03 夢想と現実
参考役は権力者ではあるものの、直截的な権力を振るう、軍省大臣や副大臣、あるいはその補佐官や補佐助官とは毛色が違う。
参考役は議会に対し、魔術師の見地から彼らに助言を与える立場にある――政治家は魔術を学ぶことが出来ないため、その意図された知識不足を補う存在が必要になるのだ。
つまり、軍省内部の人事権の裁量などは無きに等しく、シャーロットが普段から上げる稟議についても、決裁権は持たない。
彼が決裁しているのは、軍省大臣その人に上げる意見書や依願書であり、あるいは軍省大臣から下ろされる通達を点検し、下問書に回答しているのだ。
つまるところが、「雲の上で作業をしている人」だった。
現在の軍省付参考役はジュダス・バーナード・ネイサン――リクニス学院を最年少で卒業した天才であり、着々と出世の道を歩んできた野心家であり、三十半ばという若さで、魔術師の地位の極みとまで言われる参考役に昇りつめた異例の逸材だった。
彼の好敵手は多々あったはずだが、シャーロットが入省してから耳にした噂によれば、全ての政敵や好敵手は、ネイサン相手に勝ち目なしと、進んで道を譲ってきたという。
それはたとえば、現在の軍省管理部の部長のアシュトン。
あるいは、垂教省付参考役のバルフォア。
司法省付参考役であったオクリーヴは、ネイサンと三年に亘って反目したのち政府を離れたという。
シャーロットがそんな参考役と文通し、いく度かは直接顔を合わせ、こうして名指しで呼びつけられ、場合によってはお茶をしたり、晩餐に呼ばれたりといった待遇を受けているのは、決して彼女が彼の愛人だからではなく、後輩だからでもなく、シャーロットがネイサンの監視対象となっているからだった。
ベイリー家の事情により、しかも生まれた性が女だったがために、シャーロットは人生の最大の選択肢を失ったようなもので、しかも日々こうして監視されている。
「私が魔術を学ぶのすら危険視されたというのに、魔術の研究をさせるなんておかしな話ではないですか」
と、シャーロットがネイサンに申し入れたのは、軍省に入省して一箇月程度が経ったころで、「このままここで勤めていたら、もしかしたら身体を壊すかもしれないぞ」と気づいたときだった。
ネイサンはそれを聞いておだやかに微笑み、
「いや、そんなことはないよ」
と、至極当然のように応じたものだった。
「きみに魔術を学ばせたくなかったのは、研究分野を絞らずに、きみが知識を吸収することを恐れたためだ。きみも知っているように、われわれの足許の神を目覚めさせる呪文を編み出されては堪らないからね――われわれも、きみの父君も。
だから、言ってしまえば、われわれの監督下で、われわれの要請で、きみが研究を行うことにはなんらの問題はない。それに、」
と、ここで彼は少し申し訳なさそうに顔を顰めて、
「維持室は忙しいだろうからね。きみが余計な研究に首を突っ込む暇もないだろう」
シャーロットは弱々しく微笑んだものだった。
「もしかして、最初から、私をアーニーの捜索がしやすい部署に配置するおつもりなんてなかったんですか?」
これには心外そうに目を見開き、ネイサンは憤慨した様子で手を組んで、
「なにを言う。――私の推挙が足りなかったことは謝罪しよう。けれど、考えようによっては、きみが維持室で上げる成果によって、次の異動がきみの有利になるかもしれないんだよ。
もう少し頑張って」
――そう言われて、もう二年近く。
シャーロットは転がるように廊下を走り、階段を駆け昇り、広間を突っ切り、ようやくネイサンの執務室の前に辿り着いた。
彼女がワンピースの裾を直しながら、ぜぇぜぇと息をつくのを、執務室前に控える衛兵たちが、どことなく気の毒そうに観察している。
彼らはささやかな親切心を発揮して、シャーロットの息が整うまでは、参考役に来訪者の到着を告げるのを待ってくれた。
シャーロットがなんとか落ち着いた息を呑み込みながら感謝をこめて頷くと、衛兵の一人が咳払いして扉を叩いた。
