09 期待外れを神さまと人に向かって言うのはナンセンス
シャーロット・ベイリーは、あっさりとアーノルドのことを人畜無害な少年だと信じたようだった。
決まり悪そうに本を下ろして、「ちょっと事情が」と口走っている。
事情。
事情ならこちらにもある。
ともかく一刻も早く、魔術師あるいはあの魔精に、この場所を伝えなければ。
適当に言い訳をして、さっさとこの場から離れて、その上であの二人のところまで走るのが賢明だろうか。
しかし、あの二人が今どこにいるのか、それをアーノルドは知らない――
ぐるぐると考え込むアーノルドの目の前に、すっ、と、手が差し出された。
ぽかんとして目を上げると、シャーロット・ベイリーが左手に本を抱え、右手をアーノルドに差し出していた。
人生において、一度たりとも握手というものを経験してこなかったアーノルドはまごついたが、シャーロット・ベイリーは彼の当惑には気を留めなかった。
生真面目な口調で彼女は言った。
「はじめまして。シャーロット・ベイリーよ。
家族にはチャーリーと呼ばれるし、友達にはロッテと呼ばれるわ。好きに呼んでもらって構わないわ」
アーノルドはおずおずと手を伸ばして、右手でシャーロット・ベイリーの指先だけを握った。
「アーノルド――アーニーだ」
「アーニー」
そう呼んで、シャーロット・ベイリーはにっこりと笑った。
そうすると左の頬にえくぼが生まれた。
「よろしく」
なにを罷り間違えば、自分が誘拐した女の子から自己紹介をされることになるのか。
頭を痛めつつ、アーノルドは気が進まないながらもつぶやいた。
「――よろしく」
「あなた、この町の人?」
シャーロット・ベイリーはなおも言葉を続けた。
「私、――えーっと、ちょっとした事故で、ここで迷子になってしまって。ここがどこかも分からないの。出来れば、電話があるおうちを教えてもらえると有難いんだけど」
「あー」
アーノルドは頬を掻いた。
――この町の人間だ、というのは得策ではなかった。
何しろアーノルドはこの町について何も知らない。怪しまれるのは目に見えている。
そして、この町の人間ではない、ということも得策ではなかった。
どうしてここにいるのだ、という質問に繋がって、やはり怪しまれてしまう。
だから、
「ここは、ベイシャー」
魔術師が言っていた地名を復唱する。
シャーロット・ベイリーが橄欖石の色の目を見開いた。
「ベイシャー!」
あえぐように復唱して、彼女はおろおろと足を踏み替えた。
「そんなに北に……」
「おれは、最近ここに来て」
アーノルドは落ち着いて言った。
頭の中で筋書きが出来ていく。
何回も経験してきたことだ。
険しい顔の憲兵に問い詰められる度に、あることないことをのらくらと並べて躱したことなど、腐るほど経験してきた。
「あんまりこの辺のことは知らないんだ――」
肩を竦めてみせる。
シャーロット・ベイリーが不思議そうな顔をしたので、アーノルドは気の無い声で続けてみせた。
「――父親が死んでさ。こっちに伯父さんがいるはずだから尋ねてきたんだけど、どうもずいぶん前に他所に越して行っちまったらしい。頼るつもりで来たから、おれは寝る場所にも困ってて、で、ここまで探検しに来たんだけど」
ズボンのポケットに手を突っ込んで、にっ、と笑ってみせる。
「きみもお困りみたいだね?」
――そうだ、これだ。
ポケットの中で拳を握る。
――お互いに困っているね、ということで共感を得て、行動を共にする流れを作って、そうして上手く彼女を魔術師のところへ誘導してやればいいのだ。
どのみち、シャーロット・ベイリーも飲まず食わずでここにいるのだろう。
食べ物を探しに行こうといえば、案外簡単について来てくれるかもしれない。
アーノルド、と名乗った少年は、僅かに東方の訛りのある言葉で喋った。
顔立ちも穏やかそうだったが、声音も極めて静かで落ち着いており、シャーロットの初等学校における級友と比べても、いくぶんか大人びた調子だった。
