07 子供時代の象徴
「えっ、マルコシアス?」
その日の夜、日付が変わる寸前にわが家としているアパートメントに帰り着き、傷心したような腹立たしいような、あるいは危機感を覚えているようなそんな気持ちで、小声ながらもきっぱりと手短に今日のことを話したシャーロットに、彼女のささやかな同居人はすっとんきょうな声を上げた。
「あらら……召喚されちゃったの」
かれはそう言って、着替えもせずにベッドの上に転がったシャーロットの顔を、どこからかまじまじと観察したようだった。
まもなく、鼻で笑うような気配があった。
「で、そんなに落ち込んでるわけだ。そんなになるなら、先に自分で召喚すれば良かったのに」
「出来るわけないでしょ」
シャーロットはうめくように応じた。
「そんなことをしてごらんなさい――あなたみたいな魔精を呼んでいるのとはわけが違うのよ。
あっという間に召喚がばれて――」
シャーロットは思わず、つけられた護衛も聞き耳を立ててはいるまいと分かってはいながらも、周囲を見渡してしまった。
窓が閉め切られていることを確認する。
声はいっそう小さくなった。
「――あのときの犯罪が証拠つきで告発されて、私はカルドン監獄行き……そうなったら、」
ここで、彼女は少し言葉に迷う風情を見せた。
そして、そんな自分に驚いたような顔をした。
どうして過日の罪の発覚を恐れるのか、それは――
(決して、私自身の保身のためばっかりじゃないわ)
そのはずだ。
そう言い聞かせる。
そして、短く息を吐くと、低く続けた。
「そうなったら、どこかの裏切り者からしても、私の血を取るのが楽になって、とっても助かったことでしょうよ。
あっちもびっくりするでしょうね、私がそんな、おあつらえ向きのところに連れて行かれたら」
少しの間があった。
シャーロットはわけもなくどきりとして身を起こし、部屋の中を見渡す。
夜になっても引かない暑さに滲む汗を、首筋からてのひらでぬぐう。
返答を促そうとしてシャーロットが口を開くと同時に、拗ねたような声がした。
「僕みたいな魔精、ね。
そのお言葉は、『僕みたいな分別のある魔精と、あいつみたいな無分別な魔神は違う』っていう意味に受け取っておきますよっと」
かれは気分を害したようにそうつぶやいたものの、すぐに、後ろにばったりと倒れ、うめきながらまくらを顔にかぶせてしまったシャーロットを見て、じゃっかん棘のなくなった口調で、神妙に言った。
「――けど、まあ、確かに。
僕らが考えてたのとは、ちょっと違う成り行きになっちゃったね」
シャーロットは唸るようにつぶやいた。
「――あの悪魔を引っ張り出したいと思う人が、また私を襲うか何かして、あいつを呼ばせると思ってたの。
だから、絶対にあの悪魔は呼んだら駄目だって」
「それが、まさかまさか、よそからあの意地の悪い魔神が呼ばれちゃうとはね」
魔精が、それこそ意地の悪い声でそう言って、笑い声を立てた。
▷○◁
「ねえ、ちょっと、ロッテ。昨日から、どうしちゃったの?」
マーガレット・フォレスターがそう言って、覇気のないシャーロットの顔を覗き込んだ。
毛筋ひとつの乱れもなく整えられた、栗色の髪が揺れる。
シャーロットは顔を上げて、瞬きした。
そしてその拍子に、ペン先が触れ続けた紙面に大きなインクのしみが出来ていることに気づき、悪態をついてその紙をくしゃくしゃに丸めて後ろに向かって放り投げる。
かさかさと乾いた音を立てて、紙が窓硝子にぶつかり、それから硝子を透過した陽光が溜まる床の上を転がった。
窓の外には、千切れ雲が流れる青空が広がっている。
風のない暑さを硝子越しにも伝えようというように、射す日差しは強烈で、窓の外は木の葉一枚、旗ひとつ、微動だにしない静止の中にあった。
眼下の舗道を行く人々も、顔を顰め、てのひらを太陽にかざして、申し訳程度の日陰を顔の上に作り出しながら、一刻も早く影の中に入りたいと言わんばかりの速足で行き交う者ばかりだった。
シャーロットは音を立てて抽斗を開けて、そこから稟議用の白紙を新たに取り出す。
そうしてから、彼女はあらためてマーガレットに向き直った。
「ペグ、いつも本当にありがとう。
――昨日から、って?」
マーガレットは紙袋を抱えたまま、不安そうな顔をした。
長い睫毛がさかんな瞬きに揺れている。
