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06 召喚

 リーの考えは、二つともが的を射ていた。


 一つに、軍省付参考役ジュダス・ネイサンの悪魔召喚を一目見ようとして、確かに数十人の見物人が集結していた。

 そして二つに、その場所は玄関ホールで間違いはなかった。



 リーとシャーロットが、省舎の二階から玄関ホールの上部を巡る回廊に出たときには、そこには既に先客がひしめいており、二人は苦労して人波をかき分け、前の方へ出なければならなかった。

 シャーロットとしては、後方からの見学でもいっこうにかまわなかったのだが、「きみの背丈だと、それじゃ見えないでしょ」と、リーがシャーロットを前へと押し出していったのだった。


 周囲に詰めかけているのは、軍省所属の魔術師たちだけではなかった。

 そもそも、軍省に魔術師はそう多くない。


 最年少の参考役、稀代の魔術師の召喚の噂を聞きつけて、技術省や垂教省、貿易省からも魔術師が押し寄せてきたようだった。

 さらに――おそらくだが――役人ではない、たとえばリディーベル研究所の研究者といった、民間人までがいるように見える。


 皆いちように、無関心を装いつつも期待に満ちているようであって、白けた空気をかもし出そうとして失敗した熱気が、玄関ホールを巡る回廊の上に満ちていた。



 シャーロットは、煙草の臭いが染みついた背広の背中に押しつけられながらも(押しつけていたのは、リーが親切心からのことだった)、回廊の先頭に近い場所まで進み出ることが出来た。


