不穏の足音
ジルの運命はきっと、タマゴから生まれたギギと出会っていた時点で変わっていた。
しかし変わった運命を加速させたのは、もう二度と体験したくないあの事件だったのだろう。
それが起こったのは、何の前触れもないあくる日のことだった。
時間はまだ、月がぼんやりと浮かぶ早朝。
マンホール下の隠れ家から外の様子は見えないが、何となく空気でわかる。
静かで冷たい空気の流れがある。
ジルはその静まり返った空気の中で苦しそうに唸る声に気が付いた。
「おいリール、うなされてんのか」
声をかけてみるが、返事はない。
しかし聞き間違えることはない。苦しそうな声の主はリールだった。
リールの寝床まで移動して様子を窺ってみれば、リールは額に玉のような汗をぐっしょりとかき、歯を食いしばっていた。
そして歯の間からは、辛そうな荒い息が漏れてくる。
ただうなされているだけには見えないリールの様子を不審に思い、ジルはその額に手を置いた。
途端、ジルの顔がサッと青ざめる。
「っ、熱すぎんだろ」
ジルは傍にあった布切れを取り、リールの額から垂れる汗を拭った。
「あれ……?ジル」
ジルの気配に気づいたリールは薄く目を開け、かすれた声を出した。
「おいリール、大丈夫か。いつからだ?どこか痛いとこは」
「……うーんと……」
「大丈夫か?何が原因か分かるか?」
「足が、ちょっと痛い、かな……」
「古傷か!」
両足の傷は、リールが歩けなくなった原因だ。
そういえば以前もリールが足の痛みを訴えて、高熱を出したことがある。
ここ数年はその症状はなかったが、今回はそれと同じとみていいだろう。
「なら鎮熱剤で治るな。少し待ってろ。すぐに買って来てやる」
「ジル……」
決めてすぐに飛び出していこうとするジルを、リールのか細い声が呼び留めた。
「僕は、寝てれば、治るよ……。大丈夫。薬は高いから、要らないよ」
「はあ?寝てて治らなかったらどうすんだよ。金なら足りる」
「でも、それを使ったら……明日のみんなの食料が……」
「ごちゃごちゃうるせえ。また成金どもからかっぱらってこればいい」
どんどんとか細くなるリールの声を断ち切るように宣言して、ジルはボロボロのマントを被った。
調理場の床下に掘った穴から貯めた金を全て取り出して、腰の袋に突っ込む。
そして手近にいたイレイナを叩き起こし、リールの容態を見守るように伝えた。
突然起こされたにもかかわらずしっかりと頷いたイレイナを見てから、ジルはその勢いでマンホールの扉を開けた。
しかし踏み出す前にふと立ち止まり、ジルの寝床で首をもたげていたギギを呼んだ。
「闇市の薬は特に信用ならねえ。ギギ、来い。お前の鼻なら変なもん嗅ぎ分けられるだろ」
「クルルル!」
ジルに呼ばれたギギは喜んでとんで来て、マントをすっぽりかぶったジルの肩に収まった。
「すぐ戻る」
言い残したジルは、影よりも静かにするりと住処を離れ、王都の闇市へ続く道を急いだ。
まだ日が昇っていない暗い道だ。
夜騒いでいた連中も流石に眠りこけ、一番静かな時間。人の気配はない。
夜通し空いている闇市が店を閉め始める時間帯でもある。
裏路地を駆け抜けたジルは、いつもの廃墟のようなバーの扉を開け、転がるように地下へと駆け降りた。
地上の静けさとは違い、闇市の中にはまだ人がまばらに残っていた。
店もまだ開いているところが大半だ。
何とか間に合いそうだ。
ジルは酔ってフラフラと歩く人を器用に避けながら、マントの端を更に引っ張ってギギの姿を隠し、目的の店へと歩を進めた。
「お前を闇市に連れてくんのは初めてだな」
「クル」
「大人しくしてろよ」
「クル」
「よし。お前はあったかい事と大人しい事は取り柄だな」
「クルル」
ギギはジルの意図を完全に理解しているように小さく喉を鳴らした。
ジルの目的の店は、少しマイナーな雑貨と食料品のあの店だ。
ジルが店先に姿を現すと、煙草を咥えた店主はふうと煙を吐いた。
相変わらず目にも汚い煙だ。
「……ジルか。今日は何だ」
「鎮熱剤が欲しい」
「おっ。いよいよお前もどこか悪いのか?」
「俺じゃねえ。連れだ。怪我した足が痛んで高熱が出る」
「ああ、そうかい。大変だなお前も」
「大変?何がだよ」