アーノルドの話を聞き、シャーロットは目を見開いていた。
「まあ、お父さまが。それは……」
アーノルドはなぜか、虚を突かれたような顔をした。
彼が過酷な環境にいることは背格好からも見て取れる。
もしかしたら、親族の不幸にも気遣いの言葉などない環境だったのかも知れない。
「あ、まあ」
アーノルドはつぶやいて、少し目を逸らして、目を伏せた。
そうすると、睫毛が長いことが目についた。
アーノルドは、名前も身体つきも男の子のもので、声は同世代の他の少年と比べても低いほどだったが、顔は女の子と言ってもまだ通りそうなほど整っている。
「けど、まあ、大丈夫なんだ。他にも頼れる人はいるし」
目を上げて、アーノルドはシャーロットを見た。
綺麗な青灰色の目だ。
薄曇りの青空の色で、水晶のような透明感のある虹彩の中心の、瞳孔の黒々とした輪郭が際立っている。
「ねえ、ここで会ったのも何かの縁だからさ、なんか食べ物でも探しに行こうぜ。おれ、腹減っちゃって」
シャーロットは瞬きした。
そして、ぽん、と手を打った。
ようやくマルコシアスに何を頼んだか思い出したのである。
「大丈夫よ! 今、私の連れが」
アーノルドの顔が、なぜか分からないが強張った。
「つ――連れ?」
「そう。あんまりいい人ではないんだけど、とにかく私の連れが、食べ物を探しに行ってくれているの。戻ってきたら一緒に食べましょう!」
「あっ、あー……」
アーノルドは目を泳がせた。
「それはいいかな……世話になるのもなんだし……」
ごにょごにょとつぶやく彼に一歩近寄って、シャーロットは力を籠めて断言した。
気持ちとしては、「ここで逃がしてなるものか」といった風だった。
誘拐され、道に放り出され、無碍に追い払われ、そばに人もおらず。
――今の彼女に必要なのは、人間の話し相手だった。
「なに言ってるの。ここで会ったのも何かの縁よ。でしょう?」
――マジかよ。
アーノルドのそのときの心境は、その一言に尽きる。
(悪魔が? 今は食い物の調達の最中で? で、もうすぐ戻ってくる!?)
早く逃げるに越したことはない。
事態はアーノルド一人の手に負える状況を超えた。
あとは、半端に提案してしまった「ここで会ったのも何かの縁」ということを取り消して、早々にここを出て行くのみだ。
「そ――そういえばきみ、」
離別の方に話を持っていかねば、と思うものの、悪魔を意識するとさすがに声が上擦りそうになる。
「きみ、じゃなくてシャーロットよ」
シャーロット・ベイリーは胸を張った。
能天気なお嬢さまだ。
誘拐されてきたというのに落ち着いている胆力に関しては、感心してやってもいいかも知れない。
眩暈を感じつつ、アーノルドはおざなりに手を振る。
「シャーロット。なんでこんなところにいるの?
連れって、大人? 寝る場所の交渉もしてくれなかったの?」
これだ、これだ。
ここで、「誘拐」の一言をもう一度シャーロットから引き出して、そうして、「おれは関わり合うのはごめんだから」と言って、この場を後にすればいい。
「――連れは」
シャーロット・ベイリーは眉間に皺を刻んだ。
綺麗な縦一本の線。
「連れは――どういえばいいのかしら、ずっと会いたいと思っていたのに、いざ会ったら期待と全然ちがう、みたいな、そういう……」
「はあ」
深く考えずに、シャーロット・ベイリーから「誘拐」の一言を引き出したいがために、アーノルドはつぶやいた。
「思ってたのと実物が違うなら、それはきみの思い込みが間違ってたってことだろ。期待外れを神さまと人に向かって言うのはナンセンスだ。
――なあ、それより、シャーロット。きみはなんで――」
「――そうね」
シャーロット・ベイリーが唐突に、遮るように声を出したので、アーノルドは口を噤んだ。
シャーロット・ベイリーの方は、特にアーノルドを遮ったつもりはないらしい。
彼女の橄欖石の色の瞳が、感嘆したようにアーノルドを覗き込んでいた。
「そうね、確かに。『期待外れを神さまと人に向かって言うのはナンセンス』。いいわね。覚えたわ」
