09 〈身代わりの契約〉
フラナガン維持室長助官は、ノックも断りもなしにシャーロット・ベイリーの小さな執務室の扉を開けた。
そしてそれと同時に、机の上に頬杖をついてぼうっとしている、その部屋の主――あくまでも、暫定の主だが。人事異動命令の一声で、主たる資格を失ってしまうのだから――を目の当たりにした。
フラナガン助官は眉を上げ、腫れぼったい瞼の奥の、青みの強い緑色の目で彼女を責めるように見つめた。
「ミズ・ベイリー、どういうことだね」
シャーロットは、扉が開けられたことにすら気づいていなかったらしい――はっとしたように助官を見た。
頬杖をついていたのと反対の手で、彼女は青い尖晶石の欠片をもてあそんでいたのだが、それをあわててワンピースのポケットに入れながら、泡を喰った様子で立ち上がる。
「助官――失礼を」
フラナガン助官は例の、小切手に書かれた金額を読むような目つきでシャーロットを見て、鼻から息を抜いた。
シャーロットは嫌な予感に駆られ、吐き気を堪えながらも恐る恐る囁いた。
「仰せつかった稟議の提出は、明後日までのはずですが――」
フラナガン助官は鼻を鳴らした。
「そうだね。だが、きみ、どうやら退屈しているようじゃないか。早くこちらへ渡してくれてもいいんだよ」
シャーロットは口の中でもごもごとつぶやく風情を見せたが、なんとつぶやいたのかは自分でも分かっていなかった。
ただ、唐突に、耐え難いほど強く、こんなことはもうたくさんだと、彼女の頭の中で叫び声が響いていた。
その叫び声をやっとのことで堪えて、シャーロットは力なく尋ねた。
「新しいお仕事でしょうか」
そう尋ねたことで、自分の魂の上に墨をこぼしたような汚れの一線を引いた気持ちになる。
シャーロットの気持ちは斟酌せず、勘づきもせず、フラナガン助官は皮肉っぽく唇を曲げた。
「なるほど、きみは余裕がありそうだからね。新しい案件は多く受け持ってもらおうかな」
シャーロットがうめき声を堪え損ねるのに顔を顰め、
「だが、今は違う。――ミズ・ベイリー、どういうことだね。
参考役がお呼びだ」
「――え?」
シャーロットはぽかんと口を開けた。
「参考役……さま?」
「その通り」
助官はいらいらと舌打ちした。
「さあ、その頭の悪そうなぼけた顔をしまいなさい。もう少ししゃんと出来ないのかね。さあ立って――早く! 私を監督責任を問われるような立場に追い込みたいのかね?
急いで――今すぐ、参考役さまの執務室へ向かうんだ――今!」
シャーロットとしては、目の前のこの意地悪な上司が監督責任を問われて神妙にする場面があるならば、ぜひともそれを拝みたいと思う程度には恨みがあるわけだが、それを言い出して事態をややこしくする気はなかった。
ネイサンはいつも、私的な形でシャーロットをそばに呼んでいた。
つまり、彼の側近に言いつけて、シャーロットに伝言を届けさせていたのだ。
こうしてシャーロットの上司を通したことはない――言うまでもなく、悪目立ちすることになるからだ。
それが、今日はわざわざフラナガン助官を通している――
(――何かあったの?)