 そこからは、巨大なキッシンジャー像の頭を眼下に見て、ガス灯に照らされた玄関ホールの様子をよく見下ろせる。

 今のところ、玄関ホールにネイサンはいなかった――召喚陣が描かれている様子もない。


 ただし、あきらかにこの後の行事に備えていると分かる衛兵たちが数名、眼光鋭くたむろして、時おり回廊の上を、あからさまに迷惑そうにふり仰いでいる。


 シャーロットは眼下から目を離し、爪先立って回廊の上を見渡そうとした。

 周囲にいるのは男性が多く、シャーロットよりも背が高い者が大半で、視界は良好とはいえなかったが、無意識にそうしていた。


 技術省のオリヴァー・ゴドウィンか――あるいは技術省直轄の企業に勤めるウィリアム・グレイが来ていないかが気になったのだ。


 とはいえ、シャーロットはもう四年ほど、その両者とは口も利いていないのだけれど。


「どうしたの、知り合いでもいた?」


 リーがシャーロットに囁きかけ、シャーロットはあいまいに肩を竦めた。


「いえ……ただ、先輩が来ているかもしれないと思って」


 リーは小声で笑った。


「われらが同窓生は、いかんせんグレートヒルに勤めることも多いからね」


 そのとき、さあっと人波が動いた。


 その動きに巻き込まれて、シャーロットはあやうく転び掛けたところを、咄嗟に目の前にいた人の背広を掴むことによって堪えた。

 相手は当然ながら迷惑そうに唸り、身体を振ってシャーロットの手を離させた。



 ――ネイサンが、二階の通路からこの回廊に出てきたのだ。



 彼は当然ながら一人ではなく、はたに使用人――彼に会いに行くたびに、シャーロットをじろじろと眺める彼だ――と、護衛を兼ねた部下を数名伴っていた。


 彼らが回廊を颯爽と進み、見物人の中に開いた通路を通るようにして、玄関ホールに下りる階段へと到達する。



 そのさまを、数十対の見物人たちの目が追った。



 ネイサンは、見物人が詰めかけていることに、やや驚いたような顔をしている。

 階段を下りつつ、彼が呆れたように肩を竦めるのが、シャーロットにかろうじて見えた。


 ネイサンのそばにぴったりと張りつく使用人は、巻かれた大きな紙を後生大事に抱えている。

 巻いた状態での長さが、おそらくは五フィートほどもありそうだ。


 シャーロットにも当たりがついた――あの紙に召喚陣が描かれているに違いない。


 ネイサンはくつろいだ態度で、そばの部下の一人に何かを話しかけながら、悠然と階段を降り切った。

 天窓のステンドグラスから射し込む色とりどりの陽光が、彼の白に近い淡い色合いの金髪を輝かせている。


 ネイサンが、部下が返した何かの言葉に、噴き出すように笑った。

 どうやら彼は気の利いたジョークを言うことに成功したらしい。


 ひとしきり笑ったネイサンが、使用人に合図して、彼が手にした紙を広げさせる。


 使用人は緊張の面持ちで、ゆっくりと慎重に、腕に抱えた大きな紙を、キッシンジャー像の足許に広げ始めた。



 それを見守る、回廊の上の群衆がいっせいに身じろぎした。

 皆が皆、稀代の魔術師が描いた召喚陣を見ようと伸び上がり、身を乗り出そうとする。


 シャーロットはその動きに巻き込まれ、彼女に見えるのはしばし、眼前の人の灰色の背広だけとなった。

 彼女の身長では、どうあがこうとも眼下は見えなくなったのだ。


「――僕が抱えてあげるべきなのかもしれないけど、」


 と、リーが真剣に言い出した。


「僕、あんまり力持ちではなくてね。きみを落っことしたら大事(おおごと)だから、やめておくよ。

 前代未聞だもんね――同僚を二階から放り投げた役人。そんなの嫌だもんね」


「そ――そうですね」


 シャーロットは半笑いで応じた。

 やはり、「ご婦人に触れるのは失礼だから」という考えに至らないところが、ある意味ではきわめてリーらしい。


 ネイサンが、また何か言った――彼の呪文を聞き取ろうとしてだろう、見物人たちはいっせいに息を詰めたが、ネイサンは呪文を唱えたわけではなかった。


 しん、と静まり返ったホールに、彼の声がはっきりと響いて聞こえてきた。


「――いやはや、誰が私の今日の予定を漏らしたのかな。これほど大勢に見守られていると、緊張してしまうね」


 それを言われた部下が、あわてて手を振り、首を振り、身の潔白を主張しようとしている。


 ようやく群衆が身を乗り出すのをやめたので、その様子はかろうじてシャーロットからも見えた。


「――参考役、ちょっとお怒りかな」


「来たの、まずかったかな……」


「いや、大丈夫だろ。何十人いると思ってる、この全員を処罰しようなんて、さすがの参考役もお考えにはならんだろ」


「そもそも、参考役に懲罰権はないしね」


 ひそひそと周囲で声が上がる。


 何人かが尻込みして、回廊から奥の通路へと撤退していくのに対して、奥の通路からはさらにいく人かが、知的好奇心に駆られてこの回廊に進み出てきた。


 とはいえ、ネイサンは本気で腹を立てた様子ではなかった。


 彼が、ぽんぽん、と部下の肩に触れて彼をなだめ、使用人が慎重に広げた紙に視線を落とす。

 どうやら、最後の点検を目視で行ったらしかった。


 使用人はかいがいしく、しゃれた水晶の文鎮で、紙の四隅を押さえている。


「どうも、ウェントワース。もうけっこう」


 ネイサンが、その使用人に対して言った。


 シャーロットはこのときはじめて、「彼はウェントワースさんというのか」と納得した。

 なにしろ、今まで名乗られたことなど一度もない。


 ウェントワース氏はあわてて背筋を伸ばし、定規で測ったかのごときお辞儀をすると、つつしみ深く後ろへ下がった。

 そしてそうしながら、回廊の詰めかけた見物人たちを、けしからんとばかりに睨み回した。


 ネイサンが、ゆっくりと紙の周りを回っているようだった――シャーロットからは、肝心の紙が見えない。

 だが、動くネイサンの頭を見ていると、紙は大きい――縦に五フィート、横に六フィートちょっとといったところなのだろうか。


 召喚陣を描くのならば、その程度の大きさは必要になるところではあり、シャーロットもそれに驚きはしなかった。


 ややあって、ネイサンは咳払いした。

 ふたたび、ホールがしんと静まり返る。


 ネイサンに付き従ってきた人々が、いっせいにホールの隅にまで下がった。


 ネイサンは最後に、胸ポケットやポケットを軽く探って、自分が銀製品を身に着けていないことを確認している。



 ――そして、彼が紙に描かれた召喚陣、その二つの円のうち、小さな方の円に入った。



 彼が口を開けて、すぐに、朗々とした声で呪文を唱え始めた。


 シャーロットも思わず、むさぼるように耳を澄ましていた――ネイサンが呪文を唱えるのを聞くのは、彼女にとってもこれが初めてだった。

 通常の〈召喚〉の呪文だが、随所でネイサン独自の工夫から言い回しが異なっている。



 だが、シャーロットがその呪文に聞き入り、陶然とした時間も長くはなかった。


 間もなくして、シャーロットは自分の耳を疑った。


(――は……?)


