化け物
しかし、ジルの足に覚悟した痛みはいつまでたってもやってこなかった。
そればかりか、痛みによる叫びをあげる筈だったジルに代わって、大男と、ジルを抑え込んでいた作業服の男が叫び出した。
「ヴヴヴワアアアアッ!!!」
「ぎゃああああああ!!!熱い熱い熱い!」
尋常ではない金切り声を上げ始めた二人の臓物狩りが体の上からいなくなったことで、ジルの体は解放された。
「なんだ……?」
ジルが起き上がって見れば、二人の臓物狩りがごうごうと光っていた。
いや、燃えていた。
何処からか現れた熱く滾る炎に包まれて、燃えていた。
理解が追い付かない目の前の状況にジルは何度も目を擦ったが、二人の臓物狩りは、見間違えることさえ許さないような真っ赤な炎に追われて燃えていた。
「なんだ!なんだこの炎は!!!!アアああ!!!!!!」
「熱い熱い熱い!!!助けろ水だ水を持って来い!!!」
臓物狩りの二人はバタバタと溺れたように手を動かし、突然の炎から逃れようともがく。
肌を焼かれる苦痛と共に、狂ったように暴れだす。
しかしどれだけ抵抗しても、炎は彼らを逃さない。
大きな手がしっかりと握り締めるように、無数の蝶がじゃれ付くように。
ジルの瞳のように真っ赤な炎は、ジルを拘束していた二人の男を燃やし続ける。
彼らの様子からは、熱く燃える痛みと逃れられない炎への恐怖が見て取れた。
その光景はまるで火あぶりとまではいかないものの、臓物狩りたちの業を燃料にして火力を増しているようにも見えた。
「幻覚か……?」
自分の弱さを呪うあまり、ジルが哀れな自分に見せている幻覚だろうか。
それとも、耐えがたい痛みで気でも触れたか?
一瞬そう考えたが、この己の目にしっかりと映る炎が幻覚などではないことはすぐに分かった。
ではこの発火が幻覚ではないと言うのなら、一体なんなのだろう。
自由に動く足を手で触って確認してから、ジルは周囲の状況も素早く確認する。
見えるのは、燃える臓物狩りの二人と、右往左往する他の臓物狩りたち。ジル同様、混乱に乗じて解放されたググとイレイナ。
しかしそれだけでは、炎の出所は分からないままだった。
「クルルッルルルルルル!!!」
炎が燃え広がっていく臓物狩りとジルの間に、鳴き声を上げて割って入ったものがあった。
この声はギギだ。
蹴られて為す総べなく転がっていったが、死んではいなかったようだ。
生きていたなら良かった、とジルが思ったのも束の間だった。
「って、は?……ギギ?!」
ジルはまたしても目を疑った。
目の前にあるギギの後ろ姿は、ジルが見知ったものではなかった。
小さなトカゲの背中だった筈が、今のギギはなぜか大型犬ほどの大きさがある。
赤い模様の有った手足や尾の先はまるで溶岩のように赤い光を帯び、黒い鉱石のような鱗は硬く艶めいて、生えていなかったはずの牙が何本も口元に見える。
トカゲのように地を這うのに適していたはずの体は、大きく伸びた後ろ足二本に支えられて大きく立ち上がっていた。しかし四本の足を地面に付けて威嚇している姿は、隆起した体の肉食獣のようにも見える。
辛うじて変わってないところと言えば、喉を鳴らすような鳴き声と、その愛嬌のある大きな目くらい。
「な、何事だよ……」
ジルはギギの変わりように、ただただ目を丸くしていた。
地面に擦られた頬から生暖かい血がぼたぼたと垂れて、マントを赤く染め続けているのにも全く気付けなかったほどだ。
そして、ギギが変わったのは見た目だけではなかった。
「クルルルルル!」
ギギが鳴く。
大きくなったギギは、大きくなった口をガパッと開けた。
ギギの体がうねり、グワンと隆起する。
手足の赤い模様が熱く色を変えたと思ったら、鋭い牙が整然と並んだその口から、猛然と炎が噴射された。
その火は逃げ惑う他の臓物狩り達を襲い、激しい音を立てて炎の柱になった。
ギギが舞うように動き、火を吐いていく。
狭い路地で、更に炎の柱が幾本も上がる。
その炎の柱は臓物狩りたちとジル達を瞬く間に分断し、周りにあったゴミにも次々と燃え移り、更に勢いを強めていく。