茫然としたのは一秒だけで、シャーロットはすぐに立ち上がり、あわただしく彼女自身の小さな執務室を飛び出した。
どうやら、シャーロットが呼びつけられているということは、大部屋の中ではとっくにニュースになっていたらしい。
立ち上がってシャーロットをじろじろと眺めてくる者もいる。
ちょうど小部屋から顔を出したリーが、驚いたようにシャーロットを見て、「どうしたの?」と尋ねようとし、すぐにシャーロットのそばにいるフラナガン助官に気づいて、すみやかに小部屋の中に引っ込んでいった。
シャーロットからすれば大誤算だったが、フラナガン助官は、頼りない部下を一人で参考役のもとへ向かわせる気など毛頭なく、当然のように彼女とともに大部屋を出て、廊下を進み始めた。
シャーロットは困惑したもののそれを言い出せず、彼女の困惑をよそに、助官はせかせかした足取りでシャーロットの隣を進み、髪を直せだのワンピースのリボンがずれているだのと、口うるさい父親であってもここまでのことは言うまいと思うだけの小言を、どっさりとシャーロットの頭の上に落とし続けた。
それが延々と続いたので、シャーロットが状況を忘れそうになり、今から自分はお見合いに行くのかもしれない、と錯覚しかけたほどだった。
一生分にも匹敵するだろう小言を聞き、フラナガン助官がウエストコートの裾をこねくり回しながらせかせかと闊歩するのを横目にして、シャーロットはネイサンの執務室の前に辿り着いた。
その部屋の前に立つ衛兵たちが、「今日は一人じゃないの?」とばかりに、眉を上げてシャーロットを見る。
シャーロットは肩を竦める動きで応じた。衛兵も同じ仕草を返してから、扉を叩いた。
すぐに扉が開き、衛兵が折り目正しく告げる――「ミズ・ベイリーです」。
中にいる使用人――ウェントワース氏だ――が、すぐに大きく扉を開けてシャーロットを出迎えた。
そして、訝しそうにフラナガン助官に目を向ける。
「――失礼、参考役は、ミズ・ベイリーをお呼びになったのですが……?」
助官は瞬きして、胸を張った。
「ええ、存じておりますよ。ですが、彼女は私の部下ですから」
ウェントワース氏は顔色も変えず、「失礼」と断りを入れるなり、ばたんと扉を閉めた。
フラナガン助官の動きの鈍い表情筋が愛想笑いを頬に届けたときには、その愛想笑いを受けるのは扉の前に立つ衛兵になっていた。
フラナガン助官が、何事かを低くつぶやいた――シャーロットは胃が痛くなってきた。
このことで目をつけられて、維持室での待遇が今以上に悪くなるならば笑えない。
シャーロットが気まずい思いで床を見つめること十数秒で、再度扉が開いた。
その向こうに立つウェントワース氏が、愛想笑いの手本のような顔でフラナガン助官を見て、明るく言った。
「どうも、参考役はミズ・ベイリーとお会いになるにあたり、付き添いは必要ないと考えておられるそうです。貴君がミズ・ベイリーの上司として、彼女をここまで送り届けてくださったことをお伝えしました。もうけっこう――お引き取りを」
フラナガン助官は、シャーロットが内心で固唾を呑んで下した予想に反して、不機嫌そうな表情は見せなかった。
むしろ、参考役と面と向かわずに済んでほっとしたらしい――折り目正しく会釈の角度で頭を下げて、彼はそそくさとその場を去った。
シャーロットは続いて、「一人でここまで来ることも出来ないのですか」といったウェントワース氏の嫌味を予期して身構えたが、案に相違して、彼は何も言わず、ただ仕草でシャーロットを急かした。
「ミズ・ベイリー、参考役はお忙しいのですよ」
シャーロットは急かされるままに控えの間に入り、そして今日は、控えの間と執務室を区切る扉が開け放たれているのを見た。
その奥で、ネイサンはマントルピースの前で今しも背広の上着を脱ぎ、衣装掛けにそれを預けているところだった。
「…………」
促されるままに執務室に足を踏み入れながらも、シャーロットは思わず、横目でウェントワースを睨んだ。
この仕草を見るかぎり、ネイサンは執務室に戻ってきたばかりである。
「参考役はお忙しいのですよ」もなにも、シャーロットがあと五分早く到着していた場合、待たされたのはシャーロットだったのだ。
「参考役、ミズ・ベイリーです」
ウェントワース氏はそう言って、すばやく控えの間に下がり、丁寧に扉を閉めた。
ネイサンはもちろん、声を掛けられるまでもなくシャーロットに気づいていて、笑顔を彼女に向けていた。
「ああ、シャーロット。ちょうど良かった。私も今戻ってきたばかりで――」
身振りで、脱いだばかりの上着を示す。
「――戻ってくる道すがらに、きみに会いたいと指示を出したんだよ。
