水の底で
泳ぐことは別に苦手じゃない。
クロール、平泳ぎ、背泳ぎなどなど。小学校の体育で習うような泳法は一通り習得したし、そこそこの距離をそこそこのスピードで最後まで泳ぎ切ることに何の苦労も感じない。
でも、それは学校のプールを使う水泳の授業でのこと。場所が湖や海などに変わると途端に話は変わってくる。
そろそろ白状しよう。
俺には”足がつかないような環境で泳ぐ”ことに対して強い抵抗感がある。
原因は幼少期に植え付けられた『トラウマ』をずっと払拭出来ずにいたためだ。
今でもハッキリと思い出せる。
あの夏の日を。
右足が吊り、溺れ始めた瞬間を。
当時、物心もついていなかった梨沙に付きっきりだったヒロ叔父さんの名をもがき、川の水を飲みながら、何度も何度も呼び続けた数十秒を。
10年近くたった後も夢で見るぐらいには、鮮明に覚えている。
……ヒロ叔父さんの真意を知った後から考えてみれば、もしかしたら叔父さんは既に俺への殺意を滾らせていたのかもしれない。殺害計画を実行していたのかもしれない。
だけどそんなのは全て昔のこと。"いま"とは関係が無い。
過去の記憶は現在の俺を助けてくれやしない。
「がぼぁ! ……ごぼぁ! 」
この漆黒を。
この絶望を。
払い、払拭する力はどこにも無い。
「ごがっ……がぁっ……」
苦しい。
喉が締まる。
頭に酸素が行き届かない。
全身が痛い。
特に両胸の奥の肺が握りつぶされているように痛む。
痛過ぎて感覚がなくなってしまっている。
穴という穴へと一気に流入する水をせき止められない。
当然、息も……できない。
「がばっ……ぐごぉ……! 」
溜まっていた空気を使い果たしたのが最後。
身体は次第に動かなくなる。
暴れれば暴れるほど自由は効かなくなる。
もがけばもがくほどもっともっと苦しくなる。
水面は見通せないほど離れ、さらに遠ざかっていく。
底なしの奥深くへ。
静寂が支配する闇の世界へ。
水圧と重力の檻の中へ。
「ぐっ……がっ……」
生命線の金属バットはとっくのとうに手放した。
水面へと浮き上がっていくソレと対照的に俺の身体は引きこまれていく。
下へ、さらに下へと。
先へ、さらに先へと。
落ちていく。
堕ちていく。
墜ちていく。
おちていく。
「……」
意識というものが次第に消えていく最中。
閾値を超え、錯乱の向こう側へと至った刹那。
何かに惹かれるように。
何の気なしに。
俺はふと自分自身の身体へと意識を向ける。
「え」
口から泡を吹き、思わず声を漏らす俺の視線の先。
締め付けられた右腕の表面。
「え……? 」
そこには紛れもない『火』があった。
水中の中でも構わず、命の鼓動の煌めきを象徴するような青く、力強い火が闇を照らし出していた。
「なん……で……? 」
ワケもわからず自問自答する。
なぜ俺の炎は深海の奥底でも消えていないのか?
なぜ俺の心情と反比例するように、炎は燃え盛っているのか?
理屈から考えれば"俺の炎"に必要なのが酸素ではなく[魔力]だからなんだろう。使い切っていない[魔力]が身体から勝手に漏れ出しているだけなんだろう。
だけど俺はこう解釈した。
「……――」
『心』が先に折れてしまっても、『身体』がまだ諦めていないのだと。
「――――ッ! 」
ダンジョンがなんだ。
底無しの深海がなんだ。
大昔のトラウマがなんだ。
足がつかないから何だって言うんだ。
「……【火炎魔術】」
なにを弱気になってんだ。
なにを尻込みしてんだ。
なにを勝手に諦めてんだ。
泳げないのなら、【魔法】で水を無理やり押し退けろ。
押しのけられないなら、バットで真っ二つに叩き割ってしまえ。
それでもダメなら海なんて『龍王の炎』ですべて蒸発させてしまえばいい。
だってさ。
やろうと思えば何だって出来るだろ?
なんて言ったって……
「『火生三昧』!! 」
……俺はホルダーなのだから。




