向かう
ナッツはスラム街を駆け抜け、ずっとずっと走った。
後ろを振り返る勇気はなかった。
あの大男と作業服の男がまだ追ってきている気がして、息が切れて肺が焼けそうでも走った。
走って走って走って、
誰も後ろについてきていないことを何度も確認してから、ようやくナッツは住処に辿り着いた。
「ナッツ、どうした?!」
泣きべそをかきながら合言葉を言って隠れ家の中に入り、ジルの顔を見た時だ。
ナッツは決壊したように涙を流し、ジルにしがみ付いていた。
ジルには言うなとググに言われたけれど、ナッツは我慢できない恐ろしい感情に襲われるようにして、一部始終をジルと集まってきた皆に話していた。
涙と鼻水だらけのナッツの話を聞き終わり真っ先に立ち上がったのは、遅かったかと悔しそうに舌打ちをしたジルではなく、イレイナだった。
「早く助けに行かなきゃ!」
「ま、まってイレイナ姉ちゃん!」
すぐさま腰にナイフを差してマントを羽織ろうとしたイレイナを止めたのは、顔をぐちゃぐちゃにしたナッツだった。
「ナッツ、待ってなんていられないのよ。今この時にもググが酷い目に遭ってるかもしれないの!」
「……でも……!!」
ナッツは泣きながら、イレイナにしがみ付いて首を振る。
しかしイレイナは強引にナッツを引き剥がした。
「ググを助けなきゃいけないの!」
「オレだって……でもググ兄がみんなに、来るなって……」
「聞いてなんかやらないわよ、そんなの。かっこつけたつもりなのかもしれないけど、助けに来るななんて、痩せ我慢してほんとバカ!」
「でもググ兄は、みんなを危険にさらしたくない、って……言って……うう」
「分かってる!分かってるわ。相手は臓物狩りで、人を捕まえて殺すのに慣れた連中で、アタシが出来る事なんて、のこのこ出てって余分に内臓提供するくらいだってわかってる。けど、アタシはググを見殺しになんてしてやらないの!!」
「でも、イレイナ姉まで、いなくなるのはやだよ……うわあああん……」
イレイナに気圧されたナッツは床に蹲り、何かから逃げるように肩をぎゅっと抱いて震えだした。
イレイナはそれをちらりと見て震える背中に手を伸ばそうとしたが、パッと引っ込めてくるりと背を向けた。
「ごめんねナッツ。でもジル兄やみんなは危険に晒さない。アタシ一人で行ってくるから大丈夫よ。ググ一人が辛い目に遭うのをほっとくなんて、アタシはどうしても嫌だから。だからアタシが一緒に捕まって、一緒に死んでくるわ」
マンホールの扉を開けて外に飛び出していこうとするイレイナを、ナッツに代わってすんでのところで引き留めたのはジルだった。
「おいイレイナ、少し落ち着け!」
「ジル兄、お願い止めないで!!!」
しかしイレイナはジルの手を全力で振り払い、その勢い余ってバシンと壁まで叩いた。
壁は生身の手よりもずっと硬く冷たくて、傷ついたイレイナの手からは血がぼたぼたと垂れた。
だが興奮した彼女はもう痛みすら感じていないようで、傷ついた手に気付いてさえいないかのように走り出していた。
「だからおい、待っ」
慌てたジルが再び伸ばした手は、今度はイレイナにはかすりもしなかった。
彼女はマンホールの扉を開けて、もう跡形も見えなくなっていた。
普段は冷静なのに、イレイナは時々人が変わったように人の話を聞かず猪突猛進してしまうことがある。
しかも一緒に死んでくるなんて考えなしに飛び出していったとなれば、とっ捕まえてでも引き留めなければ。
ジルはイレイナを追って行こうとしたが、そのジルの腰に何か小さなものがしがみ付いてきて、ジルの動きを邪魔した。
「ジル兄、ジル兄だけは、いっちゃだめだ!」
「ナッツ」
ナッツに全身全霊でしがみ付かれて、ジルは足を止めるしかなかった。
「ググ兄もイレイナ姉ちゃんもいなくなって……ジル兄までいなくなったら……いやだよ……」
見れば、イレイナが立っていた場所には、手から流れ落ちた血が点々と残されている。
ナッツもそれを見たのか、ジルの背中にしがみ付いたままブルリと大きく震えた。
「ジ、ジル兄まで死んじゃったら……オレ、誰かがいなくなるのは嫌なのに……みんな、いかないで。ジル兄、いかないで……」
「大丈夫だ。俺が二人とも連れ戻してくる」
「だから、いっちゃ、だめだよ!だって、ジル兄にも何かあったら、ググ兄がぎせいになった意味が……ググ兄はオレを助けてくれたのに……」