待たせることにならなくて、よかった」
シャーロットはあいまいに微笑んだ。
自分がいく度となく、はるかに目上である彼を待たせたことがあると自覚してのことだった。
そして同時に、執務机の端に、マフィンが載ったままの白い陶器の皿が置かれていることに気づいた――これにはシャーロットは少し驚いた。
ネイサンが昼食を優雅な庭園や洒落たサロンで摂っておらず、執務室であわただしく済ませるたちだということに驚いたということもあれば、同時に、この皿がここに放置されていることにも驚いた。
これは取りも直さず、ネイサンの昼食中に、誰かがネイサンを呼び出し、しかもネイサンがその無礼を咎めもせずに席を立ったということを示している。
「……どなたとお会いになっていらっしゃったんですか?」
シャーロットは思わずそう尋ねてから、すばやく言い足した。
「差支えなければ」
「差支えなんてないよ」
ネイサンはほがらかに笑って、あっさりと応じた。
「閣下だ。グレース首相閣下」
シャーロットは口をつぐんで、ただただ微笑むことに徹した。
首相と軍省付参考役のあいだで交わされる会話の中で、シャーロットが興味を示してよいのは、ベイリー家の都合に関することだけだ。
そして同時に納得した。
確かに首席宰相であれば、軍省付参考役ごとき、顎をしゃくるだけで呼び出せるだろう――もっとも、チャールズ・グレースはそういった権威好きな人間ではないが。
ネイサンは執務机の奥の椅子に座って、シャーロットにも椅子を勧めた。
シャーロットは会釈して、執務机をはさんでネイサンと向かい合う椅子に浅く腰を下ろした。
ネイサンは肘を執務机の上に突き、両手を尖塔の形にして、まじまじとシャーロットを観察した。
そして、にっこりと笑った。
「――さて、忙しいのに呼び出して悪かったね」
いえ、とシャーロットは不明瞭につぶやいた。
ネイサンは苦笑ぎみの表情を浮かべて、そんなシャーロットをなおも眺める。
そして、言った。
「昨日のことだけれど、きみもあの場にいたのかな。驚いたかな――」
シャーロットは気づかれないようにこぶしを握り、てのひらに爪を立てた。
気を引き締める――慎重にいかなければ。
「マルコシアスのことですか? はい、すみません――すっかり野次馬根性が出てしまって。駆けつけて拝見しておりました」
シャーロットはなんでもないことのように言って、微笑んだ。
「かれは私も、学生のときに召喚していたことがありました」
「うん、私も覚えているよ」
ネイサンは事も無げに言って、えくぼを作る。
「とても忠実に仕えていたね。――まあ、だから、興味を覚えたということもあるが」
そして皮肉っぽく唇を曲げ、首を傾げて、繰り返す。
「『学生のとき』?」
シャーロットは硬いながらも微笑で応じた。
「はい、学生のときに、一度」
ネイサンの灰色の目をまっすぐに見つめる。
彼は確かにシャーロットの罪科を知っているが、どの悪魔がその凶器となったのか、シャーロットは話していない。
それが正解であるはずだ。
そもそもネイサンは、彼の知るその罪科をそれとなく匂わせるだけで、一度も真正面から突きつけてきたことはなかった。
――やあきみ、出来ればきみにこういう仕事をしてほしくて……なに、やりたくないだって? ならばいいけれども、以前にこういうものを発見してね……ああ、分かってくれて何より、では、よろしく頼むよ。
――そういうように。
ネイサンは肩を竦め、そして、今度は真面目な表情で、しっかりとシャーロットの目を見て、口を開いた。
「――私がかれを召喚して、驚いたかな?」
シャーロットはこっそりと深呼吸して、笑みを浮かべて、首を振った。
「いいえ――それはもちろん、少しは驚きましたけれど。ヴィッキー・ベン駅で知り合いに会ったとき程度には」
ネイサンは注意深くシャーロットを眺めてから、肩を竦めた。
「そう?」
「ですけれど、参考役さま? なにも私の感想をお聞きになるためにお呼びになったのではありませんよね?」
シャーロットが探るようにそう言うと、ネイサンは声を上げて笑った。
「はは、忙しいきみを呼び出して世間話をするとは、私はなんとも間抜けなことをしてしまったかな」
シャーロットはあわてて首を振り、手を振り、身を縮めた。
「いえ、決して、そういうことでは――」
ただ、この扉の外にいるウェントワースは、シャーロットがネイサンの時間を侵害していると思っているのである。
シャーロットが泡を喰うさまを愉快そうに見て、ネイサンは喉の奥で笑い声を殺した。
「冗談だよ。分かっているさ――ウェントワースだろ?
