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城本梨沙の話・後編

「いやあーやっちゃったよ肩。医者が言うには結構ひどいみたいでさ。日常生活には全然支障はないんだけど。もう投げられないんだって。だからもう辞めることにしたよ野球部。丁度俺の後釜の一年も入ってきたとこだしさ。結構すごいんだぜアイツ。俺からしたら今年は受験もあるしさ。まあちょっと早いけどいいタイミングじゃね? 」



 母に向かって明るく自分の投手生命が絶たれたことを話す兄。その口調はそれこそ小テストで失敗してしまったぐらいの気軽さ。


 たまたま家に帰るのが速く立ち聞きしてしまった梨沙は頭が真っ白になった。そんな様子の梨沙に気付かないまま兄・剣太郎は気軽に声をかけた。



「おうお帰り梨沙。実は俺さ野球辞めることにしたんだ。俺の分までって言ったら何なんだけどさ……梨沙は吹奏楽部がんばれよ! 応援するか……――――」



 もう限界だった。これ以上そんな話は聞きたくなかった。



「お、おい……! 梨沙!? 」



 梨沙は家を飛び出した。制服を着替えることすらせずに。結局梨沙が家に帰ったのはその日の日付を超えてから。梨沙は両親にこっぴどく叱られた。だけど梨沙は説教の間も心ここにあらずだった。頭の中ではぐるぐると回り続けていたから。兄の『野球部を辞めた』と言う見たくなかったその笑顔が。




 梨沙は次の日の吹奏楽部の練習を無断で休んだ。梨沙にとって部活をサボることは初めてのことだった。だから気づかなかった。その日の曜日は両親が二人とも夜遅くまで帰ってこず、そして本来は野球部があるはずの兄と家で二人っきりになってしまうことを。



「どうしよ……」



 家の門の前で逡巡する梨沙。気まずかった。昨日の家を飛び出した時から兄とは顔を合わせていない。



(一体どんな顔で会ったらいいんだろう。分かんないよ……)



 その時、小さな音が聞こえた。ここは閑静な住宅街。近所の人も共働きがほとんど。この時間に家にいる人はほとんどいない。つまりは……



(兄さん……? )



 玄関の扉は開けず、庭の裏手に回る。兄はやはりそこにいた。だけど梨沙は固まってしまった。目だけを茂みの隙間から覗いたまま。そこには全く想像もしていなかった光景が広がっていたのだから。



「……ふっ……ふっ……ふっ……」



 シャドーピッチングをする兄・剣太郎の姿。集中し、汗を流し、軽く呼吸を繰り返し、壁に描かれたストライクゾーンに向かってタオルを持った右手を振るう姿。最近は梨沙の目から見てもかなりフォームが安定してきた。それはまさに梨沙が思い描いていた野球に一途で一生懸命ないつもの兄の姿そのものだった。


 梨沙は思わず声をかけそうになった。『なんだ。野球できるじゃん! 』と。だが、異変は梨沙が口を開いた矢先に起こった。



「……ぐうっ! ……がぁ! ……あ“ぁ! 」



 突然右肩を抑えてうずくまる剣太郎。あまりの出来事に梨沙は動けなかった。でもすぐに思いなおして駆け寄りかけたその時、梨沙は聞いた。生まれて始めて聞く兄の泣き声を。



「うぅ……うっ……ぐぅっ……いてぇよ……なんで! なんでだ! こんな時に……くそぉ……! ちくしょう! ……ちくしょう!! 」



 どんな逆境でも感情を抑えて投球をしていた兄。強豪校にわずかに及ばず負けた時も悔し涙を流すことは無かった兄。エラーをした自分のチームの野手が泣いて謝っている時も無言で肩を叩いていた兄。妹にどれだけ我儘を言われても嫌な顔一つ見せずに優しくしてくれた兄。


 そんな兄が今、何度も地面を叩き感情を爆発させていた。こんな姿、マウンド上ではもちろん普段でも見たことが無い。



(そうか。私が見たことが無いだけだ……。兄さんは……今までこうやって生きて来たんだ。自分の弱い部分を……ずっと誰にも見せずに……)



 胸が張り裂けそうになった梨沙は何も言わずにその場を離れた。数時間後家に帰ってきた時、兄は笑顔で梨沙を迎えてくれた。『お帰り。部活は楽しかったか? 』と。梨沙はその質問に答えられなかった。




「どんな形だったとしても……俺はエースになったぜ。なあ考え直してくれよ。梨沙ちゃん」


「ごめん。もう今は本当にそういう気分じゃないから。あと下の名前で呼ぶのはやめて」



 そのまた次の日。梨沙は聖佐和に絡まれていた。いつの間にか向こうが勝手に言った宣言が、お互いの了承を得た口約束に変わってしまっている。そんな約束をした記憶はもちろんない上に、兄のことがひたすら心配な梨沙に無理矢理迫るのは明らかに逆効果だった。



「なんだよ! そんなにあの兄貴のことが良いのかよ! 俺ネットで見たぜ! 怪我をするピッチャーはフォームのどこかに欠陥があるピッチャーだって! 」


「……は? 」



 とうとうブチ切れた梨沙に気付かずペラペラと今まで心の中で溜まっていた不平不満を話し出してしまう聖佐和。



「悪いけど俺は城本先輩とは違うぜ。ちゃんと全力でずっと投げるし……。先輩はピンチ以外で手抜き過ぎなんだよなあ。その割には顔色一つ変えずに大事な場面では抑えるしさ。あれなんだよ。きっとピンチに追いやられた自分に酔ってるんだぜ。あんなチームを私物化する人がケガでいなくなって良かったよ。最後までヘラヘラしててさ。悔しくないのかね? 俺ならもっとチームを強く――………? 」



