一瞬
真っ赤な血が滴った。
ぼたぼたぼたと零れて落ちる。
ググの真下に、真っ赤な血だまりが広がっていく。
ググの頬の古傷に刃物が貫通し、引き抜かれた。
真っ赤に染まったググの顔を見て、大男が笑っている。
「ハハハハハハハハハハハハ!!痛いだろう?痛いだろう?」
「……」
床に落とされたググは、酷く熱い自らの頬を押さえた。
指の間を、ぬるぬると血が滴っていくのを感じる。
鋭く侵食するような痛みが、全身を支配していく。
これから、こうして死ぬらしい。
そんなことを思ったググは、何故かスラムで野犬に追われていた時にジルに助けられた日の事を思い出していた。
あの時も噛まれた頬から血が溢れ出てきて、ちょうど今のように押さえても止まらなかった。
ググが走っても走っても野犬は追って来た。逃げられなかった。
迫ってきた野犬の狂った牙を見て、ググはきっと死ぬんだと思った。
でも、それを覚悟した瞬間にジルが現れて、ググと野犬の間に立った。
ジルはその時のググとさほど歳も変わらない子供だったけれど、何故かその背中にとても安心した。
そして、嬉しかった。
誰かが自分の為に戦ってくれるだなんて、不思議な光景だった。はじめての経験だった。
あの時のジルはボロボロだったけど、生きる事ができるのなら自分もこんな風になりたい、なんてぼんやりと思ったことを、ググは覚えている。
それから野犬を追い払って、ジルに名前を聞かれて、名前なんて無いと言ったら空腹でお腹が鳴って、「じゃあググって呼ぶか」とジルが言い出したことさえも、全部鮮明に覚えている。
「ははは」
ググは思わず、小さな声を出して笑っていた。
頬が死ぬほど痛いのに、思い出すのは悪くない記憶。
最悪なスラムで最悪な最期を迎えようとしているのに、やっぱり思ったよりも辛くはない。
それより、あの時のジルのように自分がナッツを守れたのかもしれないと考えると、満足とも思えた。いや、捕まってしまったのだから、少し失敗ではあったのかもしれない。
ジル程にうまくできなかったが、自分にしてはまあ悪くなかったんじゃないかと思うと、ググは益々少しおかしく思ったのだった。
「何を笑っている」
「……ううん、なんでもない」
「まあいい。反対側の頬も貫かれれば、いよいよ泣き喚くだろうからな」
大男が再びステッキを回し、ヒュンと音をさせた。
そして鋭い刃をググの綺麗な方の頬に押し当て、ぐんと力を込めた。
「ぐふっ!」
しかし今度唸ったのはググではなく、大男だった。
ステッキの刃が頬を掠めて逸れたことを不思議に思ったググは、薄暗い部屋に目を凝らした。
不審に思ってザワザワと揺れる作業服の男たちの影。
身をかがめる大男。そして、その背に飛びついた細い影が見える。
「っ!!!誰だっ!!!」
大男は背に乗ったものを力任せに払った。
細い影が振り落とされて地に落ちる。
それは一瞬ランタンのぼんやりとした明りに照らされたが、間髪入れずに床を蹴って臓物狩り達の視界に捉えられる前に、暗がりへと転がり込んだ。
きっと、臓物狩りたちはまだその正体に気づいていない。
だが、ググだけはそのシルエットに見覚えがあった。
「イ……イレイナ……?!」
ググは血まみれの口で、声にならない声を上げた。
間違いない。
あの黒くて長い髪の細いシルエットはイレイナのものだ。
ランタンがあっても暗い部屋の中で男の背後から忍び寄り、その背に飛び乗って鈍いナイフを思い切り突き立てたのはイレイナだったのだ。
「くそ!誰だ、誰が私の背中に!?ゴミか?!ゴミの仲間か?!ふざけるなよゴミの分際で!私に内臓を売られるしか能のないゴミの分際で!お前たち、下手人を探せ!ここにいる筈だ!探せ!必ず捕まえろ!」