やつはどうにも、私の時間の一秒一秒が黄金で出来ていると思っているようだから」
シャーロットはほっとして両手を下ろした。
ネイサンを怒らせていいことなどひとつもない。
「私の時間が黄金で出来ていたとして、それを守ったところで、やつの懐には砂金一粒だって入りはしないんだけれどね。
きちんと言い聞かせておこう――部下がいつも失礼な態度をとって、悪いね」
ネイサンがそう言って、シャーロットはまた首を振った。
そしてますます、呼びつけられた用件を訝る。
こっそりと周囲を見渡したものの、特段いつもと変わった様子はない。
ネイサンはくすくすと笑っていたが、シャーロットが周囲を見渡した動きに触発されたのか、彼もまた、ふと自身の執務室を見渡した。
そして、執務机の片隅に置き去りになっている皿に気づいて、顔を顰めた。
彼は何か言おうとして、しかしすぐにその口をつぐむと、いたずらっぽくシャーロットを見て、短く呼んだ。
「――マルコシアス」
「はいはい」
ほとんど間を置かず、まるで最初からそこにいたかのように、ネイサンの右隣にマルコシアスが現れた。
シャーロットは息を呑み、ぎくりとした――これに関しては隠しようもなかった。
先ほどかれから向けられた、肉を剥がれて骨になった家畜を見るような眼差しを思い出したのだ。
どきどきと心臓が激しく打ったが、これは高揚や昂りのゆえではなく、ただただ緊張したためだった。
マルコシアスの方は、シャーロットのことなど一瞥もしなかった。
シャーロットは漠然と思い出した――かつてシャーロットがマルコシアスの主人だったときも、マルコシアスはその場にいる人間はシャーロットだけだと言わんばかりに、他の人間をまるきり無視することがあった。
――今度は自分が、無視される側になったのだ。
そう分かって、シャーロットはなんとなく、胸が締めつけられるような居心地の悪さを覚えた。
マルコシアスの格好は、先ほどシャーロットのそばに現れたときと変わらない。
かれはおどけた様子で胸に手を当てて、ネイサンに向かって音もなく一礼してみせた。
「お呼びでしょうか、ご主人さま?」
「ああ、呼んだ」
ネイサンは事も無げに言って、マフィンが載ったままになっている皿を示した。
「これを下げてくれ」
「――――」
シャーロットはうつむいた。
見ていられない気分になったのだ。
だがすぐに、ちらりと顔を上げてしまう。
――そうやって視線を向けた先で、マルコシアスは冷ややかな無表情になっていた。
「――ご主人さま」
マルコシアスは静かに言った。
そして、唇に微笑といえる表情をぶら下げたが、眼差しはこのうえなく冷ややかだった。
「そういうことをやってほしいなら、そういうことをやる程度の悪魔を呼べばいいんじゃないの?
