05 針の上の薄氷
翌朝、はっとして目覚めた瞬間に、シャーロットは記憶が混乱するような、妙な心地を覚えた。
いつもと何かが違う――そう思って、はたと気づく。
昨夜は、ベッドまで辿り着いて、ベッドの上で眠りに就いたのだ。
帰宅するなり手に持っているものを落とし、靴だけを脱いでベッドに寄り掛かり、墜落するように眠りに落ちたのではなく。
むくりと起き上がる。
窓の外は曇っているようだ――それでも、空が明るくなってからそう時間は経っていないと分かる。
ベッドから出て、伸びをする。
そういえば昨夜のうちに浴室を使うことも出来たのだった――今日の彼女は、きちんと部屋着で眠りに就いていた。
「ああ、起きた起きた」
部屋の隅から、姿の見えない声が聞こえた。
「きみ、昨日は珍しく正気で帰って来てたね。普通にお風呂にも入って、着替えちゃってさ。まあ、すっごく眠そうではあったけど」
シャーロットは目をこすった。
いつもよりは頭がはっきりしている。
「うわ言みたいに、『護衛が護衛が』って言ってたけど、どうしたの?」
そう尋ねられて、シャーロットははっと息を引く。
あわてて玄関の方に目を向ける。
そこに誰かが立っていたりはしない。
「黙って、黙って」
シャーロットはつぶやいた。
「誰かがここを見張ってるかもしれないわ。ネイサンさまが毒を盛られたのが回り回って、私に護衛が張りつく話になっちゃったの」
「それはそれは」
姿の見えない声も、やや真剣になった。
「きみの事情を知ってる連中がくっついてるの?」
「――そんなことになったら大変よ」
シャーロットは小さく言った。
まるで、一拍置いてから、ベイリー家の特殊な事情を思い出したかのように。
「私の事情を知ってる誰かは、私の血を虎視眈々と狙ってるんだから」
軽く息を吸い込む。
そして、あらためて自分にその認識を思い出させるようにして、言う。
「誰か裏切り者がいるのよ、知ってるでしょ。
私の事情を知ってる人がみんな、その秘密を墓場まで持っていってくれる覚悟なら、そもそも、私が誘拐されることもなかったんだから」
「えー、おほん」
姿の見えない声は咳払いし、黙り込んだが、やがてこの問題を、さっさと話題から流し去ってしまうに限ると結論づけたらしい。
明るい口調になって言った。
「きみ、なんで昨日は元気そうだったの? 最近、ほんと死にそうで、僕としては報酬が近づいてきたかと思って、わくわくしてたんだけど」
「抱えていた問題について、助けがきたから」
シャーロットは答えて、ぽんぽんと部屋着を脱ぎ捨てつつ、ビスケットをつまむためにキッチンへ向かった。
「学院の先輩が同じ室にいたの。ずっと嫌いだったんだけど、話してみたら悪い人じゃなかったわ。その人が急に同窓の絆を思い出して、助けてくれたの。代わりに私が、その人のお仕事のうちの呪文解析の検証文をちょろっと書くことになったけれど。
でも、とにかく、これで殺されずに済むわ。今朝までの仕事を片づけてくださったの」
ビスケットをもぐもぐと飲み込み、クローゼットへ。
昨夜まで着ていた服は、既に蓋つきの籠に入れられている。
指を折って確認する。洗濯屋がこの辺りを巡るのは明後日だ。
シャーロットがストッキングとペチコートを身に着け、ライラック色のワンピースを頭からかぶると同時に、意地悪そうな小さな声がした。
「――ああ、『黙って』って言ってたね、ご主人。
失礼、失礼、きみの方が黙らなかったもんだからさ」
「……ああ、もう」
シャーロットはつぶやき、腹立たしげにワンピースの腰のリボンをぎゅっと結んだ。
「これだから、悪魔は」
「それが僕らってものだからね」
姿の見えない声が、歌うように肯定した。
「分かってるだろ、人間の助けになるのは人間だけなんだって。きみだって、うじうじ悩んでないで、さっさと人間の味方を見つけなよ」
シャーロットは眉間にしわを刻んだ。
子供時代には、彼女の母がよくからかって、「不機嫌の縦線」と呼んでいたしわだ。
――今のシャーロットを客観的にみれば、その身辺をもっともよく守っているといえるのはネイサンだろう。
だがネイサンは、彼女の過日の罪を、あの大き過ぎる罪悪を知っている。
もしもそれが告発されれば――
シャーロットの渋面を見たのか、姿の見えない声は、鼻で笑うような音を立てて、続けた。