「――――」
アーノルドは虚を突かれて言葉を呑んだ。
それは彼が繰り返し繰り返し自分に向かって言い聞かせている言葉だった。
生まれ故郷が貧しかったり、生まれ落ちた家に彼を養うだけの余力がなかったり、そのために炭鉱に送り込まれたり、炭鉱で仲良くなったジョンが死んだり――そういうのは全部、神さまの所業だ。
だから、それに向かってあれこれ言うのは無駄だ。
それよりも、与えられてしまった環境で如何に居心地よく過ごせるものか、それに知恵を絞った方がいい。
人に対してもそうだ。
何を期待しようとも、人の行動に決定権を持つのは、最終的にはその本人だけだ。
アーノルドが外からあれこれ言っても、それを変えることは出来ない。
ならば何を言おうと無駄だ。
アーノルドは自分の手足を動かして、自分のためになることをした方がいい。
だから、『期待外れを神さまと人に向かって言うのはナンセンス』。
これは彼の口癖で、首都のスラムでこの言葉を口に出せば、彼に親しい人は振り返るかも知れない。
気を取り直して、アーノルドはまた口を開いた。
「ところで、シャーロット……」
しかし、シャーロット・ベイリーはすっかりうつむいてしまっていた。
「期待外れを……」とつぶやいている。
自分の口癖のどこに、これほど彼女を悩ませるものがあるのかと若干おののきながらも、アーノルドは控えめに咳払いした。
「あー、シャーロット?」
シャーロット・ベイリーは顔を上げた。
暗澹たる表情になっていた。
「考えてたの。期待外れを神さまと人に言うのはナンセンスって、本当にそうよね」
アーノルドは踵を上下させた。
ぎっ、と、足許の床が軋んだ。
「いや、おれの考えだから」
「でも、そうなのよ」
じめっぽい口調でシャーロット・ベイリーはつぶやいた。
彼女が若干涙ぐんでいるのを見て、アーノルドはうんざりしたが、溜息は堪えた。
アーノルドであっても、スミスによって汽車に詰め込まれた挙句におかしな仕事を押し付けられたことを、顔見知りに会えば怒濤のように話してしまうだろうという自覚がある。
随分と穏やかな生まれを引き当てたらしいシャーロット・ベイリーにとってみれば、昨日からの一連の流れは衝撃というにも有り余る出来事だろう。
多分この顔つきからして、シャーロット・ベイリーは昨日からの彼女の不幸を話し始めるだろう。
アーノルドはその言葉尻を捉えて、「誘拐だって? おれは関わるのはごめんだね」と言って、この場を去ればいい。
が、シャーロットが口に出した言葉は、アーノルドの予想を遥か斜め上に裏切っていた。
「――お父さまが……」
アーノルドの目が点になった。
「――うん?」
「お父さまが急に、私を大叔父さまの家に寄せてしまったの。確かに、期待外れを言うのはナンセンスかも知れないけれど、ひどいと思わない?」
アーノルドは頭を整理した。
シャーロット・ベイリーについて彼が知っていることを、知らないということにして話を進めなければならない。
「えーっと、分かんないな。きみがどこに住んでたのかも、大叔父さまってのがどんな人かも分からないから」
「ケルウィックに住んでたの。分かるかしら、ローディスバーグの近くよ。汽車ならすぐ。
大叔父さまはね、偏屈な人で、夜中のちょっとした物音にも気づいて、次の日にねちねち叱ってくるような方よ。
――でも、いいのよ。別にいいのよ。ちょっとのあいだくらいなら、大叔父さまだって、あの埃まみれのお屋敷だって我慢するわ」
怒濤のように話し始めたシャーロット・ベイリーに、アーノルドはたじたじと後退った。
悪魔がいつ入ってくるかと思うと気が気ではない。
「ちょ――ちょっとのあいだじゃなかったの?」
「違ったのよ」
シャーロット・ベイリーは憤懣遣るかたないといった様子で力いっぱい頷いた。
「私――あの、あなたは知ってるかしら。リクニス専門学院という学校があって、入るのはとっても難しいんだけれど」
「知らないね」