イレイナに肩を刺された大男が屈辱に目を血走らせながら、刺さっていたナイフを抜いた。
大男の血が空中に浅く飛ぶ。
飛び散った少量の血から推測するに、大男の服が厚かったのからなのかイレイナのナイフが鈍かったからなのか、深くは刺さっておらず致命傷にはなっていなかったようだ。
「主任が刺されたらしい!大丈夫か?!」
「下手人は何処に?!」
「よく見えん、ランタンを貸せ!」
作業服の男たちはイレイナの突然の登場と、大男が刺されたことに混乱を隠せないようだった。
彼らが暗がりでまだ状況を完全に把握し切れていない中、イレイナは息を満足に吸うこともなく、すぐさま次の行動に移った。
まず黒い髪を振り乱して、手近にあったランタンを叩き割る。
作業服の男たちが頼りにしていた明りのいくつかが消え去り、その場はまた小さな混乱が起こった。
更に明りが奪われた場所でざわめく作業服の男たちの間を走り抜け、イレイナは今度はググの近くにいた作業服の男に突進していった。
ググの拘束具を持っている男である。
「うおっ!??」
ランタンで照らされて辛うじて認識できる視界内に突然黒い影が飛び出して来たので、男は思わず驚きの声を上げた。
暗闇の中から突然飛び上がったイレイナは男が目を丸くしている間に、口を大きく開いて容赦なく手に噛み付いた。
イレイナが持っていた唯一のナイフは大男に刺してしまったので、残された武器は自らの歯くらいだったのだ。
口の中に血の味が広がろうとも、歯が欠けようとも、目的の拘束具の鎖を解放させるまでイレイナは離さなかった。
「ぎゃあああ!」
男がイレイナの影を見て驚いてから手の痛みを感じ、それから叫び声をあげるまで、それは時間にすれば一瞬の事だった。
ガチャンと鈍い音を立て、鎖が下に落ちた。
イレイナは男を蹴ってその反動で飛び出し、床に突進する勢いで鎖を拾い上げ、ググの手を引いてすぐさま走り出した。
傷だらけのググは、それに引き摺られるようにしてついて行く。
「なんで来たんだよ……」
足を必死に動かしながら、ググは呟いた。
口から溢れる血にかき消されて、きっとググの声はイレイナには届いていない。
その証拠に目の前のイレイナは振り返りもしなかった。
振り返らず、薄暗い部屋から一直線に出口へ向かう。
不意をついて混乱を作れるのは一秒しかない。そして、上手く逃げるための隙は一瞬しかない。
その一瞬のうちに逃げられるかが勝負だ。
臓物狩りたちがググとイレイナの走る影を追って暗がりから外の光を見て目を細めたその一瞬、イレイナはその隙を逃さず階段を駆け上がり始めた。
逃げる為の一瞬を逃さないこと。
ジルが教えてくれたことを、イレイナは忠実に守っている。
「あっ……」
しかし階段を駆け上がっているさなか、ググの足がもつれた。
こけそうになる。
視界の端を飛ぶように流れていた景色が急に緩やかになった。
ググが躓いたせいで所為で、イレイナも失速していた。
まずい、とググは思う。
臓物狩りから逃げる為の一瞬が、ググの所為で駆け抜けていってしまった。
明るさに目を慣らし、ハッキリとググとイレイナの姿を捉えた臓物狩りたちが、今度は一直線に二人に向かってくる。
もう目と鼻の先に迫っている。
逃げられない。
ググの中で、目の前の現実の実感がわき上がってきた。
イレイナの突然の登場で、すっかり忘れていたググの痛みが急に押し寄せてきた。
血液が流れるたびに、痛覚はどくどくと脈打つ。走るたびに腹の中が痛む。頭は朦朧とするし、視界は霞んで、頭も痛い。
ググはイレイナの手を振り切って、イレイナだけでも逃がそうかと考えた。
ググはもう逃げられない。きっともう上手く走れない。
元々死ぬつもりだったのだから、自分の事は放っておけばいい。そう言ってイレイナを振り払おうとしたが、イレイナの手は万力のようにググの手を握り締めていたので、結局それは叶わなかった。
