26 命に代えても
シャーロットが息を詰めるのを、マルコシアスはたいへんな興味をもって見守っていた。
悪魔には備わらない素直さをもって告白するならば、『神の瞳』が話題に昇っていたとき、かれは気が気ではなかった。
万が一、取り上げられるとなれば大事だ。
そうなれば、〈身代わりの契約〉が結ばれていないことをさいわいと、さっさとシャーロットの息の根を止めたうえで、領域に戻って姿をくらますしかない。
シャーロットには潔癖なところがある――おのれの望む道と、倫理において導かれる結論と、その双方を叶えようとする、激烈なまでの頑固さがある。
そのために、過去の悪行があばかれることも呑み下し、『神の瞳』の現在の所在を暴露することもありうるかと身構えていたのだが――
(なにはともあれ、良かった)
胸を撫で下ろす気持ちである。
ぎりぎりのところで、シャーロットが悪行の暴露にひるんだか――あるいは、その悪行の責任から守ってやろうと言われたことが気に喰わなかったか。
シャーロットには、おのれが望む人生以外は願い下げだと、あらかじめ決め切っているほどに苛烈な面がある。
守ってあげるから、さあ私のマントの下に隠れていなさい、と言われることは、このレディの気には喰わないだろう――と、マルコシアスであってもそう理解できた。
そして、今だ。
「さあ――シャーロット。われわれはきみを信じられるだろうか」
シャーロットが二年と少し前、万難を排してでも固執した、この学院への入学――正確には、それを踏み台とする彼女の人生。
――“私、コルフォードかエデュクスベリーの博物館の学芸員になりたいの”。
さあどうする、と、マルコシアスはほくそ笑む気持ちでシャーロットを見守る。
人間の生涯には、とかく選択が多い――それは知っている。
過去に仕えた主人たちも、あらゆる場面で選択にぶち当たり、そのたびに悩んできた。
二つの得のあいだで迷った者もいるし、一つの大きな得と、一つの大きな損失を防ぐことと、この二つを秤にかけて迷った者もいる。
お前の人生は、続くとしてもあと五十年かそこらだけだろう。その選択を間違えたとして、後悔するのはたかだかその期間だけじゃないか、どうしてそんな、感情を振り絞るようにして悩む必要があるのだ、と尋ねたくなったことも数知れない。
そしてシャーロットは、この、傲岸なあやうさを持つレディは。
――折れないスイセン、砕けない硝子細工。
それが折れ、砕けるとすれば、どんな光景になるだろう。
彼女が折れ、砕けるのは今だろうか、と、注意深くシャーロットを見守る。
彼女が望む人生と、彼女の倫理が導く結論が、致命的に喰い違って彼女がその現実に屈するのは、今だろうか。
――だとすれば、その瞬間を見届けたい。
シャーロットは瞬きした。
瞼が痙攣するように震えるのを自覚した。
両手を膝の上でぎゅっと握り合わせる。
指先が白くなった。
「それは――」
シャーロットがつぶやく。
これまででいちばん声が震えていた。
ウィリアムが再度、彼女の肩を叩いたが、シャーロットはそれにも気づかない様子だった。
むしろ、マルコシアスの方に手を伸ばして、かれの背中の半ばあたりに手を触れた。
マルコシアスが、犬のような仕草で、彼女が自分に触れている、その箇所を振り返るように身体をねじる。
「――それは、閣下、私が何か申し上げて、閣下のご判断に影響を及ぼせるものなのでしょうか」
首相が微笑んだ。
硬い表情だったが笑みだった。
「影響を受けられればいいと、私は思っている」
シャーロットは、ようやく呼吸できたような気持ちで息を吸った。
少なくとも首相には、頭ごなしに彼女が魔術を学ぶことはやはり危険だ、と決めつけるつもりはないと分かったために。
「閣下――私は」
シャーロットは咳き込むように言って、身を乗り出した。
マルコシアスから手を離して、円卓の端をぎゅっと掴む。
「お話はよく分かりました。私が魔術を学ぶのが望ましくないということも、理解しています。それでもお許しいただきたい」