「それか、ひと思いにさっさと高いところから身を投げて僕に報酬を寄越すか、どっちかだね」
シャーロットは喉の奥で唸ったものの、すぐに、負け惜しみのようにつぶやいた。
「――まあ、私の睡眠時間の面については、リーさんがきっと味方になってくれるわ」
このシャーロットの負け惜しみの台詞については、おおむねのところで現実のものとなった。
翌日からも、シャーロットからすれば維持室の雰囲気は針のむしろに等しかったが、昼を回ったころに大部屋でリーとすれ違い、その際に彼が、いつもの屈託のない口調でシャーロットの検証文を褒めたことから、じゃっかん空気が変わった。
その検証文は、リーがシャーロットの仕事を一部引き受けた代わりに、シャーロットがしたためたものだ。
その後の夕方、シャーロットが手水場へ向かうために大部屋に足を踏み出したところで、別の魔術師が声をかけてきた。
彼が抱えている仕事の一つを引き受ければ、シャーロットが仰せつかっている仕事のうち、彼の得意分野と重なるところを引き受けてくれるという。
シャーロットは何を考えるよりも先に、この仕事の交換で得られる睡眠時間に思いを馳せて大慌てで了承し、二人は密輸人のようにこっそりと互いの書類を交換しあった。
とはいえ、相も変わらず、入省するなり個室をたまわった待遇は嫉妬と軽蔑を呼んでおり、シャーロットが十の仕事を引き受ける代わりに、相手がシャーロットの一の仕事を引き受けようとする――というような、不公平きわまる取引を結ばれそうにもなったが、これはシャーロットがあからさまに難色を示しているうちに、ちょうど小部屋から出てきたリーが事態に気づいて、シャーロットをその場から救出してくれた。
「危ないところだった」
と、リーは額をぬぐいつつ。
「とはいえ、あいつも馬鹿なんだな。ぱっと見で仕事の軽重が分からない程度の知識で、リクニスを卒業できるわけがないのに、騙せると思ったのかな」
シャーロットは苦虫を噛み潰したような顔をしてしまった。
「たぶん、私が気づくことは織り込み済みだったんじゃないでしょうか」
リーは本気できょとんとした。
「それでもきみが仕事を引き受けるほど、きみの頭が悪いと踏んでたってこと?」
「いえ、そうじゃなくて、私とあの方の立場の強さの差ですとか」
そう言って、シャーロットはぺこりと頭を下げる。
「助けてくださってありがとうございます」
リーはびっくりしたような顔をした。
「お礼を言うことじゃないだろ。当たり前だろ」
シャーロットが言葉に詰まっているうちに、彼は真顔で続けた。
「礼なら僕の両親と友人に言ってくれ。
僕を当たり前のことが出来る良心的な人間に育てたのは彼らだ」
その翌日には、昼時にシャーロットを訪ねてきたマーガレット・フォレスターが、嬉々とした様子で尋ねた。
「ロッテ、今日のコーヒーとサンドウィッチは情報と交換よ。
あなた、ついにお友達が出来たんですって?」
シャーロットはあいかわらず書類に囲まれて唸っていたが、はたと顔を上げると、瞬きした。
「お友達? 以前からいたわよ。ペグ、あなたとか」
「そうじゃなくて」
と言いつつ、マーガレットはシャーロットが書類を押しやった結果に空いた机上のスペースに、持参したサンドウィッチの紙袋と、コーヒーのカップを載せてやった。
「この室の人たちの何人かが、ついにあなたと口を利いたって聞いたのよ。リーさんの取り成しで」
シャーロットは目を瞠った。
「ペグ、あなたならきっと、この部屋の奥の方で針一本落ちたとしても、すぐにその音を聞きつけるでしょうね」
微笑んで、目の前の書類を示す。
「そうなの、リーさんが――私が後輩だってことを思い出してくださったみたいなの。
お陰様で、ちょっとは楽になったわ」
マーガレットはきょとんとしたように瞬きする。
彼女からすれば、シャーロットを取り囲む書類の山の量は、従前までとなんら変わりのないものなのだ。
「楽になった? ――ええと、精神的に、ってこと?」
「違う違う」
シャーロットは手を振って、紙袋を開けて嬉しそうな顔をした。
いつものように代金分の紙幣をマーガレットに押しつけ、ベーコンのサンドウィッチを取り出しながら、眠そうに応じる。
