王国の歴史
「どうしたアンナ」
「ジル兄ちゃんは神様のドラゴン様、見たことあるう?」
「は?ドラゴン様なんて、ある訳ねえだろ」
「そうだよねえ」
ざりっ、と底のすり減った靴が地面に擦れて小さな音を立てた。
アンナが足を止めたのだ。
アンナの小さな影は橙色のランタンの下ではしゃぐ子供がいる広場と、人々が祈りを捧げている神々しい大聖堂の方を向いている。
この開けた大聖堂の屋根の下には、神々しい台座に座る一つの大きな石像がある。
この王国一立派で、有名な石像だ。
昼でも夜でも誰かしらはこの像に向かって祈っているし、この像を毎日磨きに来る敬虔な者も少なくない。
ジルは影った場所から遠くの石像を見る為、その真紅の目を細めた。
彼の珍しい紅の目に遠く映ったのは、四つの大きな尾を持ち、まるで世界樹のような角を持つ大きなドラゴンの石像。
巨体ながらも絹のような上品さで、威厳と美しさを兼ね備えた伝説の神様。
これが、その昔この国に籠を授けてくれた偉大なるドラゴンの姿なのだという。
この国の民が崇めてやまない存在だ。
「アンナね、一回ドラゴン様に会ってみたいの」
「ドラゴン様なんてな、王族様でも王か女王になるヤツしか会えねえって話だぜ。なのに俺等なんかが会える訳ねえだろ」
「そっかあ。じゃあアンナ、竜騎士様の竜さんに会いたいなあ。一度で良いから」
「ばーか、俺等みたいな人間には竜だって見る事も叶わねえよ」
「じゃあじゃあ、アンナ、ドラゴン様の石像にお祈りしたい!」
「それも無理だ。あんなに人が周りにいるだろ。出て行けば何されるか分からねえ」
「……そうだよねえ」
アンナは心底残念そうに俯いた。
だがジルを振り払って広場に飛び出していったりしないアンナは聡い子だ。
こんなに小さいのに、スラムの孤児だという自分の立場を良く分かっている。
本当はジルだってアンナのささやかな願いくらい叶えてやりたいが、こればっかりは止めておいた方がいい。
王都は闇市があるから仕方なく来ているが、本当は明るく人目の多い場所に出入りなどするべきではないとジルは知っている。
リスクはいつでも、できる限り減らしておかなければ。
ジルはふうと息を付き、少し屈んでアンナの手を握りなおした。
「もう行くぞ、アンナ」
「いやだあ。もうちょっと見たいよお。ここからでいいから」
ジルはアンナの手を引いたが、アンナはフンと踏ん張って、首を振って嫌々をした。
小さな子の可愛い我儘に見えるそれだったが、それさえ叶えてあげられないジルが首を縦に振ることはなかった。
「俺は王都に長居は好きじゃねえ。いつも言ってるよな?王都は衛兵の数も多い」
「でも今日アンナ頑張ったし、ちょっとくらい」
「アンナ」
低い声で諭すジルの瞳が鋭くなった時、アンナはようやく渋々ながらも歩き出した。
「分かったよお」
「いい子だ」
「でしょお」
足早に歩くジルに手を引かれながら、アンナは鼻を擦った。
2つの影は、夜の闇より更に濃い暗がりを渡るようにして広場から遠ざかっていく。
音もなく痕跡もなく、夜空に浮かぶ月さえも気が付かないような、素早い足取りで。
王国グラバスタでは、アンナのように俗世から見放されたような子供でさえも、四つの尾のドラゴンを信仰している。
信仰度合いの違いはあれど、こうして王国の民がドラゴンを神聖視しているのには、訳がある。
グラバスタ王国の唯一神たる四つの尾のドラゴンは、グラバスタ王国を繁栄に導き、更に王国を守る加護を授けてくれたのだ。
始まりは、ずっとずっと昔の事だ。
それは王国北部の魔晶石の鉱床が発見される前で、まだ人々が酷い気候に晒されていた時期のこと。
まだグラバスタ王国が貧しい小国だった頃の話だ。
毎年満足に食べられないのは当たり前だったが、ある日グラバスタ王国は大干ばつによる飢饉に直面した。