息継ぎするようにしてから。
「期待外れを神さまと人に向かって言うのはナンセンスですが――閣下、このことに関しては、絶対にご期待を裏切りません。
私が――必要であれば、何に対して魔術を使うのか、いちいち全てご報告させていただくことになっても、いっこうにかまいません。それでもどうか、私からこの道を奪わないでください」
円卓の端を掴む指にいよいよ力を籠めて。
「私は、魔術で人を傷つけたいと思ったことは一度もありません。その手段として考えたことも」
シャーロットは父を振り仰ぎ、それから首相に目を戻し、歯を喰いしばってから、囁くように続けた。
「私がどうして魔術師を志したか、父が閣下にお話ししたことかと思います。
嘘はありません、あれが本当です――どうか」
首相はしばらく無言のまま、興味深い絵画でも見るようにシャーロットを眺めていた。
シャーロットはその視線が自分の眼球から頭の奥までを突き刺して、彼女の為人が丸裸にされているような、そんな感覚を覚えた。
だがやがて、首相は小さく微笑んだ。
「『期待外れを神さまと人に向かって言うのはナンセンス』か。面白いことを言う」
「アーニーの――」
シャーロットは言い差し、あわてた様子で言い直した。
「――アーノルドの、先ほどお話した、あの人の……口癖です」
ネイサンが眉を寄せた。
首相の青い目が、きらっと光った。
「ほう?」
「彼を見つけて――助けてくださいますか」
ふいに、シャーロットは、今の話題は彼女自身の今後であることも忘れた様子で、そう言った。
ぼろっと唇から言葉がこぼれたかのようでさえあった。
首相が瞬きして、頷いた。
「全力を尽くして」
その瞬間のシャーロットの表情、わずかな安堵が氷のような緊張の一角を溶かすさまを、首相はまじまじと見守った。
首相が微笑んだ。
「――実を言えば、シャーロット。きみの今後は、私の一存で決まるものではない――他にも話を通さねばならない者がいる。たとえば軍省大臣」
シャーロットは浅い角度でこくこくと頷く。
今にも席を立って、首相の裾に縋りにいきそうでさえあって、ウィリアムが心持ち緊張した様子で娘の様子を窺っている。
首相は小さく息を吸って、じゃっかん、肩の力を抜いた。
「けれど、そうだね。意見としては私の声が大きいものになるだろう。
そして、」
シャーロットが息を止めたのが、マルコシアスには分かった。
彼女の頬は蒼白になっている。
そんなに怖いなら、今すぐこいつらを蹴散らして、あんたをここにいさせるよう脅そうか、と申し出そうになったが自重した。
首相はともかくネイサンは、どうやらマルコシアスよりも高位の魔神を従えているようだったので。
勝てない喧嘩はしない主義、それでマルコシアスは致命の一撃を喰らったことはただ一度という経歴を築いてきた。
首相が青い目を細める。
「――私は、きみの倫理観を信じよう」
シャーロットが目を見開いた。
その橄欖石の色の瞳をよぎった感情を、正確に読み取れた者はいないだろう――喜びよりも何よりも先に、シャーロットの胸を殴りつけるようにして襲ったのは、罪悪感だった。
(――ああ……)
首席宰相からの信頼を得て覚えることになるのが、喜びや安堵ではなく、まさか胸が張り裂けるような罪悪感と後悔だとは。
――倫理観を信じる、と。
かつて悪魔を使って人を殺したことのあるシャーロットに。
たった今、『神の瞳』の所在について、それを隠し通す嘘をついたばかりのシャーロットに。
犯すと決めた罪の重さを、裏切ることになる信頼がどれほど貴重なものであるのかをようやく理解して、シャーロットの全身が震えた。
――顔を伏せる。頭を下げる。
この短い生涯で、これほど恥じ入ったことはないというほどに恥じ入って。
シャーロットは大きく息を吸って、よろめきながら椅子を引き、立ち上がった。
「シャーロット?」
ウィリアムが驚いたような、咎めるような声を出す。
首相とネイサンも訝しそうにした。
