02 ペンと紙と本と長々とした仕事
グレートヒルの隔壁の奥、いわゆる「グレートヒルの心臓部」にある、軍省の広い省舎にシャーロットが到着したのは、時刻が六時半を指そうとしているときだった。
気温はすでに高く、今この時刻でこの暑さならば日中はどれほどか、と想像すると溶けてしまいそうなほどで、シャーロットは額と首筋の汗を拭いながら、省舎の大きな柱廊玄関を入っていった。
軍省の省舎は、議事堂のほど近くにある。
議事堂に次いで古い建物で、灰色の石造り、他の省に務める役人たちから、「軍省城」と揶揄される所以の尖塔を備えている。
省舎の規模としても大きなものの一つで、同じ規模の省舎は技術省のものしかない。
複雑に入り組んだ形をしているが、これはこの七十年で増改築が繰り返されてきたためだ。
よって、省舎の場所によって、古い箇所と新しい箇所が入り混じっている。
軍省の管轄である衛兵の詰め所は、省舎とは別に設けられていた。
省舎の中は暗く、特に玄関ホールは古いままだから、どことなく陰鬱な雰囲気が漂っている。
玄関ホールは吹き抜けになっていて、二階の高さをぐるりと回廊が巡っている。
高い天井を振り仰げば、そこには色つき硝子をふんだんに使ったモザイク模様のステンドグラスの天窓があった。
ホールの中央には、厳めしい顔をした巨大な男性の像がそそり立つ――キッシンジャー像だ。
こうした像――その省、あるいはその省の前身に多大な功績を残した先人たちの銅像――は、各省の省舎の玄関ホールにそびえ立っており、重大な発表を行うときにはその像の足許で行うことが慣例となっている。
また、技術省においては、重大な土木工事や河川工事のために悪魔を召喚する際には、銅像の足許で召喚を行うことがならわしであるという。
玄関ホールの入口の正面には、高い天井から吊り下げられるようにして、軍省の印章が織り込まれた巨大なタペストリーが掛かっている。
初めてこれを見たとき、シャーロットは足許が冷えるような心地とともに、「大変な場所に来てしまった」と感じたものである。
とはいえ、同じ時期に軍省の職に就いた青年は、感動した様子でそのタペストリーをうっとりと眺めていたから、感じ方は人それぞれだった。
今のシャーロットは、このタペストリーも見慣れている。
彼女はそれを身もせずに、薄暗くひんやりとした省舎の玄関ホールを、斜めに横断するようにして左側へ向かい、そこから伸びる階段に足を乗せた。
まだ朝も早く、玄関ホールはがらんとしていたが、それでもシャーロットと同じ時刻に出勤してきた役人たちが、眠そうに目をこすりながら、ある者はシャーロットと同じ階段を目指し、またある者は右側の階段を目指し、新しい一日に打ち倒されたかのような足取りで、よろよろと目的の場所に向かいつつあった。
階段を昇ったシャーロットは、二階を奥へと進み、さらにそこから三階へ進んだ。
三階へ上がるとすぐに、『維持室』と凝った字体で記された銘板が掲げられた大きな扉がある。
この階に他にあるのは、『対策室』と『管理課』だった。
シャーロットは無意識のうちに溜め息を吐きながら、『維持室』の扉を押し開けた。
とたん、かりかりかり、と、ペン先が紙の表面を削る音が聞こえてきた。
ぱらぱら、と書類をめくる音も。
整然と並べられた机のうち、いくつかに既に人が座っていて、机の上に覆いかぶさるようにして、熱心に報告書を作成し、あるいは調べものをしているのだった。
その中では一番手前にいた中年の男性が顔を上げ、シャーロットを見た。彼は顔を顰めて、すぐに自分の作業に戻った。
シャーロットは針のむしろを踏む気分で、足音を殺してその大きな部屋を奥へと進んでいった。
この大きな部屋――部屋をいくつか、壁をぶち抜いて一続きにしたような巨大な部屋――には、窓がない。