ジルを見上げたナッツが、ぐちゃぐちゃの顔で泣いていた。
ナッツは、その幼い体の中で葛藤しているのだろう。
ググを犠牲に自信が生き残ってしまったこと、そしてそのググを助けて欲しい事、でも誰かが助けに行けばその誰かがまた危険に晒される事。
小さな体で背負うには大きすぎる感情だ。
それを感じたジルは、少しだけナッツの頭を撫でた。
そしてゆっくりと他の子供たちの顔を見る。
不安な顔、悔しそうな顔、泣きそうな顔が並んでいる。
普段うるさいトカゲのギギでさえ大きな瞳を見開いたまま、何かを堪えるようにじっとしていた。
きっと今この状況での最善の選択は、イレイナを素早く連れ戻してググを見捨てる事だ。
小さな子供たちでさえ、薄々分かっている。
人殺しに慣れた何人もの臓物狩りの大人と、馬鹿で弱くて汚いスラムの孤児では、結果は火を見るよりも明らかだ。
助けに行けば行くほど、犠牲は増える。
「ググ兄が、ジル兄は行かせちゃだめだって、そうしてくれってオレに……さいごに……お願いだって……」
ナッツが再び鼻水を啜った。
ナッツが訴えるように、ググの選択が賢いのだろう。
ジル達は生きる為に、仲間を諦めることも必要なのだ。
これが、この弱い者を徹底的に貶めるスラムという場所で生きるということだ。
奪われるしかない世界の理不尽な身分に生まれてしまったのなら、せめて犠牲が少ない方を選ぶ。誰かを切り捨ててでも、多数が生き残れる方を選ぶ。リスクを最小限に、耐え忍んで隠れて生きる。
そうするしか生きる道が無いのだから、他に選択肢はない。
「だから、ググ兄はみすててくれって……」
ナッツは最後に見たググの顔を思い出したのか、再び声を上げて泣き始めた。
理不尽に奪われても耐えて、どれだけ失くしても何も言わず、短い命が汚い街の片隅で尽きるのを震えて待つ。きっと、それがスラムに捨てられた子供の運命だ。
何を失くしたって、どれだけ失くしたって、このクソみたいな街で、クソみたいな人生を生きる為には仕方が無いということも、死ぬほど分かっている。
分かっている。
だが分かっているだけで、それに賛成して大人しく生きられるとは、ジルは一言も言ってない。
「放せ、ナッツ」
「だめだよ!?ジル兄まで、行っちゃ、だめだよ……!」
「放せ」
「ググ兄がさいごに、オレに、頼むって……だから……!!!」
ナッツが震える手で、ジルの服の裾を掴みなおした。
辛いだろう。
なのにナッツは、その小さな体で必死に責任と罪悪感を受け止めようとしている。
「ナッツ、大丈夫だ」
「でも、イレイナ姉もいっちゃったし、ジル兄までいなくなったら、ググ兄は……!!」
「イレイナはすぐに追いついて住処に帰す。ググの意思は知らねえ。もちろんお前の所為でもねえ。大丈夫だ」
「いやだ、死なないでよお……!!!」
「大丈夫だ、俺はググとイレイナを連れて帰ってくるだけだ。死にに行く気はねえ」
ジルの人生にはずっと、お金も無ければ食べ物も無く、権利や自由なんてものも勿論無かった。
このスラムの街に生まれたジルは、普通の人間が持っているようなものをほとんど持っていない。
大切だと言えるようなものだって、きっとこの世界の誰よりも持っていない。
だけど、そんなジルにだって与えられたものもある。
それは良心でも信念でも金でも名誉でもなく、このスラムの街で見つけた仲間だ。
ジル無しでは生きられないこの弱っちい仲間たちを守らなきゃいけなかったから、そして守りたいと思ったから、ジルはこの理不尽なスラムでも生きてこられた。
「ジル、ナッツ」
泣き続けるナッツと、ナッツにしがみ付かれているジルにゆっくりと声をかけたのは、リールだった。
鎮熱剤は効いてきたらしいが、リールはまだ消えない足の痛みに顔をしかめながら、寝床で上半身を起こした。それを横にいたアンナがすかさず支える。
リールの寝床に座ったギギもリールを労わるように体をずらした。
「リール。お前も止めるつもりか?」
「……いいや、僕は止めないよ」
正論でジルを止めに来るかもしれないと身構えたが、リールの答えは予想外のものだった。
「2人ともこっちに来てくれるかい。ごほ」
リールはふうと息を吸って呼吸を整えると、小さな手招きでジルとナッツを自分の寝床に引き寄せた。
そしてまだ熱があるにもかかわらずリールは静かに微笑んでいて、まず近付いてきて枕元に膝をついたジルに声をかけた。