 頭を殴られたような衝撃と混乱。


 目を見開く。

 無意識のうちに口が開くが、なんの言葉も声も出てこない。


 ただ一つ、明確な声が内心で渦巻く。


 ――()()()()()()()()、と。



 眼下では、明確な動きがあった――紙に描かれた召喚陣が、強烈な銀色に輝いている。

 綴られた文字すべてが白いほどに透明にきらめく。



 居並ぶ見物人たちが、声に出せないながらも感嘆の色の浮かぶ目を互いに見交わしている――さすがに、〈召喚〉の一部に独自性のある言い換えが用いられていることに、気づかないほど鈍い人間はいないのだ。



 そして、ネイサンが立つ円と対になる大きな円の上に、どこからともなく、濃灰色の煙が立ち込めた。



 シャーロットは、自分でも気づかないうちに、懸命になって目の前の人を押しのけ、割り込み、回廊の一番前にまで這い出していた。


 回廊の欄干に手を突き、愕然とした面持ちでキッシンジャー像の足許に目を凝らす。



 立ち込めた煙の中に影が立ち上がっている。

 それは四つ足の生き物が、一時的に後肢で立ち上がったがゆえの丈高さであり、ネイサンはほとんど面倒そうに、かれに人間の姿をとるよう命令する文言を発した。


 すぐに、煙の中の巨大な姿が、くるりと裏返るようにして人の姿に変じた。



 ――シャーロットは息を止めた。



 煙が晴れていく。

 微細なきらめき、悪魔に従う精霊のきらめきが、おびただしい数で召喚陣の上に揺蕩う。


 煙が晴れていく――召喚陣の上に立つ悪魔、今は少年の姿をしている悪魔の見目の仔細が明らかになっていく。



 ――シャーロットは悲鳴を上げそうになった。


 咄嗟に両手で強く口許を押さえて、堪える。

 その指先が激しく震えていることを自覚する。


(どうして、どうして、どうして――!)



 灰色の髪。伸びすぎたその前髪。

 痩せた、ひょろりとした身体つき。

 生成り色の貫頭衣を身に着けた、十四歳程度と見える背格好。


 ――そしてその瞳。



 淡い黄金の色の双眸。



 そしてかれは、()()()()()()()()()()()()()()()()、顎を上げた無表情で、矯めつ眇めつするようにネイサンを眺めて、言った。



「――さて、召喚者、要請者、僕の主人たろうとする魔術師さん。

 山と見物人がいることは不快だが、これは約束事だ。あんたの望みと報酬を聞こう。

 あんたの髪かな、声かな、あるいは爪かな。

 報酬しだいで僕は頷いて、務めを果たすまであんたのしもべになろう」



 ネイサンは、ぐるりと回廊を見渡すような仕草を見せて、肩を竦めた。



 彼はこの悪魔の姿を見たことがある――そして、きっとそれを覚えているはずだ。

 もう七年前になるあの日のことは、彼の印象にも残っているはずだから。


 議事堂の近くに姿を現した、この少年の格好をした悪魔を記憶しているはずだ。


 それでもネイサンは、欠片も表情を変えなかった。

 驚きも納得もない、淡々としたその表情。


 もっとも、悪魔の見目などというものは、その悪魔を特定するにはいささか頼りない要素ではあるものの――それにしても。



 そして、ネイサンは声を低めた――内緒話をするようにして、彼が魔神に何かを告げた。

 報酬と、命令の内容を伝えたのだ。


 その声は聞こえなかった――当然、周囲には聞かれぬよう、ネイサンも魔術師の慎みを発揮するだろう。



 マルコシアスは、小声で告げられたその内容を、つかのま吟味するように腕を組んで考え込んだ。



 ――その顔が見える。

 シャーロットからも見えている。


 一声出せば、きっとかれは気づく。


 十四歳のころのシャーロットであれば、後先考えずにこの場で叫んでいただろう。


 ――だが、もう、それは出来ない。



 震えるシャーロットの視線の先で、魔神マルコシアスは顔を上げ、ぱっと笑って、応じた。



「よろしい、じゅうぶんな報酬だ。

 ――仰せのとおりに、()()()()()