と、アーノルド。ちらちらと教室の入口を窺ってしまう。
「私、とっても頑張って勉強して、そこの入学許可を取ったの。お母さまも、もちろんお父さまも、とっても褒めてくださったし応援してくださったわ。
それなのに急に、私を大叔父さまのところにやってしまって、それどころか入学だって、『また今度な』って――」
シャーロット・ベイリーはわなわなと震えた。
アーノルドは肩を竦めた。
「悪いね、おれ、学校には行ったことがないんだ。分からない」
シャーロット・ベイリーは顔を上げて、アーノルドをまじまじと見た。
居心地の悪さを覚えて、アーノルドは顔を逸らした。
シャーロット・ベイリーは、いっそ不躾に思えるほどの口調で尋ねてきた。
「初等学校は?」
「ほとんど行けなかった」
アーノルドの答えに、シャーロット・ベイリーは目を見開いた。
アーノルドは知らないことだったが、この反応は無理もないものだった――初等学校に行くことは、いちおうは、国民の義務の一つなのだ。
アーノルドは不幸にしてそれを知らなかったが。
片手で口許を覆うと、彼女はしおらしく言った。
「ごめんなさい、アーニー。あなた頭がいいみたいだから、てっきり学校には行ってるものと思ったの」
アーノルドは思わず笑った。皮肉だと思ったのだ。
「頭がいい? 冗談だろう、おれは字も読めない」
シャーロット・ベイリーは真顔で首を振った。
「学があるというのと、頭がいいというのは違うわ。『期待外れを神さまと人に言うのはナンセンス』、本当に私はそうだと思ったの。世の中も他人も期待どおりになんてなってくれないんだから、自分のことは自分でしなきゃって。
でも、そういうのを、ちゃんと言葉にまとめて言うのは頭が良くないと出来ないわ」
少し考えて、シャーロットは考え考えという様子で続けた。
アーノルドはぽかんとしていた。
「それに、学べるところにいるのに学ばない無能と、学ぶことが出来ないところにいる人は違うわ。
私は学ぶことが出来るところに生まれて、幸いにも頭もいいのだけれど、あなたは頭がいいのに学ぶことが出来ないところにいるのね」
憐れむでもなく、評論するようにそう言ったシャーロットは、手にした本を両手で支えて、ぱらぱらと衒いなくページを捲りながら、続けてつぶやいた。
「字が読める人が、みんなが字が読めるようにするにはどうすればいいかってことを考えるべきなんだけど、思うに、本当に難しいことなんだと思うわ。知識が無償で分け与えられるようになるためには、どこかの誰かが、対価もなしに教える人を養っていかないといけないんだもの」
「――――」
実感の湧かない話だったので、アーノルドは黙っていた。
ぱっと顔を上げて、シャーロットはアーノルドに向かって本のページを見せた。
「良かったら、マルコ――私の連れが食事を持って戻るまで、綴りの勉強でもしてみる?」
少し考えて、アーノルドは頷いた。
シャーロットの口振りから、悪魔が戻って来るまではまだ幾許かの時間があるのだと判断したのだ。
アーノルドはもちろん、シャーロットが自分の召喚した悪魔が今どこで何をしているのかも把握していないなどということは、夢にも思わなかったのである。
シャーロットはいそいそと、部屋の隅のがらくたの山から、石版を二つと欠けた白墨、そしてアーノルドには題名も分からない分厚い本を持ってきた。
彼女が手招くので、アーノルドは彼女と並んで、恐らくは彼女のものだろう外套が敷かれた上に腰掛けた。
蝋燭の灯がちらちらと揺れる。
シャーロットは石版を一つ、アーノルドに手渡した。
そして自分も石版を膝に立て掛けるようにした。
「数字は読める?」
「まあ、いちおう」
「お金の単位は分かる? デオンはこう書きます」
石版に白墨を滑らせて、シャーロットが記号を書いた。
アーノルドはそれを横から観察した。
「なるほど」
「お隣の国では、お金の単位はこれ」
アーノルドは笑った。
「それ、知ってて意味あるの?」
「もちろん」