「昨日、お昼を持ってきてあげたときも、夕食の差し入れに来てあげたときも、あなた、ほんっとうに元気がなかったんだもの。今も、すごくぼんやりしているし」
「ぼんやり?」
シャーロットは高い声で問い返して、机の上から書類をがさがさとどかした。
マーガレットがおずおずとそこに紙袋を置いてやると、微笑んで、いつものように紙幣を引っ張り出して彼女に握らせる。
「ぼんやりなんかしてないわ。実際、今朝から、テイラーさんを殺そうとしていたお仕事を、一つ代わりに終わらせたところよ。よく出来ていると太鼓判をいただいたわ。ぼんやりしているわけがないでしょ?」
マーガレットはためらいがちに指摘した。
「でも、いま、微動だにせずに虚空を見つめてたわよ」
シャーロットは顔を顰めた。
「考え事をしてたのよ。二つめの表意文字と四つめの表意文字に、それぞれどの表向文字をつけたら『堤防のうち、任意の一マイル』って意味になるのかしらって考えてたのよ。出来れば表向文字は五つに抑えたいの。でも、『一』って言葉って、それだけで表向文字を二つ使っちゃうの。ペグ、分かる?」
マーガレットはうんざりした顔をした。
「はいはい、分かりません。どうせ私に学なんてありませんよーだ」
シャーロットはますます顔を顰めてみせる。
「学があるのと、頭がいいっていうのは違うわ。
私の知り合いで、とっても頭がいい人がいるんだけど、その人、字も読めなかったもの」
マーガレットは、それを冗談だと思ったらしい。
軽く笑った。
「あらあら。私は文字は読めるわね。それともその人がほんの子供だったときの話?」
だが、シャーロットはそれを聞いていなかった。
唐突に何かを深く考え込んだ様子で、彼女はぼんやりとつぶやいていた。
「……だから、文字の一覧を作って、あげたの……旅行用の辞書に挟んで。――今どうしてるかしら……」
マーガレットは咳払いした。
「ロッテ?」
シャーロットははっとしたように瞬きして、おずおずと微笑んでごまかした。
そして、ペンのインクが飛んだ指で、マーガレットが持ってきてやった紙袋を開き、嬉しそうな顔をする。
「ペグ、本当にありがとう――今日、珍しく寝坊しちゃって、実はビスケットも食べられなかったの……」
ビスケットにかびが生えてきそうで焦っているということは、保たなければならない乙女の体面上、伏せておく。
マーガレットは先ほどとは一転、心配そうな憂い顔になった。
「大丈夫? 昨日も遅かったの?」
シャーロットは首を振った。
「ううん、そんなに。今は本当に楽になってるのよ。
少なくとも、日付が変わる前には自宅にいたもの」
マーガレットはじゃっかん後ろめたそうな顔になった。
というのも、彼女が帰宅するのはおおむね夕方の六時ごろだからである。
「でも、ちょっと気が抜けちゃったのかしら……朝、いつもより起きたのが遅くて」
紙袋からチキンのサンドウィッチを取り出しつつ、シャーロットはもう片方の手で目をこする。
「飢え死にしそうだったの……ありがと」
「ゆっくり食べてね」
思い遣りに溢れる口調でそう言って、マーガレットはシャーロットの机の端っこに小さな尻を乗せた。
「なんだったら、おやつも持ってきましょうか?」
シャーロットはもぐもぐとサンドウィッチを咀嚼しながら、かすかに微笑んだ。
「なあに、お菓子が余ってるの? 珍しいわね」
マーガレットはここぞとばかりに身を乗り出す。
「違うの、聞いてよ。対策室のブレナンさんが、最近やたらと甘いものをくれるのよ」
「あら、親切ね」
シャーロットが考え無しにそう言うと、マーガレットは彼女の頭を軽く小突いた。
「もう、とぼけちゃって。目をつけられたかもしれないってことよ。もう、最悪よ。ブレナンさん、もう五十よ。奥さんもお子さんもいるのよ。あんなおじさんの遊びの相手をしてやってるなんて噂、立つだけでも大迷惑よ。
こっちはお父さまから、いつ婚約者を家に連れてくるのかなんて、先走った嫌味をずっと聞かされてるんだから」
シャーロットは笑い声を上げた。
とはいえ、自分の意見を差し込む気は毛頭ない。
この二年近くというもの、シャーロットはこの小部屋に閉じ籠もって仕事に没頭してきた――省舎内の人間関係などというものは知りようがなく、対策室の人員についても、おのれがしたためた稟議に判を押してもらう、その名前としてしか知らないのだ。
