新しい現実
「いやあそうかそうか、寝ぼけてただけなのか。剣太郎、あんま夜更かししすぎっと体によくねぇぞ~? 」
「泊まってまで飲み会やってた爺ちゃんに言われたくないよ……。いや、さっきは変な事言って悪かったけどさ」
あれから俺は怪我は無いけど泥だらけの身体と服を何とかするために、まず風呂に入った。考えても答えが出ないことは考えず、集中するという点において、比較的複雑な動作を伴う体を洗う行為はなにかと都合が良かったのもあるが。
今は、爺ちゃんと仲良くお土産のお寿司を食べている。久しぶりに食べたまともな食事だ。少し酢の匂いが強い気がしたけれど、死ぬほど上手かった。
無心で箸を動かす俺を満足そうに見つめる爺ちゃん。無言の時間がしばらく続いた後、爺ちゃんは今ちょうど思い出したかのようにさっきの俺の様子に言及した。
「そういえば、剣太郎。さっきバット持ってなかったか? 」
「え? ああ、うん」
「もしかしてまた始めるつもりなのか? 野球」
「どうだろう? ただ……ちょっと色々始めたいっていうか、試したいことは出来てさ……野球はその後にもしかしたら、ってぐらいかな? 」
「そうか? 」
「そうだよ? 」
必死に平静を装ってたけど。内心は心臓バクバクだった。ごまかしてしまった手前まさか今さら本当のことなんて言えるはずがない。文字通り時空を超越した異常現象に巻き込まれたなんて。
ただ爺ちゃんは俺の動揺を知ってか知らずか、優しい包み込むような笑みを浮かべていた。
「勘違いしないでほしいんだけどな。爺ちゃんは剣太郎に無理強いする気は無い。ただ……また何かに打ち込んでる剣太郎を見たいとはちょっとだけ思ってるんだ。野球してた時の剣太郎はすごく生き生きしてたから」
「……」
「爺ちゃん、今度も必ず応援するからな」
「……うん、ありがとう」
お礼を言いながら沸き上がったこの感情は恐らく罪悪感だろう。大切な家族からの厚意を無下にして、騙してしまったという事実は思いのほか俺に重くのしかかった。
ごめん、爺ちゃん。今は、もう一度野球を始めるつもりは全くない。
もちろん、半年後とかには気が変わってるかもしれないんだけど……。『本当はこんなことやあんなことがあって今すぐにでも自分の身に何が起こったのかを確かめたいんだ! 』な~んて言って左手首のコレ見せて説明するわけにもいかないし。流石に信じてもらえないと思うし、まともに説明できる自信も無い。かといってこのまま嘘をつき続けるのは心苦しい。
もやもやとした感情に任せて思考を巡らせていると、右耳にパキッという音が飛び込んでくる。何だと思って鳴った方に視線をやる。
「え? 」
なぜか気づけなかった。手のひらの上で箸が中央で真っ二つに折れている。
あれ? 今、そんなに力入れたつもりなかったんだけど。
「何かをまた始めるって時にハシが折れる何て縁起が悪ぃ……まあ、剣太郎用の箸はもうずっと変えてねえからしょうがないか」
「いや、何か考え事しててさ……ごめん、力加減間違えちゃった。大丈夫? 破片飛ばなかった? 」
その場はそれだけで収まった。だけど生活の中で見つけた違和感はそれだけじゃなかった。
まず物をよく壊した。
ひとたび椅子を動かせば手すりをへし折り、食器を洗おうとすればスポンジもコップも粉々に。ものは試しにと部屋の奥から引っ張り出したハンドグリップをグニャリと変形させたときはさすがに声を上げるのを我慢できなかった。。
2つ目はやたら反応が良い。
割れた破片が飛び散る前に抑えつけるのも。真後ろで机からおちそうになったリモコンをキャッチするのも。周囲を飛び交ううっとおしい蚊を生きたまま捕み取るのも。簡単だった。ずっと前からそれが出来て当然だというかのように。
3つ目はもう単純に動きがおかしい。
階段を駆け下りようとして勢い余って前へと転がり落ちそうになった体を片手倒立で静止したまま支えきった時はあまりにおかしすぎて乾いた笑いが出てしまった。