シャーロットは真顔だった。
「お隣の国のお金は、わが国のお金に比べて安いのよ。もし将来、あなたが仕事を探すときに、お金の数字は読めても単位が違っていたら、あなたが損をすることになるかも知れないわ」
アーノルドも真顔になった。
「なるほど、それは危ない」
「でしょう」
そう言って、続いてシャーロットは石版にいくつかアルファベットを書いた。
そして説明する。
これがa、こう発音する、これがb、こう発音する――
アーノルドがまごついていることに気づいたのか、シャーロットは少し迷ったあとで「もう誰も読まないし、いいか」とつぶやいて、手にした本の白紙のページを一枚、慎重に破り取り、そこに拾ってきた木炭を使って文字を並べて書いた。
アルファベットを丁寧に記して、それをアーノルドに渡して、発音を繰り返す。
アーノルドはなんとなくそれを受け取った。
薄汚れた紙に、シャーロット・ベイリーの、こればかりは純粋なものだろう親切が刻まれていることは感じ取っていた。
それからシャーロットは石版を掌でこすって文字を消し、白く霞んだ板面に、白墨で白い文章を作った。
「これで、約束する、と読みます」
アーノルドは懸命にその文字列を真似て石版に写そうとしたが、なかなか上手くいかなかった。
シャーロットはにこりともしなかった。
励ますような笑顔もなければ、憐れみも、いわんやアーノルドの不慣れな手付きを嘲笑うこともなかった。
文字の一つ一つを繰り返し教えて、やがてアーノルドの不格好な「約束」の文字が石版に並んだ。
アーノルドはなんとなく、感動するような思いでそれを眺めた。
石版を両手で持って目の前に翳してみた。
彼が初めて書いた文字だった。
「約束する」
シャーロットはアーノルドの感動の波が静かに引いていくのを待っていた。
そのあいだに、彼女は別の文字列を石版に書いていた。
「これが、支払う」
シャーロットはどうやら、十四歳の想像が及ぶ限りにおいて、契約書において使われるだろう文言を優先して、アーノルドに教えようとしているようだった。
「これが、違反」
アーノルドは、淡々としたシャーロットの声を聞いていた。
白墨でさっそく手が汚れているが、それを気にした風もない。
煙突掃除のために入ったことのある、そこそこ大きな家に住んでいる、そこそこ身綺麗にしている女の子たちは、灰が飛ぶだけで盛大に騒いでいたものだが。
シャーロットの、アーノルドの手許をじっと見つめる橄欖石の瞳、アーノルドの理解を測るように顔を覗き込んでは、ひとつ頷く仕草――
そのうちシャーロットは、持ってきた本を開いて、その中の単語をいくつアーノルドが拾えるものかどうかを見た。
アーノルドにはさっぱり分からなかった。
シャーロットは真面目な口調で淡々と、その文章を読み上げた。
「『われわれは、人の権利への蔑視と軽視が国王の主権を腐敗させたものであることを鑑みて、国体を成す人民の、最も神聖な権利と譲渡し得ない名誉を明らかにするため、われわれの最も善良なる精神に基づいて、この憲法を確定する。この憲法は国の最高法規であり、国政に当たるものの最高規範であり、国王の権威はこの憲法に劣後する。国王は議会を開き、その代表に諮って、権威を行使する。
人民の最も神聖な権利とは、次のものである。生存、平等、自由。これらは公共の利益への配慮以外において規制されない。人民の譲渡し得ない名誉とは、次のものである。独立、教育、所有――』」
「待って、眠くなるよ」
アーノルドが音を上げると、シャーロットは不満そうにした。
「あなたの権利のことなのに」
アーノルドは白墨でぐるぐると渦巻きを描いた。
「もっと面白いものを書いて教えて」
シャーロットは首を傾げ、それから自分の石版を掌でごしごしと擦って文字を消してから、一文をさらさらと書いた。
そして、読み上げた。
「『わたしの涙を溜めた花瓶に あなたのための花を挿す』」
アーノルドは首を傾げた。
覚えのある限り、彼が花瓶を満たすほどの涙を流したことなどなかった。
