木ノ本絵里の記憶・中編
木ノ本絵里は走ることが好きだった。
習い事だらけの小学生時代。気持ちが晴れないときは長い距離を淡々と走るといつも少しだけ心が楽になった。好きでやっていたことは習慣になり、次第に毎日の日課へと変化する。そんな風に走り続けて数年。絵里の長距離走の能力はちょっとした強みになっていた。
「絵里ももう高校生なんだから、自分の好きなことやったら? 」
という姉の言葉に後押しされて絵里は高校では陸上部に入りたいと両親に頼んだ。
「……勝手にすれば? 」
母親からのそんな快い回答もあり無事に大和第一高校陸上部に所属できた絵里。そこで彼女はとてつもない才能と対面することになった。
「えぇー! キノっち毎日そんな距離走ってるの!? すっごぉ……」
そう絵里の前で驚きの声を上げるのは相沢ひかり。長距離と短距離で練習メニューは別で、部活中あんまり顔を見合わせることはないけれど何故か絵里と仲良くなった女の子。彼氏持ちで一年生ながらすでに学校どころか県内一の実力をも持つ、ひかりによる手放しな称賛に絵里は気後れした。
「そんな大げさだよ。ひかりちゃんの短距離に比べたら私なんて全然」
「いやいや! そんなに長く走れる高校生なかなかいないって! 自信持ってキノっち! それに私のベストタイムなんてたまたま飛び出しがうまく行っただけだしさ……あ、先生こんにちわ! 今日の練習は見に来てくれますか? 」
謙遜しつつも褒められて嬉しそうにするひかり。さらにはたまたま見かけた顧問に対してもぬかりなく挨拶もする。
絵里がひかりに関して驚かされたことは多々ある。中でも最大のものは何と言ってもこの彼女の性格の変貌だろう。
「本当に凄いねひかりちゃんって。私と話すときと先生と話すときと……坂本くんと話すときで全然キャラが違うんだね」
「私もどうにかしたいんだけどねー。中学の時に海斗にいくらアピールしてもぜーんぜんこっちの気持ちに気づかないの。でも今更こっちから告るのもムカつくから海斗好みの『ゆるふわ系』で攻めて向こうから告らせたんだー。女子ウケ最悪だけどまあしゃーないよね。惚れた弱みってやつ? 」
サバサバと語るひかり。一方的に気持ちを押し付けて好きな人に引かれてしまった絵里から見たら『好きな人に合わせて性格まで変えたひかり』のことがとても眩しく見えた。
「強いなーひかりちゃんは。先輩に何か言われた時も全く引かなかったもんね」
絵里はうらやましかった。どんなことがあったとしても自分を強く持っていられるひかりのことが。
「あんなの完璧に嫉妬でしかないしー。気にする必要ないしー。高校の部活なんて実力社会だしー。だからキノっちも言い返していいんだよ? キノっちはただでさえ強く言われたら断れないところあるんだから……」
そんな会話をした5月の後半。6月へと切り替わり皆が夏服を着だす頃。ひかりの懸念は最悪の形で実現することになる。
「暗黙の了解ってやつ? 記録会で1年は『抜け』ってさ2年から教わらなかったの? 」
「すみません」
「ほんとさー勘弁して欲しいんだよねー。終わった後でぺこぺこしてさー。私等が悪いみたいじゃん」
「すみません」
恐ろしい剣幕で詰めてくる先輩に対し、平謝りすることしかできない絵里。頭を下げながら、いつかした"ひかりとの会話"を思い出し、彼女は内心で弱音を漏らした。
――『ひかりちゃん、私にはそんなことできないよ』と。
陸上競技は全員が全員希望通りの競技に出れるわけではない。学校と種目ごとに出れる『枠』は決まっている。
例えば女子3000m。絵里が部活に入ってから出ることを目標にしてきたこの種目。大和第一の枠は5。
つまり実力者である絵里が入ったことによって3000m出場志望の3年生が一人確実に弾き出される計算になる。そのことは部活に入った段階からわかっていた。
だけど絵里は『暗黙の了解』なんて一度も聞いたことが無かった。
「ほんと──くんはなんでこんなのがいいんだか…………ねえ明日のタイム測定の日さ休んでくれない? 」
「え? 」
