表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
105/155

01 夏の朝



 事態が動くことを、サイコロが転がる、という言い方をすることがある。


 さて、プロテアス立憲王国においては、まさに特大のサイコロが転がっているところであり、どの目が出るものか、そのサイコロを懸命に押している者たち(サイコロを押しているなどとは気づいていない者を含む)は、それぞれの思惑をもって見守ろうとしていた。

 あるいは、最後まで自分に有利な目を引き寄せようとして、あれこれとサイコロに細工をしていた。



 このサイコロがいつから転がりはじめていたのか、そのことを話そうとすれば収拾がつかない。


 そもそもあなたがたは、すでにこのサイコロが転がっている最中のことを、つらつらと語られたとある少女と魔神の話を、ご承知のうえで今ここにいるはずである。



 よって、まさにサイコロの目が確定しようとしていた、その直前より始めることとする。


 サイコロがまさに、地響きを立てて最後の一回転を決め、確定した目を天に向かって宣言しようとしているところを想像していただきたい。





 キノープス暦九五八年七月二十四日、前日の雨が湿気となって空気中をむわむわと漂っているような、早朝から蒸し暑い日だった。


 今日も暑くなることを予感させる、白く強烈な曙光が空を青く染めていく。

 建物の壁面が陽光を受けて色を思い出したように照り映え、陽射しを受けた窓硝子は白くきらめく。


 建物の影となっている舗道は、まだ前日の雨に黒々と濡れていながら、強烈な日差しの挑戦を待ちかねているようでもある。



 プロテアス立憲王国、首都ローディスバーグには、当然ながら背の高い建物も多い。

 そういった建物が林立するローディスバーグの中心、グレートヒルは特にそうだ。


 そんなグレートヒルに降り注ぐ陽光は、密林の中に射し込むがごとく、細くこまぎれになって、少しずつそれらの奥へと届いていった。



 そのうちのひとすじが、とあるアパートメントの一室に射し込んだ。



 雨に打たれ、霧にさらされ、ほこりをかぶっても、磨かれることなどないかのような、かすかに曇った窓硝子が陽光を含んで白く映える。

 窓は細く開いており、カーテンは開けっ放しになっていた。


 その細い窓の隙間から、強烈な日差しが室内に入り込み、停滞していた部屋の中の時間を、一気に動かしたかのようだった。



 広い部屋とはいえなかった。

 とはいえ、極端に狭いわけでもない。


 家族と離れて出稼ぎに出ている者ならば、これでじゅうぶんといえる広さの部屋で、このアパートメントはそういう部屋が集められて出来ていた。


 部屋の中はお世辞にも整頓されているとはいえず、散らかっている。


 窓のある壁と直角をなす壁際に寄せられたベッドの上は、シーツと部屋着がごちゃごちゃと混ざり合った山を作っており、まくらはあえなく床に放り出されている。


 また別の隅にはクローゼットがあり、その扉は開けっ放しになっていた。

 とはいえ、クローゼットの中には整然と衣類が掛けられており、この部屋の主が外面を保とうとしている努力を物語っている。


 部屋の真ん中には四人掛けのテーブルと椅子が置かれていたが、テーブルの上にはかろうじて食事ができるスペースが空いているのみで、他は山のような本と書類にうずもれ、積まれた本の上に重ねられた書類から、今しも紙が一枚、ひらひらと床に落ちようとしているところだった。

 そうして脱落していった紙が、床のうえに極端に大きな雪片のように積もっている。


 そのテーブルのそばには薪ストーブがあったが、この暑いさなか、むろんのこと火は入れられておらず、ストーブはほこりをかぶっている。

 そしてストーブの中を覗いてみれば、昨年の冬から灰が掻き出されずにいることが分かるはずだ。

 ストーブのそばに置かれている、本来ならば薪を積んでおくための籠には、使われずに夏を迎えてしまった薪が二本、所在なげに転がっている。


 目を転じてみれば、ベッドが置かれているのとは反対側の壁に、浴室とキッチンへと続く出入口が見えていた。

 正確にいえば、アルコーブのように壁がへこみ、そのへこみの左側に浴室に続く扉が、右側に小さなキッチンへ続く扉がある。


 このアパートメントは、きっちりと水道が確保されている、なかなかに上等な部類ではあるようだった。

 とはいえキッチンには簡便な調理しか出来ない、きわめて小さな竃しかなかったが。

 だが、十数年前までは、町の真ん中にある大きな竃を使ってパンを焼くために、各家庭の女たちが日も昇りきらぬうちから、成形したパンの()()を持って通りをそぞろ歩いていたこともあるのだから、大きな進歩である。