「どういう意味?」
「説明するのは難しい」
シャーロットはつぶやいて、白墨でぐりぐりとこすって句点を濃くした。
「トンプソンという有名な詩人の詩の一節なの。『トレイシーに寄せて』っていう――」
離れたところで、かたん、と小さな音がした。
シャーロットが顔を上げ、そのときアーノルドははっとした。
のんびりしている場合ではない、彼女の悪魔がいつ戻って来るのかを聞いておかなければ。
そして、出来ればここから動かないよう、適当な理由をつけて言い聞かせて、それから魔術師と合流して――
「――そろそろ、きみの連れが戻ってくるの?」
出来る限り平然として見えるよう気をつけながら、アーノルドは尋ねた。
シャーロットは首を捻った。
「さあ、分からないわ」
アーノルドは瞬きした。
背骨が速やかに氷に挿げ替えられたかのように、背筋が冷えるのを感じた。
「わ――分からない?」
「分からないのよ。食べ物を調達して戻ってくると言っていたけれど、どこまで出かけたのかしら」
不平を滲ませてつぶやくシャーロットの隣で、アーノルドはぎくしゃくとした動きで石版を床に置いた。
シャーロットがアーノルドを振り返って、橄欖石の色の目を大きく見開いた。
「アーニー? どうしたの?」
「おれ――」
アーノルドは言葉に詰まった。
――スミスに言いつけられたことを守るならば、恐らくこれが最後の機会だ。
ここで何か適当なことを言って、彼女を連れ出す。
たぶん、一発殴れば彼女は気絶する。
あるいはそれこそ、何か親切心につけ込むようなことを言えば、彼女はついて来てくれるだろう。
見ず知らずのアーノルドのために、わざわざ文字を教えようとしたほどのお人好しならば――
かさ、と、手許で、シャーロット・ベイリーが彼のために書いたアルファベットの一覧が音を立てた。
アーノルドはうつむいた。
人を叩いてはいけません。人のものを盗んではいけません。人が嫌がることを無理強いしてはいけません。いつも正直に、思い遣りを持って。
――少なくともシャーロット・ベイリーは、彼に対して思い遣りをもって接した。
「アーニー、具合が悪いの?」
「――いや」
アーノルドは顔を上げた。
息を吸い込んで、彼は言った。
「違うんだ、すっかり忘れてた――今日、知り合いがこの辺りを通るんだ――拾ってもらって、他所へ行けないかやってみようと思ってた――もう、おれは、行かないと」
シャーロットが目を見開いた。
このとき、シャーロットが「便乗したい」と言い出せばアーノルドも心苦しい思いをすることになっていただろうが、幸いにもシャーロットは、内心でそう思ったにせよ、口には出さなかった。
彼女は残念そうに眉を下げた。
「――そう。じゃあ、行き違いになったら大変ね、行かないと……大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫だよ。シャーロット、ありがとう」
アーノルドはそろそろと立ち上がった。
教室の入口を見る。
そこに悪魔が立っていたりはしない。
まだ大丈夫。
周囲を見渡したが、あの――スミスに仕える悪魔の――オウムもいない。
大丈夫。
アーノルドは上着のポケットに、シャーロットから手渡されたアルファベットの一覧表を畳んで入れようとした。
シャーロットが飛び上がるように立ち上がって、ぱたぱたと教室の後ろに走っていき、すぐに戻ってきた。
手に、小さな――掌より少し大きい程度の本を持っている。
それも古く、ページの端が朽ちている。
「旅行用の辞書よ。それ、持って行ってくれるなら、これに挟んでおいた方がいいわ」
アーノルドは上の空で礼を言って、畳んだアルファベットの一覧を、小さなその本の真ん中辺りに挟み込もうとした。
シャーロットが横からそれを取り上げて、アルファベットの一覧の下に、金銭の単位や、「約束する」「支払う」「違反」といった文言を書きつけ、それを一つ一つ示した。
そして真面目に言った。