「ゴミだ!!!早く捕まえろ!!捕まえるんだ!!ゴミの分際で私の肩を傷つけた奴は死んでも捕まえろ!!!死ぬよりも恐ろしい目に遭わせてやらなければ気がすまん!!!」
大男のギラギラした狩人のような目が、今まで以上にひん剥かれる。
ゴミと蔑むイレイナに、不意を取られたことが相当屈辱だったのだろう。
「足だ!貸せ、私がやる!!!」
大男が、作業服の男の一人から乱暴に武器をむしり取った。
その武器は長く固い鞭だった。
大した予備動作もなく、その凶器はググと共に失速したイレイナの足に向かって一直線に振り下ろされた。
「きゃあっ!」
力を振り絞って作業服の男たちの迫りくる腕をかいくぐり、何とか地上階まで出ることができたとググは思ったのに、足元ではイレイナが倒れていた。
そして倒れたイレイナを抱き起そうとググが屈む前に、ググの体は廃墟のひび割れた壁まで弾き飛ばされた。
「ぐはっ」
背中を壁に打ち付けたググが唸る。
霞む目に、倒されたイレイナと彼女目がけて鞭を振り上げる大男の姿が見えた。
ググは、足を傷つけられて動けないイレイナと目が合った。
イレイナの口が微かに動く。
声は聞き取れなかったが、ググにはイレイナが何を言っているのかは分かった。
「ググ、ごめんね、逃げられなかった。でもアタシが一緒よ。あんただけ一人で死なせたりなんかさせないわ」
だが次の瞬間に聞こえてきたのは、鞭を叩き付ける容赦のない音。
そしてイレイナの痛みをこらえる声。
そして、その呻きをかき消す程の激高した大男の声も。
「この、クズが!ゴミの女の癖に私を刺したのはお前だろうこのゴミが!ゴミがゴミがゴミが!!!ゴミの癖にゴミの癖にゴミの癖に!」
「うっ、ぐっ」
「絶対に逃げられないように、もう片足も折って、ぐちゃぐちゃにしてやる!」
「や……やめろ!」
口からは絶えず血が滴ってくるので思うように声が出なかったが、堪らなくなったググは這うように手を伸ばしていた。
「なんだ、死にかけのゴミ。私に傷を負わせたゴミに制裁を下して何が悪い?なあ!なにも!悪くないだろう?!」
大男はまるで狂ったように腕を振るった。
悲痛に訴えるググの顔に、何か生暖かいものがビチャリと飛んでくる。
ツウと頬を流れたそれは、確認せずとも分かった。
イレイナの傷口から飛んだ赤い血だ。
「やめてくれ……」
「ハハハハ!!いい顔をするじゃないか死にかけのゴミ!このゴミが大事だと見えるな!ああ、このゴミはお前の姉か?妹か?それとも恋人だとでも言うか?ハハハハ。人間気取りか、気持ちの悪いゴミ共が!!!」
「イレイナは大事な仲間なんだ。やめろ、頼む……やめてくれ……やめてくれよ!頼むから!」
「ハハハハハ!!!!ゴミ仲間か!!ハハハ!」
「ほんと、俺には何してもいいから……やめろよ……」
大男の手が止まる気配はない。
イレイナはもう声も出ないのか、されるがままで動かない。
「イレイナ……」
元々霞んでいたが、ググの視界はさらにぼやけた。
野犬に襲われたときでさえ泣くことなんてなかったのに、ググは悔しさでボロボロと泣いていた。
助けてほしい。
仲間を、イレイナを助けて欲しい。
このままではイレイナが本当に死んでしまう。
ググを助けに来たばっかりに、死んでしまう。
そんなのは絶対にあってはならない。
だから、助けて。
お願いだから。
ググがそう願ったのは、この国で神と崇められる神聖な四つ尾のドラゴンではなかった。
勿論女王でもなかったし、英雄と持て囃されえる竜騎士達でもなかった。
「ジル兄……助けて……」
来なくていい、安全なところにいて欲しいと願ったはずなのに、ググは思わずその名前を呼んでいた。