 さて、むろん、この部屋においてはキッチンも惨状を呈しているかと思いきや、そうではない。

 どうやらこの部屋の主は、滅多にここで料理をしないらしかった。

 キッチンは案外にも整頓された状態で保たれており、その代わりにこれといって見るものもなかった。

 かろうじて、ビスケットが皿に入れられて、そこに清潔な布巾がかけてあるのが分かる。



 ――と、そのとき、もぞ、と動く人影があった。



 この部屋の主であるシャーロット・ベイリーが目を開けて、シーツと部屋着が雪崩を起こすなかで、床に座り込んでベッドに寄り掛かっているような、きわめて不自然な姿勢で眠りこけていたところから身じろぎし、もぞり、と頭を上げたのだった。



 寝癖がつき、干し草のようになっている金髪は、今は肩より少し下といった長さで切り揃えられている。

 彼女は自分の頭の惨状も意識しない様子で、起き抜けの、半ば茫然としたような顔で周囲を見渡した。


 この春に彼女は二十一になり、その顔からは少女らしさも徐々に抜けつつあるところだったが、寝起きの今この瞬間ばかりは、幼いといっていい面差しに見えた。


 学生だったころに比べて頬は痩せており、顔色は青白い。

 目の下にはうっすらと隈が見えており、そして橄欖石の色の瞳は、睡眠不足を物語るように充血していた。



 シャーロットはしばらく、閉じようとする瞼を押し上げておくことに、全神経を集中しているようだった。

 それから小さくつぶやいた――「洗濯屋さんは、今日じゃない」。


 この辺り一帯の家庭は、五日に一度巡ってくる洗濯屋に衣類の洗濯を任せることが慣例となっていたのである。

 その日ばかりはシャーロットも、朝の早いうちに洗濯が必要になった衣類を蓋つきの籠に詰め、その籠に目印をつけて、大きな荷馬車で通りを回って来る洗濯屋に預け、彼が自分の衣類をぞんざいに扱わぬよう、せめてもの同情を引こうとして、精いっぱい愛想よく微笑んでみせるのだが。


 今日がその大切な日ではないことを脳裏で確認し、シャーロットはなおもしばらく茫然と座り込んでいた。


 が、そのうちに、部屋の中に射し込むひとすじの陽光に目を留めた。


 しばらくぽかんとその明るさを眺めていた彼女は、やがてはっとして息を吸い込み、ばたばたと立ち上がった。



 時刻はまだ五時を回ったところだったが、シャーロットのあわてようは、まるで目が覚めてみたら十時だった、といわんばかりだった。


 彼女はいきおいよく立ち上がり、そのままテーブルの方へ突進し、床に落ちた書類に足をとられて滑りかけ、あわやのところでテーブルの端をつかんで転ぶのを堪えると、今度はもう少し落ち着いた足取りで、浴室へとふらつきながら進んでいった。


 シャーロットが端を掴んだ拍子に揺れたテーブルから、ころころとペンが転がって床に落ち、こん、と硬質な音を立てた。



 浴室へ向かいながら、シャーロットは手早く衣服を脱いだが、見てみればあきらかなことに、彼女は昨夜にこの部屋に戻ってきた格好のままで眠り込んでいたのだった。


 しわくちゃになった深緑色のワンピースを放り出すように脱ぎ、下着も脱ぎ捨て、しかるべき日に洗濯屋にたくすため、蓋つきの籠に投げるように放り込むと、彼女は小さな琺瑯の浴槽に足を突っ込みながら、シャワーの栓をひねった。