「……ジルはもう、止めても無駄だよね?僕はそれを嫌というほど知っているよ」
リールは、ジルが握りこんでいた手を無理やりこじ開けた。
爪が食い込んで血が赤く滲んでいたジルの手を見て肩を竦めながら、リールは静かに話を続ける。
「僕は見ての通り足が悪い。一人で歩くことも出来ないし、こんなスラムでは真っ先に死んでいたような人間で、死ぬべきだった足手まといだ。でもジル、君は僕を死なせてはくれなかった。こんな僕でも支えて助けて、このスラムで生かしてくれた。子供たちの事だってそうだ。ジルは、路頭に迷っていた子たちを誰一人として見捨てなかった。どんなに死にかけでも足手まといでも、君は絶対に諦めたりしなかった。そんな君が、今更ググを助けに行かない訳がないじゃないか」
「……」
「そして、そんな君に現在も進行形で助けられている僕に、君を止めることは出来ないさ」
ジルが何の返事も返さないのを見かねて、リールは困ったように眉を下げた。
「ねえジル。こんなスラムでも生きている僕らは少なからず、死にたいと思った時に踏み留めてくれる存在、死にそうな時に意識を繋ぎとめてくれる小さな支えを持っていると思うんだ。これはただの僕の予測だけれど、でも十中八九確かに、ググとイレイナが歯を食いしばる時に考えるのはきっと君の顔だよ、ジル。僕は君に、ググたちを助けてあげて欲しい」
「……そんな顔思い出してる暇なんてあるのか知らねえが、言われなくても絶対助けるって言ってるだろ」
ジルが頷いたのを見て満足そうにしたリールは、硬い寝床の壁にふうと背を預けた。
そして少しだけ冗談めいた口調で、ジルに念を押した。
「それに勿論、僕はジルに死んでほしいわけじゃないんだよ。君は臓物狩りが出たくらいでは死なないと思っているから送り出すんだ。君は悪運が死ぬほど強いから、絶対にこれくらいでは死なないからね」
「適当なこと言いやがって」
「いいや、心外だね。適当なんかじゃないさ。思い出してごらんよ。君はこの足の不自由な僕を守って何度危険な賭けに出た?足手まといな僕を助けて何度逃げ切った?今までもそうだったんだから、これからもそうさ。必ずね」
「どんな理屈だよ」
呆れた顔をしたジルを見て、リールは声を上げて笑った。
そしてひとしきり笑った後、リールは未だベソベソと泣いているナッツの手を取って自らの方へ引き寄せた。
「ナッツ、もう泣かないで。正直に言うと、僕もジルを送り出すことが心配で恐ろしい。君と同じ気持ちさ。でも大丈夫だ。ジルはググたちを連れてすぐに帰ってくるから」
「……でもっ!あの臓物狩りの人たち、あのググ兄を一瞬でつかまえちゃったんだよ。いくらジル兄でも……」
「大丈夫だよ。そもそもジルは戦って勝つ必要なんてないのさ。勿論一泡吹かせる必要もない。相手にかすり傷一つさえ付けられなくてもいい。無様でも卑しくてもいいからググたちを連れて生きて帰ればジルの勝ちなんだ。だから大丈夫さ」
「……うん」
リールは小さく頷いたナッツを、優しく抱きしめた。
ジルと出会った頃、幼いリールは今のナッツよりも小さかった。
そして今のナッツよりもベソベソと泣いていて、不自由な自分の事は見捨ててくれ、死なせてくれと毎日のように嘆いていた。
しかしその幼い頃の面影は、今のリールからはすっかり消え失せている。
成長したリールは穏やかで聡明で、時々スラム育ちとは思えない気品すら感じさせる程になっている。
そしてその聡明なリールが、大丈夫だと断言して微笑んでいる。
もしかしたらカラ元気なのかもしれないが、だがそれでもいいとジルは思う。
勿論ジルだってこんなところで死んでやろうとは思っていないのだから、それでいい。
必ずググとイレイナを無事に連れて帰って来る。
「行ってくる」
「夕食までには帰ってくるようにね」
扉に向かうジルの後ろ姿を、穏やかなリールの声が追いかけてきた。
まるで、ジルがちょっとそこまで散歩に行って来ると出掛ける時のようだ。
ジルはマントを羽織ってマンホールの扉を開けた。
外に出たジルの肩に、タタタと足音を立てて近づいてきたギギがぴょんと飛び乗った。
トカゲのギギは、ジルがただ散歩に行くとでも思ったのだろうか。
「お前はいつでも逃げろよ」
「クルクルクル」
顎の下をかいてやると、ギギは気持ちよさそうな声を出した。
ジルがこれからどこへ行こうとしているのか知らないであろうこのトカゲは、まったく気楽なものだ。