天井でゆっくりとプロペラが回り、それが停滞しがちな空気を掻き混ぜているだけだ。
ここで働いている者たちは、外の空気が吸いたくなったなら、廊下に出て、その突き当あたりにある窓から顔を突き出すしかない。
と、いうのも、この大部屋の奥――本来ならば窓際にあたる面に、ずらりと別の小部屋が並んでいるからだった。
部屋の中の部屋である。
正確には、間仕切りが設けられて部屋のように独立している部分が複数あって、それがずらりと並んでいる、というべきか。
その小部屋の一つ一つの扉は上部が硝子張りになっていて、そこに白く文字が刻まれている。
その文字は、その小部屋の主の名前を示していた。
シャーロットは右から数えて三番目の小部屋に向かって進んだ。
扉の硝子部分に名前が刻まれている――『シャーロット・ベイリー』。
鞄をごそごそと探って鍵を取り出すと、小部屋の鍵を開け、中に入った。
中は、少なくともシャーロットがこの小部屋を与えられたときは、殺風景なものだった。
置かれていたのは、入口側を向いて、つまりは窓(そう、大部屋から窓を盗むようにして、この小部屋には窓がある)に背を向けて置かれた大きな机。
それと対になる、座り心地のよい柔らかな椅子。
そして壁にしつらえられたガス灯。
調度品はこれだけだった。
今も、調度品の数は変わっていない――が、室内は惨憺たる有様を呈していた。
シャーロットの居室と同じようなありさま、といえば最も伝わりやすかろう。
机の上には紐で綴じられて束になった書類がいくつも積み上がり、また専門書が別の山を築いている。
床の上だけはかろうじて書類の浸食を免れていたが、それでも山と積まれた専門書が、そこここに陣地を広げていた。
シャーロットは後ろ手に扉を閉めると、まずは椅子の上にぐったりと身体を伸ばした。
目を閉じて、鞄を床に置き、両腕を上へ伸ばして伸びをする。
そうしてから、あらためて椅子に座り直した彼女は、机上の一点に目を留めて、憂鬱そうな顔をした。
それは伝言を留めておくための真鍮のピンで、そのピンには、昨日の夕方に渡されたメモが突き刺してあった――『二十四日、二時、ネイサン参考役の執務室へ』。
シャーロットは息を吐き、椅子の背もたれから身体を起こすと、目をこすっててのひらで顔をぬぐった。
そして、のろのろと足許から鞄を持ち上げ、その口を開けて、持参した書類を机上に並べる。
そしてふと、鞄の中から別の、柔らかいハンカチの小さな包みを取り出した。
ハンカチをほどいてみれば、包まれていたのは縦に二インチ、横に一インチほどの大きさの、大ざっぱに見れば八面体を成す、深く鮮やかな青色を呈す宝石――美しい透明感を湛えた尖晶石の欠片だった。
特に形を整えられた様子もなく、装飾品として仕立てられているわけでもない。
その青い宝石を、背後から射す窓明かりにかざすようにして、しばしのあいだシャーロットは見つめていた。
だがやがて、はっとしたようにそれを鞄の中にしまいこむと、机の下の抽斗からペンを取り出す――ちらりとそのペンを見遣る。
つやつやとした黒いペン。
軸には、「C・B」と、シャーロットのイニシャルが凝った字体で銀色に彫刻されている。
シャーロットはその彫刻が見えない角度にペンを持ち替えると、目の前に並べた書類を、億劫そうに点検しはじめた。
ときおり手を伸ばして、机上の専門書の山を崩してその中から一冊を抜き出すと、ぱらぱらとページをめくって何かの事項を確認している。
シャーロットがその作業に没頭しているうちに、かちこちと時間は進んだ。
そして九時過ぎ、唐突に、ノックもなしに扉が開け放たれ、シャーロットは飛び上がる。
気づけば、窓から射し込む陽光の角度が変わっている。
「ミズ・ベイリー」