「本当にどうしちゃったんだ、俺? 」
そんなこんなで自分自身の異変に怖くなった俺は爺ちゃんに『ちょっと素振りしてくる』と偽ってバットを片手に外に出た。
夕暮れ時になった鬼怒笠村は"美しい"という言葉が良く似合う。山の稜線や田んぼの水に夕日が反射する情景は一枚の絵画のようにも見える。
「綺麗だな」
そんな景色に見惚れている間は、ダンジョンを経て変わってしまった身体への困惑も、まともな生活が出来なくなってしまったことへの大きな不安も、少しだけ小さなことのように感じた。つい考えてしまう恐ろしい想像も日中とは打って変わった穏やかで優しい日差しが紛らわしてくれた。
「本当に……綺麗だ」
心が洗われる雄大な自然の情景を前にして、自分が自分でなくなってしまったような恐ろしい感覚から逃避していると。
「ねえねえ、君」
女性の声が後ろからかかる。
ハイ? と返事をして振り返ると、その人は『やっぱり』と口にしてうれしそうな笑顔を浮かべた。
「剣太郎ちゃん、本当に大きくなったわねえ……お父さんに似てずいぶん精悍になったんじゃなあい? 」
「もしかして、倉本のおばちゃん!? 」
カッコつけて、たそがれたふりをするガキの背中にわざわざ声をかけてくれたのは俺も良く知る鬼怒笠村の住人の一人。爺ちゃんの家のご近所さんで"倉本のおばちゃん"こと倉本美和子さんだ。
俺が子供の時から『一人息子が出てってから暇で暇でしょうがないのよー』が口癖だった彼女は、帰省した時に何かと俺たち兄妹の世話を焼いてくれて、随分よくしてもらっていた。会うのは本当に久しぶりでこの再会は下手すれば小学生低学年以来になるかもしれない。
「あら~、覚えててくれたんだ。おばちゃん、うれしいわー」
「もちろん、忘れるわけないですよ! めちゃくちゃお世話になったんですから」
「いいのいいの。昔のことなんてね~……でも本当に久しぶりねえ。元気にしてた? 今年もご実家の帰省? 今は一人なの? お母さんは? 」
昔から変わっていないな。矢継ぎ早に質問を連打してくるところは。そんな珍しくもない事実が、確かな実在感を与えてくれる現実が、今は妙にうれしかった。
「はい、お陰様で元気ですよ! 両親と妹は今年は忙しくてこれなかったんで、今祖父の家にいるのは俺だけなんです」
このまま終始なごやかに進むと思われた久しぶりの人との楽しい会話。
「あら、あらそうなの~本当に立派になっちゃってねえ……じゃあ今朝見た若い人っていうのは多分、剣太郎君のことなのねえ~」
きっかけは、倉本のおばちゃんが最後にポロっと言った一言だった。
「俺のことで……どうかしたんですか? 」
「え? いやねえ……そんな真剣に聞いてほしくないんだけど……本当にくだらないことよ? ウチのご近所の橋本さんって知ってるでしょ? 」
「は、はい」
「あの人がね見たっていうのよ。今朝」
「今朝? 『何を』ですか? 」
「散歩してたら畑のあぜ道の上を見たことのない若い男の人が猛スピードで走り抜けていったって。アレは絶対に『オリンピック選手だ! 』なーんて言っちゃってねえ。いやぁ気にしないでねぇ? あの人ちょっとボケ始めてるからー。男子高校生が走ってるとこ見て過剰に驚いちゃったのねー」
「……」
一切自覚していなかった『自身が成した異常な行動の結果』を突き付けられて、返す言葉が一言も出てこなかった。
思い出した。そうだ、あの夜……トンネルに向かう前にスマホで調べたんだ。トンネルから家までの距離を。確か徒歩10分だと表示されていたっけか? 徒歩10分と言ったら多少の誤差はあれど大体1km弱ある。その距離を戻ってくるのに俺は走って何分かかった? これはあくまで体感だが1分もかかってない。
陸上の100メートルの世界記録が9秒台。秒速にして約10メートル弱。
仮に1キロを60秒で走った場合、秒速は……──。
「──……」
「どうしたの、剣太郎ちゃん? 顔色、悪いわよ? 」