「スラムで高熱が出たやつはもう終いさ。必死で金作って薬なんか買わずに、ほっときゃ済む話じゃねえか。薬はゴミの命なんかより高いんだぜ」
ジルのようなスラムの住人に物を売ってくれる数少ない店だから重宝はしているが、店主の煙草で焼かれたような声はいつにも増してジルを苛立たせた。
「ごちゃごちゃうるせえ。薬はあるのか、ねえのか?」
「……あるにはあるな」
ジルが腰の袋から金をわし掴みに出して会計台に叩き付けると、肩を竦めた店主は店の奥に消えた。
そして5秒も経たないうちに何やらゴソゴソと包みを持ってきた。
「これがお探しの鎮熱剤だ」
「混ぜもんは」
「なんかあったな、中毒性のあるもんが一つ二つ。でも熱は下がるぜ、最期にはな」
「クソが。んなもん要らねえよ。人間が使える薬だしやがれ」
「おお怖。スラムのガキはゴミ用の薬じゃなく立派な人間の薬をご所望なわけか」
「そう言ってんだろ。早く出せ」
店主はやけにゆったりとした動作で見せつけるように、別の包みを出してきた。
それをジルの目の前に置いて、さあどうぞとジェスチャーをする。
「これが鎮熱剤だな?」
ジルの問いに、店主は再び煙草を咥え直して横目で頷いた。
ジルは目の前の包みを手に取った。
中に粉状のものが入っていることは感触でわかる。
「ギギ」
ジルは小さく名を呼んで、粉の入った袋をさりげなく肩に近づける。
ジルの肩の上でギギが動き、マント越しに粉に嗅いだ気配がした。
「クルルルルルル」
間髪入れず、ギギが鱗を逆立てた。
ジルの耳元で聞こえるそれは、店主からしたらどうでもいい虫の羽音に聞こえるくらいかもしれないが、ジルにはそれが意味するところが分かった。
「てめえ、これも混ぜもんだらけじゃねえか」
ギギと同じように、ジルも低い声で唸る。
そして容赦なく、会計台越しに店主に粉の入った袋を突き返した。
しかしあくまで冷静を貫く店主はクイッと眉を上げただけだった。
「どうしてそんなことが言える?」
「違うって言うのか?じゃあこいつも俺が買ってやるからお前が飲んで見せろ」
「……それでお前に何の得があるんだ?俺の薬もお前が金を払うなんて、お前はそんな太っ腹だったか?」
「話しすり替えようとしてんじゃねえよ。俺は、この粉はアホ程混ぜもんが入ってることを証明してやるって話をしてんだ。俺が欲しいのはトリップして何もかもを忘れる薬じゃねえ。ちゃんと熱が下がる薬だ」
ジルが鋭く店主を睨むと、店主の男は煙草を口から離して舌打ちをした。
「……はーあ。お前もお前のツレも、スラムみたいな地獄で生き続けるより、薬に頼ってさっさと天国行った方が楽なのによ」
「てめえのクソ価値観押し付けんじゃねえ!」
店主は再び「ハアー」と溜息をついた後、煙草をそのまま会計台に押し付けて焼け跡を残した。
ジュッと小さな音を立てて火が消える。潰れた煙草が下へ落ちる。
店主には灰皿を使う癖はないらしく、会計台は煙草の跡だらけだ。
のそりと立ち上がった店主は、丁度真後ろにあった棚を開けて中に手を突っ込んだ。
「ほらよ」
小瓶を出して来た店主は、それをジルにポンと投げてよこした。
「これでいいだろ。貴族連中も使う正規品だ」
受け取ったジルが瓶のふたを開けて肩に寄せると、ギギは「クルクル」と穏やかに鳴いた。
今度の今度は本当に安全な薬のようだった。
ふたを閉め、最後にもう一度店主を睨んでから、ジルはくるりと踵を返した。
一刻も早くここを立ち去り、リールに薬を飲ませなくては。
しかし店主は、どうでもよさそうな口調でジルを呼び留めた。
「ああそうだ。ジル」
そのまま無視して立ち去っても良かった。
だがジルは何かひっかかる含みのようなものを感じて、店主を振り返っていた。
「なんだ」
「ここいらでスラムの奴らに良くない話を聞いたぜ」
「……どんな話だ」
ジルが低く先を促せば、店主は座っている椅子をゆらりと揺らした。
「臓物狩りが出たんだってよ」
「どこにだ」
「だから、お前の住むスラムにだ。やつらは名前の通り、人を狩って生きてるうちに捌いて取り出した内臓を売る。スラムの連中が良く狙われる。内臓は持ってるが殺したところで誰も何も言わないから、スラムの人間は奴らの恰好の獲物なのさ」