中から、扉が細く開けられる。
内側に控える使用人に向かって、衛兵が口早にシャーロットの到着を告げた。
使用人がネイサンに伺いを立て、それから大きく扉が開かれる。
四十前後とみえる壮年の、きっちりと背広を着こなした使用人は――秘書というほどにはネイサンの予定を把握してはいないのだ――、気難しい目でシャーロットを見て、彼女の髪のほつれと、ここまで走ったがゆえに上気した頬に目を留めて、すうっと冷ややかに目を細めた。
シャーロットは恥じ入って背を向けたくなったが、その自由はない。
やがて使用人は、「参考役がお待ちです」と告げて、半歩下がってシャーロットを部屋の中に通す構えを見せた。
シャーロットは小さく頭を下げて、ネイサンの執務室に――正確には、その手前にある控えの間に滑り込んだ。
その控えの間には花が飾られていたが、目の前にいるこの使用人がその色鮮やかな花を選んだとは思えなかった。
彼はまじまじとシャーロットを見て、冷淡に鼻を鳴らしていた。
「ミズ・ベイリー、私の上役に会うときだけでも、なんとか身嗜みを整えてもらいたいものです」
シャーロットは咄嗟に、耳の上あたりの髪を押さえた。
そして、「その時間が得られるような部署に移していただければ」という、皮肉にしても直球すぎる言葉を呑み込み、「申し訳ございません」と頭を下げる。
使用人はまた鼻を鳴らして、控えの間を縦断し、その向こうの両開きの扉を、片方だけ開けた。
「――参考役、ミズ・ベイリーがお見えになりました」
向こう側の執務室で、ネイサンが笑い声を上げるのが聞こえてきた。
「良かった、どこかの階段から転落でもしたのかと心配していたところだ」
使用人は愛想に満ちた笑い声でそれに追従してから、シャーロットを振り返った。
瞳は冴え冴えと冷たくなっていた。
そして、ごく小声でシャーロットに言った。
「参考役はお忙しい。あまりお時間をとることのないように」
自分をここに呼んだのはネイサンであって、シャーロットから願い出て訪ねてきたのではないのだ、という本音を、シャーロットは呑み込んだ。
頭を下げて、使用人のそばを通って、ネイサンの執務室に足を踏み入れる。
すぐに、ネイサンが扉を閉めるように合図した。
使用人が外から扉を閉めて、執務室の中は二人になった。
「――きみは遅刻の常習犯だな」
ネイサンが、執務机の向こうで立ち上がりながら笑った。
大きく立派なオークの執務机は、四隅に精緻な彫刻が施されている。
机上はシャーロットのものとは比較にならないほど整然としていて、手前には優美なペン置きとペンが、奥側には決裁を待つ書類の山が、そして左側に決裁済みとなった書類の山が、一インチのずれもなく重ねられている。
執務机の向こうには大理石のマントルピースがあったが、この猛暑のなか、もちろんのこと火は入れられていない。
マントルピースの上には重厚な置時計と飾り皿、そして全体にカットが施された硝子瓶と、同じく細工が施された硝子の酒杯が置かれている。
硝子瓶の中には、琥珀色の酒が半ばほど残っていた。
シャーロットは頭を下げた。
置時計をちらりと見ると、黒い文字盤の上で、金色の針が残酷にも二時十五分を示していた。
あきらかな遅刻かつ、勤務中の多忙な参考役の時間を奪ったことになる。
「本当に申し訳ございません、参考役さま」
それからはたと思いついて、顔を上げた。
「それから、お見舞いに上がることも出来ず、失礼いたしました」
ネイサンは瞬きして、首を傾げた。
この四年、彼が変わったように見えるのは目尻のしわだけだった。
他は寸分たがわず、シャーロットが初めて彼と会ったときとなんら変わりない。
後ろに丁寧に撫でつけられた、白に近いほど淡い色の金髪、整った顔貌、灰色の目。
今日の彼はネイヴィ・ブルーの背広を着ていたが、そのジャケットは脱いで、執務机のそばの衣裳掛けに吊られていた。
絹のシャツとウエストコートという格好になっている。
首を傾げたネイサンが、訝しげに繰り返す。
