられている。
クロスは床にかからんばかりの長さだった。
円卓の中央には、溢れんばかりに花を飾った花瓶も置かれており、その真上に吊り下げられたシャンデリアには、もうこの時間から明かりが点されていた。
明かりを受けて、花瓶に活けられた大輪のユリの花びらが、白くつやつやと輝いて見える。
ユリとともにスターチスも生けられて、それは目にも鮮やかだった。
マントルピースの上には、凝った装飾のほどこされた金縁の大きな鏡がかけられており、鏡の中に反転した部屋が映り込んでいる。
シャーロットは最初に鏡の中に小さく映った自分と目が合って、瞬きした。
マントルピースがある壁には窓もあったが、その窓は今はしっかりと硝子戸が閉め切られている。
窓の外は快晴――うだるような暑さが、今日もまた続いている。
シャンデリアを挟むような位置で、天井では大きなプロペラがゆっくりと回って、空気を攪拌していた。
シャーロットは室内を一瞥して、ネイサンはおろか、招待客がまだ誰も来ていないことを見て取った。
拍子抜けのような気分になり、シャーロットは念のため、時刻を間違えてはいないことを確認しようとして、振り返った。
「あの――」
声を出したシャーロットの目の前で、衛兵はすばやく、そしてそっけなく、ぴしゃりと扉を閉めていた。
口を衝こうとした言葉をへし折られて、シャーロットはじゃっかん鼻白む。
扉から室内に向き直り、シャーロットはさらに顔を顰めた。
もしかするとネイサンが、シャーロットの度重なる遅刻にうんざりして、彼女にだけ少し早い時刻を伝えたのかもしれない、と、シャーロットはそわそわしながら考えた。
マントルピースの上には、立派な置時計が鎮座して、粛々と時を刻んでいる。
――三時五分前。
シャーロットは柔らかい絨毯の上に足を踏み出して、ネイサンや他の招待客が今にも現れるのではないかと思うと気がとがめたが、ぐるりと円卓の周りを回ってみた。
椅子はどれも、背もたれが高い立派なもので、柔らかいクッションを備えている。
座ってみれば、シャーロットの頭よりも上に背もたれのてっぺんがくるような代物だ。
円卓の周りを巡ったシャーロットは、ともかくも出入口に近い位置にある椅子に腰かけることにした。
椅子の上に浅く腰掛けて小さく咳払いしてみると、静まり返った部屋の中で、存外にその声がはっきりと響いた。
――そのとき、シャーロットは違和感に気づいた。
円卓の上に整えられている支度――その数がおかしい。
白い、花のような洒落た形をした小さな磁器の皿が、それとなく一揃いで一式であることを示すように、配置されて用意されている――そのそれぞれに、皿の大きさにぴったり合う、小さな銀の覆い蓋がかぶせられていて、皿の上は見えない。
そして、金色の小さなフォークとナイフ、そしてスプーンが置かれ、深い赤色のナプキンがつつましく添えられている。
繊細な薄青い模様の入った陶器のティーカップが、空のままソーサーの上に鎮座している――
その全てが、二人分なのだ。
シャーロットが適当に選んで座った椅子の前に、その用意はなかった。
シャーロットがすぐにそれに気づかなかったのは、そんなはずはないという先入観があったゆえであり、花瓶のユリに気を取られたがゆえだった。
「――――」
シャーロットは息を吸い込み、立ち上がった。
――二人分しかないお茶の支度――どうして。
喉許にひやりとするものを感じながら、シャーロットはそろそろと扉に歩み寄り、内側からそうっと扉を引いた。
とたん、ぬっと顔を出した衛兵が、「どうかなさいましたか」と、無表情で尋ねてくる。
顔を突きつけられるような格好になって、シャーロットは飛び上がるほど驚いた。
「だっ――誰もいらっしゃらなくて」
と、シャーロットはまごつきながら言った。
衛兵は、ぱちん、と自分の懐中時計の蓋を開けて、時刻を確認した。
そして、きっぱりと言った。
「もう少々お待ちください。皆さまいらっしゃるでしょう」
また、ぴしゃりと扉が閉められる。
ちらりと置時計を見る。
三時五分。
シャーロットはパニックがひたひたと足許に寄せてくるのを感じながら、扉の前をうろうろと歩き回った。
どこかで何かを間違ったのだ、と、そんな考えが頭をかすめる。
昨日、首相がわざわざシャーロットを訪った――何かが起こっているのだ。
