08 肉を剥がれた家畜
凍りついているシャーロットを見て、魔神マルコシアスは不思議そうに瞬きした。
かれは数秒のあいだ、辛抱強くシャーロットからの反応を待った。
だが、いっこうにシャーロットに動き出す気配がないので、かれは肩を竦めると、頓着のない足取りでシャーロットの小さな執務室の中に入り込んだ。
ばたん、と、その背後で扉が閉まる。
扉の上部の硝子に刻まれた、反転して見えるシャーロットの名前の向こうで、維持室の面々が頭をかかえている様が見えている。
マルコシアスは、なおもまじまじとシャーロットを観察している。
シャーロットの後ろにある窓から射しこむ陽光は、かれにまでは届かず床に落ちていたが、それでも周囲の明るさを吸い込むように、その淡い黄金の瞳がきらめいていた。
「――やあ、ロッテ」
もう一度、かれは試すようにそう言った。
そのとき、シャーロットは気づいた――マルコシアスの足許には、影すら落ちていなかった。
「――――」
――ただ契約が結ばれていないというだけで、これほど相手を異形に感じるとは。
薄い刃物にも似た危うさを感じるとは。
シャーロットはやっとのことで息を吸い込み、硬い表情で、喉に絡んだ声で応じた。
「――こんにちは、マルコシアス」
マルコシアスの表情が、微笑といえるものへと動いた。
かれらに人間の表情はない――それでも、微笑をまねた表情は精巧だった。
かれらには情も、愛も、信義も、忠誠もない――それでも、微笑に浮かべた親愛の真似ごとは上手く出来ていた。
「よかった、忘れられたかと思ったよ。
――どうもお久しぶり。大きくなったね」
じろじろと見られたうえのその台詞に、以前ならば、「お前はどうせ、以前の私のことなんて覚えてないでしょう」と返していただろうか――今はとても出来ない。
シャーロットはまた息を吸い込んで、机の下でぎゅっと両手を握り合わせつつ、なんとか首を傾げてみせた。
「何のご用?」
マルコシアスはすぐには答えず、小さな部屋の中を見渡した。
床に積み上げられた本の山に目を瞠ってみせ、机上の惨状に呆れたようにぐるりと目を回し、窓の明るさに目を眇める――眩しさを感じる目玉など持っていないというのに。
そして最後にシャーロットに視線を据えて、また微笑の形に唇を歪めた。
トラウザーのポケットに手を突っ込んだ、ゆるりとしたその立ち姿。
よくよく注意してみれば、かれに照る光の角度が、あきらかにおかしいことに気づく。
過去にかれを召喚していたときには、一度もそんなことに気をつけたことなどないのだが。
今、最も明るい光は窓から射している陽光のはずだ。
だが、そこに立つ魔神は――奇妙なことに――、真上から淡い光を受けているような陰影を持っていた。
それに気づいてしまうと、違和感ははなはだしかった――相手が人外の存在であることを、まざまざと突きつけられるような、その違和感。
かつて、気安くかれに手を触れていたことなど、今はもう考えられなかった。
「僕の今のご主人さまが、」
マルコシアスが言って、にやっと笑った。
「最近、毒殺されそうになったんだって? ああ、いや、実際には、例の無粋な契約のせいで、痛い目を見たのはかわいそうなわが同胞たちらしいけれど。
それはそうと、僕のご主人さまは腕がいいね。長いこと人間に召喚される生活をしてるけど、さすがに三箇国語が分かるようになったのは初めてだよ。あと、幾何学もちょっと分かるようになった。それに、ここまでたくさん、同じ魔術師に仕える仲間がいるのも初めてだ。
――ああ、いや、それはいいか。あんた、僕のご主人さまの毒殺のことは知ってる?」
シャーロットは、先ほどよりは落ち着いて息を吸い込んだ。
手で机を押すようにして、立ち上がる。
「ええ――もちろん。この建物の中にいる人で、それを知らない人はいないと思うわ」
マルコシアスは肩を竦める。