「見舞い? ――ああ」
得心したように頷いて、彼が微笑んだ。
「十日前の件かな。あれは大事には至らなかった――」
ぱちん、と彼が指を鳴らすと、執務室の隅に人影が立ち現れた。
シャーロットがそちらを見ると、そこに立っているのは間違いなく悪魔だった――何しろ、首から下は人間だったが、上半身は裸で腰布を巻いているだけという、この省舎で見るには異様な格好であり、また頭は人間のものではなく、立派な角を備えた牡牛のものだったのだから。
シャーロットがさすがに少し驚いていると、ネイサンは愉快そうに笑った。
たちまちのうちに、牡牛の頭の悪魔は姿を消した。
「私に毒を盛った連中は面喰らったのではないかな。そもそも、私は悪魔を召喚しているからね。具合が悪くなったのは私の悪魔たちだったけれど、さらに偶然にも、モラクスを召喚していてね。治療を命じることさえ出来れば、私の悪魔たちに転嫁される身体の異常もなくなった」
シャーロットは序列二十一番の魔神がいた場所をまじまじと見てから、視線をネイサンに戻した。
「参考役さまのあの一件で、私もお仕事を頂戴しました」
「きみが対応してくれるのか。嬉しいね」
ネイサンは愛想よくそう言ってから、執務机に寄り掛かって腕を組んだ。
「実をいうと、もっと早くきみと会いたかったのだけど、こちらもあの一件で大わらわになってしまってね。
――シャーロット、分かってくれると思うけれど、」
いたずらっぽくそう言って、しかしながら真剣に、ネイサンは言った。
「私ほど品行方正な男はいないよ。毒を盛られる心当たりはない」
「そうでしょうか」
シャーロットは思わずつぶやき、面白そうな顔をするネイサンに向かって言っていた。
「参考役さまのことですから、過去に捕えた悪人の恨みを買っていそうですけれど」
「面白いジョークだ」
ネイサンは言って、にこやかにシャーロットを見た。
「とはいえ、シャーロット、それは侮辱だよ。
私が、捕えた悪人に恨みを残すような隙を与えると思うかい」
シャーロットは瞬きし、うつむいた。
ネイサンは笑って、ぐるりと周囲を見渡した。
そして、間違いなく室内にはシャーロットと自分のほかにはだれもいないということを確認し、そして恐らくそれは、彼の目だけではなく、彼に仕える悪魔の目をも使って確認したのだろうが、ともかくもシャーロットに視線を戻した。
「――心当たりがあるとすれば、きみのことなんだ」
シャーロットは弱々しく微笑んだ。ぎゅっと両手を握り合わせる。
「……そうだろうと思いました」
「正確には、きみのことではないね。――きみの曾祖母のことだ」
シャーロットが黙っていると、ネイサンは優美に指を二本立てた。
「一つに、私がいなくなれば、きみの警護が緩むだろうと狙ったことが考えられるね。
そして二つに、」
ネイサンは言葉を止めて、腕を組んだ。
「――きみ、十日前の状況についてはどれほど知っている?」
「実は、ほとんど」
シャーロットは控えめに言って、首を振った。
「あの日は大騒ぎでしたから。私が最初に聞いたのは、『参考役さまが亡くなった』という情報で――」
「それにしては、私を悼んで泣きながらここまで走って来てくれた様子がなかったが」
ネイサンの茶々を黙殺して、シャーロットは続ける。
「――ただ、参考役さまが悪魔を召喚していることは知っていましたから。
そうこうしているうちに、『参考役さまが襲われた』だの、『参考役さまが倒れた』だの、色んな話が聞こえてきて、最終的に、『どうやら毒を盛られたらしい』と」
「うん、そう」
ネイサンは愛想よく頷き、肩を竦めた。
「運ばれてきた紅茶を飲んだら、召喚していた魔精が苦しみ出してね。あれは驚いた。
――さて、その毒物だが、司法省の研究者が調べたところ、特に致死性の高いものではなかったらしい」
シャーロットはぐるぐると考えたあと、つぶやいた。
「――今度から、銀器でお茶を飲まれるべきですね」
「そうしよう」
