27 主従の終わり
マルコシアスは廊下に取り残された。
これにはかれもびっくりだ。
ここまでシャーロットと一緒にいたのだから、最後まで付き合ってやろうじゃないか、と思っていたところにこれである。
とはいえ、この仕打ちにきょとんとしているのはマルコシアス一人であっても、周囲には取り残された悪魔たちは複数いた。
ネズミの格好のマルコシアスが憤然と床を蹴っていたところ、「まあまあ」と、そばから取り成すような声がかけられたのである。
マルコシアスはそちらを見た。
そして、フクロウの格好をした悪魔を見て、思い切り鼻を鳴らした。
「口の利き方に気をつけなよ。こっちは魔神だぜ」
フクロウの姿の魔精は目をぱちくりさせたあと、「すみませんねぇ」とのんびりと言った。
人間にひんぱんに召喚されているがゆえの、人間の流儀への慣れのようなものが見て取れる。
「いや、あの部屋に入るときは、大抵の人間は私たち悪魔を置いていくんですよ」
「そうそう、休憩みたいなもの」
と、さらに横から言ってきたのは赤い衣服を身に着けた人間の格好の魔神で、マルコシアスはネズミのしっぽを丸めた。
というのも、ぱっと見たところ、その魔神が自分より格上らしい、と分かったからである。
序列はおよそ二十番台の後半といったところか。
今のかれなら、つまり『神の瞳』を得たかれなら、力比べで勝ることも出来るだろうが、さすがにこの場で、『神の瞳』の存在を匂わせる危険は冒せない。
「……あんた、あの魔術師に仕えてんの? なんていったっけ、あの、なんだか偉そうな」
「ジュダス・ネイサン」
魔神は肯定した。
頷くと、かれが頭上に大仰な王冠を戴いているのが分かった。
その王冠は金色で、赤と緑の宝石でごてごてと飾られており、ついでによくよく見れば、かれの姿はどこか不均衡に見えた。
身体に対して頭が大き過ぎるのだ。
かれはその姿で、壁際で背筋を伸ばして、あぐらをかいている。
「あんまりうちの主人を悪く言わないでくれ。耳に入ったら機嫌を損ねる」
マルコシアスは鼻から息を抜いた。
「あいつ、他にも絶対に悪魔を連れてるだろう。あんただけをここに残していったって、別に意味ないんだろ」
「まあ、そうだけどね」
魔神は認めて、王冠をちょい、と直した。
「けど、他の連中からすれば、悪魔をつれているかどうかなんて自己申告の範疇じゃないか?
それにあの人が、“ほらここにあのベリトを置いて行くぞ”、とやれば、いかにも悪魔を手放したように見える」
「ベリト」
マルコシアスは相手をまじまじと見て、頷いた。
「序列二十八番ね。会ったことなかった?」
ベリトはマルコシアスをじっと見た。
「――言われてみれば。三十五番のマルコシアスか?」
「そうそう」
頷き、ついでにネズミのしっぽを振ってあいさつして、マルコシアスは首を傾げる。
「でも、なんだって悪魔を置いていくのさ。どんな話をするときでも、べつに僕らを嫌がったりしないだろう、人間って」
「ここは議事堂ですからねぇ」
と、これはフクロウの格好の魔精。
「魔術師は肩身が狭い、と、うちの主人がこぼしているのを、もう七回くらい聞きました」
「ふうん」
白けてマルコシアスがそう相槌を打つと、ベリトが壁際からじゃっかん身を乗り出した。
「マルコシアス、きみこそ誰に仕えているんだ。見たところ、うちの主人以外に腕の立ちそうな魔術師はいなかったが」
「失礼な」
マルコシアスは思わずそう言っていた。
「僕の主人はロッテ――シャーロット・ベイリー。あの中に、一人だけまだ若い女の子がいただろう。あの子だよ」
ベリトはいささかわざとらしく目を瞠った。
「なんと。あの子が。まだ小さいのに」
「将来有望なんだ。あの子があんたを召喚することがあったら、報酬の範囲で足を引っ張らずに、良くしてやってよ」
マルコシアスが神妙にそう言ったところで、ベリトは腹がよじれるほどに笑い出し、もはや会話は不可能となった。
そうしてマルコシアスが時間を潰すことしばらく。
ようやく扉が開き、シャーロットがそこから出てきた。
顔面は蒼褪めていたが、耳が赤くなっている。
「動揺」という看板をぶら下げているようなありさまで、指先が細かく震えているのを隠すように、身体の前でぎゅっと握り合わせていた。
