28 幕間
濃く、強く、毒が香っている。
眼下の市街では煙が上がっている。
急速に拡がったこの毒の瘴気を受けて、混乱した誰かが灯りを点そうとして、それが失火となったのか――夜陰を赤く熱するような、陰惨な赤い光が滲んで、ゆらゆらと光景を陽炎に滲ませて、市街の複数の場所を、淡々と炎が舐めている。
しかしその炎を気にかける人はいないだろう――あっという間に市街を呑み込み、流れる血そのものを毒に変えるような、この瘴気こそを人々は恐れ、わけも分からぬままに逃げ出そうとしている。
丘の上から、彼女はそれを見ていた。
悲鳴と怒声が辺りに轟いている。
不可解ゆえの悲鳴。批難ゆえの怒声。
――そして。
『どうして、どうして』
目の前で、彼女の友人が悲鳴を上げている。
まさに毒の瘴気を撒き散らし、混乱ゆえにそれをいっそう激しくしながら。
――濃く、強く、毒が香っている。
『どうして、スー、どうして』
彼女は――スーザン・ベイリーは、友人を安心させようとして微笑む。
口の中には血の味がした。
眩暈がひどい。地面がつねに斜めになっているような錯覚がある。
だが、それらは彼女にとって、少なくとも心情としては、致命的なものではなかった。
彼女に現実を突きつけるのは、膝に感じる敷石の硬さ。
そして、肩に乗るひややかな重み。
「――あの悪魔を戻せ! 今すぐだ!」
彼女の頸に後ろから剣を突きつけ、兵士が叫ぶ。
彼の顔は噴煙で汚れている。
どこかの火事から、誰かを救ってきたのかもしれない――そして今、こうして彼女に剣を突きつける大役を担っているのかもしれない。
剣を握る手は震えている。
それは、目の前にした魔神の異常さゆえか、あるいは事態の凄惨さゆえか、あるいはスーザン・ベイリーへの怒りのためか。
「早くしろ! 何人死んだと思っている!」
何人死のうが知ったことか、と、スーザン・ベイリーは苛烈に思う。
昂然と頭を上げ、首筋に剣先が喰い込み、血が流れるのを感じながらも、兵士を睨み上げる。
負けて膝を突いたとしても、こうべまで垂れて堪るものかと言わんばかりに。
そして、灼けるような喉から言葉を絞り出す。
「お馬鹿さんね。帰ってもらうよう言って――かれが、この場を離れないのよ」
「だったらあれを殺せ!!」
兵士が叫ぶ。
その声が裏返り、なんと醜いことか、とスーザンは思う。
「子供が親を亡くしているんだぞ!」
それがどうした、と彼女は思う。
だが一方で、砂を噛むような気持ちで、負けたのだ、と痛感している。
負けた。
彼女らは負けた。
練ったはずの策は外れた。
同胞たちを救うつもりが、彼らへ向けられる批難をいっそう強く、確固たるものにしてしまった。
「ごめん……」
彼女はつぶやく。
兵士が、はっとしたように言葉を引く。
もしかすると、スーザンが――気高きスーが、この瞬間に親を失って泣き叫ぶ子供たちへ、謝罪の言葉を向けたと思ったのかもしれない。
――笑止千万。
この謝罪は、そんな子供へ向けられるものではない。
「ごめんね、魔神さん。私はあなたの厚意を活かせなかった……」
指が敷石をこする。
爪が割れて、鮮烈な痛みが走る。
『スー、どうして』
魔神が繰り返している。
その姿は一見して、巨人そのもの。
身の丈三十フィートにもおよぶ巨人を、隙間なく灰色の濃霧が渦巻きながら覆っているように見える。
そしてその奥から、深緑の色合いの大きな瞳が覗いている。
今はたじろぎ、混乱し、茫然としている瞳が。
『スー、どうして』
かれには、かれの毒がいかに強いものか、まるで分かっていないのだ。
スーザンは途方に暮れたようなその大きな瞳を仰ぎ見て、「あなたは悪くない」と伝えようとする――だが、毒はひとしくスーザンの血の中にも巡ろうとしていた。
血流に針が乗ったような、身体を内側から削られるような痛みと、頭蓋の中がふくれ上がるような熱さと不快感がある。
あちこちから怒声が巻き起こっている。
あの魔神をどうにかしろ。
この瘴気を消せ。
何人死んだ――把握できません。
そんな声、有象無象の声が。
――だが、そう、負けたのだ。
ならば、次へ懸けるしかない。
「――――」
スーザンは息を吸い込む。
それでいっそう毒が回る。
もはや、おのれの夫のことも、生まれてまだ数年しか経たぬ息子のことも考えなかった。
妄執じみた思いが心臓と脳に火を点けている――そう感じる。
この国のこと、この国が誰のものであるべきか、その思い、その執念、彼女にとっては正義感そのものである、美徳と信念。