あんたは山ほど悪魔を抱えてるんだから、その中の一人、皿運びでもお馬さんごっこでもやってくれるようなやつを呼べばいい。――僕はやらない」
シャーロットはまたうつむいた。
マルコシアスはこういう悪魔だ――魔神はおおむねにしてこういう気質のものが多い。
すなわち、気位が高いのだ。
そして、ささやかな命令違反では馘首されないことを重々承知しているから、平然とこうした軽い反抗を行う。
ネイサンが、ぱっと動いた。
それを視界の端に捉えて、シャーロットは思わず顔を上げた。
そして、ネイサンがまったく迷う様子も見せず、執務机の文具の中から小刀を取り上げるのを見た。
(――は?)
戸惑うシャーロットの目の前で、ネイサンはためらう風情など欠片も見せずに小刀の鞘を払い、あっさりと自分の手の甲を小刀で突き刺した。
「な――!」
シャーロットは両手で口許を覆い、半ば立ち上がった。
〈身代わりの契約〉がある以上、ネイサンの身体的損傷は、すべて彼と契約関係にある悪魔に転嫁される――有名な話だが、召喚している悪魔が多ければ、その損傷が稀薄されて転嫁されるということもない。
すべての悪魔が平等に、ネイサンが負うはずだった深さの傷を負うのだ。
この現象に注目したのはウォルポール、彼がこの現象を名づけたところにより、『不可分性の原理』と呼ぶ。
小刀の刃を持ち上げたとき、ネイサンの白い肌に傷はひとつもなかった。
だが一方で、マルコシアスの左手の甲が、ぱっくりと割れていた――血を流すでもない、その肉体がかりそめのものであると知らしめるような、陶器が深くえぐれて欠けたかのような、その損傷。
「――――」
シャーロットは声も出せずにマルコシアスを見つめた。
まったく不条理な――まるで目の前で名画に墨を掛けられたような、そんな憤りが湧き上がってきて息が苦しくなった。
マルコシアスは無表情で、痛みを訴えることもない――ただおのれの手の甲を一瞥して、右手をさっとひらめかせた――とたん、その手に清潔な包帯が握られている。
かれは手早く自分の左手に包帯を巻きつけた。
その動作のあいだ全くの無表情で、ただかれの周囲で精霊がざわめいている。
ネイサンはおだやかな、にこやかとさえ言える表情でそれを見守っていた。
そして、マルコシアスが顔を上げたタイミングで、有無を言わさず命令を繰り返した。
「これを下げてくれ。
――きみはやるんだ、分かったね?」
マルコシアスは口を開かなかった。
かれがここまで激怒しているところを、シャーロットは見たことがなかった。
かろうじて、グラシャ=ラボラスに過去のことを蒸し返された瞬間、あのときが最も今に近いかもしれない――氷のように冷えた表情で、淡い黄金の瞳が透き通った石のようになって、無言で、――周囲で精霊が狂ったように瞬いている。
今この瞬間、この部屋から出て行くことが出来ればあとはもうどうでもいい、とすら思うシャーロットの前で、マルコシアスは手を伸ばして、執務机の上の皿を取り上げた。
そして瞬きするあいだに、ぱっとその場から消え失せた。
――シャーロットは詰めていた呼吸を再開し、息も絶え絶えの様子で、吐き出すように小さく叫んだ。
「――なんてことを!」
ネイサンは、むしろ、きょとんとした様子で首を傾げた。
「なにが?」
くるっと小刀を回して、執務机の上にことりと置く。
磨き抜かれたその表面に、小刀の影が映る。
「〈身代わりの契約〉を、あんな使い方で――」
シャーロットが愕然として囁くと、ネイサンは笑い声を上げた。
「われらがリクニスを卒業したとは思えないな、シャーロット。教わらなかったの? ――そもそもあの契約は、悪魔がこちらの意に背いたときのための抑止力として確立されたものなんだよ。
〈退去〉の呪文だけでは、対処できる場合が限定されるからね。――つまり、正当な〈身代わりの契約〉の活用の仕方だ。
むしろ、」
ネイサンは眉を寄せた。
「あのくらいのことはしておかないと、魔神ともなるとこちらの足許を見てくるからね。
人間と悪魔のあいだには、利害関係しか成り立たないんだよ、知ってるだろう?