そのせいでますます歩き方がおかしくなって、今にも転びそうな、ぎこちない動きになっている。
シャーロットには衛兵が付き添っていた。
あからさまに、「どうして自分がこんな子供の面倒を見なければならないのか」と思っていることが分かる顔をしている。
つまり、シャーロットの立場を知らないのだ。
マルコシアスはベリトへのあいさつもすっかり忘れ、廊下を走ってシャーロットの足に飛び乗り、そのまま器用に彼女の身体をよじ登って、肩に行き着いた。
「わ!」とシャーロットが声を上げ、それでネズミに気づいた衛兵が、とっさにそれを本物のネズミだと思ったのか、ためらいなくシャーロットの肩からマルコシアスを叩き落とそうとする。
シャーロットははっとした様子で身体をねじり、両手でマルコシアスを庇って、「違うんです」と囁いた。
「違います。これ、私の魔神です」
衛兵は驚いた様子だったが、手を下ろした。
「ああ、そう」
マルコシアスはシャーロットの耳をネズミの前肢で軽く引っ張った。
「ロッテ、僕のレディ。どうなったの?」
シャーロットは唇を引き結んで、「後でね」と囁いた。
――シャーロットの言う「後で」とはすなわち、そのあと、ホテルに戻ったあとのことだった。
どうやら首相はシャーロットに、翌日までこのホテルを使わせることに決めたらしい。
「エム、この部屋に、お前の精霊以外の精霊はいる?」
シャーロットが尋ねた。
マルコシアスはぐるりと周囲を見渡す。
「いや、いるようには見えないけど」
シャーロットはなぜか意外そうな顔をした。
瞬きして、なおもネズミの格好をとったままのマルコシアスをまじまじと見る。
「そう? 本当? ――お前はまだここにいるのにね」
「は?」
マルコシアスは困惑して訊き返したが、シャーロットはそれには頓着しなかった。
はあ、と大きく息を吐いたかと思うと、ぽんぽんと靴を脱いで、大きなベッドに身を投げる。
ベッドの上でうつぶせになって、ばらりと広がった髪のあいだから声を出す。
「――学院には“いていい”って」
マルコシアスは少し考えて、それからぱっと姿を変えた。
いつもの少年の格好だ。
シャーロットもそれに気づいたのか、むくりと頭を上げて、かれに向かって微笑んだ。
「あら、その格好、なんだか久しぶりね」
「そう?」
マルコシアスはなんとなく自分の身体を見下ろしたあと、ストールを直して枷を隠すと、すたすたとシャーロットに歩み寄って、正しくはベッドに歩み寄って、シャーロット一人のためには広すぎるそのベッドの端に腰を下ろした。
マットレスが柔らかく沈み込む。
手を伸ばして、シャーロットの頭を撫でた。
「良かったね、レディ」
シャーロットはしばらく目を閉じて、頭を撫でられるがままになっていたが、髪が乱れるころになって、のそのそと起き上がり、ぺたんと座り込んだ。
「ただ、もちろん、条件はついたわ」
「ふうん?」
マルコシアスが首を傾げる。
シャーロットは、かれに向かってというよりは、むしろ自分が現実を呑み込むために、といった具合に、手を握ったり開いたりしながら説明した。
「まず、これまでみたいな――ええっと、首相はなんておっしゃったかしら、そう――形式だけの警護はやめにするみたい。とりあえず、何かの理由をつけて――まあ、今回の一件がその理由になるんでしょうけど――軍省が学院に衛兵隊を向かわせて、守ってくださるんだって。
表立って私を囲んでしまうのも考えものだけど、完全に自由にさせるわけにもいかないから、学院の中にも――ワルターさんみたいな――軍省所属の方を入れて、つねに守ってくださるそうよ。
あと、お友達は禁止」
マルコシアスはしらっとした顔で聞き流していた。
「僕を廊下に置き去りにして話した内容が、その程度?」
「ねえ」
シャーロットはマルコシアスに向き直って、真剣な顔で苦情を申し立てた。
「お友達禁止って言われたのよ。同情してよ」
マルコシアスは鼻で笑った。
「ひとつ、僕たちに友情なんてものはない。お友達が何かも、その利点も、僕らは知らない。
ふたつ、同じ理由で、僕らは同情なんてことはしない」
シャーロットは溜息を吐いて、まくらを一つ引き寄せて、それを抱え込んだ。