扉を開けた闖入者が呼ばわった。シャーロットは、手許をじっと見ていたせいでかすむ目をしばたたかせる。
そうしながらも彼女は立ち上がり、動作の途中で中途半端な角度で頭を下げてみせた。
「……フラナガン助官」
フラナガン維持室長助官は、ざっとシャーロットの全身を検めるような目で見た。
この目がシャーロットは苦手だった。
人ではなく物を見るような、あるいは小切手に書かれた金額を推し量るような、そういう眼差し。
フラナガン助官は六十に差し掛かる年齢で、顔面にはそれ相応のしわが刻まれていた。
そのしわ全てに、「意地悪」という角度がついているように見えるのは、シャーロットの主観による感想だったが。
白いものがふんだんに混じった黄土色の髪、いつも同じ濃い灰色の背広。
そして、くだんの目――腫れぼったい瞼の奥からこちらを覗く、青みの強い緑色の目。
その目でシャーロットを推し量りながら、フラナガン助官は唇を曲げた。
一度、まだ反抗心の残っていたころに、シャーロットは鏡の前で、フラナガン助官のこの唇の曲げ方を真似たことがある。
よくぞこんな表情を日ごろから多用できるものだ、という、悔しまぎれのあざけりを籠めて。
だが今となっては、この表情を見たシャーロットが覚えるのは、胃の痛みだけだった。
「ミズ・ベイリー――まったく」
何を言われるのかが分かっているシャーロットは、無言のまま胃のあたりに手を当てた。
彼女自身の臓器へのねぎらいに近い仕草だったが、フラナガン助官はその仕草の意味には想像を馳せなかったらしく、手にした封筒でぱしぱしと自分の太腿のあたりを叩きながら、矢継ぎ早にシャーロットへの苦言を呈し始めていた。
「きみは本当に、化粧っ気の欠片もないね。もう少し身嗜みに気をつけるようにと、あれほど」「きみにあるのはリクニス学院卒という看板、ないものは機転と礼節、謙虚さと能力、そして地位だ。私が省舎に到着したときにくらい、挨拶も出来ないものかね」「ここへ勤めはじめて、そろそろ丸二年だろう、なかなか覚えられない様子だね」。
シャーロットの胃袋がきりきりと痛みはじめ、下を向いているのが限界に達しつつあるところで、フラナガン助官は息を継いだ。
シャーロットはほっとした。
ようやく本題だ。
とはいえ本題に移っても、シャーロットの胃が痛むのには変わりはないのだが。
「ところで、」
と、助官がシャーロットの小さな執務室を見渡す。
「先だって指示した、リディーベル研究所から引き取った呪文の効果の増幅は、どうなっているね?」
シャーロットは手許にあった書類をあわてて揃え、それに紙の束ひとつをつけて、神妙に助官に差し出した。
「現時点までの進捗です。あとは細かいところを検討して、それから稟議を――」
助官は持っていた封筒を脇に挟み、ぞんざいな手つきでシャーロットが差し出した書類を受け取ると、ぱらぱらと中身を見て、舌打ちした。
「註釈が多すぎる。どうしてたかが山肌を爆破する呪文の研究が、民間から技術省に、そして軍省へ上げられてきたのか、説明してやっただろうに。
私はこれを軍用に転用し、範囲を拡大した場合の応用幅を検討するように伝えたはずだ。どうしていちいち、そもそも七年か――八年か、それほど前に開発されたこの呪文の主旨が土木工事であると、注釈をつけ続けるんだね」
シャーロットはもごもごと口の中で言葉を並べたが、聞き返されるに先んじて顔を上げて、「ですが」と弱々しく反駁した。
「註釈はともかく――拝命した範囲の検討したつもりです」
助官はさらに紙をめくった。
その拍子に一枚がひらひらと足許に落ちたので、シャーロットが進み出て、屈んで、それを拾い上げた。
助官が溜息を吐く。
「町中で呪文が効果を現した場合の検討――これはいい。けれど、何度も言っているが、ミズ・ベイリー。最悪の場合の検討をしなさい。
