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10 悪魔の証言

 シャーロットのそばに戻って来たとき、魔神マルコシアスはあの少年の姿に戻っていた。

 首許にはやはりストールを掛けている。


 かれは空腹と渇きを抱えて惨めに座り込んだシャーロットを見下ろして、懸命に真顔を作っているような表情で、端的に言った。


「――ずいぶん汚れたね」


「お前が私を誘拐なんてさせるからでしょう」


 シャーロットは反駁したが、元気よく、というわけにはいかなかった。

 アーノルドという、()()()、よく話せる相手を失って、彼女もいよいよ元気をなくして萎れていたのである。


 そして何より寒かった。

 彼女は両膝を抱え、二の腕を抱き込むようにして、小さく震えて蹲っていた。


 マルコシアスは首を傾げ、それからどことも知れない周囲を見渡して、端的に言った。


「少し温めて」


 途端、目には見えない精霊たちが働き始めたようだった――少しずつ、その古い教室の空気が温まり始めた。



 マルコシアスは両手に荷物を抱えていた。

 左手に紙袋を抱えており、そこからいかにもいい匂いが漂っている。

 右手には把手のついたブリキの缶を提げていた。


 シャーロットは、精霊の恩恵に礼を言うことも忘れて思わず両手を伸ばし、マルコシアスが手に持ったものを催促した。


 マルコシアスは薄暗い教室を見渡しながら、まずは紙袋をシャーロットに手渡し、それからブリキの缶を床に置いた。

 それから、訝しそうにつぶやいた。


「誰かお客があったようだけれど」


「まあ、どうして知っているの?」


 シャーロットは紙袋を抱え込み、ブリキ缶の蓋を開けた。

 中から新鮮なミルクの匂いがした。


 たちまち喉の渇きは数倍にも膨れ上がり、シャーロットはブリキ缶を持ち上げて直に口をつけ、ごくごくとミルクを飲んだ。


 それから缶を唇から離し、ほう、と息をついて、シャーロットはがさがさと紙袋の中をあさりながら、立ったままのマルコシアスを見上げた。


「男の子がいたのよ。お父さまが亡くなられて、ここまで来たのですって。このあとはお知り合いと合流するらしくて、行ってしまったけれど」


 マルコシアスは納得した様子で頷いた。

 同時に、シャーロットも納得して頷いていた。


「あ、そうか。精霊ね。精霊に、ここに誰がいたか教わったのね」


 マルコシアスは面倒そうに頷いた。


 シャーロットは紙袋から、油紙に包まれた魚の干物を取り出していた。干物には火が通してあって、微かな焼き目がついている。

 中には他にも、硬そうな黒パンも入っていた。


 今のシャーロットにとってはごちそうだった。


 マルコシアスがどうやってこれを手に入れたのか、それをふと疑問に思いはしたが、シャーロットは未来永劫それには触れないことに決めた。


 シャーロットは慌てるがあまりに(むせ)そうになりながら、それらを食べた。

 食事に向いている環境にいるとは言えなかったが、空腹は最高の調味料である。



 シャーロットが待ちわびた食事に舌鼓を打っているあいだ、魔神マルコシアスは静かに、床の軋みひとつ立てず、そして埃も立てずに、その教室を行ったり来たりしていた。


 パンくず一つ残さずそれらを食べ終え、もう一度ミルクに口をつけてから、シャーロットは顔を上げ、歩き回るマルコシアスを目で追った。


 手の甲で唇をぬぐってから、彼女は言った。


「どこまで行っていたの? ずいぶん時間が掛かったのね」


「ああ――」


 マルコシアスは曖昧につぶやいて、肩を竦めた。


「――あんたの口に入れても平気なものが、なかなか見当たらなかったんだ。それに、僕も疲れた」


 実を言えばマルコシアスは、連続して異なる生き物の姿に形を変える際の苦痛と消耗を嫌って、しばし浜辺の岩の一つに化けてのんびりしていたのだが、それをシャーロットに告げるつもりはなかった。


 シャーロットはシャーロットで、連続して生き物の姿を象ることが悪魔にどのような影響を与えるのかは知らず、またマルコシアスの言葉を疑う理由もなかったがために、あっさりかれの言葉を信じた。