「そうだったわね。――まあ、とにかく、危ないことがあったら駄目だし、私がお友達に秘密を漏らしてもいけないし、お友達を通じて私の情報がどこかに伝わってもいけないし――そんなもろもろの事情で、私は今後いっさい、お友達と話せなくなるそうよ。学院生活の半分が暗澹よ。
唯一の慰めは、首相閣下が私に『かわいそうだが』って言ってくださったことだけよ。ネイサンさまに至ってはすごく真顔で、『きみ、お友達を作りたいのか勉強したいのか、どっち?』って訊いてきたわ」
ふて腐れた様子で、シャーロットはまくらに顎をうずめる。
「ネイサンさまが学院に掛け合って、私を個室に移すんですって。信じられない、個室って、決まった数以上の允許を優秀でとってはじめて移れるものなのよ。実力で移るのを楽しみにしてたのに、台無しだわ」
マルコシアスは欠伸を漏らした。
「なるほど。けど、それで済んだんなら良かったんじゃないの。
あそこの――えーっと、学院? それを辞めさせられてたら、あんた今ごろ大荒れだったんじゃない?」
シャーロットは肩を落とした。
「確かに、学院に残してくださるんだから、どんな条件でも呑むつもりでいるけれど。
――それに、これだけじゃないわよ」
マルコシアスは淡い黄金の瞳をシャーロットに振り向けた。
「へえ?」
シャーロットが指を折る。
「ネイサンさまとのお手紙は続行すること。
休日にエデュクスベリーに出掛けることも、基本的には禁止。あと一回だけお願いしますって言ってみたら、それは渋々ながら許していただいたけれど。
あと、講義以外で魔術を使うことはもちろん禁止。私のことを危険分子みたいに言うんだから――まあ、仕方ないけれど。
夏季休暇のときにケルウィックに帰るのにも、もちろん護衛を山ほどつけてくださるらしいわ。ほんと、私が護衛の方々にお給料を払うんじゃなくて良かった。
それに当然、卒業後の進路は閣下の承認を得ること」
マルコシアスは瞬きした。
「……ずいぶん大仰なことになったね、ロッテ」
「そうなの」
シャーロットはしょげた様子でそう言ったが、後悔している風はなかった。
どうやら、諦めはついているものの愚痴を言いたいだけ、ということらしい。
マルコシアスが注意深く観察してみると、何かを頭の片隅で考え続けている風情もある。
シャーロットは顔を上げて、眩しそうにマルコシアスを見た。
「お前のことも、出来るだけ早く解放しなさいって」
マルコシアスはその場でのけぞった。
「は? レディ、僕はあんたの魔神だよ。
解放の時期はあんたが決めることだ。他人の指示じゃなく」
「まあ、そうだけど」
と、シャーロットも神妙な表情。
なにやら惜しむような目で見られて、マルコシアスはそわそわした。
「レディ?」
「お前にお願いしたことは、私を助けることでしょう? もうじゅうぶん助けてもらったもの――よそからどうこう言われるまでもなく、解放するのが順当だわ」
マルコシアスもふと考え込んで、「確かに」と認めた。
「確かに、そうだね。僕はあんたを助けた」
「でしょ? ――ただ、まあ」
シャーロットは顔を顰めて、そうしながらも微笑むような、奇妙な表情を見せた。
「講義以外で魔術を使っちゃ駄目ってことになったから、お前を召喚できることは、もうないかも知れないけれど」
「――――」
マルコシアスはふいを突かれた気持ちで目を見開いて、シャーロットをまじまじと眺めた。
「それは……」
つぶやく。
言葉を探す。
だが結局言葉が見つからず、マルコシアスは頷いた。
「……そうか。そういうこともあるね」
シャーロットが軽く鼻をすすった。
「いろいろと、良くしてくれてありがとう」
そう言って彼女がぺこりと頭を下げるので、マルコシアスは居心地の悪さに頬を掻いた。
シャーロットから目を逸らし、足の爪先を揺らす。
しかし、はたと気づいて、「いや待てよ」と声を上げた。
そして、訝しそうにしたシャーロットに指を突きつける。
「レディ、待って。あんた、僕とコーヒーを飲むんじゃないの。
そういう約束だっただろ?」
シャーロットがきょとんとした顔をしたので、マルコシアスは一瞬、約束違反をとがめてこの場で彼女を頭から喰ってやろうかと考えたが、それを実行に移すよりも早く、シャーロットは首を傾げて言っていた。