真面目くさって頷いてから、ネイサンは疲れた様子で微笑んだ。
「さて、私の可愛いシャーロット。
私に毒性の強くはない毒を盛る利点はなんだろうね?」
シャーロットは渋々ながら頭を働かせた。
「かりに、参考役さまが悪魔を召喚していなければの話ですが――参考役さまを寝込ませることが出来ます」
「うん、それで?」
シャーロットはぎゅっと目をつむった。
そうすると瞼の裏に、朝からずっと睨んでいる文書の文言が踊り始めた。
「私の……つまりは、グレートヒルの魔神について知っている者であって、そのための最後の一つがどうしても揃わないなら、そうですね。参考役さまの頭脳を借りることを考えるでしょう。つまり、誘拐して」
誘拐、と言いながら、シャーロットはネイサンを眺めた。
堂々たる参考役は、誘拐や殺害、拉致や監禁といった、そんな仕打ちからは最も離れたところにいるように見えた。
ネイサンはにこりと笑った。
「よろしい。同じことを私も考えた――」
言葉を切り、もう一度周囲を見渡してから、ネイサンはやや声を低める。
「グレートヒル――〈神の丘〉の魔神のために必要なのは、『神の瞳』、きみ、そして呪文だ。特定の呪文。
六年前にきみを誘拐しようとした連中、四年前にオーリンソンの息子を利用した連中が、その呪文の獲得に梃子摺っているのならば、この、」
ネイサンは少し口籠り、どうやって表現を謙虚なものにするかを検討したようだった。
だがすぐに諦め、清々しいまでの口調で言う。
「稀代の優秀な魔術師の頭脳に、ただ乗りすることも考えるに違いあるまい」
シャーロットは溜息を吐かないよう注意を払いつつ、逆に息を吸い込んだ。
「――けれど、『神の瞳』の所在は、まだ……なんといいますが、その……敵、の手許にあると決まったわけではないでしょう?」
ネイサンは思慮深く頷いた。
「そうだね。今も、閣下があらゆる手を使って捜索していらっしゃるが、発見に至らない。
――最悪の場合を想定しておくべきだろう?」
シャーロットの頭がずきずきと痛んだ。
最悪の場合の想定。
職務上でもここでも、同じ言葉が迫ってきている。
「――それで、そうだとすれば、私にどうしろと仰せになるおつもりでお呼びになったのでしょう?」
ネイサンは気怠げに執務机にもたれて、立ったまま脚をクロスさせた。
「身辺に気をつけて。
私がその連中なら、間違いなく、きみが一人で登省しているときか、退省しているときを狙って、きみを誘拐する」
話が読めてきたので、シャーロットは眩暈を覚えた。
危機感を覚えるべきだと頭では分かっている――みたび、ベイリー家の事情に魔の手を伸ばす存在があるならば。
だが、どうしても危機感が湧いてこなかった――危機感が入る余地もないほど、シャーロットは眼前の業務に忙殺されて、頭の中はそのことでいっぱいいっぱいになっていた。
かつて、何よりも尊貴であり、何を措いても守らなければならないと、当然のように分かっていたはずの多くの人々――〈ローディスバーグの死の風〉が再来すれば、それによって失われるであろう多くの命、それらについてすら、今のシャーロットはかすかに感情を動かしただけだった。
それよりも、今のこの状況、彼女をゆるやかに殺そうとしているこの日々、それらから救い出してほしい――それこそが、シャーロットの何よりの本音だった。
「――なるほど。参考役さま、私を今の部署から異動させる話だと、たいへん嬉しいのですけれど。
そろそろ、私をアーニーの捜索が出来るような部署に移していただいてもいいのではないですか」
ネイサンはうっすらと笑った。
「そうしてやりたいのは山々だが、シャーロット。知っているだろう――今年の人事はすでに動いた。発令がまだとはいえ、今さら追加で一人を動かすのは、悪い意味で目立ち過ぎる」
シャーロットは絶望のあまり呻き、それを聞いたネイサンが、心から気の毒そうに顔を顰めるのを見た。
「では、どんなに早くてもあと一年は待てということですね。