どうして、もう少し呪文の威力を高める検討をしてから、町中の場合を検討しない」
助官がばさっと紙を手の上で跳ねさせて、また一枚が床に落ちた。
シャーロットがそれを拾い上げると、助官はやれやれと言わんばかりに首を振っている。
「われわれは予備研究員なんだ、ミズ・ベイリー。最悪の事態を想定し――そこから対策を逆算する、それが仕事だ」
助官が書類の束から手を離したので、ばさっ、とそれらが床に落ちた。
その拍子に束を綴じていた紐もほどけ、全ての紙がてんでばらばらに床の上をすうっと滑っていく。
シャーロットは無表情にそれを見下ろした。
「やり直し。明日の七時までに。いいね。念のために言っておくが午前七時だ」
それから、と言葉を継いで、助官はシャーロットに、持っていた封筒を手渡した。
分厚い封筒で、シャーロットが想像していたよりも重みがあった。
片手でそれを受け取ったシャーロットに、助官はけしからんとばかりに眉を寄せたが、シャーロットのもう一方の手は、助官が落とした書類を拾い上げるのに使われている。
「こちらは五日後までに。毒物の複製と解毒に悪魔が用を成すかどうか。技術省の見解が中に入っている。軍省としての見解の骨子をまとめるに当たって、基礎的な検討の下準備をしておきなさい」
シャーロットは顔を上げた。
脳裏に、ネイサン参考役の顔がよぎった。
「毒?」
そのときはじめて、フラナガン助官は気まずそうに顔を顰めた。
「あっただろう――十日前、参考役が毒を盛られて」
「ああ」
シャーロットはつぶやいて、封筒に目を落とした。
封筒にはあかあかと、技術省と軍省の印が捺されている。
対外秘、と、大きく書いてある。
「でも、あの一件には、魔術は絡んでいなかったと――」
「そもそも、犯人が捕まっていないからね」
助官はてきぱきと言った。
「手段の一つとして、魔術も考えられているというわけだ。
その可能性の検討にあたって、まずはきみが可能性を探っておきなさい」
シャーロットは無言で頷いて、承知を示した。
フラナガン助官は鷹揚に頷き、シャーロットの小さな執務室を出ていく。
シャーロットは頭を下げてそれを見送り、しっかりと扉を閉めると、肺の底から吐き出すような溜息をこぼした。
床に膝を突き、散らばった書類を集める。
「――そっとしておけばいいのに」
つぶやくが、その声はあまりに小さい。
「今より、この呪文が大きくならないように、そっとしておけばいいのに。だったら最悪の結果も何もないのに。
呪文の効果を大きくしてしまって、そのあとに悪用されたらどうするの。誰が悪意を監督するの」
書類を揃え、それを机の上にどさりと置く。
そして続いて、渡されたばかりの封筒を矯めつ眇めつする。
「……ネイサンさまなら、」
つぶやく。
「ご自分で、さっさと犯人を捕まえてしまいそうなものだけれど」
▷○◁
「やっほー、ロッテ」
明るくそう言いながら、マーガレット・フォレスターがシャーロットの小さな執務室の扉を開いたのは、時刻が正午を指そうとするころだった。
中を見て、マーガレットは顔を顰める。
シャーロットは机に左ひじを突き、その左腕で自分の頭を半ば抱えるようにしながら、右手でひっきりなしにペンを動かしていた。
姿勢の悪さは言うまでもない。
机の上には書類が散乱し、くしゃくしゃに丸められた紙が床に放り出されていた。
「あらら……ロッテ、大変そうね?」
シャーロットは顔を上げ、海で溺れた者が陸地を発見したかのようにマーガレットを見た。
「ペグ、もしかして」
「そのもしかしてです。じゃじゃーん」
マーガレットはおどけた風に言って、手に持っていた紙袋を掲げた。
片方の手には湯気が上がるカップを持っている。