「――もちろんよ。馬鹿な悪魔ね、なんのために『あと一回だけエデュクスベリーに出掛けさせてください』ってお願いしたと思ってるのよ」
「……間抜けなレディだな」
マルコシアスはそうつぶやいたものの、気が抜けるような安堵を覚えて、そんな自分を訝しんだ。
「だったら、ちゃんと覚えてるって最初に言いなよ」
▷○◁
その翌日、リクニス学院に帰り着いたシャーロットは、契約の履行を確認してマルコシアスを解放した。
マルコシアスは約束の報酬として、シャーロットから七日分の声を貰い受けることとなる。
つまり、シャーロットはいっさい話せなくなったわけだが、反撃がないのをいいことに、さんざんに彼女をからかいながら、枷もなくなったマルコシアスは足取りも軽く、むっつりと黙り込んだ(黙り込むしかない、ともいえる)シャーロットに連れられて、〈ピーリードット〉カフェを訪れた。
これまた相棒が文句を言えないことをいいことに、マルコシアスは意気揚々と「コーヒーと、ファッジと、ああ、あとこのケーキと、このイチゴのコンポートってやつと、お、このワッフルっていうの、一緒に食べたことあるね。これも」と品書きを読み上げた。
憤激に顔を真っ赤にしつつも何も言えず、マルコシアスが店員に向かって注文するに任せるしかないシャーロットとしては、所持金が足りますようにと祈ることしか出来ない。
マルコシアスはにやにやしながらシャーロットを観察し、あれこれと彼女をからかってはその顔色の変化をあきらかに楽しんでいた。
極めつけに、かれはコーヒーを一口すするや、顔を顰めてカップをシャーロットの方に押し遣った。
これにはシャーロットも唖然とする。
こんこんこんっ、と激しくテーブルを叩いて抗議し、「どういうこと!?」と表情で物申したところ、マルコシアスは顔を顰めたまま、しれっと言った。
「あ、じつは、コーヒーってやつ嫌いなんだよね。苦いし、なんか口の中に匂いごと味が残るし」
「――――!」
シャーロットの、「だったらどうしてそれを言わないの!」という意見を、表情の中に正確に見て取ったのか、マルコシアスは真顔で続けた。
「いや、あんたとだったら美味しいかと思ったんだけど。駄目だった」
「――――」
シャーロットがマルコシアスに掴み掛からなかった理由は、テーブルの上にこれでもかと甘味が載っていて危なかったから、これに尽きる。
マルコシアスが満足するまで甘いものを食べ、シャーロットが二人分のコーヒーを飲み終えたところで、二人は席を立って店の外へ出た。
枷もないマルコシアスは、はたから見れば人間の少年そのもので、二人はもしかすると、仲のいい友人どうしに見えていたかもしれない。
外は快晴とはいえない天気で、青空が薄衣を纏うように白い雲をうっすらと被っている、そういう空が広がっていた。
時刻は昼下がり、空の高所で弧を描く鳥の影が見えている。
実を言えば、今は学院で講義が行われている時間だ。
だが、先日の一件のあとから、教授陣も本調子とはいえず、講義は停滞ぎみだった。
ならばと思い切って(声も出せないこともあり)、講義を欠席してマルコシアスを連れ出していたのである。
ゆえに、周囲を歩く人影は少なかった。
学生は数えるほどしかおらず、閑散とした印象を受ける。
ただ、学院の方からこちらへ向かって、薄い外套を肩に放り投げるようにして掛け、調子っぱずれに歌いながら歩いてくる若い男子学生がおり、そのために辺りは閑散としてはいても静まり返ってはいなかった。
真向いにあるパブの店主が、もちろんそのパブは開店前なのだが、どうやら店内を掃除していたらしく、モップを手にしたまま通りに出てきて、その学生を遠目に認めて笑い出している。
学生の歌声は、シャーロットにまでばっちり届いており、それが最近はやっている失恋を歌ったものだということも分かった。
あの学生は失恋でやけになってでもいるのかしら、とシャーロットはこっそり考えたものの、それをそばにいるマルコシアスに囁いて、「どう思う?」と訊くことは、もちろん出来なかった。
「――誰に今日あったこと話そう? 誰から今日あったことを聞こう?――」
足許の敷石に落ちる影は、天候と時刻の影響を受けて、やや薄く、短い。