「誰かと契約するときは、その紙を見るのよ」
アーノルドは小さく微笑んだ。
彼の仕事において、契約書が交わされるなどということはまず有り得なかったが、シャーロットはそれを知らないのだ。
アーノルドは今度こそ、その紙を丁寧に折り畳んで、小さな辞書の真ん中あたりに挟み込んだ。
そして、その本を上着のポケットに入れた。
硬い感触が胸に当たった。
もう一度入口の辺りを窺う。
悪魔がそこに佇んでいたりはしない。
シャーロットに目を戻す。
焦る気持ちが身体に現れて、彼は爪先立っていた。
だが、かろうじて、彼は言った。
「ありがとう」
重ねて言ったアーノルドに、シャーロットは屈託なく目を細めて笑った。
蝋燭の灯を吸い込んで、橄欖石の色の瞳の一点が、琥珀のように煌めいた。
「こちらこそありがとう。
『期待外れを人と神さまに言うのはナンセンス』、覚えたわ」
▷○◁
アーノルドはとぼとぼと歩いて、海辺を通る広い道に出た。
しばらくの間うろうろして、太陽が中天に達する頃になって、ようやくあの幌馬車を発見する。
幌の上では、相変わらず白いオウムが優雅に寛いでいた。
馬車の御者台に、先に戻っていたらしい魔術師と魔精が、それぞれうなだれて座っていた。
とぼとぼと近付くアーノルドに気づいて、魔術師が顔を上げた。
「――アーニー、どうだった?」
その期待に輝く顔を見るとつらかったが、アーノルドは顔を背けて、つぶやくように応じた。
「――見つからなかった」
魔術師が、がっくりと御者台に身を沈めた。
頭を抱えて、「なんてことだ」とつぶやく。
彼が呻いて、魔精の方を振り返った。
「リンキーズ、お前にも分からないのかい」
「分からないね」
魔精は悪びれずに応じた。
目玉の大きな犬は、ぱたぱたと尻尾を振って御者台の上で回って見せる。
「精霊にも捜させているけど、見つからないね。そもそも、あの女の子には魔神がいるだろう。悪魔と違って、精霊には消滅の危険もあるからね、みんな怖がって動きたがらない。
ご主人、僕のことをさっさと自由にしてくれていいんだよ。報酬も要らない。縁を切らせてくれ」
魔術師は、絞め殺されそうな声で呻いた。
アーノルドは御者台に凭れ掛かった。
「なあ、あんた、おっさん。こうなったら仕方ないじゃん、逃げようよ。それか上手い言い訳を考えようよ。とにかく腹減ったんだけど」
幌の上で、オウムがちらりとアーノルドを見たようだった。
アーノルドは身を竦めて、「や、まあ、冗談だけど……」と、口の中でもごもごとつぶやく。
魔術師は頭を掻き毟り、そしてその動きを止めると、のそり、と顔を上げた。
目の下の隈がいよいよ濃くなっている。
「――ミズ・ベイリーはまだこの町にいるか……」
「いるんじゃない」
と、魔精が応じる。
アーノルドはぎくりとしたが、幸いにもそれを見咎められることはなかった。
「魔神は気位が高いからね。そこのみたいにお高く留まってさ。
頼まれても、あの女の子を担いで戻るなんて無様なことはしないよ」
「なるほど」
魔術師はつぶやいて、億劫そうに御者台から下りた。
アーノルドは慌てて場所を開けながら、慌てて尋ねた。
魔術師の雰囲気に、ただならぬものを感じたのだ。
「ちょっと? どうしたの、何するの」
「もう仕方がない」
魔術師は馬車の前に立ち、一度ぐっと腰を伸ばすような仕草をしてから、両手を前で握り合わせた。
手首を伸ばして、彼は唇を噛んだ。
「私としても、懸かっているものが大きい。二度目の失敗は避けたい。
――何が何でも、ミズ・ベイリーには出て来ていただく」
アーノルドは嫌な予感を覚え、無意識のうちに魔精を振り返った。
魔精も全く同じことを考えていたのか、アーノルドの方を見ていた。
二人の目が合い、二人は種族を超えた共感に頷き合った。
魔術師はゆっくりと息を吸い込むと、暗い眼差しで海を見つめた。
海は凪いで、船影のひとつもなく、陽光に穏やかに煌めている。
「――ミスター・スミスからの贈り物を使わざるを得まい」