 シャワーからあふれてきたのはもちろん冷たい水だったが、すでに気温は上昇している夏のこと、シャーロットはかまわなかった。


 頭から冷たい水を浴び、せっけんを泡立てると、昨日から肌に残った汗を洗い流し、くしゃくしゃにもつれた髪をほぐしたり引っ張ったりして、なんとか真っ直ぐな状態に戻す。


 せっけんの泡を洗い流すと、彼女はシャワーを止め、全身から水滴をしたたらせたまま浴槽のふちを越えて外に出て、戸棚の中からろくろく見もせずにタオルを引っ張り出して肌をぬぐった。


 そしてそのままキッチンの方へ足を向け、皿から布巾を持ち上げると、ビスケットを二枚、上の空という様子で噛み砕いて飲み込んだ。


 学生時代の彼女が聞けば、絶句するような行儀の悪さと所業だったが、今のシャーロットにはそれに頓着する様子はなかった。


 ビスケットを窒息せずに飲み込むと、シャーロットは部屋に戻り、クローゼットに歩み寄りながら、きわめて小さな声で呪文を唱えた。

 魔精ジニスが彼女の要請に応え、シャーロットの髪を乾かす温風を送り込んでくる。


 なんとか髪が乾いたことをシャーロットが確認していると、どこからか、からかうような声が聞こえた。


「――本当は駄目なんでしょ、きみが勝手に魔法を使うの」


 シャーロットは下着を身に着けながら、鼻で笑った。

 とはいえ、出した声は弱々しく、張りがなかった。


「お仕事のためならいいのよ。こうして私が身支度を整えているのもお仕事のためでしょ。つまりこれはお仕事の一環です」


 けらけらと笑う声がした。


「お仕事ねぇ。きみが考えてたのとはずいぶん違うよねぇ。

 昨日はここに帰ってきたの、何時だっけ?」


 シャーロットは顔を顰めた。


 彼女はすばやくストッキングとペチコートを身に着け、紺色のワンピースをかぶったところだった。

 ばたばたとワンピースから首を出そうとしながら、彼女がくぐもった声で応じる。


「覚えてないわよ。少なくとも、省舎を出たときにはまだ日付は変わってなかったわ」


 またも、けらけらと笑う声がどこからか聞こえた。


 が、今度はそのあとに続く言葉はなく、シャーロットはワンピースから頭を出して、しかるべき形でワンピースが身体の線を落ちていくよう、その場で軽く飛び跳ねた。


 それから乾いた髪を手櫛で整えると、黒いリボンで髪を一つに結わえる。


 昨夜ここに帰ってくるなり脱ぎ捨てた覚えのある靴を探して歩き、ベッドのそばで右足の分を、そこから五フィートほど玄関よりの場所で左足の分を見つけると、その黒い繻子の靴を嫌そうに履いた。


 そして、彼女はテーブルの方へくるりと向き直った。

 テーブルの上に積んだ書類と書籍を見ていき、目的のものを探しているらしい。


 幾枚かの書類と一冊の本を抱えたあと、シャーロットは床の上にも目を凝らして、さらに三枚の書類を拾い上げた。


 それを、昨夜に玄関のそばで放り出した覚えのある鞄――木で出来た、木目の美しい、それはシャーロットの就職の祝い品として贈られたものだった――に放り込むと、シャーロットは指折り数えて、部屋に置き忘れたものがないかを確認した。


 そしてひとつ頷くと、鍵を手に取り、玄関から外へ滑り出て、鍵を閉め、その鍵を鞄の中に放り込んだ。



 昨夜の雨の気配がじめっぽく残っているアパートメントの廊下を歩き、階段を降りて古びた絨毯の敷かれた玄関ホールを抜け、外に出ると、世界はすでに暴力的なまでに明るかった。


 日陰の中から陽射しの中へ歩み出たシャーロットは、寝不足の頭と目に突き刺さるような陽光に覚えずよろめき、手を顔を前に上げて目庇を作り、強烈な陽射しを遮った。



 早朝とあって、通りに人通りはほとんどない。

 昨夜の雨で出来た水溜まりが陽光を受けて、きらきらと眩しいほどに輝いている。


 この辺りの邸宅を巡っているのだろう牛乳配達員(ミルクマン)が、大きなブリキ缶を積んだ荷車を引いて、家の前にブリキ缶を出している邸宅に寄っては、それらに決められた量の牛乳を注いでいた。