シャーロットはなんとなく、足許に落ちる二人分の影を眺めて、おそらくもう、こうして自分とマルコシアスの影が並ぶことはないのだろうな、と考えていた。
マルコシアスの方は、ぼんやりと空を見上げ、鳥の姿を目で追っているようだった。
それからふいに、マルコシアスがシャーロットに視線を移した。
シャーロットは思わず、びくりと肩を揺らしてしまう。
マルコシアスの、感情の窺えない淡い黄金の瞳――契約が切れ、主従関係がなくなったことを、こちらに突きつけてくるような人外の瞳。
それを見ると、ふとした瞬間にシャーロットは身ぶるいしたくなる。
が、今はその瞳もおだやかだった。
かれは素直な瞳でシャーロットを見て、唐突に言った。
「コーヒーは嫌いなんだけど、あんたとコーヒーを飲むのを楽しみにしてたのは本当だよ」
シャーロットは虚を突かれ、どう答えればいいものかと言葉を探し、そして今は話せないことを思い出して、もどかしいような気持ちになった。
ともかくも身振りで、「私も」と表現してみたが、それが伝わったものかどうか。
「――きみのいる日常に穴が開いた――」
学生が歌っている。
調子っぱずれで、もしかしたら酒でも入っているのかもしれない。
マルコシアスはシャーロットをじっと見つめて、それからふっと笑った。
伸びすぎた灰色の前髪の下で、淡い黄金の双眸が細められる。
かれが手を伸ばして、シャーロットの肩に触れる。
それから腕を軽く辿って、手を取る。
手をつなぐというよりは、重さを量るといった方が近いような手つきでシャーロットのてのひらをかれの指に載せて、マルコシアスは微笑んだまま首を傾げた。
――人外の微笑。
微笑をかたどった、他の何か。
「お友達うんぬんのことは分からないけれど、あんたには僕がいる。
――また僕を呼んでくれ」
シャーロットは瞬きして、困惑の表情を作って、そして実際に困惑して、肩を竦める。
切ないような気持ちで目の前の悪魔を見つめる。
それが伝わったのか、マルコシアスは苦笑した。
かれはシャーロットの頭を撫でて、肩を竦める。
「甘いやつは気に入ったよ、僕のロッテ。
――どうもごちそうさま」
そしてシャーロットがはっとしたとき、マルコシアスの姿はもうどこにもなかった。
シャーロットは通りを見渡し、マルコシアスがかれの、あの美しい領域に戻ったのだと理解する。
鼻をすすり、両手で顔をぬぐって、軽く自分の頬を叩く。
風が吹く――コーヒーの香りと花の香りを含んだ、春の風。
どこからか運ばれてきた花びらが、敷石の上で風につかまって、踊るようにくるくると回っている。
あの学生が歌っている。
まさにやけになったような大声で。
「――ここは僕の非日常だ きみがいないなんて――」
シャーロットはきびすを返して、その学生をすれ違うようにして、学院に戻る道を進む。
けれども学生の声が、彼女を追いかけるように昼下がりの空に響く。
「――きみのいないここは すぐに出ていきたい 僕の非日常だ――」
▷○◁
引っ越し、といっても同じ女子寮の中のことではあるのだが、それでも移りたての部屋というものは落ち着かない。
――移ってきたばかりの個室を見渡して、シャーロットはそう考えた。
ノーマと二人で使っていた部屋よりも、さすがに部屋としての面積は狭いが、一人で使う面積を言うならば増えた。
私物を広げても部屋の空白を埋めきるには足らず、その空白が寂しさの色を視界に突きつけてくるかのようだ。
だが、今ばかりは、あえて床の上に広々とした空白を作っていた。
さらにいえば、そこを数時間かけて埋めたところだ。
その出来栄えを見下ろして、シャーロットは頷いた。
意味もなく周囲を見渡す。
ネイサンの魔神の精霊は、今も彼女を見ているのだろうか――その可能性も、もちろんある。
だがいちおうは、既に新たな警護体制も決まったこともあり、彼は精霊を引き揚げさせたはずだ。
つまり、ここで精霊が目撃したことがあったとして、彼はそれをあげつらって大々的にシャーロットを糾弾することは出来ないのだ。
そしておそらく、彼はそれをしない。
なにしろ彼が、「シャーロットを学院に残してやるために」と骨を折ってくれたのだから。
とはいえ、今から行うことが、出来上がったばかりの禁を破ることになるとは重々承知している。