そんな中で一人で行動するなど、間抜けにも程があった。
せめていつもどおりに行動すべきだった。
ここ最近は弱気になっていたのだ。
その結果が――これ。
(いえ、待って。これって、なに。
今、何がどうなっているの)
不安に駆られ、その不安とリスクを胸中で天秤に掛けてから、シャーロットは覚悟を決めてぎゅっと目をつむる。
そして、早口で、ほとんど聞こえないほどの小声で、〈傍寄せの呪文〉を唱えた。
すかさず耳許で聞こえた、「なに?」という弾んだ声に、黙っていろと手振りで示す。
すぐにここがどこかということに気づいたのだろう、相手も黙り込んで気配を消した。
てのひらにじっとりと汗を掻いている――暑さのゆえではなく。
そうして深呼吸し、なおも扉の前を行ったり来たりする。
絨毯が柔らかくシャーロットの靴音を吸い込む。
窓の外には燦々と陽が降り注いでいる――陽炎が立ちそうなほど。
時計が三時半を指した。
シャーロットはもう一度扉を開けた。
また、視界を覆うほどの近い距離で、ぬっと衛兵が立ち塞がる。
「どうかなさいましたか」
シャーロットは声の震えを抑えた。
「どなたもいらっしゃらないんです。私も、そう長く席を空けていられませんし、時刻が変更になったのなら、それを教えていただければ」
衛兵は扉の前に立ち塞がったまま、ふたたび自分の懐中時計で時刻を確認した。
シャーロットが前に出ようとすると、それを如才なく止めてくる。
そして、有無をいわせず扉に手をかけ、冷ややかに言った。
「――もう少々お待ちください」
また、ばたん、と扉が閉じられる。
シャーロットは愛想のない滑らかな黒檀の扉を睨んだ。
とはいえ指先が震え始めるのは堪え切れなかった。
――何かが起こっているのだ。
それは分かっていたはずなのに、どうして、自分は考えなしにもここへ来たのだろう。
だが、とはいえ、ネイサンとの約束を反故に出来なかったことも事実――
分厚い壁と扉が、外の一切の物音を遮断していた。
シャーロットは、世界中が死に絶えたとしてもこれほどの静けさの中に取り残されることはないのではないか、と思える静寂の中で、かちっ、こちっ、と、置時計が時を刻む音だけを聞いている。
時刻が四時を指した。
シャーロットは耐えかねて、もう一度扉に手をかけた。
――金色のノブが回り、がちゃん、と引っかかる手ごたえがあって、扉は開かなかった。
「――――」
シャーロットは凍りつき、目を見開いて、足許から冷えるような恐怖に溺れながら、動かない扉をじっと見つめた。
もう一度、扉を引く。
頑として扉は動かない。
――鍵が掛けられている。
今や、彼女の背中をじっとりと汗が濡らしていた。
――招待客を部屋の中に閉じ込める茶会など、聞いたことがない。
あきらかにおかしい。
これは――助けを呼ぶべき事態だ。
くる、と踵を返し、窓に駆け寄る。
窓は採光を目的にして設けられているのだろう――窓枠の下端がシャーロットの顎の高さにある。
手を伸ばして、押し開けようとしてみる――動かない。
窓の外で、陽光がただ燦然ときらめいている。
シャーロットは息を吸い込み、ふたたび扉に駆け寄った。
シャーロットの焦燥と危機感に対して、部屋の中はきわめて静かだった――足音すらも絨毯に吸われている。
「あの!」
その静けさを破るように、シャーロットは大声を上げた。
「あの、どなたか――どなたかいらっしゃいませんか!」
ばんばん、と、てのひらで扉を叩いてみる。
手違いで鍵がかかったのでは、と訝る声音を作る。
「――あの? あの、どなたかいらっしゃいますか。
開けてください――鍵がかかってるみたいです」
ばんばん。ばんばん。
そのうち、なんの返答も反応もないことに半狂乱になり、彼女はこぶしで激しく扉を叩きつけていた。
耳許で声がする――「僕がやろうか?」
「だめ」
シャーロットは歯を喰いしばって、抑えた声で囁いた。
「まだだめ」
少なくとも、シャーロットに生命の危機――あるいはそれに準ずる危機――が迫っていたのだと、おおやけに主張できるだけの状況でなければ、無断で悪魔を召喚していたことこそが重く見られて罰されてしまうだけだ。
息を吸い込む。
ちらりと振り返り、マントルピースの上の置時計を目を細めて見る。
――四時十分。