「……誰が買うんだ」
「さあな。俺みたいな闇商人か、闇医者か。はたまた表向きは煌びやかな貴族様も買ってるかもな。特に小さな子供の内臓は高く売れるらしいぞ。お前みたいに薬も酒もしてない若いヤツの内臓も。ああそれと、お前のその珍しい真っ赤な目にも需要はあるかもな。赫眼って言うらしいぞ。ま、俺はスラムの野郎の臭い内臓なんて死んでもいらないが」
「お前の内臓も似たようなもんだろうが。フン、俺はもう行く」
ジルがくるりと踵を返せば、背後で笑う店主の声が聞こえた。
「ハハハ。まあ、せいぜい気をつけな。今日もまたスラムに現れてるかもしれねえからな。臓物狩りの奴らは慈善団体の振りして近づいてくるって噂だが、甘い言葉に釣られて捕まればお前らみたいなゴミはもう終わりだからな」
ジルはもう返事をすることなく、今度は本当に店を後にした。
リールに薬を早く届けたいという気持ちもあるが、嫌な話を聞いたことも相まって、ジルの足は自然と駆け足になった。
臓物狩りなんてしばらく名前を聞くことはなかったが、改めて嫌な響きだ。
もう既に何も持たないスラムの連中から、更に搾り取る事を生業としている連中だ。嫌悪感しかない。
その臓物売りがジルのいるスラムにも現れたなんて、店主の話が本当であれば最悪だ。
ジルが散々経験してきた通り、基本的に闇市には嘘つきが多い。
だが、情報自体は何処よりも先に集まってくる。
それは世に出回る前の真新しい情報や、金の匂いを纏った香しい情報、知ってはいけない危険な情報まで様々だ。
嘘つきが多いと言えど、情報収集の為に身分を明かさずやって来る役人がいる程には、闇市の情報は侮れないと言うのもまた事実なのだ。
「……でも嘘か本当かは関係ねえ。皆には更に注意させねえと。警戒して損することはねえからな」
ジルは一人そう呟いて、闇市から地上へ出る長い階段を一気に駆け上がった。
そして息つく間もなく壊れたバーの扉を開ける。
地上では、眩しい光が目に染みた。もうすっかり夜は明けている。
「……ジル」
「ジル兄!」
住処に辿り着き、中に入ったジルは、弱弱しいリールとイレイナの声に迎えられた。
イレイナはジルの頼み通り付きっ切りでリールの看病をし、水で濡らした布で汗を拭いてくれていた。
既に起きだしていた子供たちも、リールのベッドに集まっている。
彼らは今にも泣きだしそうな顔をしていたが、近づいてくるジルの為に場所を開けた。
「大丈夫かリール。薬はここだから、すぐに飲め」
「……苦い、かな?」
「知らねえよ。でもちゃんと飲めよ」
ジルは早速枕元に膝を付き、手に入れた薬を生ぬるい水でリールの喉に流し込んだ。
背を支えられたリールは、小さく咽ながらも薬を飲み切った。
「もう大丈夫だ」
「ありがと、ごほ……」
「後は寝てろ」
「そうするよ……」
リールはまだ辛そうにしていたが、薬はきっと効いてくる。
そうすればすぐに回復するだろう。
「クル」
ジルの肩からとんとリールのベットに降り立ったギギが、リールの頬を舐めた。
きっと、トカゲでも人が苦しんでいることくらいは分かるのだろう。大きな瞳が心配そうに揺れて見える。
ジルはリールが被っている薄い布をグイッと上に引っ張り、乱暴にリールの首元を暖めた。
「相変わらず、ジルは乱暴だね、まったく……ギギの優しさを見習ってほしいものだよ……」
乾いた声で笑ったリールが静かに目を閉じるのを見届けて、ジルはようやく立ち上がった。
水でも飲もうと調理場へ向かう。
調理場にはスラムに振る汚い雨水を何とか飲めるようにろ過した水が蓄えられている。リールが設備を整えてくれて、ようやく得られるようになった飲み水だ。
欠けた器にその水を流し入れ、ジルはそれを啜るように飲み干した。
思ったより喉が渇いていたので、もう一杯汲んで喉に流し込む。
途中でギギもやって来て飲み水を催促してきたので、手に持っていた器でそのまま分け与えた。
当たり前だが、早朝に起きぬけのまま飛び出してきたのだから、ギギも相当喉が渇いていたようだ。
トカゲがごくごくと水を飲む姿を見ながら、ジルはおもむろに顔を上げた。
そして住処の中を見回す。
「……ググとナッツがいねえな」