退屈そうにしていたマルコシアスが、驚いた様子でぴんと背筋を伸ばして瞬きする。
シャーロットはつんのめるようにして歩き出し、大きな円卓を回り込んで、首相のすぐそばまで進み出た。
ネイサンが警戒した様子で腰を浮かせる。
彼がすっと右手を上げて、マルコシアスがとたんに唸り声を上げ始めた。
かれの周囲で、精霊がぱっと白く輝く。
――それら全てを意識の埒外に置いて、シャーロットは首相の前でおずおずと膝を突いた。
絨毯の長い毛足が膝を受け止めるのを感じ、正面から、驚いた様子で彼女を見下ろす首相の視線を、さながら鋼の矢のように重く感じながら、その場で深々を頭を下げた。
かつてマルコシアスが、スイセンの花にうもれるように座っていたシャーロット自身にそうしたように。
「……閣下から――」
つぶやく。
震える声で。
「私にいただける信頼に、かならずお応え申します。
生涯かけて」
息を吸い込み、顔を上げる。
首相の、見開かれた青い目と懸命に視線を合わせて、おごそかな宣誓として、告げる。
「――命に代えても、必ず」
首相が目を丸くして、そしてにっこりと微笑んだ。
手を伸ばして、シャーロットの肩を叩いた。
「――心からそう望む」
およそ十七歳の少女に向けるものとしては不似合いなまでに真剣な声音でそう告げて、首相は痛ましげに目を細めた。
「私見を述べるとね、シャーロット。私は……愛するとは、確信をもって手を離すことだと思っている。
相手を信じて、手を離しても相手が幸せになれると確信して、手を離して目をつむることだとね。相手の全てを許すことだと」
その言い回しに、マルコシアスの耳がぴくりと動いたが、シャーロットはそれには気づかなかった。
それどころか、自分と首相のあいだの、奇妙な意見の一致にすら意識を向けられなかった。
「はい――」
「私はこの国を愛している。この国の海と山を愛している。町を愛している。開墾されてから何世代にもわたって続いてきた、全てが貴重な農地を愛している。
この国にいる全ての人を愛して、彼らが健康であれと願っている。私の力の及ぶ限りで、彼らの役に立ちたいと思っている――確信をもって彼らから手を離したうえで、私が彼らのためになるよう尽力する、その結果を彼らにただ受け取ってもらいたいと。
彼らが困ることはないか目を配りたいと思っているが、それは決して、彼らを見張りたいと思っているわけではない。
――同様に、きみのことも愛している」
シャーロットは唇を噛む。
「けれど、きみからは手を離すわけにはいかない――分かるね?」
シャーロットは頷く。
「はい……」
「シャーロット、きみに、きみが望む人生を選び取る権利をあげたい」
首相は真摯にそう言った。
「だが、どこまでそれが叶うかは分からない。この場での即答も出来ない。
――だが、どんなときであっても、私はきみを愛しているし、きみのお父さまを愛しているし、きみのお母さまを愛している。きみの人生が尊いものだと理解している。
そして同時に、他の全ての人の人生が尊いものだとも分かっている」
シャーロットは頷いた。深く。
「はい」
「きみは本当に賢明だ」
首相は言って、彼女の手を取って立ち上がらせた。
その手をそのままぎゅっと握って、首相は唇をほころばせた。
「シャーロット。尋ねたことに答えてくれてありがとう。
――また近く、きみに連絡してきみの将来のことを伝える。そのときは、すまないがきみが議事堂まで来なさい」
シャーロットはただ頷く。
首相は、ぽんぽん、と、シャーロットの手の甲を叩いた。
「きみに良かれと、私も祈っている」
そして、ぱっとシャーロットの手を離した。
下がれ、という言外の意味を察して、シャーロットが一歩後退り、その拍子によろめいた。
マルコシアスが椅子からしなやかな動作で飛び降りて、足音ひとつなくシャーロットに歩み寄り、狼の身体で彼女を支える。
首相はもうシャーロットを見ておらず、ネイサンを振り返っていた。
表情は子供に向けるものではなく、務めを果たすときのものになっていた。