大昔の天変地異がどのような理由で起こったのか正確に語り継がれているわけでは無いから分からないが、元々雨も少なかったがそれは更に酷くなり、空気は砂のように乾燥し、水源は尽く干上がったらしい。
勿論、言うまでもなく作物も枯れはて、家畜もどんどん姿を消した。
困り果てた民たちが雨を祈る儀式に縋っても、どこかにいる筈の神に捧げものをしても、雨は一向に降る気配がなかったという。
グラバスタ王国は酷いありさまだった。
子供や年寄りから力尽きていき、残った者たちの間では、わずかに残った食べ物をめぐって争いが起こった。
明日は生きられないかもしれないと怯えながら、今日の食べ物を必死で隣人から盗み取った。抵抗されれば奪い取った。当時の王国は、混乱を極めていたのだという。
だがその惨状はある日突然、ざあざあと振ってきた雨によって終止符を打たれることとなった。
当時グラバスタ王国の第一王女であったメリナーデが四つの尾を持つドラゴンに祈ったからだ。
彼女は三日三晩何も食べずに祈り続けた。どうか雨を降らせてください。この王国を豊かな土地にしてくださいと祈り続けた。
そして四日目の朝、乾いたグラバスタ王国の空に四の尾を持つドラゴンが現れた。
王女の願いを叶えた大きなドラゴンは、枯れた大地に豊かな雨を降らせ、土地を瞬く間に甦らせた。
それだけでなく、人々に珍しい魔晶石の鉱床を授け、土地を穏やかで住みやすいものに変えた。
素晴らしいドラゴンの加護を得て、グラバスタ王国は一気に豊かで平和な国になったのだ。
こうして人々は涙を流しながら喜んで、ドラゴンに向かって手を合わせるようになったのだ。
これが、グラバスタ王国が四つ尾のドラゴンを信仰する理由の一つだ。
そしてグラバスタ王国がドラゴンを信仰するようになった理由の二つ目。
それは豊かになったグラバスタ王国が、突然怪物の大軍に攻め込まれたことがきっかけだった。
怪物の大軍、今は竜鬼兵と呼ばれている存在は突然現れて、あっという間にグラバスタ王国を血の海に変えた。
彼らは、怪物と形容しても全く差し支えないような姿かたちをしていた。
片腕を鉄をも貫く波導を放つ竜の頭に変えた化け物や、竜の牙が全身から生えているような怪物。
それから人の者とは思えないほどの強度を持った鱗の生えた皮膚に、竜の強靭な尻尾を生やした怪物。
人間のように頭と手足はあるが、性質は極めて残忍で、攻め込んで破壊のかぎりを尽くしては食べ物を漁り、それがたとえ人であろうと食らいつく。
その怪物の大軍は、まごうことなき災厄だった。
怪物の軍勢に襲われたグラバスタ王国は、もう今度こそ滅亡かと思われた。
だが、途方に暮れたメリナーデ王女のところに、再び四つ尾のドラゴンが現れた。
そして十個の大きな卵を王女に渡したのだという。
これが、この神たるドラゴンがグラバスタ王国に授けたもう一つの加護だ。
ドラゴンから授かった加護はすぐに孵化して、中から小さな竜の子が十頭出てきた。
生まれてきた竜は最初子犬ほどの大きさしかなかったが、すぐに大きくなって水かきを持ったり、岩をも砕く頑丈な角を生やしたり、それぞれの姿に変わっていった。
この十の姿をした竜たちは、グラバスタの始祖の血を引く民の中から自らの乗り手を選び、彼らを背に乗せて怪物の大軍を見事撃退して見せた。
人々は十の竜たちを、四つ尾のドラゴンが遣わしてくれた十の眷属だと崇めて感謝した。
この十の竜たちのおかげで、グラバスタ王国は今も守られている。
……ただ、十の竜の力があっても、グラバスタ王国騎士団が狂気じみた怪物の軍に勝利したことは今までに一度もない。
国中のエリートを集めているグラバスタ王国騎士団だが、その実いつも防戦一方で、何とか敵を食い止めているだけというのが、真実であった。
もちろん、その大軍がどこから湧いてくるのかは、北の方ということ以外まだ分かっていない。
攻めてくる大軍を蹴散らして奥に進み、そこに何があるのかを見て帰って来た者が未だいないからだ。