 何も反応が無いことに違和感を覚えた聖佐和。うつむく梨沙を覗き込んだ。



「……も……くせに」


「え? 」


「何も知らないくせに! 兄さんがどれだけ悔しかったか。どれだけ辛いのか。知らないくせに! ベラベラ、アンタが兄さんを好き勝手に語ってんじゃねえ! 」


「ぐはぁ! 」



 梨沙は感情のまま殴ってしまった。結果として梨沙は2日間の出席停止になった。




 出席停止になった日。家に帰るとそこには兄の姿があった。



「おかえり。大丈夫か? 何か中学で辛いことあったのか? 兄ちゃんに話せることなら何でも相談には乗るぞ……? 」



 噂がもう兄の耳にまで回っていたのだろう。心配そうな顔をする兄。その表情からは真にこちらを気遣う感情が見て取れた。


 梨沙の頭の中はグチャグチャだった。一体、自分はどうしたいのか全くわからなくなってしまった。



(どうして? 一番辛いのは自分のはずなのに……どうしてそんなに人にやさしく出来るの? もうわかんないよ……兄さんが)



 その時から梨沙は何となく兄を避けるようになっていった。どんな顔で話したら良いか分からなくなってしまったから。そのことを知ってか知らずか兄・剣太郎も徐々に妹を避けてしまうようになる。


 家族の間に生まれるひずみは簡単に出来てしまうが、解消されるのには長い時間がかかる。城本家の兄妹はまさにその一例だった。




(最近、兄さんが変だ。)



 中学2年生になった梨沙は近所の高校に通っている兄の様子の変化にいち早く気づいていた。特に夏休みが明けてからの。


 高校一年生の前半の兄はまさに無気力。全く家から出ずに本ばかり読んでいる。母親を通して聞いた話だと、どうやら小説を読むことにハマっているらしかった。


 梨沙は野球のことはすっかり吹っ切れた様子の兄を見て少し寂しくなっていた。でもこれでいい。人間そうやって忘れて進んでいくものなんだから。そう中2の春から夏にかけて梨沙はそう考えていた。


 しかし9月に入ってからはどうだ。どこへ行くにしてもなぜかバットケースを持ち歩き、家から何度も出入りする。何故かバッティング用の防具を着たまま家を飛び出すという奇行すら飛び出た。


 さらに変わったのはアクセサリーだ。今まではそんなもの全然興味がなかったのにゴツイ指輪や派手な大きい銀色のブレスレットをつけ始めている。その姿はまるでガラの悪いプロ野球選手みたいだと梨沙は思った。



(もしかして悪い彼女でもできた? )



 その思い付いた可能性を自分で否定する。いやあの兄に限ってそんなことは無い。


 その時梨沙は決めた。兄のことを静観することを。なぜなら



(でもあんなに楽しそうな兄さん……久しぶりに見たな……)



 それだけで梨沙には十分だった。




 電車が遅延した日の帰り。気を使った母が兄を駅に派遣してくれた。


 その日梨沙は久しぶりに兄とまともに話すことが出来た。さらにうれしいことがもう一つ。



(兄さん……もしかしたら野球また始めるかもしれないんだ……! )



 何よりもうれしかった。兄の野球がまた見れることだけじゃない。兄がまだ野球のことを好きでいてくれたことが。



(次は絶対に応援しに行くからね……! )




 梨沙はそれが最後の『兄』との会話になってしまったであろうことを後悔した。もっと伝えたい思いがあった。なんでずっと素っ気ない態度を取り続けてしまったのか。


 こんなこと(・・・・・)になると最初から知っていれば……。




 祭りの夜、梨沙の身体は空の上にあった。さっきまで花火を友達と見に行っていたはずなのに。画面が切り替わったように突然。



「きゃ……――――」



 悲鳴を上げようとして固まった。目の前にいる羽の生えた謎の白い人型。梨沙は本能的に理解していた。これから自分が死ぬことを。



「――――――!」



 高音を発した白い人型。意識がどんどん薄れていく。14年間生きてきた記憶も、感情も、感覚も全て。



(あぁ、最期に……兄さんに……謝りたかったな……)



 その一つの後悔と共に梨沙は眠りについた。もしかしたら永遠かもしれない眠りに。




 どこかから聞き覚えのある声がする。


 それは優しさにあふれていて、そして聞き心地の良い声。子供のころからずっと聞いてきたその声。梨沙の意識は声に導かれ浮き上がるように覚醒した。



「梨沙……? 梨沙! よかった! どっかに痛みはないか? 何か気持ち悪いとか……? 」


「兄さん……? 」



 久しぶりに見た兄はボロボロだった。あちこちから流血して、土で汚れ、髪の毛はぐしゃぐしゃだ。けれどその表情は梨沙のよく知る兄の顔。優しい笑顔があった。



「本当に良かった……もしかして……間に合わないかと……俺は……」


「兄さん……」



 兄が泣くのを見るのはこれで2回目だった。1度目は何もできなかった。だから今回は――――



「梨沙……? 」



 傷だらけの兄の身体を抱きしめた。



「ありがとう兄さん。助けてくれて……それとごめん。今までずっと避けて来て……私……応援するから。兄さんがすること。これからずっと……! 」



 長い夜はいつか終わる。台倭神社の境内には朝の光が差し込み始め、二人の兄妹を明るく照らし出していた。


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