――参考役さま、だったら私、あと一年は一人で登省しなくてもいいように、もしかして省舎の中に住まないといけないんでしょうか?」
ネイサンは口許を手で隠した。
「おっと。それは考えなかったな。――いや、悪いね、シャーロット。冗談だ。
きみに護衛をつけようという話だよ」
シャーロットは黙り込み、無言で瞬きし、ネイサンの目を見つめた。
「護衛?」
「そう」
肯って、ネイサンは執務机を手の爪でこんこんと叩く。
シャーロットは覚えず、弾かれたように尋ねていた。
「閣下はなんとおっしゃっているのですか」
ネイサンは眉を上げた。
意外そうに、責めるように。
「閣下? ――ああ、昨日の会議で閣下の承認を得たところだよ。
閣下はきみが安全だと信じておられたが、納得してくださった。人選も済んでいる――」
「どなたになったんですか」
シャーロットはいくぶんあわてて尋ね、それにますます眉を上げてみせたネイサンに、さらにあわてて言い訳をした。
「あの――男性でしょうか。女性でしょうか。私の居宅の中まで上がられるとなると、ちょっと……」
ネイサンはまじまじとシャーロットを眺めて、柔和に頷いた。
「だろうね。――閣下もその点を案じておられたよ。だが、心配はいらない。きみの城の中までは入らせないよ」
シャーロットは安堵の息を押し殺した。
相手がただの軍人であればまだいいが、魔術師だとすれば――まずい。
ささやかな同居人に気づかれかねない。
シャーロットのささやかな同居人の存在を、ネイサンが――延いては首相が知れば、いい顔はするまい。
いや、どう楽観的に考えても、シャーロットはカルドン監獄行きになるはずだ。
その危機感が先に立ち過ぎて、ネイサンを襲った事件の重要性について頭が回らない。
ネイサンは言葉を続けている。
「もちろん、周囲にも知れないよう計らおう――きみが特殊な立場にいるということは伏せなければ――きみ自身の目にもつかないように、と申し渡してあるから、わずらわしい思いをすることもないだろう。
閣下の推挙で、警官の経験のある者になった。私としては、私の悪魔をつけるのが最善だと思ったのだけれどね。閣下はそうはお考えにならなかったらしい――」
「悪魔――」
シャーロットは息を吸い込んだ。
その瞬間、唐突に降ってきた考えに、彼女の頭の芯が震えた。
かっと頭が熱くなり、彼女はぎゅっと両手をこぶしの形に握り締める。
「参考役さま――」
声が詰まり、シャーロットはわれ知らず、一歩前に出ていた。
「参考役さま、お願いです、その護衛を私に用立てさせてください」
ネイサンは瞬きし、シャーロットを見下ろした。
シャーロットは怯みそうになりつつも、必死になって懇願していた。
「お願いです――この一度だけ、魔神を召喚させてください。
きっと誰より確実に私を守ってくれます」
期待のあまりに、シャーロットの全身が震えていた。
――確かにかれは失望するだろう、がっかりするだろう、今のシャーロットを見れば。
だがそれでも、かれの皮肉を聞きながら退省し、かれに自分の狭い家を見せて、「ネズミにでも荒らされたの?」などというやんわりした嫌味を聞きながら眠って、目を覚ましてかれを促して登省し、かれの軽口を聞きながら仕事をすることが出来れば――それはどんなに――
目の前に、いつも音もなく動いていた、首許にストールを巻いた少年の姿が見えたような気がした。
だがその、子供時代への郷愁ゆえの幻影はたちまちのうちに掻き消えた。
眼前にはネイサンがいる。
否定しようもないほどの実体として。
ネイサンはまっすぐにシャーロットを見ていた。
もはやどんな微笑の欠片も、彼の表情の上にはなかった。
「駄目だ」
彼はぴしゃりと言った。
さながら鼻先で勢いよく扉が閉じられたかのごとく、シャーロットは息を詰めた。
「そんなことを言い出すとは――驚くと同時に失望している。
シャーロット、駄目だ」
息を継いで、ネイサンははっきりと言った。
「閣下は、きみの倫理観を信じているとおっしゃった。だが私は違う。