 こくん、と頷いて、シャーロットはよろよろと立ち上がった。


 ぱんぱん、とドレスの埃を払い、床の上から、もうすっかり埃塗れになった外套を拾い上げる。

 それをばさりと振っておおまかに埃を払ってから、シャーロットは息を止めてその外套に腕を通した。


 それから慎重に呼吸を再開し、胸を張った。


「そういえば、この町の名前が分かったのよ。ベイシャーですって。地図でのだいたいの場所も分かるわ」


「へえ、そう」


 特に感動もなく、マルコシアスはつぶやいた。

 だが、かれにも場所は分かったはずだ――召喚陣からかれに流れた知識の中には、ベイシャーの位置に関する知識も含まれるのだから。


 淡い金色の目が、埃に濁った窓を見ていた。


「ざっと見て回ったけど、この辺り、乗合馬車も来てないみたいだね。ロッテ、どうやって戻るかは考えた?」


 シャーロットは腕を組み、それから右手で口許を押さえ――その拍子に外套の袖にくっ付いていた埃が鼻をくすぐって、盛大にくしゃみした。

 ぱたぱた、と顔の前で手を振ってから、シャーロットは半眼でマルコシアスを眺める。


「お前、私を連れて帰ってくれたりは」


「どうやって?」


 マルコシアスは、悪魔に独特の愛想の良さでシャーロットを見遣り、首を傾げた。


「まさか、あんたを担いで? レディ・ロッテ、冗談だろう。もしあんたがそういう助力をご所望なら、僕よりも気位の低い悪魔を呼んでくれないと」


 マルコシアスはわざとらしく肩を竦めた。


「契約だから、僕はもちろんあんたが家に帰るために尽力しよう。あんたが歩くというならついて行くし、あんたが必要とする物の調達も、あんたの護衛もやってあげよう。あんたが馬車を探せと言うならそうするよ。

 でも、ロッテ。僕みずからであんたを担いで行ったりはしない。背中を借りたいと言うなら、そういう悪魔を呼んでくれないと」


 全く音を立てずに足を踏み替えて、マルコシアスは唇で器用に苦笑を真似してみせた。


「あんたが()()()()()()()()僕を選んで召喚したのかは知らないけれど、僕が承服できる命令をしてくれないと、ご主人さま」





▷○◁





 八歳で初めて魔術と悪魔を目の当たりにし、はるか古代のことすらわれとわが目で目撃したという悪魔の言葉に、非常な浪漫を感じたシャーロットだったが、すぐにとある疑問にぶち当たることとなった。


 ――すなわち、本当に悪魔がピトの大王の墓の在り処さえ知っているというならば、なぜ未だに歴史には謎のベールに包まれたことが多いのか?

 それこそ、ピトの大王の墓がどこにあるのかは、未だに研究者たちが躍起になって探しているところであるのだ。


 答えは簡単だった。


 魔術師といえど、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。


 悪魔というだけあって、かれらは意地が悪く狡猾であるのが常であり、報酬のためならば惜しみない献身を見せる悪魔であっても、それは主人の目が届く範囲においてのことだ。

 なにせ、かれらに報酬を手渡すのは主人なのだから。


 大昔のことを悪魔に尋ね、悪魔がそれに答えたとして、主人である魔術師にはその真偽の判断のしようがない。

 ゆえに報酬を与える基準が曖昧になってしまうことから、誰もそのような徒労に知識と技術を振り絞ろうとは考えないのだ。


 シャーロットは大いに落胆したが、彼女が十歳になったころ、綴りと文法の授業でとある有名な逸話を耳にした。


 そのとき題材として扱われていたのは詩、著名な詩人であり没後百年程度が経っていた、ジョージ・トンプソンの遺した詩の一つだった。


 『トレイシーに寄せて』というその有名な詩は、永らく詩史の研究者たちを悩ませてきた。

 トンプソンの身近に、「トレイシー」の名で呼ばれる女性は一人もいなかったからである。


 このトレイシーというのは誰なのか、愛人か片恋か、はたまた歴史上の誰かを思ったものなのか、あるいは架空の人物か、説はいくつにも分かれ、トンプソンの日記は隈なく研究され尽くすこととなったが、意外な形でその議論に新たな説が誕生し、そしてその説が現在の主流になりつつあった。