「私がつらく感じる仕事を、その仕事は得意だよって人にお願いして、代わりに、その人がつらく感じる仕事のうち、私が得意なものを引き受けられるようになったの」
マーガレットは実感が湧かない様子で肩を竦めた。
「そうなの。よく分からないけれど、あなたがちょっとでも眠れるようになったなら、良かったわ」
シャーロットはサンドウィッチにかぶりつこうとしたところで、小さく笑った。
「そうね、今日はちょっと早く帰れそう」
実際、その夜にシャーロットが省舎を出たのは、夜の十一時前――いつもよりも一時間程度も早い時刻だった。
天鵞絨のような夜空を見上げて、シャーロットは昼間のうちに溜め込んだ熱をゆっくりと放出しているような敷石の上で、小躍りしたい気分になった。
毎朝、目を覚ますたびに、「もう一時間眠りたい」という誘惑と戦ってきた――今夜はそれが叶えられる。
シャーロットは喜びを噛みしめながら鉄道馬車に揺られて、自分のアパートメントへの道を辿った。
そしてそのとき、彼女は護衛に気づいた。
――取り立てて奇妙なところのない、灰色の背広を着た壮年の男性の二人組だった。
二人で静かに雑談をしている様子で、シャーロットの方などは一切見ずに歩いている。
だが、この時間帯に帰路に就いているにしては、二人の表情には生気があり過ぎ、そして帰り道がシャーロットとぴったり一致しているのだ――昨夜も一昨日の夜も気がつかなかったが、あれが護衛とみて間違いはないだろう。
さりげなく周囲を見渡したが、少なくとも魔精は、近くにはいないようだった。
シャーロットはリクニス学院で、いやというほど悪魔の擬態に触れてきた。
魔神の擬態はさすがに見破れないが、魔精の擬態ならばおおよそ見抜くことが出来る。
石や鉢植え、カラスやコウモリ、ヤモリに化けた魔精は、目の届く範囲にはいない。
――あの二人は魔術師ではないということを、期待してもよさそうだ。
心持ち背後に気を配り、アパートメントの階段で少しのあいだ立ち止まることまでして、その二人連れが自分の住居にまで近づくつもりなのかをシャーロットは見極めた。
が、どうやら、そこまでのことは命じられていないらしい。
二人連れは、アパートメントのそばにいるのか、それともまた別の誰かと交代したのか――アパートメントの玄関をくぐる様子はない。
シャーロットはほっとして、自室に向かって足早に、残る階段を駆け上がっていった。
シャーロットの、常よりもやや早い帰宅に、自由を謳歌していたささやかな同居人はがっかりしたようだった。
この同居人の存在がネイサンに――延いては首相に知られようものなら、シャーロットには苛烈な罰が下ることになってしまう。
それがために護衛を警戒するという本末転倒な事態になっているのだが、どうやら本人にはその考えはないらしく、また、その態度はきわめて正当だった。
かれはシャーロットの要請でここにいる。
シャーロットが自衛のためにかれのことを隠蔽すると決めたならば、かれを解放してしまえば済むことなのだから。
「ちぇ。きみ、もしかして、あんまり留守にしなくなるの?」
本気でがっかりした様子でかれがそう言ったので、シャーロットは悪魔に対するものとしてはきわめて模範的な態度、つまるところが曖昧で高圧的な態度で、簡潔に応じた。
「さあ、どうかしら」
そして一拍を置いて。
「とにかく、眠るわ」
▷○◁
こうして、シャーロットは維持室の一角において、ようやく一息をつくことが出来た。
迫りくる大波をよそへ逃がし、他のいく人かと協力して堤を築いているような気分になった。
なんとか息をつけるようになった安堵は、むしろ大嵐のように激しく、この状況を維持しなければならないという危機感とあいまって、それはそれで別の大波のようにシャーロットの心を翻弄していたものの、睡眠時間がいくばくか延びたことは確かだった。
その大波のような安堵の陰になって、何か大切なこと、何よりも重要であるはずのことを忘れているような、そんな不安を漠然と覚えることもあったが、その不安は大波の安堵の陰にあって、囁き声よりもかすかなものでしかなかった。
陽射しがますます苛烈になり、夜が明けてすぐに汗ばむほどの暑さが蔓延する八月に入るころには、ザカライアス・リーとシャーロットのあいだには、気安く相手の小さな執務室に入っていくだけの仲間意識が醸成されていた。