ふたたび扉に向き直り、激しくこぶしで扉を叩く。
「あの! 誰か――誰かいらっしゃいませんか!」
扉が揺れるのではないかと思うほど、強く叩く。
「あの! どなたか! どなたか――わっ!」
唐突に扉が内側に向かってなめらかに開き、あやうくシャーロットの鼻を折りかけた。
シャーロットの右のこぶしは、ものの弾みで、扉の向こうに立っている人物の胸を殴りそうになっていた。
飛び上がるように後ろに下がり、どきどきと脈打つ胸もとを押さえる。
そこに立っている人物は、おかしそうにくすりと笑った。
「――おや、元気だね、シャーロット」
おだやかにそう言って、静かに一歩、応接室の中に入ったジュダス・ネイサンの後ろで、またすばやく扉が閉められた。
「――――」
シャーロットは棒を呑んだように黙り込んでいる。
そんな彼女を嬉しそうに微笑んで見つめて、濃灰色の背広をまとったネイサンはほがらかに告げた。
この暑中にあって、汗ひとつかいていない。
「約束どおり、遅れずに来てくれて嬉しいよ。こちらの方が遅れてすまない――動揺させてしまったかな、悪いね。
少しばかり予定の変更があったんだが――片づいた」
そうして、彼はシャーロットに向かって、円卓の椅子を指し示してみせた。
「さあ、掛けて。
お茶にしよう、シャーロット」
シャーロットは一歩下がった。
ここは主張をしていい場面だろう――
「――鍵がかかっていました」
シャーロットは震える声でそう言った。
ネイサンは柔和に微笑んで、ひとあし先に円卓に向かう。
優雅なその足取り――軽やかとさえいえる足取り。
シャーロットは震えながら、ネイサンのその横顔を見送り、背中を見て、やがて円卓の向こうでこちらへ向き直った彼の顔を見た。
にこやかで伸びやかなその笑顔を。
「失礼をしたね。外の衛兵の悪ふざけかな――叱っておこう」
ネイサンは軽やかに言った。
軽やかで――まるでおどけたような口調で。
シャーロットはよろめくようにして、ネイサンの方へ身体ごと向き直った。
とはいえ、円卓のそばには寄らなかった。
「他の方々はどうなさったんですか」
シャーロットは円卓の上を指し示した。
「お茶の支度は二人分だけです――」
「そうだよ」
ネイサンは打てば響くように応じた。
いかにもおかしそうに彼は笑った。
「私ときみの分だ。――出席者の一覧でも見た気になっていたの?」
ネイサンが、ぱん、と手を叩いた――とたん、どこからか薄灰色のもやのようなものが複数、ぱっと立ち昇った。
そのもやがたちまち、四、五人の、おおまかにいえば人の形といえなくもないようなあいまいな形を象って、動き始める。
次々に、皿にかぶせられていた銀の覆いが外されていく。
その銀の覆いも、ぱっ、ぱっ、と、次々に空中に消えていく。
あらわになった色とりどりのケーキやタルト、たくさんの果物のコンポート、そして金色にきらめくアップルパイなどを示して、ネイサンがにっこりと笑う。
「さあ、掛けなさい、シャーロット。お茶にしよう。
われらがリクニス学院のアップルパイほどおいしいかな。味見してみようじゃないか」
シャーロットはゆっくりと円卓に歩み寄った。
それを見て、ネイサンは満足げに微笑して、マントルピースの側の彼の椅子に腰かけ、円卓に肘をついて、その手で顎を支えるような格好をとった。
だが、シャーロットは――彼女のために用意された――椅子には座らず、その隣に立っていた。
ネイサンが首を傾げる。
あいまいな形のもやは続いて、洒落た柄のティーポットを、どこからともなく取り出していた。
もやが象るあいまいな形の手が、しっかりと現実味のあるティーポットを握っているのは、むしろ現実感が損なわれるような光景だった。
ティーポットから、とぽとぽとぽ、と、湯気を立てる赤みを帯びた色の紅茶がカップに注がれる。
紅茶の香りが立ち昇る。
カップのそばには、シュガーポットも用意されている。
こんもりと盛られた角砂糖が、シャンデリアの明かりを受けて、きらきらと光っている。
「シャーロット?」
ネイサンが呼ぶ。
訝しげではあったが楽しげでもあった。
「どうしたの?」
「……私に何かご用があられるのなら、いつものように執務室にお呼びいただければよかったはずです」
シャーロットは囁くように言った。