 その逸話を、教師が零れ話として教卓から話したのである。


 ――午後の陽光が斜めに射し込む眠たげな教室で、黒板を背にした教師が教本を片手に、「そういえば」と指を立てる、その仕草ですらはっきりと覚えている。


 トンプソンは詩人であると同時に魔術師でもあった。

 一時は魔術師として活躍したものの、当時この国は戦時中であり、魔術ですらも戦争の手段として利用される無法地帯と化していた。

 トンプソンは戦争への動員を嫌って魔術師の身分を返上、魔術師であることも隠して詩作に耽り、結果として著名な詩人となったという身の上を辿っていたのだ。


 くだんの、『トレイシーに寄せて』という詩を書き起こしたとき、彼は偶然にもとある悪魔を召喚しており、かれをそばに置いていた。

 そこにはどうやら、彼の政治的な懸念があったらしく、戦争への動員を嫌った彼が、身近に護衛を必要としたからだったと言われている。


 そして――本題はこちらだ――それと同じ悪魔が、およそ三十年程度前だが、再び召喚されたとき、トンプソンの名を聞いて、事も無げに証言したのだ。


 ――曰く、“トレイシーとはただの通りすがりの子供である。散歩中にトンプソンはその子供に出会った。

 その子供は足が悪く、上手く歩けない様子で、人生を悲観していた。

 トンプソンは最初自分に、その足を治してやれと言った。ところが自分は治療のための魔法など知らない。

 そう言って突っぱねたところ、トンプソンはその子供を憐れんだ。

「きみのための詩を書こう。書き上がるのを楽しみにしておいで」と、そう言って書いた詩こそが、『トレイシーに寄せて』という一篇である”、と。


 その証言からおよそ三十年、悪魔の証言は疑われ続けているが、同時にその証言がなければ、何の手掛かりもない状態から、通りすがりの少女の存在に行き着くことなど不可能であったとも言われている。


 実際、当時のトンプソンが住んでいたアパートの近くに、テレサという少女が住んでいたことは、根気強い調査で分かっているのだ。



 ――この逸話が、シャーロットが魔術師を志す、決定的なきっかけとなった。



 証言した悪魔は、有名な魔神“マルコシアス”。





 ――あの逸話があったから、召喚する悪魔としてはマルコシアス以外には考えられなかったのだ。


 そう思いつつも、シャーロットはそれは口には出さなかった。

 そもそもマルコシアスは、トンプソンのことも忘れているのだ、いかにも悪魔らしく。


 だが、まあ、そこにはこだわるまい。

 シャーロットは小さく首を振り、溜息を吐いた。


「とにかく、ここにいてもどうにもならないから、他の町まで行かなきゃ。幸い、少しなら手持ちもあるし、お魚を他の町まで運ぶような人がいれば、心づけしだいで私も一緒に運んでくれるかも知れないし――」


 マルコシアスは欠伸を漏らした。


「ここの海、漁が行われてるようには見えないけどね」


「私、海って見たことないのよ」


 シャーロットはふと、思わず、といった風に述懐し、それから眉間に()()()()()()を寄せてマルコシアスを軽く睨んだ。


「ねえ、知恵を出すように頼むのは、お前が承服できる命令かしら」


 マルコシアスは人間そっくりに瞬きした。

 それから、わざとらしく丁寧に頭を下げた。


「もちろん。知恵ならいくらでもお貸ししましょう、ご主人さま」


「だから、目立つから『ご主人さま』はやめて。私はもちろんお前の主人だけれど」


 そうつぶやいて、それからシャーロットは改めてマルコシアスを見遣った。

 時間は嘆かわしいほどあるので、多少話が脱線しようが構わない。


「そういえば、お前のことも『マルコシアス』と呼ぶのはまずいかしら」


 マルコシアスは首を傾げた。

 シャーロットは根気強く続けた。


「少しでも魔術をかじった人なら、『マルコシアス』が悪魔の名前だと知ってるわ。お前が人に化けていようと犬に化けていようと、名前を呼んだらすぐに悪魔だと勘繰られちゃう」