「で、まあ、平たく言えば、今日の僕にはその犯人捜しが命じられていてね」
シャーロットは目を見開いてみせたが、表情が硬いことは自覚していた。
「あら、参考役さまは私をお疑い?」
「まさか!」
マルコシアスは笑い声を立ててみせた。
そして、それに付き合ってシャーロットが笑わないことに、鼻白んだような顔でその声を収めた。
「僕のご主人さまはあんたのことを気に入ってるさ、ロッテ。
――単に、省舎……っていうんだっけ、この馬鹿でかい建物……省舎をぐるっと回ってきてもいいって言われただけだよ。――あんた、」
マルコシアスは、きらきら輝く淡い黄金の双眸で、じっとシャーロットを見つめた。
きらきらしているのに、一切の感情が窺えないのはどういうことだろう、と思いながら、シャーロットもその双眸を、宝石を眺めるような気分で眺めた。
「あんた、昨日、回廊にいたね」
マルコシアスが囁いた。
シャーロットは黙っていた。が、マルコシアスが促すような顔で口をつぐんだままでいるので、つぶやいた。
「――グレートヒルに勤めている魔術師で、昨日あの場にいなかった人の方が少ないんじゃないかしら」
マルコシアスは軽い足取りで一歩踏み出した。
シャーロットは思わず、かれに気づかれない程度にのけぞった。
「そうそう、それで、あのときあんたがちらっと見えたから、ひょっとすると今も近くにいるんじゃないかと思ってね。精霊に捜させてみて……」
そこまで言って、マルコシアスは言葉を切った。
かれが瞬きして、かと思うと目を見開いて、シャーロットを見つめた。
そして、やや声を大きくした。
「――ちょっと待って。あんた、その口ぶりだと、あんたがここで働いているように聞こえるぜ」
シャーロットは困惑して、彼女の領域を侵略してくる魔神を警戒ぎみに見つめた。
無意識のうちに片手を上げて、額をこする。てのひらを机に突く。
「……知らなかったの? むしろ、ここで仕事以外の何をしているように見えるっていうの?」
そうして、彼女は軽く息を吸い込み、精いっぱいの気力を掻き集めて魔神を睨んだ。
「あの、本当に何の用なの? ここで話している時間だけ、私の睡眠時間が短くなっていくんだけれど」
マルコシアスはあっけにとられた様子でシャーロットを上から下まで眺め、唖然とした様子でさらに距離を詰めてきた。
もはや、机だけを挟んで向かい合っているといえる距離だ。
シャーロットは頭の隅で、この机では魔神相手に盾にはならないだろうな、ということを考えた。
「ここで?」
マルコシアスは繰り返し、シャーロットの、机越しに見える姿を矯めつ眇めつした。
「ええと、ロッテ。あんたが今、いくつかというと……」
「二十一」
シャーロットはそっと小声で応じた。
マルコシアスがこめかみをこするような仕草を見せる。
「二十一。なるほど、働いてていい年齢だね。今の僕のご主人さまは、社会常識も隙なく召喚陣に描き込んでくださってたよ。
――で、ここで働いてるって、ロッテ? あんた、それは嫌だと言っていたじゃないか」
数秒黙って、
「ここ、グレートヒルだろ? あんた、なんだっけ……もうちょっと違う場所がいいって言ってなかった?」
シャーロットはぎゅっと目をつむり、湧き上がってきた胸の痛みを苦労して押しやった。
そして瞼を上げて、マルコシアスを睨む。
「いつの話よ」
マルコシアスは、驚いたことに、本気で狼狽しているような表情を浮かべている。
さかんに瞬きして、かれはつぶやいた。
「なるほど、働く場所くらい、方針が変わることもあるだろうね……」
「――――」
シャーロットは腕を組み、黙っていた。
組んだ腕を盾のように感じながら。
マルコシアスはその場で小さな円を描いて、ぐるりと歩き回った。
その足跡で、わずかに一瞬だけ、水面に拡がる波紋のような白い光がさざめくことに、シャーロットは気づいた。
以前もそうだっただろうか――いや、そんな覚えはない。