「ここまで言わなきゃいけないの? ねえお願い木ノ本さん。先輩の顔を立ててよ」
「……はい」
ただただ惨めだった。先輩の要求が理不尽だと思いながら何も言えないことも、大きなトラブルにはならなそうでほっとしてしまったことも、高校に入ってから初めて出来た友達の助言を無視してしまったことも、全てが絵里を苛み、苦しめた。
(ひかりちゃん……ごめん。ごめんね)
次の日、絵里は生まれて始めて部活動を無断で休んだ。でも放課後、暇になった後も家に帰りたいとはさらさら思わなかった。
姉は大学の卒業を前にさっさと家を出ていった。親は今日は二人とも遅くまで帰ってこない。それに……
(あの人たちはもう私に何の興味もないだろうし……)
絵里は思い出す。今までの人生を。
ずっと人の顔を伺って生きてきた。親も友人も他人も好きな人のことも。
言われるがままにたくさん習い事をやってきた。ピアノ。体操。水泳。テニス。塾。書道。全て親の高い期待には応えられなかった。親が一度でも振り向くような結果は出せなかった。
一念発起した中学校。初めての部活。初めてのマネージャー。好きな先輩によかれと思ってやったことは全て空回り。むしろ気持ち悪がられた。
そして高校生。長年頑張ってきた。走ること。長い距離を走る能力を活かそうとした。けれどそれすらも喜ばれることは無かった。煙たがられた。かといってひかりぐらい飛び抜けた結果で黙らせることさえもできなかった。
(そうだ……今まで……頑張ったこと……ぜーんぶ……)
「無駄だった」
その自分の一言でパッと目が覚める。朦朧とする頭。濡れた頬の感覚。状況にゆっくりと頭を慣らしていった絵里は今自分がいる場所をようやく思い出した。
(そうか図書室。ここっていつも誰もいないから)
現在の時間を確認しようとして手首を確認。しかしそこには使い慣れたデジタル腕時計はついてない。
(今日は部活行かないから持っていくのやめたんだっけ)
使い古したななめかけバックから急いでスマホを取り出そうとしたその時。一つの足音が絵里の前にたどり着いた。
「すいませーん。そろそろここ閉館です」
顔を上げる絵里。
どこかで見覚えのあるような……名前の知らない男子がそこにはいた。夏服姿でネクタイの色は今の自分がしているリボンの色と同じ赤。つまりは同学年。
(違うクラスの男子……図書委員の? でも……なんでそんなに驚いて……? あ! )
絵里はようやく気づいた。今の自分が涙を流していることを。
(はずかしい! 泣いてるとこ……男子に……)
顔を覆うがもう出遅れだ。それを意識しだすと余計に涙が止まらなかった。積み重なった惨めさと瞬間的な恥ずかしさが重なり感情の発露が止まらなかった。
そんな時、手で抑えた絵里の目に何かが映った。すぐにわかった。それが差し出されたハンカチであると。
「もし良かったら……使ってください」
指し伸ばされた名も知らぬ同学年の男子の大きな手のひら。絵里は迷わずにその手を取った。まるで『迷子の子供がようやく親のことを見つけた時』のように。
「ごめんね……。いきなり泣き出しちゃって。もう出てくから……ハンカチありがと。明日洗って返すね」
「いやそんなこと全然気にしなくていいんだけど……」
絵里の目を見る男子の目は言わずとも語っていた。『本当にもう大丈夫なのか?』と。絵里は一度うつむいてから笑顔を作ったあとに顔を上げた。その笑顔は自然で魅力に満ちた笑顔。そんな作り笑いばかり上手くなる自分のことすら絵里は嫌いだった。
「ほんとうにもう大丈夫。ただ部活辞めるかどうか迷ってたら感極まっちゃって……それだけだから」
嘘は言ってない。絵里は陸上部をやめるつもりだった。けれど本当のことも言ってなかった。絵里が泣いたのはそれを迷ってたわけじゃないのは彼女自身が一番わかっていた。
だがそれも当たり前。同じ高校とはいえお互い名前も知らない男女。それ以上でも以下でもない。なら言う必要はない。自分の本心も、身の上も。
しかし。そんな絵里の発言を聞いて男子は彼女が思ってもみない反応を見せる。