「今日のロッテのお昼ごはんを持ってきました。コーヒーつき」
シャーロットはペンを置いた。
彼女がぐしゃぐしゃと頭を掻いたので、金髪が乱れた。
「ペグ、愛してるわ」
「心配しなくても、夕方も何か差し入れてあげるから」
シャーロットが鞄を探り、昼食の代金相当を取り出すのを見ながら、マーガレットは心配するように彼女を観察した。
おもに目の下の隈を。
シャーロットはマーガレットに代金を手渡し(というより、彼女のポケットに紙幣を突っ込み)、目の前からいったん書類を退けた。
そこに、マーガレットがカップと紙袋を置く。
紙袋を開けると、中にはチキンのサンドウィッチが入っていた。
シャーロットが安堵の息をこぼすのを聞きつけて、マーガレットは眉を寄せる。
「また、朝ごはんはビスケットだけ?」
「時間がなくて」
早速コーヒーをすすりながら、シャーロットはつぶやく。
そしてふと微笑んで、「あいつはコーヒーが嫌いだったな」とつぶやいたが、マーガレットにはそれがだれのことであるのか分からない。
ただ、学生時代の友人のことかな、と想像し、そしてその思考が記憶の引き金を引いて、手を打った。
「そういえば、技術省のゴドウィンさん。ゴドウィンさんがあなたのこと心配してたわ。たしか、学生時代の先輩だったわよね?」
シャーロットはつかの間ぽかんとし、それからかすかに微笑んだ。
「ああ、そうよ。オリヴァーさん。最後に会ったのは結婚式のときだけど。そのときもお話しは出来なかったけれど」
欠伸を漏らし、サンドウィッチを持ち上げながら、「心配って?」と尋ねる。
マーガレットは真面目に応じた。
「軍省役人はずいぶん無茶をするみたいだけど、身体を壊してないかって」
シャーロットは笑ったが、引き攣れたような笑いだった。
「あら、技術省は余裕があるのね。そっちに行けばよかった」
マーガレットは公平を期さねばならないと思ったのか、小さく言った。
「軍省も、部署によるでしょ」
シャーロットは呻いた。
「そうかも」
シャーロットは、彼女が所属している部署のことしか知らない。
――維持室だ。
つまるところが、軍省が「国民生活の安全の維持に寄与する」ための部署であり、その予備研究員として、おもに魔術と悪魔が国民生活に影響を及ぼす可能性を検討し、研究し、それらの対策を打ち立てるよう、対策室に要請する報告書を作成するのが、彼女の仕事だ。
研究し、結果を資料としてまとめ、その資料にもとづき対策を要請する稟議書を作成し、その決裁を経て――と、軍省が抱える魔術師が少ないこともあいまって、なかなかに多忙な部署として悪名を馳せている。
省に勤めたい魔術師は、たいてい技術省を志望するのだからさもありなん。
シャーロットにとっては、もっとも避けたい就職先のひとつが軍省だった。
そもそも彼女が魔術師を志したのは、呪文を研究するためではない。
もっとセンチメンタルで純粋な気持ちで、シャーロットは魔術師を志してきた。
――それを、その知識を、場合によっては人を害することも出来る手段として魔術と悪魔を研究するために使い、しかもその研究結果を他人に渡すこととなるとは。
いざこの国が、いつかの時代に今の憲法を廃し、戦争にすら悪魔を動員させることを認めてしまえば、その結果の大量殺戮に、みずからの研究結果が使われてしまうかもしれないことになるとは。
最悪の場合を検討しなさい、と上司は言う。
だが、最悪の場合を検討するということはすなわち、おのれの知見で最悪の場合を作り出すということに他ならない。
ここに矛があります、その矛を防ぐ盾を作るため、まずは矛の穂先を出来るだけ鋭くする技術を確立し、そのうえで盾を作り出せるものかどうか検討しましょう――その、矛の穂先を鋭くするための技術はどこへ? 誰が管理監督し見張るのですか? ――さあ、いつぞやの未来の、どこかの誰かが。