ジルの真紅の両目に、眩しく揺れる炎が反射する。
昼間でも薄暗いスラムの街の一角が、昼間よりも明るく燃えている。
腐った街を浄化でもするように、炎がめらめらと音を立てている。
淀んだ空気が沈殿するこの街の薄い酸素が、恐ろしい勢いで消費されているようだった。
まさに火の海。
ジルの大嫌いなスラムの街を有無を言わさず燃やしている、この目の前の光景。
さっきまで手も足も出なかった臓物狩りたちが、一瞬にして追われる立場に逆転したこの景色。
「わけわかんねえ……」
この世には、火を吐くトカゲもいるのだろうか。
しかも、ついさっきまで小さかったのにいきなり大きく成長するようなこともあり得るのだろうか。
突然変異とか言うやつだろうか。
仮にそうだったとしてもそんな摩訶不思議なトカゲなんて、ジルは見たことはおろか聞いたこともなかった。
それはジルがスラムという貧しい町で育って、教育など一切受けていないから知らないだけで、世界では前例の有る事なのだろうか。
「いや、いくらなんでも有り得ねえだろ……」
ジルは目の前でごうごうと燃える炎に見惚れながらも、戦慄していた。
ギギは、トカゲではなかった。
いくら知識の乏しいジルでも分かる。
炎を吐く生物なんて、まともじゃない。
目の前にいるトカゲだと思っていた生物は肩に乗るほど小さかった筈で、愛嬌のある仕草でジルに甘えていたというのに正体は安全な生物ではなかった。
ギギは、俗にいう魔物という奴なのではないか。
今は臓物狩り達に攻撃しているが、すぐにターゲットを替えてジル達を襲いに来るのではないか。
ジルはすくっと立ち上がり、ギギに目を奪われているググを叩き起こし、素早くイレイナを担ぎ上げた。
「ググ、イレイナ、逃げるぞ!」
「待って、ジル兄、ギギが……」
「今はそれを考える時じゃねえ。早く立て!ゴミ山登って壁越えて、早く逃げるんだよ」
そう言うが早いか、ジルはまだ燃えていないゴミの山を登り始めた。
「ま、待ってジル兄」
「早く来い」
ジルはゴミ山をぐんぐんと昇っていく。
慌てて付いてくるググを途中で引っ張り上げつつ、出来るだけ崩れ無さそうなゴミを足場に選んで進む。
壁のてっぺんまで来た時、ジルはちらりと振り返った。
高所からは、先ほどまでジル達が絶体絶命に追い込まれていた路地が、炎の柱によって二つに分断されているのが見えた。
炎の柱の向こうには、大火傷を負ったリーダーの大男と、ギギを指さして何やら叫んでいる作業服の男たちがいる。
彼らの顔には混乱や恐怖の色があったが、なぜか微かな憧憬と興奮も見て取れた。
「撤退だ!主任を早く治療に連れていけ!」
「だが治療よりもあのトカゲだ!十頭しかいないはずだが、炎を吐けるなんてもしかして……!十一頭目を見つけたとなれば、王宮から褒章がたんまり貰えるぞ!」
「俺ももしかしてと思ったんだ。見てみろよ、あのトカゲの落した鱗も手に入れた。俺が報告に行こう!」
「いや俺が行く!!」
臓物狩りたちは我先にとスラム街からどこかへ向かって駆けていく。
しかし、ギギを見てから一変した臓物狩りたちの様子など、この時のジルにとってはどうでもいい事だった。
「ググ、早く登れ!」
ジルは登っていた壁から、その反対側へと飛び降りた。
それからイレイナを地面に降ろし、飛び降りるというより落ちてきたググを受け止めた。
壁のこちら側に来て敵の姿が見えなくなったことで、ググは安堵の表情を見せていた。
「ジル兄、これで俺たち、逃げれたってこと?助かったってこと?」
「いや、まだだ」
しかしジルは険しい顔のままで、更に走るようにググを急かした。
「早く逃げるぞ」
「えっ、でも臓物狩りたちは皆スラムを出て行ったと思ったけど」
「クル!!!!」
首を傾げたググの声をかき消すように、壁の上から落ちてきてタンと地面に着地したものがあった。
黒曜石のように黒い体、流れる溶岩のように赤い尾と手足、鋭い牙と頑丈な爪。
ジル達を追いかけてきたのは、すっかり変わってしまったギギだった。