「――ネイサン、私は警護人を連れてグレートヒルに戻る。この三人から聞いたこと、特にアーノルドという少年のことは、私から軍省大臣に共有する」
ネイサンは頭を下げた。
「かしこまりました、閣下」
「お前はしばらくここに残って、シャーロットの身辺を守ってやりなさい。
ウィリアムとミスター・グレイについては、両人の希望をお前の方で聞いて、帰りを手配すること」
「そのように」
淡々と頷いたネイサンが、しかしそこで顔を上げて、首相の顔を窺った。
「――閣下。シャーロットの今後を決める場には、私も同席をお許し願いたく」
首相がかすかに顔を顰める。
「参考役のお前が?」
ネイサンは苦笑した。
「シャーロットは可愛い後輩です。役に立てるものなら立ってやりたい」
首相も短く笑った。
「――ならば、シャーロットの身辺をお前の悪魔とやらに任せて、三日後までにはグレートヒルに戻りなさい」
ネイサンは頭を下げた。
「喜んで、閣下」
▷○◁
「お前、ものものしい一団の中で歩いてたらしいじゃないか」
医務室に戻ったシャーロットを――彼女に医務室に戻れと言ったのはウィリアムとグレイであって、シャーロット自身はもう大丈夫だと断言したのだが――ともかくも医務室に押し込まれ、医務官から詰問口調の問診を受けている最中に、ふらっと見舞いにきたオリヴァーがそう言った。
シャーロットは溜息を吐く。
自分の今後のことを思うと気が気ではなく、首相のあの眼差しを思い出すと自己嫌悪で気分も悪くなった。
マルコシアスは狼の姿で、シャーロットのそばに並んで、ベッドの上で身体を伸ばしている。
医務官はそれが気に入らないようだったが、悪魔に物申す気にはなれないらしい。
自然と、シャーロットはマルコシアスを抱きかかえるような姿勢になっていた。
「ジュニアと喋ったから、そのときのことを訊かれただけですよ」
「そうなのか」
オリヴァーの表情に好奇心が滲んだために、シャーロットはさっさとその矛先をよそに向けることにした。
「一緒に歩いていた方、グレイさんとおっしゃるんだけど、現役の魔術師なんですよ。技術省直轄の企業に勤めていらっしゃって」
「なに?」
オリヴァーの顔色が変わった。
シャーロットは駄目押しする。
「もうすぐ、私のお見舞いのために、ここに来てくださると思うんですけど」
そんなわけで、シャーロットに「気分は大丈夫?」と尋ねるためだけに医務室を訪れたグレイは、待ち構えていたオリヴァーから質問攻めに遭うことになった。
技術省直轄の企業というと、どんなお仕事を? 魔術師になるに当たって、いちばん重視されたことはなんですか? どちらの学校を出られました? 専門は呪文ですか、召喚ですか、理論ですか?
グレイは泡を喰った様子で、煙草に火を点けながらそれに対応しようとしたが、火を点けるために登場したリスの姿の魔精に、さらにオリヴァーは興奮していた。
シャーロットはといえば、この魔精がマルコシアスを通じて部屋の中でシャーロットがまくし立てた嘘を聞き、それをグレイに伝えてくれたのだろう、という推測が働いているから、思わず感謝を籠めてリスに向かって頷いていた。
グレイとともにウィリアムも登場していたが、ウィリアムはオリヴァーの勢いに辟易した様子で、「この学院の人は、さすがというか、熱心だね」とシャーロットに向かって囁いていた。
ウィリアムとグレイがシャーロットと一緒に医務室に入っていなかった理由は、ネイサンがあちこちを見て回るのに付き合っていたためだ。
ネイサンも物見遊山で見て回ったわけではなく、確認事項があってそちらに寄ったのだろうが、そのついでに「大人どうしの」あるいは、「シャーロットの保護者としての」会話をしたかったらしく、二人を誘ったわけである。
(まあ、間違いなく、私が学院を辞めなきゃならなくなったときに、どうやって私を慰めるかの作戦会議でしょうけど)
何しろ、それを恨みに思ったシャーロットが、立場を一転して内乱の首謀者側についてしまっては笑い話にもならない。