「運動部、ですよね? ……結構がんばったんすね。おつかれさまです」
優しい口調だった。まるで妹を慰める兄のような。それも絵里の努力を全て見てきたかのような口ぶり。なぜか絵里はそのことが無性に気になった。
「どうして? ……がんばったって思うの? 私が」
図書室を出る前の、退部届を提出する前のほんの些細な質問のつもりだった。
しかし返ってきた答えはまたもや絵里を驚かせた。
「その時計焼け。俺も中学のころに体力つけるために夏休みに走り込みしたからよくわかる。そのくっきり具合は相当走り込まないと絶対にできない」
「…………」
言葉が出てこなかった。まさか自分の日焼けした肌からそんな風に評価されるなんて思っても見なかったから。しかし男子の方はというと……
「ごめんしゃべりすぎたわ……キモかったな俺。忘れてくれ」
急に黙りこくった絵里に『やっちまった』という顔をしていた。絵里はそんな彼を慌ててとりなした。
「そ、そんなことないよ! ……びっくりしただけ……名探偵みたいだね」
「いや俺も昔はちょっとスポーツやってたからさ……このくらいは……」
その男子の自嘲が混じった表情を見て絵里は確信した。この人も努力に裏切られた自分の同類であることを。
絵里は衝動に駆られた。自分の今の気持ちをこの男子に言ってしまうことを。
「私が部活辞めるのはね……努力って報われないってやっとわかったからなんだ……遅すぎだよね……」
思わず言ってしまう。この見知らぬ男子はカウンセラーでもなんでもないはずだ。それなのに何で気持ちをぶつけてしまったのか。
(私……さっきから何言ってるんだろう……子供みたいなこと言ってさ……)
絵里もよくわかっていた。高校生にもなったら皆が皆折り合いをつけること。自分自身の可能性に。
自分が特別ではないと。
努力だけじゃ行けない領域があると。
努力はほとんどの場合、裏切られると。
(私はこの人に何を言ってもらいたかったの?)
絵里が何かを諦めるとき。
両親は失望を隠さなかった。
習い事の先生は優花の名前をだしため息をついた。
友人達には『ふーん』と一言返された。
毎回似たりよったりの反応だ。
一体自分は何を期待してるんだ。
「努力ってさ……裏切るよな。でもそれは費やした時間じゃなくて……自分の期待を」
だから絵里は驚いた。さっきの自分の戯言を真剣に考えてくれた男子にも、その言った内容にも。
「頑張ってる最中は期待するもんな。このくらいやったら……これぐらい伸びるんじゃないかって、こんなに凄くなれるんじゃないかってさ。でも結果は期待をほぼ下回る」
「…………」
絵里は心が苦しくなった。まさに今の自分自身だと思ったから。
(そうだよね。才能がない人はいくら頑張っても……)
「でも俺は……努力は無駄じゃないって思ってる」
そう強く言い切った男子。絵里はうつむいた顔を上げる。
「そう少しは思えるようになったのは俺も最近なんだ……覚えてる? クラス対抗駅伝のこと」
「……うん」
(もちろんよく覚えている。私は陸上部だから出られなかったけど……)
大和第一高校の伝統行事。ゴールデンウイーク直前に1年生はクラスの親睦を深めるために数人を選んで駅伝を走る。結構盛り上がった記憶もある。
「うちのクラスの選手の一人がさ……怪我で急に出られなくなっちゃって。俺が代わりに出たんだ」
「あ……」
(思い出した。B組のアクシデント)
そしてあの日見たB組の代走の顔が目の前の男子と重なった。
「俺さ怪我してスポーツやめたからさ……本当は走りたくなかったんだ。全然自信なかったし。足めちゃくちゃ引っ張るんじゃないかって……思ったから」
「うん」
「だけどさ……体は動いてくれたんだ。体力はそこそこ落ちてたよ? 柔軟性もボロボロで現役時代と比べたら全然だ。でも走るフォームだけは体が覚えてた。何度も何度も走ったから」
「…………」
「俺がやってたスポーツってそんなに長い距離は走らないんだけどな。でもあの日俺が走れたのは絶対『ソレ』をやってたおかげだった。最初は思ったよ。小中あんなに長くやってマラソンちょっとできる程度かよって……」