シャーロット、きみもよく分かっているだろう?」
「――――」
シャーロットはつかの間呼吸を止め、動きを止め、ネイサンの眼差しを見上げる。
彼が見つけた、言い逃れのしようのない、彼女の過日の罪を見る。
「――私も、それを追及したくはないんだよ」
優しげにネイサンは囁いた。
「きみの事情を知っているのは本当に一部の人間――軍省の中でも選り抜きの人間と、衛兵の中でも位のある、閣下の護衛の一部だ。それに加えて、オーリンソンがきみの誘拐を企てたということもある。
――われわれの敵は権力者である可能性もあるんだよ。
そうだとしたら、きみも分かるだろう――カルドン監獄はそいつのためのねずみ捕りになるかもしれない」
「――――」
ややあって、シャーロットは息を吸い込んだ。
痙攣するように瞬きして、目を伏せた。
「――そうでした。失礼いたしました、参考役さま」
「きみは賢いね」
ネイサンは口許だけで微笑んだ。
シャーロットは急に吐き気を催したが、相手には悟らせずにそれを堪えた。
「それに――」
ネイサンが言い差して、それを受けてシャーロットが顔を上げると、ふいに親しみ深く目配せをしてきた。
シャーロットはわけが分からずぽかんとしたが、ネイサンに詳しいことを説明する気はないようだった。
ただ、彼は言った。
「――近いうちに驚くことになるよ、シャーロット」
シャーロットがあいまいに首をひねると、ネイサンは軽く笑い声を立ててきびすを返し、マントルピースに歩み寄って、その上に置かれていた硝子瓶から、二つの酒杯に琥珀色の酒を注いだ。
そしてそれらを両手に持ち、右手に持ったものを口に運びながら、左手の酒杯をシャーロットに向けて差し出す。
「飲む?」
シャーロットは乾いた笑みを顔に貼りつけて、首を振った。
大臣はじめ、地位の高い人々は、なぜかもてなしの一環として酒を出してくることが多い。
シャーロットはそれら全てを断ることにしていた。
「お酒は、リクニスのパーティで懲りました」
そのときのシャーロットの息も絶え絶えな手紙を思い出したのか、ネイサンは小さく笑った。
「そうだったね。――それにしても、きみはつれない。
私がお茶に招待しても、かならず遅れてきてお茶を飲む時間はないし――」
シャーロットの笑みがじゃっかん強張った。
軍省に引き抜かれたことへのささやかな抵抗が、どの程度ネイサンの気分を害しているのかを量りかねたということもある。
「――晩餐にもかならず遅れてきて、席次を乱すときている。きみが遅れてくるというので、皆さんが右にずれたり左にずれたり、そのたびに給仕が困っている。
今では、招待客の中にきみの名前があると、給仕が悲しい顔をするほどだ」
「まあ」
シャーロットは心外そうな声を出した。
「先月の晩餐会には、遅れずお邪魔しましたよ」
「一時間も早く来たね」
ネイサンが困ったように微笑んだ。
「真剣に、きみに時計の読み方を教えるべきかと思ったよ。
しかも、私がミセス・フーカーのために用意していた席を横取りしてしまった」
「申し訳ありません」
シャーロットはしれっと応じた。
「てっきり、下座だったのであの席が私の席かと思ったんです」
「私がきみを下座に通すわけがないだろう」
ネイサンは含み笑ったが、その実、探るようにシャーロットを眺めた。
軍省に彼女を強引に引き抜いてきたことで、シャーロットがどの程度へそを曲げているのかを、今あらためて確認しようとしているように。
「――まあ、いい」
ネイサンは言って、彼の分の酒をくいっと飲み干すと、口がつけられなかった酒杯とあわせて執務机に置いた。
そしてシャーロットに微笑みかけた。
初めて出会ったときと、驚くほど変わらない表情で。
「次に私が呼ぶ茶会には、きっちり時間通りに参加してくれ。八月十五日だよ、いいね?」
そして手を伸ばして、彼はシャーロットの肩を叩いた。
ねぎらうように、いたわるように。
「――くれぐれも無事で。
われわれは全力できみを守ろう、シャーロット」