今のギギは、得体が知れない。
この生物は、尋常でない力を持っている。
……危険だ。
今まで可能性さえ考えたことはなかったが、実はギギは魔物と呼ばれている存在だったのかもしれない。
今までのうのうとギギをトカゲと信じ込んで一緒に暮らして来たが、すっかり騙されていたのかもしれない。
魔物なんて見たことも無いから分からないが、怪物じみた力を持ち、常軌を逸した術を使うと言われている魔物は、今のギギの姿そのものだ。
臓物狩りを攻撃した時はジル達を守っているようにも見えたが、今は臓物狩り達が一人残らず撤退したので、次はジル達に攻撃を仕掛けに来たのかもしれない。
様々な可能性を考えたジルは、咄嗟にググとイレイナを守るようにギギの前に立ち塞がった。
正直、臓物狩りと相対するよりも分が悪い。
吐かれる炎が直撃したら致命傷だろうし、鋭い牙や硬い爪と素手ではどう考えてもジルに勝ち目など無い。
「チッ」
ジルは大きく舌打ちをした。
ギギとの間には、いつしか絆さえあったようにも感じていたのに、それはただジルの思い違いだったのかもしれない。
「来るな!」
「クル?!」
どうせ人間の言葉など、得体の知れない魔物には伝わらない。
その証拠に、ギギはジルに近づいて来ようとしている。
「ググ、イレイナ連れて逃げれるか?」
「えっ?」
「いいから逃げろ」
「でもジル兄、何から逃げるの?もう臓物狩りはいなくなったけど……」
「こいつから逃げるんだよ!ギギはもうただのトカゲじゃねえんだ!」
中々走り出そうとしないググにジリジリしながら、ジルは声を荒げた。
その間も、にじり寄ってくるギギからは目を離さない。
じりじり。
ジルが一歩下がる度、ギギは一歩寄ってくる。
白い牙の間に、ピンクの舌が見え隠れする。
ジルとギギの間で、睨み合いが続く。
しかし堪らなくなってジルが瞬きをした瞬間、ギギが飛び掛かってきた。
「っ!」
ジルは身を翻して攻撃を避けようとしたが、咄嗟に踏みとどまった。
避けてしまえば攻撃がググに当たってしまうと判断したからだ。
ジルはググとイレイナを庇うように、二人をその体で覆い隠した。
飛び掛かってきたギギの灼熱の炎が背中を焼く。
鋭い牙が肉を食いちぎる。
…………なんてことはなかった。
「クルクルクル!!」
痛みに備えてギュッと歯を食いしばったジルの背中には、確かに衝撃があった。
だがそれは思っていたよりも随分と軽いもので、何ら致命傷にはならなかった。
見れば、変身してしまったギギの攻撃は、体が大きくなる前のギギがよくやっていたような、ただのじゃれつき行為だった。
「クル!」
「ギギ……?」
ジルが顔を上げると、ギギがベロンとジルの頬を舐めた。
「うわ、舐めんじゃねえ」
「クル!」
大きな舌で舐められて、思わずジルがギギを押し返すと、ギギは不満そうな顔をした。
姿かたちは変わってしまったが、仕草はトカゲの頃と全く変わり無いように思えた。
唯一トカゲのころの面影を残している悪戯好きのつぶらな瞳で、じっとジルを見つめてくる。
「ギギ」
「クル!」
「お前、俺達は攻撃しないのか?」
「クル!」
「魔物語は分かんねえけど、そうだって言ってんのか?」
魔物は恐ろしく邪悪な力を持つものの、単純で野生動物のように欲望に素直だと聞きいた事があったジルは、試しにギギの頭をこつんと小突いてみた。
もしも危険な魔物ならば、ここで激怒してすぐさま襲ってくるだろうと試してみたのだが、ギギは物凄く不満そうな顔をしただけで、ジルを傷つけることはなかった。
「俺達に炎を吐いたりしないのか?」
「クルクル!」
「俺達に噛み付いたりもしないのか?」
「クルクル!」
「じゃあさっきは、やっぱり俺達を助けてくれたのか?」
「クル!」
ギギは嬉しそうに鳴いて、またもやジルの頬をべろりと舐めた。
助かったジル達の横で嬉しそうにしているギギを見れば、やっぱり敵意はまるで無いのだということが伝わってくる。
「……だから、舐めるんじゃねえって言ってんだろ」
「クルクル」