シャーロットにとってそれは、無責任きわまることに思えた。
生み出さなければ使われない。
逆をいえば、生み出しさえすれば、誰かが使う危険性を孕む。
軍省へ就職するか、清掃下男となるか、二つに一つだ、と言われてシャーロットが選んだのは――あるいは、選ばされたのは――この軍省への就職だった。
軍省への就職に「諾」の返答を出したとき、シャーロットの中で何かの火が消えていた。
必死になって、それは熾火になっただけだと自分に言い聞かせようとも、間違いなく、その火は消えていたのだ。
そして茫然としているうちに、あれよあれよという間にこの部署に押し込まれていて、「アーノルドの捜索がしやすい部署に行かせてくれるというお話でしたが」という言葉を呑み込み続けること、はや二年近く。
シャーロットは襲い来る毎日を躱し続けるような気持ちで今日に至った。
とはいえ、入省してすぐ、個人の執務室を与えられて研究できる環境に置かれるのは異例のことであるらしい。
オリヴァーも、技術省での最初の一年は下働きに終始したと言っていたようだ。
というわけで、この執務室の扉の硝子に名前が刻まれた日から、シャーロットは「リクニス学院卒の、参考役の後輩というだけで執務室を得た、七光りの世間知らず」として、針のむしろもかくやという冷ややかな対応を受け続けてきた。
こっちへおいでと命じられ、魂の一部を犠牲にするような気持ちでそちらに踏み出してみれば、足許には氷が張っていたわけである。
彼女の心のどこかは息を詰め、今にも壊死しそうになりながら、必死に新鮮な空気を求め続けているようなものだった。
日付が変わるころに省舎を出て、かろうじて動いている鉄道馬車でアパートメントに戻り、倒れ込むように眠ったあとは、たいてい夢を見たが、その夢のことごとくが、リクニス学院での過日の夢、それも自由に友人と話せたころの、最初の一年の夢だった。
思えば、二年目の春から唐突に自分の殻に閉じこもった(ように見えたに違いない)シャーロットを、今でも気にかけ、それどころか結婚式にも招いてくれた、ゴドウィン夫妻の度量の広さは驚嘆に値する。
シャーロットが覚えているのは、唐突に個室に移ることが決まったシャーロットをじっと見て、「あなたにも何か事情があるんでしょうね」とつぶやいた、ゴドウィン夫人こと、当時のノーマ・ハイアットであったり、目が合いそうになるとあわてて視線を逸らしてうつむくシャーロットのそばまで来て、「あの一件以来様子がおかしいけど、大丈夫か」と尋ねてくれたオリヴァー・ゴドウィンであったりといった、二人の優しさばかりだった。
対して、この、マーガレット・フォレスター。
彼女は軍省の役人を父に持ち、結婚までの腰掛けとして、もっといえば結婚相手を探すための場として、軍省の省舎の受付嬢として雇われた。
年齢は十八、シャーロットの三つ下で、とはいえ歳が近いこともあり、省舎の中で迷子になったシャーロットを彼女が助けたことがきっかけとなって、親しく話す間柄となった。
この雑談につき、「軍省に所属している相手ならば、まあいいか」と言って、ジュダス・ネイサンは容認した。
マーガレットは初等学校を出てすぐ、「女に学問は不要」という父に従って、軍省に入省したらしい。
シャーロットはその言い草にじゃっかん思うところもあったが、それを口に出して余計な軋轢を生むことは避けていた。
なにしろ、マーガレットが善意でこうして差し入れてくれる昼食と夕食が、執務室に籠もるシャーロットの命をつないでいると言っても過言ではなかったので。
マーガレットにはたくさんの同僚があり、そのため潤沢な休憩時間を与えられているほか、来省者の受付以外にも、届いた郵便物の配布を命じられることもあり、省舎内を自由に歩き回って過ごしているらしかった。