他にも、すれ違えばあいさつ程度を交わす間柄になった者もあり、シャーロットはおのれが歩く針のむしろの上に、薄氷が張られているような心地ながらも、おずおずとその上を慎重に歩くことで、多少なりともの快適さ、人間的な生活を取り戻しつつあった。
夏の日差しを受けて、議事堂の前庭の芝生は鮮やかに青々と輝いていた。
人工物に押し潰されそうになりながらも、日々の剪定を受けて生き残っている庭園の草木もまた、降り注ぐ生命の季節に向かって、伸びをするように生き生きと息を吹き返している。
夕立後にはなおいっそう、植物の緑は生命に満ちてつやめいていた。
一方、石造りの軍省舎の中にあっては、この夏の日々は、ただただ肌にまとわりつく暑さと、不快な汗の臭いと、夜であっても暑さが引かないもどかしさの中にあった。
シャーロットは窓の外に強烈な陽射しを見、あるいは陰鬱に立ち込める雲から降り注ぐ雨の音と、そのしずくが窓硝子に叩きつけられる音を聞き、またあるいは晴れの後の夕立の、胸がすくような匂いを呼び込むために窓を細く開けたりしながら、その日々を書類にうもれ、ペンを走らせながら過ごした。
そして八月十二日の昼近く、こんこん、というノックのあとに、彼女の小さな執務室にリーが顔を出した。
「こんこん」
と、声に出しても彼は言った。
この風変わりな訪問方法には慣れつつあって、シャーロットは顔も上げずに応じた。
「はいはい」
「ミズ・ベイリー、良かったらちょっと外に出ない?」
背後で扉を(数インチの隙間を残して)閉めつつ、リーが真面目くさって言ったので、シャーロットはペンを止めて、顔を上げた。
眉を寄せてみせる。
「ミスター・リー、先輩からのお誘いは嬉しいんですけれど、私、いま、テイラーさんを殺しそうになっているお仕事を少し手伝っている最中なんです」
リーは鼻で笑った。
「テイラーの仕事なんて、今さら一日二日遅れたところでどうってことないでしょ。橋梁を吹っ飛ばす呪文の開発だっけ?」
「正確には、橋梁を通行不能にするに足るだけの事例の研究――ですけど、まあおおむねのところ、そうです」
頷いたシャーロットに向かってもどかしげな身振りをしてから、リーは眼鏡の奥から、ざっとシャーロットの――嘆かわしいまでに散らかった――小さな執務室を見渡した。
「きみ自身の仕事は?」
シャーロットは肩を竦めてから、机上の書類の一つを示した。
紐で綴じ込まれた紙の束の表紙には、あかあかと軍省大臣印が捺されている。
「軍省がまたリディーベル研究所から取り上げた呪文の解析があります――」
リーは顔を顰めた。
民間の研究所の成果を軍省がかすめ取ることについて、彼はかなり否定的だった――とはいえ、軍省が技術を買い受けるにあたって、リディーベル研究所が喜ぶだけの対価が支払われていることは間違いがない。
「へえ、どんな呪文?」
「河川の氾濫を意図的に起こすことが出来るかどうか」
リーはますます胡乱そうな顔をした。
「なにそれ、どうしてそんな呪文が出来たの?」
シャーロットは手を伸ばして、書類の最初の数枚をぱらぱらとめくった。
「もともとは、旱魃に襲われた地域に、別の地域から水を持ってこられないか、っていうところから発案されたみたいですけれど」
リーはくしゃっと顔を顰める。
「それ、技術省管轄じゃないの?」
「軍事転用されたことを想定して、対策を立てるよう稟議を書くようにという仰せで」
シャーロットがそこまで言ったところで、リーはこれが本題ではないということを思い出したようだった。
あわてたように顔の前で手を振る。
「違った、違った。
ミズ・ベイリー、きみの仕事の期限はいつ?」
シャーロットは真鍮のピンに留めたメモを確認した。
「ええっと……三日後です」
リーは満足そうに頷く。
「三日あれば、きみなら大丈夫だね。
――ねえ、ちょっと外に出ようよ。見ものだよ」
シャーロットは戸惑って瞬きしたものの、維持室での恩人ともいえるリーに強く誘われれば、頷かないわけにもいかないことは承知していた。
腰を上げつつ、首を傾げる。
「見もの、ですか?」
「そうそう」
リーは、シャーロットが誘いに応じるとみて嬉しそうな顔をした。
彼は恩着せがましいことはしない――したがって、自分の誘いにもシャーロットが乗るとは限らないと考えている。
