光と闇
「見えたか、アンナ」
「うん、見えたよお。テントの奥の黄土色のカーテンの下、鉄の箱の中に金庫があって、鍵は19678だったよお」
「よくやった」
「えへへ。もっと褒めてもいいよお、ジル兄ちゃん」
会話する小さな影と、その横の背の高い鋭い影が潜んでいるのは、商人たちの露店から随分と離れたところにある茂みだった。
褐色肌を隠すようにボロ布を被っている小さな影が、アンナと呼ばれた少女だ。
あろうことか、彼女は片手をグーのようにしてその隙間から商人たちのテントを覗き、金庫の鍵まで目視していた。
そしてアンナにジルと呼ばれたのは、赤く鋭い目の背の高い青年だった。
ジルもまたアンナと同じように、辛うじてマントと呼べるようなボロ布に身を包み、長くなった黒髪を大雑把にひとくくりにしている。
汚くて痩せてはいるが良く動けそうな体を持っている。
ターゲットの観察という役目を終えたアンナの次は、実行役のジルの出番だ。
ジルのが行動を開始するのは、商人たちが休憩を終えて再び接客を始めてからだ。
金庫の鍵が何番かももう把握しているし、ジルにはもういつものように獲物を狩るビジョンが見えている。
ジルにとって、あの商人たちはいわば太った鼠だ。
国外からやって来て、衛兵もほとんどいないのどかな町で、思いもよらない大金を手にして気が大きくなっている。
豊かで平和に見えるグラバスタ王国の上っ面に騙されて、危機管理が出来ていない。
彼らは、自分たちが活動している真昼間に忍び込まれる可能性を塵ほども考えてはいないだろう。
ましてや、金庫の鍵まで見られていた可能性など、思いつきさえしないはずだ。
「いい頃合いだ」
商人たちの露店を見ていたジルが呟いて茂みから離れると、後ろからアンナが小さく「ジル兄ちゃん、気を付けてねえ」と言ったのが聞き取れた。
ジルはまるで蛇のように音を立てず、商人たちの露店への距離を詰めていく。
元々ジル達が隠れていた路地は露店からざっと三区画は離れていたので、町の角を三つ通り過ぎて、ジルはようやく目当ての露店へたどり着いた。
音を立てずに狙うのは、勿論金庫の有る露店の裏側のテントだ。
商人二人は客に気を取られているし、用心棒として雇われた傭兵の一人はやる気もなさそうに欠伸をしている。
露店の裏側を守っているもう一人の傭兵は一応周りに気を配っているようだが、ジルに気が付いた様子はない。
ジルは息をひそめてテントに忍び込み、金庫の中の金を持てるだけ持って、数秒とかからず外に出てきた。
しかし最後の最後まで気を抜かず、ジルは細心の注意を払ってテントを後にした。
もし見つかって捕まりでもすれば、卑しい盗人はその場で処刑も大いにあり得る。
常に命の危険と隣り合わせの行為だ。
だけどジルがこの行為を止めることは無い。
何故ならジルは、この豊かな王国からは考えられないような貧しい場所で生まれて、犯罪でもしないと生きてはいけない最底辺の立場にいるからだ。
犯罪も悪行も、とっくの昔に慣れてしまった。
「ジル兄ちゃあん!」
ジルがアンナと合流すると、アンナはゴム毬のようにジルに飛びついてきた。
「よかった、お帰りジル兄ちゃん。どうだったあ?」
「今日は腹いっぱい食えるぞ」
「やったあ!アンナも、がんばったかいがあったあ!」
「ああ」
ジルはアンナの頭をポンポンと雑に撫でた。
アンナは幼いが、見かけによらず肝が据わっていて頭がいい。
その特殊な視力もあるし、ジルが教えたことを吸収して実践する才能もある。
ジルが幼い仲間を盗みの仕事に連れてくることは殆ど無いが、アンナは数少ない例外だ。
「今回もアンナのおかげで助かった。よくやった。行くぞ」
仕事を終えればその場から即撤退することを徹底するジルは、一息つく間もなく歩き出した。
アンナもそれを心得ているので、スッとジルの後に続いた。
「これから闇市に寄る?ジル兄ちゃん」
「ああ」
「そっかあ、わかった。でもアンナ、あそこの人たち嫌い。皆アンナたちに優しくないし、嘘つくし、ぼったくってくるんだもん」
「仕方ねえだろ」
背の低いアンナは横でジルの顔を仰ぎ見ながら、返事の代わりにぎゅっとジルの手を手を握った。
今ジル達がいるのは王都の南にある小さな町だが、これから王都の地下にある闇市へと向かう。
盗んだ金を食料に変える為だ。
ジル達はお金を持っていても、普通の店で取引が出来ない。
それはジル達の金が汚い金であることも理由だがそれ以上に、ジル達がスラムに住む孤児だからだ。
路傍の石より価値の無いようなスラムの孤児に物を売ってくれるような奇特な店は、王都のまともな店の中にはない。
だから、金さえあれば何かは買える闇市へと行くしかないのだ。
ジルとアンナは王都を目指し、昼間でも薄暗い茂みや、人目に付かない雑木林を通って移動を始めた。
南の町から王都まで距離は少しあるが、見るからに薄汚いスラムの人間を載せてくれるお優しい乗合馬車なんて都合の良い物もない。
途中でアンナの歩みが遅くなってからはジルがアンナをおんぶし、黙々と歩いた。
こうしてジル達が王都の闇市に着いたのは黄昏時だった。
南の町にいた時は太陽は頭の真上にあったのに、それは今や滲んで夜の藍に混ざり始めている。
ジルとアンナは急ぎ足で、王都を走る五本の大通りから曲がりくねった道を暗い方暗い方へ進み、廃墟と見まごうような風貌のバーを目指した。
そのバーの奥には、ジル達が目指す地下へと繋がる扉の一つがある。
ぎいいいい、と乾いた悲鳴のような音が鳴る。
人気のないバーの扉を開けたジルは、埃にまみれた年代物の酒瓶を横目に、壊れたテーブルと散らかった椅子の合間を縫って進んだ。
すぐに到達した地下への重い扉を押し、長い階段を下に降りる。
一歩ごとに冷たい足音が響くが、地下へ近づくごとに段々と賑やかな声も聞こえてくる。
このすぐ先に待ち受けているのは、神聖な宗教国家だと有名な王国の地下に大きく広がる、薄暗い闇市だ。