 マルコシアスは伸びっ放しの灰色の前髪の下で、薄く微笑みを象った表情を浮かべた。


「なるほど、悪魔にそばに寄られたくないという人間は多いね」


 それは実際のところであり、有名な悪魔を召喚した際に、かれらに通り名をつける魔術師も少なくない。

 だが、それより遥かに多いのは、呼び出した悪魔の名前を人前では口にしないという魔術師だ。


 シャーロットは腕を組んで、しばらく考えた。

 それから指を鳴らして、マルコシアスを指差した。


「マルコシアス。人間の表記でお前の名前を書くと、頭文字は“M”なの。

 これからは、『エム』とお前のことを呼ぶわ。そう分かっておいて」


 マルコシアスは慇懃無礼に頭を下げた。


「承知しました、ロッテ」


 頭を上げて、マルコシアスは肩を竦めた。


 どうやら、この仕草はこの悪魔の癖であるようだった。

 悪魔のくせに、にせものの身体のくせに、癖を持っているとは、と、シャーロットは驚嘆と呆れが半々になったような気持ちを覚える。


「では、ロッテ。知恵を貸せとのご命令でしたね。

 ――僕なら、まずさっさとここを出るね。それから――あんたがこの辺りの地理を完璧に把握してるなら別だけど――、乗合馬車が走っているところか、辻馬車を拾えそうな町か、あるいは汽車の駅か、もっといえば貸馬車の店を、僕に探させるね」