身の安全という、最も大きな利点を質に取らなければ、なかなか魔術師は悪魔の協力を得られないものだから」
シャーロットの衝撃の表情を見て、ネイサンは驚いたように目を瞠ってみせた。
「おっと、そうすると、きみはなんと、〈身代わりの契約〉を駆使することなしに、あの魔神からあれだけの忠誠を買ったわけだね。今度、その方法を伝授してくれ。
若い子から教わることがあるというのは、いくつになってもわくわくする体験だから」
シャーロットは衝撃に息を詰め、目を見開いたまま、微動だにも出来なかった。
ネイサンはしばらく、彼女が落ち着くのを待つように、微笑んだまま間を取った。
やがてシャーロットが顔を伏せて深呼吸すると、ネイサンは指を組んで、その手を執務机の上にゆったりと置いた。
「――呼びつけてしまった本題に入るのが遅くなってしまって悪いね、シャーロット」
シャーロットは顔を上げた。
最悪の可能性が脳裏をよぎる――まさか、護衛の誰かがシャーロットのささやかな同居人に勘づいたのか?
かりにそうだとすれば、もうネイサンもシャーロットの過去の罪について口をつぐんでおくことは出来まい――
シャーロットが頭の中で、この執務室から逃走し、ウェントワースにもネイサンの悪魔にも扉の外の衛兵にも捕まらずに脱出できる可能性を見積もっているあいだに、ネイサンはシャーロットの想像の斜め上のことを言い出した。
「私に甥がいるのは知っている?」
シャーロットはちょうど、どうすれば、捕まることなく階段まで遁走を決められるかを考えていたところだった。
彼女は瞬きして頭を正気に戻し、瞬きして、首を振った。
「いえ、失礼ながら――存じ上げませんでした」
「だろうね、言ったことはなかったし」
ネイサンは頓着なく言って、若々しい微笑を浮かべた。
「私の兄の息子だよ。私の兄は――ちょうど先だって、父の子爵位と土地と、会社をいくつか相続したところだ。
私はそういうものに用はないので、すべて兄に献上したわけだけれど」
シャーロットは口の中でもごもごと、「お悔やみを」とつぶやいた。
相続というからには、ネイサンの父が逝去したものと思ったのである。
が、ネイサンは笑いながら手を振った。
「いや、紛らわしい言い方をしてしまった。父は亡くなったわけではなくて、隠居したんだ」
「ああ」
シャーロットはつぶやいたが、どういう顔をすればいいのかは分からず、ただ問うような目でネイサンを見るに留めた。
ネイサンは微笑んだ。
「兄は、まあ、私ほど優秀ではないものの、地方の議会を統率する立場としてはよくやれるだろう。
甥は二人いて、私が言っているのはそのうち、兄の長男の方なんだが」
「はあ」
シャーロットはますますあいまいな表情で頷いた。
「甥御さま。さぞかし……ご立派なかたなんでしょうね」
「まあ、それなりに」
ネイサンは身贔屓のない様子でそう言って、指を立てた。
「名前はオーガストという。この秋で二十五になる」
シャーロットはこっくりと頷いた。ネイサンは神妙な表情で彼女を見て、言った。
「一度、会ってくれない?」
「――はっ?」
シャーロットもようやく、なんの話をされているのかを察した。
音を立てて血の気が引いていくような気分になり、彼女はじゃっかん腰を浮かせる。
「参考役さま――ちょっとお待ちを。私と引き合わされようものなら、その、ええと、ミスター・オーガストは卒倒なさいますよ。ちなみに父もです。母はきっと心臓発作を起こします。
子爵閣下のご子息? とうてい不釣り合いです。どうしてそんなことを」
親族の若い男性の名前を告げ、歳を告げ、「会ってくれないか」とくれば、進むのは縁談と相場が決まっているのである。
いなづまに打たれるようなひらめきに打たれ、シャーロットは勢い込んでさらに言った。