「それを、どうして、今日はこんな……こんな……変です」
シャーロットは言葉に迷い、仕草に迷い、思考にすら迷って、しかしやがて、囁くようにして尋ねていた――この七年間ではじめてとなる問いを。
「……今、なにをお考えになっているんですか」
ネイサンが目を見開いた。
そして、いかにもおかしそうに笑い始めた。
肩を震わせ、うつむいてくすくすと笑って、ようやく顔を上げたときには、珍しいことに目尻に涙が溜まっていた。
「――シャーロット」
むせるほどに笑ったあとの息の弾みを抑えて、ネイサンは首を振った。
「シャーロット、もう、本当に。きみは頭がいいように見せかけて、その実、あまり考えが回っていない――これではあの浮浪児の、アーノルドの方がよく頭が回る……」
シャーロットは眩暈を覚えた。
アーノルド。
覚えず、ぎゅっと椅子の背もたれにしがみつく。
「――アーニー……アーニーは今、どこにいるんですか」
「きみのその、アーニーはどこ、聞き飽きたな」
ネイサンはそう言って、言葉をあらためるように言い換えた。
「見飽きた、というのもあるか。きみはよく手紙に書いていたから」
そう述懐して、ネイサンはまぶしいような笑顔でシャーロットを見る。
まぶしく、明るく――まるで、何かの重荷を下ろしたかのような。
「まあ、掛けなさい、シャーロット。
ちょうどいい、答え合わせをしてあげるから」
シャーロットは目が回るような気持ちで、椅子の背もたれに縋る指が白くなるほどに力を籠めた。
――これまで、シャーロットが頑として守ろうとしてきた一線が侵されつつある。
「……答え合わせ? なんのことですか」
ネイサンはまた笑い出しそうになったのを、すんでのところで堪えたようだった。
嘆かわしげに首を振り、溜息を吐いて、そして笑みにきらめく目を上げる。
微笑む口を開いて、彼は言った。
「ああ、シャーロット。きみはどれだけ私のことを低く見ていたんだろう?
気づかないとでも思ったの――?」
シャーロットの心臓は狂ったように打っている。
そして同じ緊迫を、別のものとも分け合っていることを痛いほどに感じている。
「リクニス学院での、あの一件があってからだね。私あての手紙の文面が、妙に慎重なものになった――進路の主張については恐れ入る、きみは百の矢まで射てきたが、それら全てがグレートヒルから――私から、距離を取るものだった。あげくに清掃下男を選ぼうとするとは、本当に悪ふざけが過ぎるよ、シャーロット。
とはいえ、私にとっては僥倖だったが、きみは大きな弱みがあったから――」
「――――」
シャーロットは息を止め、動きを止め、茫然とネイサンに見入っている。
「――あの死体は、きみが大叔父さんの屋敷に身を寄せていたときのものだね。きみを誘拐しようとして押し入った殺し屋を、きみの悪魔を使って殺した。
私がきみの大叔父さんの屋敷を訪ねたというだけで、私がこの事実を抑えたと察してくれたのは偉かったね。
――きみのそういう、打てば響くようなところは、私は好きだよ」
「――――」
シャーロットは何も言えない。
その顔から血の気が引いている。
「その弱みを匂わせてやることで、ようやくきみは軍省に入った――私の手許に来た。だが、ああ、認めよう。きみは一筋縄ではいかなかった。
維持室に放り込んでやれば、目下の仕事で頭がいっぱいになって泣きついてくるかと思ったが、それもなく」
ネイサンが、優雅にティーカップを持ち上げて、口許でそれを傾ける。
薄い灰色の目がカップのふち越しに、そして立ち昇る湯気越しにシャーロットを見て細められる。
「――茶会に呼んでも晩餐に呼んでも遅刻の常習犯、あるいは極端に早く来るばかりで、こちらの指示した席に座らないよう全力を尽くして抵抗してくるときた。
――私に一服盛られるとでも思っていたの? 茶会のあとも晩餐のあとも、きみが吐いていたことは知っているよ」
ティーカップを上品に口許から離してそう言って、ネイサンはかちん、と、カップをソーサーに戻した。
おもむろにフォークを持ち上げて、アップルパイにそれをぐさりと突き刺す。
そしてネイサンは目を上げてシャーロットを見て、微笑んだ。
薄い刃物のように酷薄に。
「――それで、きみはどうやって、私こそが、〈神の丘〉の魔神を復活させようとしている魔術師だと気づいたの?」