そして、「管理課のブルックさんが、対策室のブレナンさんと喧嘩してたわ」だの、「対策室のクロスビーさんが、私の同僚のジョージアにお熱みたいなの。ちょっと狙ってたのに残念」だのという噂話をシャーロットに届け、シャーロットを完全に世間から隔絶してしまわぬよう気を遣っていた。
彼女は綺麗にカールさせた栗色の髪を、いつも半ば結い上げて、編み込んだり洒落た髪飾りを着けたりしていた。
小さな顔に品よく化粧をほどこしていて、睫毛の長い大きな目も栗色。
襟の大きなブラウスを好んで身に着けていて、今のところ七人の男性を秤にかけて、将来の結婚相手を選定中。
そんな彼女は、他の場所では決してしないだろうことに、今は行儀悪くシャーロットの机に浅く腰掛けて、片足をぶらぶらと揺らしている。
だが、これも進歩のひとつだった――はじめのうち、彼女は積まれた本の上に腰かけようとして、シャーロットに批難の叫びを上げさせたのだから。
「それでも、今はけっこうこっちも大変なのよ。ほら、参考役さまが毒を盛られた事件があったでしょう。よく知らないけれど、参考役さま本人はぴんぴんしてらっしゃるらしいけれど――」
「あったわね」
シャーロットはちらりと、まだ手付かずの封筒を眺めた。
「ほんと、大騒ぎだった。でも、参考役さまのことだから、肩代わりしてくれる悪魔はたくさんいたでしょう」
「――とにかく、そのせいで、もう、外から来る荷物はぜんぶ検めろってご下知がきちゃって。荷物が届くじゃない? 宛先の人のところに行くじゃない? これ、開けますけどいいですかって、いちいち訊くの。
直後は、まあ仕方ないかなって思えたんだけど、もう十日でしょう。やめていいよって言ってほしいわ。もう、たいへんなんだから」
「そうなの?」
「そりゃそうよ。皆さん、なんでそんなことするんだって怒っちゃって。安全のためですって言っても、その荷物は大丈夫だから開けずにくれないか、とか言われて、そんなことをしたら叱られるのは私たちなのにね。
あげくの果てに、『その荷物は開けてもいいから、今夜デートしない?』とか言ってくるお馬鹿さんまでいるのよ。鏡を見てから出直してきてほしいわ」
ぽんぽんと毒づくマーガレットに、シャーロットは小さく笑った。
チキンのサンドウィッチをかじり、もぐもぐと咀嚼しながら、「ほんと、みんな大変ねぇ」としみじみとつぶやく。
マーガレットは手を打って笑った。
「でも、どう考えても、寝てないあなたの方がたいへんだわ、ロッテ。
目の下の隈がひどいことになってるわよ。あと、お肌もがさがさ」
シャーロットは顔をこすった。
「そうかな」
「そうよ。それに、私がこうして訪ねてこなかったら、あなた、この部屋で干からびて死んじゃうでしょう?」
シャーロットは疲れたように微笑んだ。
「そうかも」
マーガレットは、シャーロットが脇にのけた書類を覗き込む。
とはいえ、彼女は文字を読むのが得手ではなく、くわえて魔術の知識など無に等しいために、何かの情報をそこから読み取った様子はなかった。
「今は何をしてるの?」
シャーロットはサンドウィッチをもうひとくちかじってから、応じた。
「昨夜、深夜までかかって仕上げたお仕事を、やり直せって言われたところよ。別のお仕事もきちゃった。しばらくここに住むことになるかも」
マーガレットはきゅっと唇を引き結んだ。
「まあ――あなたの他にも、維持室には魔術師はいるでしょうに」
シャーロットは左右の小部屋を示してみせた。
「右隣のローウェルさん。今、五つの稟議を抱えて窒息寸前。
左隣のテイラーさん。先月からなかなか通らない稟議を抱えて、その稟議書類と一緒に心中するのを堪えている状況。
まあ、みんな似たようなものなのよ」