シャーロットは心持ち警戒ぎみに周囲を見渡し、悪魔や精霊はともかくとして、こちらを覗いている人間がいないことを確認した。
かちこち、と、壁掛け時計が時を刻んでいる。
時刻は真夜中の零時すぎ。
辺りは静まり返っている。
カーテンは閉め切られ、室内の光源は揺らめく蝋燭の明かりのみ。
耳を澄ましても、廊下を歩く足音はない。
――シャーロットは思わず、ふっと笑みをこぼした。
人生で初めて悪魔を召喚したとき、あの召喚陣を描いていたときの、大叔父の足音に怯えていた日々を思い出したのだ。
ゆっくりと足許に視線を戻す。
――そこに描かれているのは、紛うかたなき召喚陣だった。
二つの円――決められたある一点で正確に接する、大小二つの円。
小さな円を囲む、これも正確に綴られた、守護と約束の履行を表す文字。
大きな円を囲むのは、同じ文字で、より重要でより膨大な内容を取り決める文字。
シャーロットはその文字を目で追う。
誤りがないか、洩れがないかを確認する。
〈身代わりの契約〉が含まれていることを確認して、彼女は過去の自分の失敗に苦笑する。
――そして、彼女は小さな円の真ん中に立った。
蝋燭の灯は揺れもせず、淡いオレンジ色の頼りない明かりで部屋の中を照らしている。
シャーロットは咳払いした。
声が戻ってきて半日、どうにも喉に違和感がある。
「――あ、あー」
(大丈夫そう)
息を吸い込み、シャーロットは落ち着いた小声で、ゆっくりと、〈召喚〉を唱え始めた。
――ずっと違和感があった。
その違和感は、あのとき――アーノルドと警官の詰め所で会ったときに芽生えたものだ。
意識の底を引っ掻いていた、かすかな違和感。
きっとアーノルドが口に出した何かに、シャーロットがあのときは気づかなかった、今の彼の状況を示す、何かの手掛かりがあったに違いなかった。
それがわずかな違和感として、シャーロットの頭に引っかかっていたのだ。
それについて、シャーロットは議事堂に招喚される少し前から、考えに考えていた。
あのときのアーノルドの言葉やふるまいを、出来るかぎり正確に何度も何度も振り返って――
――もしや、と思う可能性があった。
そして、その考えが真実を突いているものかどうか、それを確かめる方法は、思いつく限りでただ一つだった。
――二年前、シャーロットがマルコシアスを召喚していたことを知っていたのは。
――そして二年前、シャーロットが『神の瞳』を手にしていたことを、確信に近い水準で推測できたのは。
それは、シャーロットとマルコシアス自身を除いては、ただ一人。
召喚の呪文が終わる。
白墨で描かれた召喚陣が、まばゆいほどの白色にきらめく。
召喚陣の上に、どこからともなく立ち込める煙が凝る。
そして微細なきらめきが、召喚陣の上にうっすらと漂う。
シャーロットは思わずにっこりした。
かれは人気者だ――何度となく召喚を試みてきたが、成功したことはなかった。
つねに誰かに先を越されていたらしく、かれは留守にしていたのだ。
だが、今回は成功した――運のいいことに。
召喚陣の上から煙が晴れていく。
召喚陣の上には、一匹の、やたらと目玉の大きな犬が控えており、かれは芝居がかって大仰に頭を下げている。
「――さあ、召喚にて参じました。
さて、僕のご主人たらんとされるのならば……」
そこまで言って、その魔精は目を上げた。
シャーロットと魔精の目が合った。
――かちん、と音がするのではないかと思うほどに完璧に、そのかりそめの身体が固まった。
シャーロットは愛想よく手を振った。
魔精が愕然と表情を歪め、絶望の叫び声を上げる。
「うっそだろぉぉぉ! ――帰らせて! 帰らせて!
なしなしなし! お断りだって!」
「報酬も聞かないなんて」
シャーロットが責めるようにつぶやくと、魔精は全力で首を振った。
「だめ! なし! きみが運んでくる不幸を上回る報酬があるなら示してみなよ!
この疫病神め! 今度はなんだ!」
「まあ、ひどい言いよう」
シャーロットはつぶやいて、しかしながらその場にしゃがみ込み、懸命に目を逸らそうとする魔精と視線を合わせた。
彼女は微笑んだ。
「でも、まあ、お久しぶり。
会えて嬉しいわ――リンキーズ」
僕はまったく嬉しくないね、と、魔精リンキーズは召喚陣の上で吐き捨てた。