ウィリアムとグレイから少し時間を置いて、ネイサンも医務室に入ってきた。
オリヴァーはそのときには、グレイから「こちらがシャーロットのお父さまだよ」とウィリアムを紹介され、自分の態度に恥じ入った様子で、「ごあいさつが遅れまして」と、ぺこぺこと頭を下げているところだった。
最後にやって来たネイサンに、オリヴァーは不思議そうな目を向けた。
が、ネイサンをまさか紹介するわけにもいかず、シャーロットはまごついてしまう。
そしてネイサンはオリヴァーには目もくれず、シャーロットに手を伸べていた。
「――シャーロット、きみの部屋まで送ろう。道々、少し話そうか」
シャーロットはあわててベッドを飛び出し、ネイサンの手を取った。
「はい」
ウィリアムとグレイも動こうとして、ネイサンにてのひらでそれを留められた。
グレイはともかくウィリアムは、かなり不満そうにした。
マルコシアスが伸びをして、忠実な影のように、音もなくシャーロットに続いてベッドから飛び降りた。
さすがのネイサンも、それを留めることはなかった――そもそも、マルコシアスに命令できるのはシャーロットだ。
少し話そうか、と言ったものの、ネイサンはすぐには口火を切らなかった。
本棟の一階をのんびりと歩いているときに、ようやく彼は言った。
「――シャーロット、首相に言ったことは、本当で本気?」
シャーロットはじゃっかんの眩暈を覚えた。
ようやく終わったと思った尋問は、どうやらまだ終わってはいなかったらしい。
「……もちろんです」
シャーロットは声を絞り出した。
ネイサンが横目でちらりと彼女を見下ろす。
窓から射し込む陽光に、彼の淡い色合いの髪が透けるようにきらめいている。
「――『命に代えても』?」
シャーロットは息を吸い込んだ。
「そうです」
ネイサンはしばらく、無言でシャーロットの頭のてっぺんを眺めているようだった。
やがて、シャーロットが憔悴しつつあることに気づいたマルコシアスが前に出て、軽く唸り声を上げるにいたって、すっと目を逸らした。
そして、重い溜息を吐いた。
それから気分を切り替えるように、彼はマルコシアスを目で追った。
「――それ、本当に忠実な悪魔だね」
シャーロットはマルコシアスを振り返ってから、こくんと頷いた。
「はい、なんとか」
「羨ましいくらいだよ。――本当に、報酬は髪と声だけ?」
シャーロットはまた頷いた。
それをちらりと見て、ネイサンが溜息を吐く。
「そう。――マルコシアスというのは、では、私が思っていたよりも気のいい悪魔なんだな」
シャーロットは返答に困って、あいまいに肩を竦めた。
女子寮へ通じる外廊下に出る。
春の風が、うららかに廊下を吹き抜けていく。
陽射しを浴びた芝生がつややかに光っているのが見える。
ネイサンはゆっくりと息を吸い込むと、言った。
「あと二日程度は、私もここに滞在する。講義も問題なく再開されるだろう――安心しなさい」
シャーロットは頷き、それからあわてて言った。
「ありがとうございます」
ネイサンは、「かまわない」というように手を振り、ためらいがちに続けた。
「ただ、きみの身辺から目を離すわけにもいかないからね。――しばらくは、私の魔神の精霊がきみの周囲を見張っていると思っていてくれ。きみへの新たな警護体制が決まるまでは、どうしてもね」
シャーロットは思わず顔を歪めたものの、すぐに言った。
「承知しています」
「すまないね」
ネイサンが言って、また、ちらりとマルコシアスを振り返った。
「その悪魔は、すぐに解放するの?」
「えーっと」
シャーロットはマルコシアスを振り返った。
マルコシアスは大蛇のしっぽを振りながら、澄ました様子で悠然とついて来ている。
「たぶん、近いうちに。ただ、それこそ、新しい警護体制が決まるまでは、いてもらうかもしれません。あるいは私が……学院を……その」
「そう」
ネイサンは顎を引くようにして頷くと、首を傾げた。
「明確な用件を命令せずに召喚できたとは、また稀有なことだね」