「…………うん」
「でもこうも考えられる。どれだけ見返りは小さくても自分の期待は大きく裏切っても努力の結果はどんな形でも出る。だったら頑張ったことにも意味がある。そう思ったらちょっとだけ楽に────」
「おい城本! いつまでいるつもりだ! 5時半になったら一回呼びに来いって言ったろ! 」
「あ、先輩……すみませーん今行きまーす。……ごめんまた話しすぎた。……もう少しここにいてもらってもいいけどそろそろ司書の人が見回り来るからそれまでは帰ったほうがいいぜ。それじゃあ……! 」
それが木ノ本絵里と城本剣太郎の最初の出会い。絵里は始めてだった。『努力した自分自身のことを認めて良い』と言ってくれた人に出会ったのは。絵里はそれから陸上部で揺るぎない結果を見せつけて見事に出場『枠』を勝ち取った。自分のことを、自分の努力を認めれるようになった絵里はとても強かった。
大会も無事終わり、数週間たったころ絵里にはさらなる変化が訪れていた。
「キノっちが日焼け止め!? 私があんなに付けたほうがいいって言っても聞かなかったのに! 」
「ご、ごめん」
「あー! もしかしてぇ……気になる男子でもできたとかー!? 」
「え! あー……う~。ど、どう、かなぁ……? 」
「え、マジなの? 」
絵里自身今の自分の気持ちはよく分からなかった。全てが始めてのことだったから。
結局あの日は『あの男子』とは再会できなかった絵里。借りたハンカチもいつのまにか持っていかれてしまった。分かるのは顔と駅伝を走ったこと。名字が『城本』ということ。それだけ。
(もっと知りたい。あの人のこと)
中学のころ好きだったサッカー部の先輩にすらそんなことは思わなかった生まれて初めての感情。
その願いが通じたのかは分からないが思ってもみないところで絵里と城本という男子はつながる。
「ひかりちゃんの彼氏の坂本くんの友達……? 」
「そうらしいよ。珍しく海斗の顔の広さが役に立ったよー。いっつも見たことない女の子といつの間にか仲良くなってるんだから! 私の知らないところで……」
いつもの彼氏の惚気を言い始めるひかりに笑いかけながら絵里は直前に聞いた名前を噛み締めていた。
(城本……剣太郎くんか。……また会いたいな)
それから夏休みも挟んだ10月。ひかりと海斗の協力もあって剣太郎との再会はやってきた。しかし……
『話すのは始めてだよね』
剣太郎は絵里のことを覚えていなかった。
(まあそうだよね。あの日の私は泣いてて顔ぐちゃぐちゃだったし……今と違って焼けしてたし……覚えてないのも……当たり前か)
最初は少しショックを受けた絵里。剣太郎の指に嵌っている指輪も少し気にはなった。だけどそれからは楽しかった。賑やかな参道を二人で会話しながら進んだ。その間絵里は剣太郎について多くを知ることができた。
妹がいること。
野球を昔やっていたこと。
本人は必死に否定したけれど、友達思いなこと。
夢のような時間だった。このままずっと続けばいいとさえ思えた。しかし絵里は知っていた。楽しい時はいつか終わりが来ることを。
突如現れた悪魔の大群。逃げ惑う人々。それを襲う悪鬼達。剣太郎の姿を必死で探しながら台倭神社から逃げれないことを知った絵里は悟った。
(私ここで死んじゃうんだ……)
そんな時に見つけた。親とはぐれて泣いている女の子。絵里の体は自然と前へ動いていた。それは他人に乞われた訳では無い。頼まれたわけでもない。間違いなく自分の意志での行動。
けれどその日の絵里はあまりも無力。悪魔の魔手は即座に彼女へ襲いかかった。
「大丈夫か!? 木ノ本!? 」
ずっと聞きたかったその声を聞いた時。絵里の目は潤んだ。しかし剣太郎は険しい顔を崩さない。まるでこの地獄のような状況を自分で対処するとでも言うように。
(剣太郎くんは……何か隠してる。でも……)
必死な剣太郎に絵里は声をかけれなかった。だからこちらに背を向けて去っていく背中に彼女は心のなかでだけ言った。
『がんばってね』と。