 少し間を置いて、真面目くさってマルコシアスは付け加えた。


「電話のあるところでもいい」


 シャーロットは瞬きした。


「確かに――そうね」


 言われてみれば、どちらに向かって歩けばいいのかも分からない状況ではある。


 これまで、一定の規模を持つ都市でしか生活したことがなかったがために、シャーロットにはやむなく世間知らずな一面がある。


 それを呑み込んでから、シャーロットは息を吸い込み(その拍子にまた咳き込み)、背筋を伸ばして、口を開いた。


「じゃあ、エム。

 いちばん近い駅か、乗合馬車を見つけられるところか、電話のあるところか――」



 しかし、その命令は結実しなかった。



 唐突に――少なくとも、シャーロットにとっては唐突なことだった――空気が震えた。


 曇った窓硝子が、窓枠の中でがたがたと音を立てた。


 その向こうから、怒り狂った大声が轟いてくる。

 シャーロットは瞬間、誰かがこの外に立って怒りに叫んでいるのだ、と思った――だが違った。



 それは人間に出せる声ではなかった。



 マルコシアスが眉を寄せて、素早く窓に歩み寄った。


 かれがさっと手を振ると、突風に見舞われたかのように窓が外側に吹っ飛んだ。

 地面に落ちた窓が砕ける。


 外気がどっと流れ込み、真昼の陽光が容赦なく教室の中を照らし始める。


 シャーロットも、新鮮な空気に思わず窓に駆け寄りそうになったが、そう暢気なこともしていられなかった。



 窓という遮蔽物を失って、いよいよ、その怒り狂った咆哮が猛々しく耳に届いていた。


 空気が震えるほどの凄まじい声。

 周囲の木々を揺らすほどの勢いで、次々に鳥が飛び立ち、その声から逃げ出していく。


 なまぬるい風が吹いた――教室の隅に積まれた本のうち、開いていたもののページがぱらぱらと頼りなく捲れていく。


 晴天を曇らせて、分厚い雲が頭上の空に渦を巻きつつあった。


 海が荒れ始め、波濤の音がここにまで届く。



 マルコシアスはそれを見守り、驚きに息を吸い込んだ。


 かれの精霊が次々に、何が起こっているのかをかれの耳許に伝え始めた。

 そして、その言葉ひとつひとつがマルコシアスには受け容れ難いことだった。



 人間の姿をとっていることをすっかり忘れ、マルコシアスは狼の唸り声を上げた。



「――どういうことだ」





▷○◁





「――聞いてないぞ!」


 リンキーズはキィキィ声で叫んだ。


 海辺になまぬるい風が吹き荒れ、空は刻々と分厚い雲を呼び、辺りはひとあし早く夜がきたかのように暗くなりつつある。


 リンキーズの現在の主人であるところの魔術師は、硬い足許を石ころで抉って描いた召喚陣の中で、最後の呪文を唱えたそのときの姿勢のまま、ぽかんと口を開けている。



 海辺の、松林に入る手前――満ち潮であっても波が届かないだろう程度の場所だ。


 リンキーズは魔術師のそば、召喚陣には踏み入らない足許を、犬の姿のままで狂ったように駆けまわっていた。


「聞いてないぞ! ご主人――グレイ、ここまで残酷なことをするなんて聞いてないぞ!」


「――残酷?」


 ようやく、息を吹き返したように魔術師――ウィリアム・グレイがつぶやいた。

 彼の両目は眼前に釘付けになっている。


()()だって? 私は――私はただ――人には知られていない強力な悪魔がいるからと教えられて――その名前を贈り物に……困ったときに使うようにと」


「ちがうって!」


 リンキーズはきゃんきゃんと吠えたてた。

 そうせずにはいられなかった。


「あの――あいつがそう言ったのは、あの女の子が強い魔神を呼び出していたときのためだって! 僕じゃ太刀打ちできないときに、代わりにこいつを呼べって意味だったんだよ!

 こいつ――こいつに、逃げ出したあの女の子の捜索ができると思う!? そんな器用な()()じゃないよ、絶対!」



 ()()()――つまるところ、眼前で召喚された悪魔。



 魔術師グレイが立つ円と対になるはずの円の上で、怒り狂って声を上げている――


 ――姿はなかった。

 濛々たる煙が渦を巻いているようにしか見えない。


 召喚陣の範囲から溢れ出すことが出来ず、その場に堆積して渦を巻き、高く高く入道雲のように積み上がっていく、不穏な灰色の煙。

 その煙の奥から轟く怒号、困惑と怒りのありったけの籠もったその声――



(ああ――)


 リンキーズはもはや絶望して考えた。


()()()()――なんのしきたりも知らない!)


 リンキーズは振り返り、松林の中から目を瞠ってこの事態を見守っているアーノルドに向かって叫んだ。


「僕なら逃げるよ! 例の契約がなきゃ逃げてるよ! 逃げた方がいいよ!」


 アーノルドがそろりとその場で足を引くのを見るともなしに見て、リンキーズは慌ただしく周囲を見渡した。

 犬そのものの仕草になっている自覚はあった。


 あいつは、あのオウムの姿をした魔神はどこだ。

 この事態に対処できるとすれば、最も可能性があるのはあの魔神――


(どこだ)


 見渡す視界のどこにも、あの魔神の姿はない。


 精霊たちも次々に、「見当たらない」という報告を、かれの耳に囁いていく。

 精霊たちも竦み上がっている。



 リンキーズは長年、多くの魔術師に呼び出されては仕えてきた。

 この交叉点(せかい)で多くの事件に巡り合ってきた。



 だが、こんなことは初めてだ。



「リンキーズ」


 グレイが、他の悪魔を召喚したときとは、先方の反応があまりにも異なるからだろう――戸惑ったような声音で足許の悪魔を呼んだ。


 恐らく事態への理解に感情が追い着いていない。


 しかしながら頭の奥の方では相当にまずいことになったと悟っているのか、その顔色は素早く蒼褪めていっていた。



 ――空が曇る。波が荒れる。

 風が吹き荒れ、背後の松林が凄まじい音を奏でて揺れる。


 グレイの服が、空気にひっぱたかれるようにして激しくはためく。


 リンキーズは覚えずして、その場に踏ん張るように爪を立てた――飛ばされそうだと思ったのだ。



 召喚された悪魔に巻き込まれてこの交叉点(せかい)に連れて来られた精霊たちが、主人である悪魔の反応を正確に写し取って働こうとしている。


 そしてその精霊の数は――膨大なその数は――


(洒落にならない!)


 背中の毛を逆立てて唸るリンキーズに、グレイは、魔術に慣れ切っているがゆえだろう、ただただ困惑した、途方に暮れた眼差しを向けている。


 これは順当な反応だった――普通、悪魔は召喚されたからといって、煙の姿のままで怒り狂い、天候を荒れさせたりはしない。



 そう、()()()



「リンキーズや、これは普通ではないね――さっき言っていた、()()()というのは、」


 リンキーズはぴたりと押し黙った。


「どういうことだね、リンキーズ――これが残酷とは」


 風に嬲られるグレイの声は震えている。



 リンキーズは押し黙り、犬にしては大き過ぎる目玉で、鼻先に顕現しようとしている悪魔を見つめていた。



 ――リンキーズには口に出せない。口に出すつもりもない。


 秘匿され、忘れ去られた、その()()()()()を告げるつもりなど毛頭ない。



 だが、そう。



 この悪魔は本来、召喚されるべきものではないのだ。
























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