ではこれは、かれの精霊の気まぐれだろうか。
マルコシアスが元の位置に戻り、つまりはシャーロットと向かい合う位置で足を止め、机上の書類を見下ろした。
さかさまではあっても文字は読めるだろう――なにしろ、召喚主はあのネイサンなのだ。
悪魔の、人間世界への知識水準は魔術師の実力に比例する。
つまり、マルコシアスは現在プロテアス立憲王国に顕現している悪魔の中では、最高級の知識を持っているといって差し支えないのだ。
シャーロットは唐突に、胃がよじれるような感覚を覚えた。
強烈な、それは恥の感覚だった。
シャーロットは唇を噛み、二の腕に爪を立てて、それを堪えた。
「――ロッテ」
ややあって、マルコシアスはそう呼んだ。
かれが顔を上げて、戸惑った様子で首を傾げた。
「ロッテ――この、うっかりさん。
あんたは自分の部屋を間違えているに違いない」
シャーロットは動かなかった。
違和感があるほどに激しく、心臓が脈打っていた。
この朝に、彼女が同僚のテイラーのために仕上げた検証文が、ふいに頭の中に甦ってきた――橋梁を使用不能にする呪文の検証。
シャーロットはそれを嬉々として仕上げたのだ。
なぜなら、テイラーの手が空けば、そのぶん仕事を助け合えるから――
マルコシアスが、悪魔には不似合いなことに、励ますような色を湛えて微笑んでいた。
「ロッテ、ここはあんたの席じゃないよ。洪水を起こす呪文なんて、あんたが興味を持たない筆頭の分野じゃないか。それどころか嫌ってたはずだ。
後ろから殺意満点の人間に追いかけられていても、僕に頑として人を傷つけさせなかった頑固者め。
――あんたの席はどこ? 一緒に行くよ」
シャーロットは、まるで頭の中に冷水を浴びせ掛けられたように感じていた。
すうっと背筋が冷えていく。
気が遠くなるような足許のおぼつかなさ。
――だが、その中にあっても、彼女は平静な手つきで、マルコシアスの背後にある扉を指差し、示していた。
マルコシアスがきょとんとしたように瞬きする。
シャーロットはごく平坦な声で言った。
「『シャーロット・ベイリー』」
「うん?」
マルコシアスが首を傾げる。
それを見ていられず、シャーロットは目を逸らして、扉の上部に刻まれた文字を、室内からは反転して見えるその白い文字を見つめた。
「文字は読めるんでしょう。――『シャーロット・ベイリー』よ、ほら。
ここが私の仕事部屋よ」
マルコシアスは振り返り、実際にその文字を確認したうえで、シャーロットに視線を戻した。
シャーロットはその顔を見られず、扉をぼんやりと眺めていた。
「あんたの部屋は、他の人も使ってるの?」
マルコシアスが慎重に、警戒するように尋ねたので、シャーロットは思わず笑い出していた。
かれの口調はまるで子供のようで、彼我の外見の年齢もあって、まだ年端もいかない少年に、ものの道理を教え諭す叔母のような気分になってきた。
「そんなわけないじゃない! 入省するなり個室をたまわる特別待遇よ。さすが私でしょう?」
それに、と言葉を継いで、シャーロットはマルコシアスの顔を見た。
かれの、珍しい、度肝を抜かれたような表情を。
「それに、私があなたに人を傷つけさせなかったなんて、とんでもない。
――あなたを使って人を殺したわ」
囁くようにそう言う。
彼女の過日の罪を、大き過ぎる罪悪を。
マルコシアスは、いかにも悪魔らしく、そのことはすっかり忘れているようだった。
軽く首を傾げ、何かを考え込んだ。
そして顔を上げる――くるりと表情が変わる。
徹底的な無関心。
肉を剥ぎ取られて骨になった家畜を見るようなその瞳。
砕けてごみになった硝子細工を一瞥する目つき。
花瓶に生けていた花が萎れ、それを始末するときのような、うんざりしたような眼差し。
その双眸でシャーロットを見て、魔神マルコシアスはほとんど初めて、シャーロットに向かって軽蔑をもって声をかけた。