ジルは安堵したことを隠すようにキッとギギを睨みつけたが、それを見ていたググは一人、可笑しそうに笑った。
「ググ、なに笑ってんだよ」
「や、仲良しだなって。ギギはきっと心配してくれてるんだよ。ジル兄のほっぺ、血まみれだから」
「はあ?こんなん大したことねえだろ。それよりググお前、人の心配より自分の心配しろよ。お前の頬の傷の方がよっぽどじゃねえか」
「俺は元々傷あったし、ちょっと増えたところで何も問題ないでしょ。もう片方は無事なわけだし」
「お前、昔から鈍感というかちょっとズレてるところあるよな」
「え、そうかな?それよりギギ、凄く大きくなっちゃったよね。それに火も吐いてたし。俺、こんなトカゲ見たことないけど」
「バカ、こんなんもうトカゲなんて呼べねえよ。多分ギギは魔物の類のなにかだ。だからさっきから警戒してたんだろうが」
「えっっ」
怪我で意識が朦朧としていたのか何なのか、ワンテンポもツーテンポも遅れて状況をやっと把握した様子のググは、魔物という言葉を聞いてスッと顔を青くさせた。
「ま、魔物?トカゲじゃなかったんだ?!」
「これでトカゲは流石におかしいだろ」
「そ、そっか。そういえば炎吐いてたし、臓物狩りの奴らもギギに大怪我させられてたじゃん!?」
「ああ」
「魔物って言ったら、めちゃくちゃ怖くて凶暴で肉食で得体も知れなくて超絶ヤバいって聞いたことあるけど!?」
「まあ得体が知れないが、ギギは多分、大丈夫だ」
「そ、そうかな。ジル兄が言うなら、そういうことにしとく……?あ、でも実際、タマゴから育てたから、俺らに懐いてて危害は加えない感じ?」
「クル!!」
ギギは返事の代わりに、まだ少しだけ不安そうな顔のググの顔もべろりと舐めた。
「ちょ、うわ……ははは、やめろって」
ベロベロベロと犬のように舐められて、ググはくすぐったいと身をよじる。
ググもまた、小さかったころとなんら変わらないギギの様子に、徐々に表情を緩ませていった。
「やっぱジル兄の言う通り、ギギは姿以外はぜんっぜん変わってないのかも」
「まあ実際、ギギは俺達を守って行動してるからな」
「そっか、そうじゃん!ギギは俺らの命の恩人じゃん!俺、ほんとあそこで死ぬのかと思ったもん。……ああ、良かったほんと……!イレイナもボロボロだけど息はしてるし!」
ググは先ほどまでの緊張感を思い出したのか、ぐったりとはしているがまだ生きているイレイナの肩を抱いて、少し涙ぐんだ。
感情の起伏が普段よりも少し激しいググだが、これも絶体絶命の窮地を切り抜けた後のハイなのかもしれない。
「ギギ、ジル兄とイレイナを助けてくれてありがとう!ほんとうにありがとう!俺、二人が生きててほんとによかった。魔物でも何でも関係ないや。ギギは恩人だよ!」
ググは片手でギギの頭をぎゅっと抱きしめた。
「クルクルクル」
ギギは嬉しそうに目を細め、喉を鳴らしている。
こうして見ている限り、本当にギギはギギのままだった。
ならばギギが魔物だとしても、姿かたちが多少異質になったとしても関係ない。
ギギが変わらないのであれば、ジルが拒否する理由もない。
「おい、そろそろ帰るぞ。座り込むのはまだだ。ググとイレイナは治療もしなきゃいけねえし、ギギも疲れただろ」
「クル!!」
「そうだよ。イレイナも早く寝かせてあげたいし、俺も安心したら体中痛くなってきちゃったし」
「お前はその怪我で、よく失神しないでいたよな」
ジルはイレイナを担ぎ直して、ググの手を取って引きずるようにして歩き出した。
「クル」と喉を鳴らしたギギも、ジル達に寄り添うようにしてついてくる。
横に並ばれるとギギの体の大きさを実感するが、もう脅威に思うこともない。
ただ、小さかったトカゲが大型犬ほどの大きさになっただけだ。
傍から見れば魔物以外の何物でもないかもしれないが、ギギがギギである限り、ジル達にとってギギはギギのままだ。
それより、大怪我を負っているググとイレイナを早く安全な場所で横にならせてやりたい。
そしてすぐにでも医者を呼んで、二人を診せなければ。