「……魔神さん、私は、自分を善人だと思っているの」
後ろから、誰かが石を投げた。
他の兵士か役人か、あるいは名もなきただの市民か、もしかするとそれこそ、子供がしたことかもしれない。
火傷を負い、毒に侵され、血を流す手に石を握って断固として投げた。
スーザンに剣を突きつける兵士が、大声でそれを制止する。
憎む気持ちは分かるが、これを何とか出来るのは、このスーザンだけだ。
罵声が大気に満ちているかのようだった。
――毒が香っている。
危険に、強く、耽美なまでに。
「ただ消費されていく同胞を、もう私は見ていられないの……」
誰が国境戦争を闘ったのだ。――魔術師と悪魔だ。
誰が命を賭してこの国を守ったのだ。――魔術師と悪魔だ。
誰が町を作り、河川に堤を築いてきたのだ。――魔術師と悪魔だ。
魔術師の知恵と、知識の蓄積。そして悪魔へ差し出す報酬。
それらがこの国を作ってきたのだ。
それを――今さら、国政を魔術師から取り上げるなど。
最前線で知恵を絞り、血を流してきた人々から、その労のみを搾取して、全ての権利を奪おうなどと。
そんな不公平があるものか。
誰が死のうと知ったことか。
この世は適者生存だ。適する者が、その知恵のある者が生き残るのだ。
生き残ることこそ正義、死ぬ者はしょせんそこまでだったのだ。
何人死のうと知ったことか。
より価値のある者が生き残ればそれでよいのだ。
有象無象の屍の上に、より優れた者たちが生きられるのならばそれでいいはずだ。
子供が親を亡くそうと知ったことか。
せいぜい弱く生まれたおのれの両親を恨むがいい。
弱いものは淘汰されるのがさだめだ。
弱いものの代わりなど、それこそいくらでもいるのだから。
――けれど、この美しい毒は強過ぎる。
「魔神さん、本当にごめん」
熱に浮かされ、毒に侵された頭の中で、理論を作る。
かれを、一時的にではあれ眠らせて、この毒を留める方法を。
頭の奥のほう、あるいは記憶の奥のほうで、彼女の同志であるケイリー・オーグナーが、感心したように言った――「きみは本当に、理論と発想力においては天才だ。私にもまねできない」。
彼にそう言わしめた、その矜持だけが今のスーザンを支えている。
「魔神さん、私のためにここにいて」
魔神が狼狽している。
スーザン・ベイリーの様子がおかしいことを、彼女にいつもの溌剌さがないことを察している。
どうしたの、どうしたの、と、子供のように言葉が重ねられる。
かれの毒こそがスーザンを殺そうとしているとは、ついぞ想像もしていない様子で――いやそもそも、かれが死という概念を理解しているのかどうかすら、スーザンには分からない。
だがせめて、かれが友人の息の根を止めたという罪悪感に駆られないだろうこと、そのことだけは朗報だ。
彼女は苦笑する。
〈身代わりの契約〉は、友人どうしには無粋な気がして、結ばなかった――それが凶と出たか。
捕らわれるのが早いか毒で死ぬのが早いか、それはもう予測がつかなかった。
「本当にごめん……私はもう、駄目だから」
この魔神の他にも、友人はいた――他の魔術師は誰も呼び出せなかった、名前のない魔神たちが。
かれらにも加勢を頼んでいた、かならず呼ぶから私を見ていて、この交叉点を見ていてくれと頼んだ。
――すべてが水泡に帰した。
「だから、次の人が」
ああ、その人はこの魔神と友達になれるだろうか。
「魔神さんが次に目を開けたとき、目の前にいるのが、私みたいな――」
あなたと友達になれるような、
「同胞の命を守るような魔術師だったら、いいな。
心からそう思う」
悲鳴と罵声、火事の音。
どうやら丘の上にも火が回った。
兵士が走り回る足音。建物が倒壊する騒音。
瓦礫を崩すような音。どこかで硝子が割れるかん高い響き。
しっかりしろ、と誰かに向かって怒鳴る声。
――毒が香る。
強く、濃く、美しく。
「もし、次に目を開けたとき、そういうちゃんとした人が目の前にいたら、」
目が霞んだがそれは涙のせいだった。
悔し涙か、あるいは煙が目に入ったのか、それとも友人との別れを惜しむ涙か。
それはスーザン・ベイリー本人にも分からない。
「力になってやってね――」
そして、スーザン・ベイリーは息を吸い込む。
目の前にいる魔神が寂しくならないよう、かれを眠りに就かせる子守歌を唄いはじめる。
夜がその最たる深みに達するまで。
これにて2章は終了です。
活動報告も書きますので、そちらもぜひご覧ください。
次話から最終章、3章です。
章タイトルは『神の瞳を撃て』。