「――なるほど。じゃ、きみはここで働いて、こういう呪文の研究をすることを選んだわけだ」
シャーロットは頷いた。
引き攣れるように胸が痛んだが、それには気づかないふりをした。
「ええ、そうね」
マルコシアスは冴え冴えとした無表情でシャーロットを見ている。
その瞳の冷淡さ――無関心さ。
かつて、ふざけて彼女をかかえ上げ、瀑布に飛び込んだのと同じ魔神だとは、とても思えないその眼差し。
「……僕の知らないところで、折れて砕けて、なくなっちゃったんだな」
平坦につぶやいて、マルコシアスはぞんざいに手を振った。
もうシャーロットには一瞥もくれず、かれは踵を返していた。
「――そうか。ミズ・ベイリー。
どうもお邪魔したね」
「――――」
シャーロットが何か皮肉のひとつでも言って応じようとして、しかし言葉が出ないうちに、マルコシアスはあっさりと扉を開け、大部屋に滑り出て、後ろ手に扉を閉めていた。
硝子越しに見えるかれの姿が、あっけないほどすばやく遠ざかっていく。
やはり、誰もかれに気づいた様子はない――その独特の魔神の歩き方。
リーが大部屋にいればマルコシアスにも気づいただろうが、彼は今、彼の小さな執務室で頭を抱えているはずだ。
――そう、こういう呪文の研究のために。
「――ああ」
シャーロットは言葉にならない声を上げて、くずおれるように椅子に座り込み、頭を抱えた。
(――どうして)
かつてマルコシアスが、何度も面白そうにあげつらった彼女の性質――望んだ人生以外はお断りだと言い切る苛烈さ、倫理観とおのれの行く道を、なにがなんでも一致させようとする頑なさ。
確かにその性質は、もうシャーロットの中にはないのかもしれない。
だが、ああ、かろうじて覚えていた、この維持室の仕事に対する罪悪感、引き絞られるようなあの苦痛さえ、彼女の慈悲がまだ生きているという証左であったあの苦しささえ、あっさりと忘れ去ってしまっていたとは。
目前から襲い掛かってくる仕事から逃げるために、かろうじて残っていたその倫理観でさえ、白旗を揚げて流し去ってしまっていたとは――ただ人間らしい生活をしたいという、そのためだけに。
十四歳のころであれば、こんなことは絶対になかった。
あのときのシャーロットの、がむしゃらな一途さ、目的に向かって邁進する無謀さ、頑として意思を曲げない傲岸さ――そういったものがあれば。
だがもう、それを保ってはいられないのだ。
そして残ったのは倫理観の残り滓と、漠然とした人命への慈悲だけで――
――今やそれすら失おうとしている。
(本当に、私は、何をしているんだろう)
発作のように涙が込み上げてきたが、シャーロットはそれを呑み下した。
――死ねば楽になる、と分かっている。
シャーロットが楽になるだけではない――ベイリー家の血筋が絶えることはすなわち、〈神の丘〉の魔神の復活の可能性が、未来永劫消失することを示している。
だがそれでも、今日までシャーロットがその道を選び取らなかったのは、生命への矜持ゆえだった。
勝つには戦わなければならない。
負けるにも戦わなければならない。
だが死ぬのは――逃げることだ。
あらゆる可能性を、おのれで折り取ることに他ならない。
明日まで生きて見える可能性を見ず、目を閉ざしてしまうことに他ならない。
そして何よりも――どうして自分が死なねばならないのだ、という反骨が、今日までシャーロットの生命を支えてきた。
どうしてみずから自分の価値を否定しなければならないのだ、という――
――“どんなときであっても、私はきみを愛している”。
――“シャーロット、きみに、きみが望む人生を選び取る権利をあげたい”。
かつての日の言葉が、耳の奥に甦ってきた。
シャーロットは啜り泣きを押し殺す。
――諦めるにはまだ早い、と、わずかに残った彼女の生来の明るさが告げており、そしてその声は、今にも息絶えていきそうでいながら、なかなか消えてはくれない。