シャーロットは自分の足を踏んで転びかけたが、真面目な表情で言い切った。
「気のいい悪魔で良かったです」
「ふうん」
ネイサンは肩を竦め、ちょうどそのとき目の前にきた女子寮の扉を見て、いたずらっぽく微笑んだ。
「在学中でも、ここまで来たことはないな。――お邪魔するよ」
「あ、はい」
間抜けな返答を漏らしたシャーロットにくすりと笑って、ネイサンは軽やかに女子寮の中に足を運んだ。
階段を昇りながら、ネイサンはさらりと言った。
「シャーロット、その悪魔だけれど、どうせ解放するなら、きみが議事堂に呼び出される直前にしなさい」
シャーロットはぽかんとして瞬きする。
「……どうしてです?」
ネイサンはいたずらっぽくウインクした。
「報酬は声だろう? 直前に解放しておけば、退学を勧められたとしても、きみは大声を出して泣き喚く醜態から逃れられるよ」
「…………」
さすがに黙り込むシャーロットに、ネイサンははっとしたようにてのひらを見せた。
「悪い、悪い。冗談としてもたちが悪かったね。
――でも、安心しておいで。私もかならず力になるから」
シャーロットは頭を下げた。
――結局、どうしてネイサンは父とグレイを医務室に留め置いてまで、シャーロットと二人になろうとしたのか、それを疑問に思ったのは、部屋に帰り着き、久し振りに慣れたその寝具に頬をつけて息を吐いた、そのときだった。
▷○◁
その後は、事態はきわめてすばやくなめらかに動き、シャーロットは現実味も何もなく、ただ流れていく水に運ばれているような気持ちで、それを見守った。
翌日から講義が再開され、もちろんあの日、大広間で目撃した事態のショックから、しばらく自宅に戻ることを選択した学生もいたものの、大多数の学生は、何事もなかったかのように通常の生活に回帰した。
ネイサンは整えられた客室で一日の大半を過ごしているようだったが、まれに廊下でシャーロットとすれ違い、あるいは窓越しに目が合うこともあった。
彼は彼で、久方ぶりの母校を見て回っているようだった。
そのたびにシャーロットは会釈して、ネイサンはシャーロットに親しげに手を振った。
ロベルタは目敏くそれに気づき、「あの方はどなた?」とシャーロットを問い詰めたものの、正直に言うわけにもいかず、シャーロットは返答をはぐらかした。
マルコシアスはあいかわらずシャーロットのそばにいたが、ほとんどをお気に入りの少年の姿ではなく、狼の姿で過ごしていた。
ご機嫌斜めの様子だったが、この原因はあきらかだった――ネイサンの魔神が、シャーロットに精霊をつけているためだ。
どうやら自分の領分を侵されたような気持ちになったらしい。
しょっちゅう耳をぴくぴくと動かしては、不機嫌に唸り声を上げている。
それにしても四六時中むっとした雰囲気を漂わせているので、「そんなに気に入らないの?」と尋ねてみたところ、むすっとした声で、「他のやつの精霊がふわふわしていると、鼻がむずむずする」と断言した。
「それに、あんたが僕ともろくに話さなくなった」
シャーロットは言葉に詰まった。
そばでネイサンが聞き耳を立てているような気分になってしまって、マルコシアスとも気楽に話せなくなっていたのは事実だった。
とはいえ、講義中も大人しくシャーロットの足許で丸くなっているマルコシアスを見て、とうにストラスを解放していたオリヴァーは驚いた様子だった。
「まだ契約してたのか。報酬は大丈夫か?」
ネイサンがグレートヒルに戻っても、彼の魔神の精霊はふわふわとシャーロットの周りを飛び続けているらしく、マルコシアスはすっかりへそを曲げた。
かれいわく、どうやらシャーロットのことだけではなく、マルコシアス自身の方も見張られていると感じているらしい。
ウィリアムとグレイも、あまりここに長居するわけにもいかず、ネイサンと日を同じくして帰途に就いた。
それを見送りながら、シャーロットは自分の味方が去っていくような心許なさを覚えていた。
マルコシアスが狼の格好をしていることをいいことに、シャーロットは夜にはかれを抱きかかえて眠ることが増えた。