噂話に自分の意見など持ちようがない。
マーガレットはそれから取り留めもなく、本気で腹を立てているのか、それとも一種の仕草のひとつなのか、分からないような口調でひとしきり、自身の身辺についての噂話と文句を元気よく並べ立てた。
それを聞いているうちに、シャーロットにもその若々しい生気が伝染してくるような気がした――マーガレットの威勢のいい話し方は、聞いていて気持ちがいい。
そうしてしばらく話したあとで、マーガレットは「おっと」とつぶやいて、シャーロットの机から滑り降りた。
かいがいしく、空になった紙袋を回収してくれる。
「そろそろ戻らなきゃ。じゃあね。
時間があったら、夕食を差し入れる前に、キャラメルの一つでも届けてあげるわ」
「ありがとう、でも、キャラメルが溶けてなきゃね」
マーガレットは肩を竦め、目をぐるりと回してみせた。
「確かに、この暑さだものね」
シャーロットは微笑んで、軍省における貴重な友人が扉を開け、手を振って去っていくのを見守った。
がちゃり、と扉が閉まる寸前に、「よう、マギーちゃん!」と、役人の誰かが彼女に声を掛けるのが聞こえてきた。
唐突に静かになった小さな執務室の中で、シャーロットは深呼吸した。
食事前に見ていた書類をもう一度机上に広げて、矯めつ眇めつする。
そして、机上に積まれた本から一冊を選んで開くと、ぱらぱらとめくっていった。
そのページをしばし、じっと睨む。
背後から照る陽射しのために、白いページがいっそう眩しい。
そのまましばらくペン先で机を叩き、そのあとはペンの頭側で頬を突いて考え込んでいたが、やがてシャーロットは匙を投げた様子で息を吸い込み、ペンを机の上にことりと置いた。
「駄目だ、表向文字を増やさなきゃ……リーさんにちょっと助けていただけるかしら――」
独り言ちるようにつぶやきながらも、シャーロットは諦め悪く本のページをめくる。
ちょうどそのとき、音もなく彼女の小さな執務室の扉が開いた。
シャーロットは本から顔も上げず、明るい声を出した。
「――ああ、ミスター・リー。
ちょうどお会いしに行こうと思って――」
だれかが笑い声を上げた。
シャーロットの顔から音を立てて血の気が引き、彼女は弾かれたように顔を上げる。
その拍子に机上を滑った手がペンに当たり、ペンはころころと机の上を転がって、こん、と派手な音を立てて床に落ちると、さらに転がった。
だが、シャーロットはそちらを見られない。
衝撃に息も止めている。
シャーロットの小さな執務室の扉が開き、まるでその枠を一幅の絵のようにして、戸枠にもたれ掛かっているものがあった。
かれの背後で、維持室は相も変わらず、苦悶の呻きと、椅子の軋みと、悪態と、ページをめくる音とペンが紙を削る音に満ちている。
誰もかれを見ていない――かれに気づいていない。
シャーロットは茫然として目を見開き、全ての動きを止めた。
戸枠にもたれていたかれは、床に転がったペンの行方に目をやってから、気怠そうに身を起こした。
――十四歳程度の少年に見える、その姿。
伸びすぎた灰色の前髪、ひょろりとした背格好。
今は袖をまくり上げた白いシャツに濃茶色のウエストコート、同色のトラウザーという出で立ちで、ぴかぴかの靴まで作り込んで履いている。
そして首許には、この季節に不相応なことに、淡い色のストールを巻いていた。
その淡い黄金色の双眸がシャーロットを見て、ぱっとほころぶ表情に細められる。
かれが骨ばった手を持ち上げて、彼女に向かって振った。
「やあ、ミスター・リーじゃなくて悪かったね。
――けど、どうもお久しぶり」
「――――」
シャーロットの背筋を戦慄が駆け抜けた。
目の前にいるかれ――十四歳のときから知っているかれと、寸分違わぬその姿。
初めて会ったときには、はた目からは同い年に見える年齢だった――二度目には、彼女の方が少し年上になっていた。
そして今はもう、はた目からは関係性を推し量るのが難しいほどに歳も離れてみえる――隔たりの生まれた、もう何らの結びつきもない――この悪魔。
「会えて嬉しいかな、僕のロッテ?」
シャーロットにとっては子供時代を象徴する魔神がそう言って、見慣れたあの仕草で肩を竦め、首を傾げていた。