 彼がシャーロットに気づいて帽子を上げた。


「いつも早いね、お嬢さん!」


 シャーロットは手を振って応じたが、大声を出すほどには元気ではなかった。


 牛乳配達員の方もそれを分かっていて、いつもながら苦笑のような、日々を苦労している同志を見るような、そんな目でシャーロットを見て頷いた。



 よろよろと鉄道馬車の駅に向かって歩きながら、シャーロットはもう何度目か、自分の人生がこういう方向に転がったことを、嘆くでもなく怒るでもなく、ただ諦めのような気持ちで眺めるような、そんな気持ちに駆られた。


 まだ全てを諦めたわけではなく、いちばん大事にしたかったものは自分の中にちゃんとあるのだ、と言い聞かせてはいたものの、それらは日常の、あまりに膨大な出来事のあいだに埋もれていって、滅多に日の目を見ないきらめき、忘れ去られる寸前の子供部屋の隅の宝箱の中の、しかもその奥の方にしまってある宝物、そんなふうに感じられることも多かった。



(――私の人生は、)



 内心でつぶやく。


 駅へと向かう舗道、敷かれた石畳は徐々に乾きつつあり、点々と水溜まりが光っている。



(省舎に通わなきゃならないからグレートヒルで独り暮らしするように言われて、稼いだお金を使う暇なんてなくて。

 今の季節はまだいいけれど、冬なんて凍りそうになりながら、こんなに朝早くに省舎に出向いて。

 研究結果が出ないことをなじられながら、たまに偉い人に呼ばれてお茶したり、晩餐に出なきゃならなかったり、そんなふうに気づけば夜中になっていて、とぼとぼ帰ってきて、帰ってくるなり手に持ってるものを全部放り出して眠り込んじゃう――この繰り返し)



 しかも、その研究は――



「あぁ」


 シャーロットはうめいた。


 ぎゅっと目をつむると、瞼の裏に、彼女の上司に当たる役人の顔がぱっと浮かんだ。


 役人――今では彼女も役人だ。

 軍省付予備研究員、つまりは軍省お抱えの魔術師の下っ端の一人。



 空は晴れ渡っている。

 ()()()と澄んだ青空を見上げて、シャーロットは唇を噛んだ。



 ――はっきりと分かるのは、もしも将来のきみはこんな仕事をしているんだよ、と十四歳のシャーロット・ベイリーに告げたならば、曇りなき十四歳の彼女は間違いなく、その憤慨のあまりに死んでしまうだろうということだった。



 そして、もうひとつ。



 ――“()()()()()だ、僕のレディ”、と彼女に告げた、ある魔神のこと――かれの淡い黄金の双眸が、考えるまいと思ってもなお頭の中に浮かんできた。


 それはあるいは、宝石を敷き詰めた砂利の上を流れる透明な水、水煙を上げて流れ落ちる瀑布、そして魔神の指の一振りで昼から夜へと変わった世界で、ほのかに輝いていた花畑――そういった、繊細で感傷的で、思い返すたびにおのれの記憶が薄れていくことを恐れるような、そんな記憶とも結びついている。



 今のシャーロットを見れば、()()はさぞかしがっかりするだろう。

 きっとシャーロットへの興味を失うだろう。



 ――もし出来るなら、と、シャーロットは縋るように考える。



 もし出来るなら、何かのきっかけでかれを召喚することが許されて、何気ない軽口でも叩くことが出来れば、それだけで心が軽くなる気がするのに。


 “あんたは面白いね”、と言っては笑っていた――あの無条件の全肯定を、なにも知らないかれがもう一度、あの無邪気で気さくな言葉で与えてくれれば、それできっと、これまで息を詰めていた心のどこかが呼吸できるのに。



 けれどそれは出来ない。


 禁を破って魔神を召喚したことが知られたとき――そのときの罰を考えれば、召喚のためにチョークを持つことすら、シャーロットにはもう恐ろしかった。



 ――十七歳の晩春に魔精を召喚したときとは違う。


 あのときには、シャーロットに下る罰はたかが知れていた。



 だが、今ではもう違うのだ。






















評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