倉本のおばちゃんと別れた後の記憶ははっきりとしない。何か適当な理由をでっちあげて別れた気がするが、どんな顔をしていたのかは自分では分からない。
今いる場所は子供のころはよく遊んでいた裏山にある秘密の空地。ここで素振りをしたり、秘密基地をつくったり、ゲームを持ち込んだりして遊んでいた。その場所で俺は子供の時と同じようにバットを振る。今度は【スキル】──【棍棒術】を使って。
予想通り。軽く振った俺のスイングは中継で見たどのメジャーリーガーよりも鋭かった。
「やっぱ、そうなのか。あのスキルとかステータスって現実にも影響するのかよ……」
認めざるを得なかった。最早そうとしか考えられなかった。
「マジか……そんなことって……」
間違いなく。今この瞬間が。これまでの人生で一番大きな衝撃を受けている。
俺はさっきまでこう考えていた。ゲームの中のダンジョンみたいな世界が存在して、そこにたまたま迷い込んだのは、まあ疑問は多くあるけど納得している。そこでゲームの様なシステムや力を使って戦えるのはむしろ自然というか、『そういうものなんだろう』と受け入れるところまでは出来た。モンスターがいるのも分かるし、たまたま田舎のトンネルに一匹迷い込んだこともまあ、たまにはあることなんだろう……。
そう、そこまでは良い。そこまではどうにか無理やり飲み込めた。ただゲームみたいな世界で獲得したゲームのようなスキルやステータスが『現実のプレイヤーの体そのもの』に影響するとなると話が変わってくる。
ここまでもあり得ない事だらけだったけど、それは流石にあり得なさすぎやしないか?
それってゲームでキャラクターの筋力をあげたら、ゲームをやってる自分自身もムキムキになるってぐらい滅茶苦茶な理屈なんじゃないか?
だけど今日一日少し過ごしただけなのに余りにも証拠が出そろってしまっている。非現実的な現象が重なりすぎている。
だから俺は新たに二つ受け入れないといけない。
「一つダンジョンの中では時間がほとんど経過しない」
口に出して頭の中を整理しつつ、そこらに転がっているボールを【投擲術】を使って、八つ当たりの様に投げる。
「そしてもう一つ。この画面の数値は現実の身体にも影響し……【スキル】も使うことが……出来る」
この目の前に浮かび上がっている情報全ては俺自身を説明している。
つまりこのステータスは──俺の新しい現実だ。
『城本 剣太郎 (年齢:16歳) Lv.20
職業:無
スキル: 【棍棒術 Lv.2】(169/400)、【疾走 Lv.2】(251/400)
【投擲術 Lv.1】(85/100)、【鑑定 Lv.1】(0/100)
称号:≪異世界人≫≪最初の討伐者≫
力:14(+190)
敏捷:17(+190)
器用:14(+ 80)
持久力: 8(+270)
耐久: 6(+250)
魔力: 1(+ 10) 保有ポイント:2500 』
最初は混乱が圧倒的に勝っていた。だけど目の前で起きた全てのことを受け入れてしまった今、なんでだろう。ワクワクする気持ちを止められない。
まさか考えもしなかった。『自分が普通であること』をすっかり許容した高校一年生にもなってから『ゲームの主人公みたいに強くなる』ことが出来るようになるなんて。多分、男なら全員が興奮するようなシチュエーション。それに他でもない俺自身がいる。
【スキル】とステータス。人を惑わすダンジョンと凶悪なモンスター。貴重な攻略報酬と強くなるための経験値。まだ分からないことだらけだけど、わかっていることだけでも、考えられる可能性は無限大。
これからどうするかは全て──俺次第だ!
「ふふ……へへへ……」
やばい……ニヤケが止まらない。俺ってまだ、こんなに興奮できることあったんだ。
「だけどさぁ、爺ちゃん? さすがにこれじゃあ……野球また始めるのは無理だわ」
新しい現実にひとしきりひたることに満足して、少し冷静さを取り戻した俺の視線の先には『古ぼけた軟式ボール』の残骸が、木の幹の奥深くにめり込んでいた。