「僕がぬいぐるみに見えるの?」と嫌味を言いながらも、マルコシアスは本気で嫌がる様子は見せなかったが、かれのしっぽがたまにシャーロットの腕を噛んでいた。
シャーロットが深夜に呻きながら蛇と格闘し、ノーマが「シャーロットが悪夢にうなされているのでは」と心配して様子を見にくる、ということが、何度かあった。
そして四月の半ば、シャーロットはグレートヒルに招喚された。
これは、グレートヒルから学院に戻ってきたワルターが口頭で彼女に伝え、しかも彼はそのままとんぼ返りする形で、シャーロットをグレートヒルに連れ戻った。
シャーロットは顔見知りのワルターの同行にほっとしつつも、「もう門番はなさらないんですか?」と、一抹の寂しさを覚えて質問してしまった。
ワルターは肩を竦めて、「さあ」と、本気で分からない様子で首を振った。
「きみをどうやって守っていくか、それが決まったから呼び出されたんじゃないのか?」
それももっともだった。
シャーロットはこくんと頷いて、さらさらと流れていく水を見守るような気持ちで、汽車に揺られていた。
海の上を渡る橋の上を、風が吹き抜けていく。
窓を開けたままでいると、その風はコンパートメントに吹き込んできて、シャーロットの金髪を撫でて巻き上げ、春の匂いと海の匂いを存分に車内に運んできた。
マルコシアスはそのとき、小さなネズミの姿でシャーロットのポケットに入っていた。
ワルターはワルターで、警戒するように「ミズ・ベイリー、きみの悪魔は?」と尋ねてきたものだから、シャーロットは思わずポケットに向かって、「ワルターさんと何かあったの?」と。
「ないよ。ない。何もない。あるわけない」
というのが、マルコシアスからの返答だった。
汽車と馬車を乗り継いでローディスバーグに辿り着いたのは、日も落ちかけた時刻のことだった。
そこで、シャーロットは政府要人のような待遇を受けた。
駅を出た瞬間に衛兵に取り囲まれ、あれよあれよと黒塗りの馬車に押し込まれ、まごついているうちにグレートヒルにほど近い場所にあるホテルに連れて行かれる。
ホテルはシャーロットが見たこともないほど大きく、玄関ホールのシャンデリアは水晶で飾られ、きらきらと輝いていた。
「今日はここで泊まるように」と案内された部屋は広いうえに続き部屋になっていて、シャーロットが思わず、ぼとりと荷物を取り落としたほどだった。
事態の動きに対して失っていた現実味がよみがえってくるような心地である。
夕食は当然のようにその部屋に運ばれ、なおいっそうシャーロットをおののかせた。
シャーロットは翌朝早く、起こされる必要もなくぱっちりと目を覚まし、身支度を整えた。
ネズミの格好のマルコシアスが面白そうに見物するなか、緊張のあまり朝食にもほとんど手をつけられず、部屋の中をうろうろと歩き回って迎えを待つ。
ようやく扉がノックされた際には、あわてるあまりに返答が裏返った。
そうしてシャーロットは、二年前のあの日以来となる議事堂に連れられた。
議事堂で彼女を出迎えたのはネイサンだったが、六人の供を従えて悠然と現れ、小さく震えるシャーロットを矯めつ眇めつした彼は、普段シャーロットに見せる親しみやすさを、欠片も見せることはなかった。
すばやく議事堂の中へ通される。
皆が多忙で、割ける時間はそう多くないのだ、と、無言のうちに宣告されているかのよう。
シャーロットはネイサンの背中を見て、懸命に彼を追いかけるようにして、広い議事堂の中を進む。
階段を昇り、怪訝そうに彼女を見る役人たちとすれ違いながら廊下を歩く。
やがて役人たちの人通りも絶えた一画に行き着いて、その果ての大きな両開きの扉を見る。
扉の前の衛兵たちがネイサンを認めて、示し合わせたように扉を開いた。
なめらかに開いた扉の向こうに切り取られた部屋の景色があって、その真ん中に、この国の首席宰相が座っていた。
前話が記念すべき100話目ですので、
何かコメント等いただければ嬉しいです。