「きみ、ちょっと前に、軍省の参考役の毒殺未遂にからんだ仕事を受けていただろう?」
シャーロットは警戒ぎみに動きを止めた。
その仕事も、終えてしまえば過去のもの、詳細は他の仕事の膨大な記憶のあいだにうもれつつあったが、さすがに存在は忘れようはずもない。
「ええ――ええ、確か、毒物の複製と解毒に悪魔が用を成すかどうか……」
「そうそう。きみの稟議を使って、もっと上の立場の予備研究員が稟議を書いて、それでまた別の稟議が――って、詳しいことは僕も分からないけどね。
とにかくそれで、やっとのことで参考役毒殺未遂の調査班にまで稟議が届いてね。魔術的な観点からも調査をしようってことになってたみたいで」
シャーロットはあいまいに頷いた。
この七十年で、他人に害をなす手段として悪魔の助力を得ることはすっかりなくなった(おおむねのところで)。
そのため、参考役に毒が盛られた件についても、まずは物理的な方法から検討して犯人を探す方向で、調査が進められたのはきわめて自然なことだ。
「あれこれ検討されたあとで――まあ、いいや、詳しいことは分からないし。
とにかく、今朝から噂になってんだけど、もう参考役が自分で犯人を探して、とっ捕まえることにしたみたいで」
シャーロットは苦笑した。
さもありなん――なぜもっと早くネイサン自身で動いていなかったのが不思議なくらいだ。
だがそれを言うわけにもいかず、シャーロットはためらいがちに微笑んで先を促した。
「それで、見ものというのは――?」
「行こう!」
リーが高らかに宣言して、シャーロットを手招きしながら小部屋の扉を開けた。
大部屋から、かりかりとペン先が紙を削る音、誰かの溜息や悪態、椅子が軋む音が忍び込んできた。
シャーロットは椅子から立ち上がり、ワンピースの裾をちょっと直してから、珍しく目の奥をきらきらさせているリーを、不思議そうに見つめた。
「何があるんです?」
尋ねながらも、シャーロットはリーに続いて、自分の小さな執務室を出て、扉をしっかりと閉め切った。
「参考役が」
リーは普段よりも足取り軽く大部屋を突っ切りながら、応じた。
「犯人探しのために、自分でそのための悪魔を召喚するんだってさ」
シャーロットは目を瞠った。
「まあ。――もうたくさん、悪魔はお手許に置いているでしょうに」
そのとき、ちょうど二人がそのそばを通り掛かった、大部屋に机を持つ役人が顔を上げ、振り返り、椅子の背に腕を置くようにして、リーに言った。
「お、その話は俺も聞きましたぜ。見物に行くんですか?」
リーはおざなりに頷いた。
興味のないことにはとことん冷淡にしてしまうたちなのだ。
シャーロットが静かに咳払いして、代わりに応じた。
「連れていっていただくところなんです。――でしょう?」
役人は、「リクニス学院卒の、参考役の後輩というだけで執務室を得た、七光りの世間知らず」に向かって顔を顰めたが、一方でリーは、無邪気に頷いている。
「うん、そのつもり。
ミズ・ベイリー、きみも、」
リーははにかむような笑みをシャーロットに向けた。
「自分の仕事の成果が何かの形になるところを見たら、元気も出るでしょ」
リーに連れられて大部屋を出ながら、シャーロットはあらためて尋ねた。
「あの、本当に、ネイ――参考役さまが悪魔を召喚するところを見物に行くんですか?」
召喚の際には、悪魔に対して報酬を提示することとなっている。
そしてその報酬がいかほどのものであったかは、通常、他には伏せられるところなのだ。
見物人の前で報酬の提示をする魔術師は、さぞかし気まずいことだろう――それだけではなく、その報酬で、魔術師のしもべに降るか否かを判断する悪魔も。
「そりゃあ!」
と、リーは元気よく応じた。
「あの人ほどの魔術師の召喚が見られるなんて、一生に何度もないぜ、ミズ・ベイリー。
たぶん、見物人だってたくさん集まってるよ」
「そ――そういうものですか?」
シャーロットは困惑したが、リーは確信を持っていた。
「そういうもの、そういうもの」
シャーロットはさらに困惑しながら尋ねた。
「あの、そもそも参考役さまがどちらで召喚を行うか、ご存じなんですか?」
「たぶん、省舎の玄関ホールじゃないかな」
リーはあっさりと言った。
「技術省での前例に倣ってさ。
大事な悪魔の召喚のときには、ホールの銅像の足許を使うんだろ?」