 途端、形容し難い音が轟いた。


 ――無理に喩えるならば、それは巨大な錠を下ろす音、あるいは何かの歯車が回り始める音、あるいは時計の針が動く音だった。


 ――()()()()



 シャーロットは息もできない。

 心臓が狂ったように打っている。


 もはや頭の中に言語化できる思考はなく、焦りと絶望と子供じみた嫉妬心が、気も狂わんばかりに噴き出し、荒れ狂っているのみだった。



 ネイサンがにっこりと笑う。


 がしゃん、と音が響いて、マルコシアスの首に黄金色の枷がかかる。

 マルコシアスが宙に手を滑らせて、何もない空中からストールを引き出し、すばやくそれを首許に巻きつけて、枷を隠した。


 ネイサンが召喚陣から退き、そしてそれに続いて、マルコシアスもまた、召喚陣から静かな足取りで抜け出す――とたん、かれの服装ががらりと変わる。


 主人を意識したのか、かれはたちまちのうちに、上等の黒い背広一式を身に着けた姿に変わっていた。



 ネイサンが、召喚陣が描かれた紙を示した。

 そして、億劫そうに命じた。


「――頷いてくれて嬉しいよ、マルコシアス。

 では最初の命令だ。この紙を燃やしてしまいなさい。紙だけだ。いいね、この紙だけだよ。延焼も許さない」


 マルコシアスは慇懃に頷いて、軽く一礼する。


「お安い御用で」


 ぼっ、と音を立てて、召喚陣が描かれた紙が、その中心から燃え上がり、黒く焦げながら灰になっていった。

 取り残された水晶の文鎮が、ステンドグラスから降り注ぐ陽光にきらめいていたが、誰もがその存在を忘れ切った様子で、それらは置き去りにされた――あるいは、ネイサンからすれば、それらは消耗品の扱いであるのかもしれない。



 ネイサンが、靴音を立てて踵を返し、ホールを階段に向かって引き返しはじめる。


 すかさず、彼に付き従ってきた部下たちがそれに続き、そして最後にマルコシアスが、紙が燃え尽きたことを確認してから、靴音ひとつなく歩き始めた。



 ふたたび見物人の群れが動き、階段を昇るネイサンたちに道が譲られる。


 堂々たる足取りのネイサンが、そばに付き従う使用人と部下たちが、そして飄々とした歩調のマルコシアスが、見物人のあいだに開いた通路を通って、悠然と建物の奥へ消えていく。



 動いた見物人の波に揉まれて押されるようにして、シャーロットはその場に座り込んでいた。

 あやうく誰かが彼女を踏みつけそうになったのか、「わっ」と驚いたような声が上がる。


 そしてややあって、リーがあわてた様子でシャーロットの腕を掴み、彼女を立たせた。


「どうしたの? 転んじゃったの? 誰かに踏まれた? 大丈夫?」


 矢継ぎ早に尋ねられ、シャーロットは力なく首を振った。


 リーはまじまじとシャーロットを観察して、肩を落とす。

 本気で悲しそうに見えた。


「――ごめんね、きみも元気が出るかと思って誘ったんだけど、気分を悪くしちゃったみたいだね。人混みは苦手だった?」


「…………」


 シャーロットは弱々しく微笑んだ。


 ここで彼に嫌われて、せっかく得た維持室における人間的な生活を失ってはならないと、半ば防衛本能じみた思考が働く。


 シャーロットはそっと彼の手から自分の腕を抜き取って、自力で立てることを示して、首を振った。


「……いいえ。ちょっと押されて、転んでしまっただけです。

 ――連れて来ていただいて、どうもありがとうございました」



 それから彼女はうつむいて目を閉じ、“()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、という事実を呑み下す。


 そして、その事実の冷ややかさに、背筋が震えるような心地を味わう。























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― 新着の感想 ―
[良い点] 近いうちに驚くことになるっていうネイサンさんの言葉の意味はきっとこれですよね、そうじゃないかと思っていました。見物人がこんなに集まるとか、まさかその中にシャーロットがいるとかはきっとネイサ…
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