「それに、閣下――閣下がなんとおっしゃいますか。
何しろ、私にもしも子供が生まれたら、その子にもベイリー家の事情が絡むことになるんですよ」
「そうは言っても、」
と、ネイサンは困惑したような、あるいはからかうような、はぐらかすような語調で言った。
「きみ、一生涯を独身で過ごすの? それなら別にいいけれど、どうせならこちらで、身許のはっきりしている男を紹介してやろうと言うのに」
「身許ははっきりしていなくていいんですよ、仲良くやれれば」
シャーロットは思わずそう言ってから、眩暈を堪えるためにこめかみに指を当てた。
「それに――待ってください、父は自由意思で母を選んだのではないんですか。私の代に限って、お相手をおぜん立てされなければならない理由はなんでしょう?」
「理由ねぇ」
ネイサンは興味深そうにそう言って、とんとん、と指先で机を叩いた。
鏡のように磨き抜かれた重厚な木の表面に、ネイサンの影がさかさまに映り込んでいる。
「理由。
――私が、きみと仲良くしたいと思っているから」
「――――」
シャーロットは黙り込み、そして大きく息を吸い込んだ。
ようやく、彼女は事態を呑み込んだ。
小声でつぶやく。
「……なるほど、ミスター・オーガスト個人ではなくて、ネイサン子爵家との関係を作るべきだと、そういうことですね」
ネイサンは微笑んで、言外の肯定を籠めてつぶやいた。
「きみは頭がいいね」
シャーロットはぐらぐらと頭が揺れるような眩暈に襲われ、ぐっと目をつむった。
頭の中で、把握している事実を整理する――その中には、ネイサンが、シャーロットは把握していないと踏んでいる事実も含まれている。
――そうしてみると、なるほど、ネイサンの言うところはあきらかだ。
すなわち、陣営を選べと。
シャーロットは目を開けて、返答に言い淀んでネイサンを見つめた。
頭の中ではぼんやりと、今の自分が十四歳のときから変わっていないなら、ここですぐさま、弾けるように答えを返すのだろうな、と思っていた。
ネイサンはにっこりと微笑み、片目をつむってみせた。
「まあ、ともかく、どうして私がわざわざきみの上司を通してきみを呼んだか、これで分かっただろ?」
役人にとって縁談は、職務と切っても切り離せぬところにある。
言葉に詰まるシャーロットを見て鷹揚に笑って、そして彼女の瞳の奥を見て、ネイサンは立ち上がった。
あわててシャーロットも立ち上がる。
今日の話はここまで、という、ネイサンの仕草に籠められた意図を察したのだ――彼女は大いにほっとした。
ネイサンが執務机を回り込んできて、シャーロットの肩にてのひらを置いた。
シャーロットは、六歳のころに戻ったような気分で彼を見上げた。
ネイサンは灰色の目を細めた。
「急な話だから、返答は今度で構わないよ。考えておいて」
そう言って、ネイサンは、ぽん、とシャーロットの肩を叩く。
「十五日のお茶会、覚えているだろう?
遅れずに来て、きみがどうしたいかそのときに教えてくれ、シャーロット」
それから少し考えて、ネイサンは苦笑した。
「良ければ、今日だけは、きみの護衛にきみの執務室の前に立っておくように言おうか?
このままだときみ、私と会っていたのは何の用なんだと、四方八方から質問攻めに遭って、仕事どころじゃないだろ?」
シャーロットは黙って頭を下げて、参考役の気遣いに感謝を示した。
――まさにネイサンの言うとおり、このままのこのこと維持室に戻った日には、シャーロットは立錐の余地なく上司と同僚に囲まれて、窒息することになるだろう。
そして今日だけは、護衛が表立って動いても問題はない――何しろ、参考役本人がシャーロットを呼びつけた後なのだ。
多少のものものしさは、参考役の采配によるものと、おのおのが勝手に納得することだろう。