それに、ここにリクニス学院卒は私の他には一人だけですし、と考え、しかしシャーロットはそれを口に出すことは控えた。
維持室に所属するもう一人のリクニス学院卒は、ザカライアス・リー――四十がらみの男性だ。
ぼさぼさに伸びた前髪と、分厚い眼鏡のために、素顔がほとんど分からないような状態になっていて、いつも寡黙に淡々と仕事をこなしているが、魔術関係のことで何か質問を受ければ、即答で応じる広範な知識を持っている。
シャーロットは一度、後輩としてあいさつしたが、リーはまじまじと眼鏡の奥からシャーロットを眺め、鼻から息を抜くようにして笑うと、「いきなり個室をもらうなんて、きみ、参考役の愛人か何か?」と尋ねてきた。
以来、一度もシャーロットは彼と口を利いていない。
マーガレットは嘆かわしげに首を振っている。
「技術省にはあんなにたくさん魔術師がいるのにねぇ」
シャーロットは微笑んだが、顔を顰めたようにしか見えなかった。
「軍省には、魔術師は少ないくらいがちょうどいいのよ」
サンドウィッチを食べ終え、コーヒーをすすり、シャーロットは椅子の背もたれに身体を預けて伸びをした。
それを見守り、かいがいしく空になった紙袋を引き取って、マーガレットが手を振る。
「じゃ、私もお仕事に戻るわ。夕方、何か差し入れに来るから安心していて。身体、壊さないようにね」
シャーロットは微笑み、軽く手を振って、執務室の外に出るマーガレットを見送った。
冷めたコーヒーをごくごくと飲んで、カップを机の隅に置くと、また手許の書類に没頭しはじめる。
次にわれに返ったのは、時刻が二時に迫ったときだった。
シャーロットはふと、何かを忘れているような気がして手を止め、少し考え込み、そして机上の真鍮のピンに目を留め――
「――やばっ」
つぶやいて、椅子を蹴って立ち上がった。
あわてて、乱れた金髪を直し、もう一度リボンで結び直す。
ぱたぱたとワンピースを叩いて申し訳程度にしわを直し、シャーロットはつんのめりながら小さな執務室を転がり出た。
「まずい、まずい、まずい――」
小さな執務室の外、維持室の大部屋は熱気に包まれている。
石造りの省舎は夏の日差しを完璧に遮り、地下の貯蔵室のような気温に室内を保っていたが(そのため、冬はたいへんつらい。いかに防寒具を持参するかが要となる)、窓もない中で数十人が黙々と仕事をこなしていれば、熱も籠もろうというものだ。
ちらほらと見える空席の主は、この停滞した熱気に耐えかねて外の空気を吸いにいっているのだろう。
あちこちで煙草を吸いながら仕事に励む者があり、大部屋の天井付近には、薄い霞のように紫煙が広がり、ゆっくりと回るプロペラが、その紫煙を攪拌している。
どこかで、煙草の灰が書類に落ちたのか、「うわっ」と抑えた声が上がり、その声に対する舌打ちが数箇所で上がる。
シャーロットがろくに周りも見ずに大部屋を駆け抜け、いきおいよく扉を開けたところで、まさに向こうからやって来て扉を開けようとし、その手が空ぶったことに驚いたように絶句した男性が、彼女と正面衝突しそうになった。
噂をすれば影――いや、考え出せば影、それはザカライアス・リーだった。
彼はまさに自分の小さな執務室に戻るところだったのだろう、飛び出してきたシャーロットを咄嗟に受け止めるように手を動かしながら、「おわっ」と声を上げた。
「危ないな――」
「すみません!」
それが、およそ一年半ぶりにリーと口を利いた機会になった。
シャーロットは一瞬たたらを踏んだものの、すぐに彼の脇を走り抜けて廊下を疾走し始めた。
――軍省における権力者、参考役であるジュダス・ネイサンを訪ねる約束を忘れていたのだ。
意図せずして彼との約束を反故にしそうになるのは初めてのことであり、シャーロットは慌てに慌てていた。