第一話 神戸オーハシポートホテル
貯めたお金をつぎ込んでしまったが後悔は無い。アマチュア初段の刑事である吉川は自分に言い聞かせていた。
2024年に始まった赤龍戦は女流棋士史上最高の優勝賞金が懸かったトーナメント棋戦である。棋戦はネットで動画配信されるため、ホテルには一般の観戦者は居ないが吉川は見届け人として身近で観戦できるのだ。見届け人は1人、参加料は百万円と高額ながら応募総数100名を超える抽選で吉川は選ばれたのである。
決勝で対局する金海摩姫五段と林田桜里瑛初段の対局室は神戸港のメリケンパークに近いオーハシポートホテル最上階の35階にある。
ホテルの最上階からは神戸ポートタワーや神戸港、反対側には六甲山や神戸の街が見渡せる。
夜景もさぞかし綺麗だろうな。
今日は刑事としてではなく非番として対局を楽しむために吉川は、対局が始まる前のホテルからの眺望に見惚れていた。
後ろから肩をたたかれた。
振りむくとツインテールの瞳が大きい女性が立っていた。
「三島美都留」
女流棋士になったばかりでまだ見習い中のような者ですと説明された三島美都留二級は、吉川の眼をじっと凝視している。
何か顔についているのか。
馴れ馴れしい雰囲気の見習い女流棋士である三島に案内されて、吉川は対局室隣の動画配信用の大盤解説会場に来た。
「奥には棋戦協賛の眼鏡会社の塚本社長と知り合いの大内さん。毎朝新聞からは桂部長。主催者の南場社長はもうすぐ見えるはずよ」
ツインテールで瞳の大きな三島が教えてくれた。三島は、将棋の大盤横にいる引退棋士の加藤宗因に挨拶をしに行った。
吉川も三島に付いて行こうとしたとき後ろから小声が聞こえてきた。
「対局者は大変ね。私は朝からロビーにいたのだけれども、早くから金海さんはホテルに来ていたし林田さんもさっき会ったら緊張しますと言っていたから。
それにひきかえ南場さんは主催者なのにまだ来てないのね。
昨年の準決勝のイベントで、寒くなりましたねと挨拶をしたら、家はオール電化で床暖房ですから、と嫌味を言われたよ。
来週山口のイベントでまた会うし気分悪い。
新聞社の桂もギャンブルで借金を抱えているとの噂があるし、うちの眼鏡を売り込んでも門前払いよ。気に入らない」
そろそろ対局が始まるようだ。
見習い女流棋士の三島に連れられて、対局室に案内された。
初手を指す場面を目の前の対局室で数分見学できるというのが見届け人のだいご味である。
対局の様子はネットで一手一手動画配信されているが、目の前で見る厳粛で神々しい雰囲気の中でまるで命を懸けているかのように戦う姿はやはり迫力が断然違う。金海五段の左薬指には銀色のリングが光っている。
局面が2手進み、吉川は見習い女流棋士の三島に案内されて対局室を後にして同じフロアの大盤解説室に戻った。
対局から三時間が経過した。
大盤解説会場で吉川は、引退棋士の加藤と準決勝で敗れた女流棋士の北山四段の解説を聞いている。
「もう終盤の局面だね。金海さんの次の一手は相手の飛車を取る3一銀だと思うよ。これで後手はもう受けがないでしょう」
「加藤先生、AIソフトでは王の早逃げの手が候補ですが」
AIソフトの形勢は金海五段が70%、林田初段が30%となっており金海女流が優勢と示している。
金海五段が「3一銀」と敵陣に攻め込む。AIソフトでは金海五段の形勢判断が70%から10%と低下した。ネット中継モニターではAIソフトが林田初段の指し手を9七桂と予想している。
小柄でショートヘアの林田初段が、眼鏡を少し上げ「9七桂」と指した。程なくして、昨年女流棋戦で最高勝率を誇っていた金海五段が投了した。
対局終了後しばらくして対局者も大盤解説の部屋に移動してきたので吉川は再び対局者2人を目の前で見ることができた。
見習い女流棋士の三島は対局者を見ずに換気口や排気口がある所を見上げていた。
ネット中継の視聴者数は跳ね上がっている。
フラッシュが点滅する中で、大盤解説会場の壇上でがっしりした体格の桂部長が二人に対局の感想をインタビューしていた。
毎朝新聞のインタビューが終わると、協賛メーカの塚本桂子社長が銀縁の眼鏡をかけて豊満な体に白のワンピースを纏って壇上に上がり副賞商品を二人に渡した。
最後にショッピングアプリ会社とネット銀行を運営している南場社長が現れた。
仄かに刺激的でスパイシーな香りを漂わせて華やかなパーティドレスを纏い派手な顔立ちである。
「見事なお二人の対局に感謝を申し上げたいと思います。早速ですが、この場で賞金をお二人に振り込みます。対局者には事前に南場ネット銀行の口座を新設していただいています。金海先生には、対局料一千万円が振り込まれます。
次に優勝者の林田先生には優勝賞金と対局料あわせて五千万円が振り込まれます。おめでとうございます。それではお二方は対局室に戻られます」
配信動画では塚本眼鏡のCMのあと南場ショッピングアプリのCMが流れている。CMが終わると再び対局室に金海五段の姿が見えたが、しばらくしても林田初段は対局室に戻らなかった。
加藤と三島が話している。
「林田初段はどうしたのだろうね」
「化粧室ではないでしょうか。それより何か焦げ臭いがしませんか」
その時、ホテルの館内放送が聞こえてきた。
「当館の34階で煙を感知しました。お客様はこれからホテルの誘導に従って落ち着いて避難準備を始めてください」
三島が大盤解説会場を飛び出した。
慌てて吉川も三島のあとを追った。
通路には非常階段の通路があり、三島が扉をあけて階下に走った。
34階ではホテルの係員と警備員がホテルに備えてある消火器を持って煙が出ている部屋の前で鍵を回していた。
警備員が部屋の扉を開くと室内に向けて勢いよく消火器を噴射する。浴室の付近からたくさんの黒い煙が出ている。警備員は更に消火器を何度も浴室に向けた。
吉川も警備員の後ろから付いて行った。浴室からハーブのようなツンとくる匂い、香ばしい匂いも漂っている。
警備員が浴室の扉を開けると、黒焦げの死体が大理石の浴槽に転がっていた。