救出と……
トンネルの中に流れる心地よい夜風は、まるで怪物の心の内をそのまま表しているかのよう。涼しげな空気をまとい微笑む"彼女"は『今日も狩り日和』だと呟いた。
上半身は女性、下半身は大蜘蛛のアラクネアは狂喜していた。突如、自分に降ってわいた幸運に。
暗い迷宮の中ではアラクネアはずっと空腹だった。この蜘蛛のモンスターの前に現れるエサたちは全員が武器を持ち、身体を固い服で包み込んで、集団で行動し、そして強かった。彼女は何度も何度もエサの前から逃げ続けた。自分が生き延びるために。
しかし転機は突然訪れる。迷宮の中を空いた腹を抱えていつものようにさまよっていると、大蜘蛛は発見する。迷宮の虚空に渦巻く空間の歪みを。元来は臆病な性格のはずのアラクネアは何かに導かれるようにその歪みに触れた。
そのようにして蜘蛛はたどり着いた。この明るい光に包まれた世界に。武器も持たない、鎧も着ない、敵意も無く、危機感も無く、呆れるほどに弱い人間がそこら中にわいているこの天国のような場所に。
アラクネアの狩りは独特だ。用心深い性格の彼女は獲物と戦うことはほとんどない。使うのは口から放出する眠り針。これでエサを眠らせた後に糸で絡めとる。
通常のモンスターであればすぐさま獲物にとびかかるところだが、アラクネはそうしない。彼女は即座に食らわない。
待つ。ひたすら待つのだ。次の獲物がやってくるのを。彼女の腹が満腹になるまでエサがたまるのを。一気に捕食するために。空腹を一度に満たすために。捕食という隙を最大限減らすために。生まれてきた時から身体に刻み込まれた習性。異世界であっても、いくら空腹でもそこは変わらない。しかしもうすぐだった。自分の腹を満たすには必要十分な量が。ゆえに彼女の胸は高鳴っていた。
アラクネアはいつものように日が落ちるのを待って狩りを開始した。昼間は近くの茂みに隠れて、狩場はこの丸い穴の中で行う。この場所はエサたちがよく通る。先日はわざわざ何人も一度に捕獲できたこともあった。彼女にとってそこは言わばまさに穴場だった。
「うわ……マジでいるじゃん。それもLv.34かよ。これは海斗がいきなり出くわしたら無理だな……」
しかしその日に来たエサは何かが違っていた。この明るい世界ではよく見かける薄く、もろそうな服。似たような容姿。加えて、手に持っているのは『一本の棒切れ』。そう。見た目からは全く脅威を感じはしない。なのになぜ? なぜこのエサはこうも落ち着いている? この世界の人間ならば自分の姿を見た瞬間に悲鳴を上げて、腰を抜かして逃げ惑うはずなのに……。
「なるほどな。捕まえた餌をしばらく溜めておく、と。そういう習性なのか。じゃあ天井に張り付いてるデカい繭の中にまだ人が生きてるんだな……? はあ~~よかった。最悪のケースだけは免れた……」
逃げ出すばかりかこのエサは、アラクネアを前にして、彼女を舐め腐ったような安堵のため息までつき始めた。
至極当然の流れで彼女は激怒した。この世界で捕食者としてのプライドをもう一度獲得していたから。
そう、それこそが最大の不幸。
迷宮にいた時の臆病な性格のままであったならすぐに気づけていた。
このエサが放つ余裕は、自分が逃げた者達がまとっていたのと同じ『絶対強者』のものであることに。
「『パワーウォール』」
エサが発した声には強大な[魔力]がこもっていた。瞬間、アラクネアは一歩も動けなくなる。何か巨大な岩で圧し潰されているような。口から吐き出した眠り針もむなしく地面に叩きつけられた。
「さてさて……そのまま動かないでくれよ……」
さきほどまでエサと認識されていた『一人の少年』はアラクネのすぐそばに立つ。その目はモンスターには理解できない『好奇心』という感情で支配されていた。彼女はようやく理解した。獲物は自分であることに。
「【火炎魔術】」
捕食者の放ったその言葉をアラクネアが耳にしたのと同時に、彼女の意識は圧倒的な熱に塗りつぶされた。それが"臆病な捕食者"の最後の姿だった。
これって……下手しなくても完全に放火魔だな。
目の前で焼かれ黒い煙へと変わった蜘蛛のモンスターを見てそう思った。周りに被害が及ばないような最低限のコントロールは出来そうだけど、不定形な火を完全に制御するとなると相当の訓練が必要そうだ。
上級ダンジョンで手に入れた新たな魔法は現実だと中々使い道を選ぶってことを再確認する。
さてと。そろそろ下ろそうか。念動魔術で天井から引きはがした繭たちを路面にそっと置く。蜘蛛のべとつく糸を強化された筋肉で引きちぎるとそこには寝息を立てている見知ったクラスメートの顔があった。
「寝てるだけ……か? 」
応急措置の心得なんてない。医学的知識を持っているわけでもない。けれどぐーぐーと健やかな寝息をたてているところを見ると体に異常はなさそうだ。
眠りかける同級生たちを壁に寄りかからせてから、近くの公衆電話にかけこんで警察に連絡した。『行方不明』になっていた学生を発見した、と。向こうはかなり興奮していた様子で詳しい場所と俺の名前を聞かれたが教えたのは場所だけに留めて、自分の名前は言わなかった。事情を説明できる自信も無いし、何より目立ちたくない。
電話ボックスから振り返ってもう一度見直しても顔色は良い感じだ。多分放置しても大丈夫……だろう。
そろそろ警察が来る。さて、最後にアレだけやっていくか……。
トンネル内に再度入る。今度は『文字』を探すために。
「【鑑定】! 」
スキルを使う。最近知った。この【鑑定】スキルを使って『くさび形文字』も見つけ出せることを。青みがかった視界の中で探し物はすぐに見つかった。
「行くか」
手を触れる。空間が歪んで行く感覚。揺れる地面にももう慣れた。
迷宮内時間で約40分、現実では恐らく1秒も経っていない。その間に俺は自分の中では7番目になる『害虫の迷宮』を攻略した。あまりにもレベル差があったためか。保有ポイントは合計で60しか増えていない。まあそれはいい。今回は経験値稼ぎと言うよりも、"モンスターの発生源"の根絶が主目的だから。
トンネルから『開』の文字が消えたことを確認した後に、スマホを見た。
「『次』はあっちだな」
気分はそれこそ害虫駆除業者だった。【疾走】スキルを使用しての移動を開始。画面に表示されてるのは町内全てのトンネル。目的地は大和町の怪奇現象が起きたと言われている場所全て。効率的に回れるルートは決めてきた。さあ、急ごう。
迷宮が明確に現実に侵食してきた異常事態。モンスターが俺の世界を脅かしていることに少し寒気がしてきたころ。
最大級の肩透かしを俺は食らうことになった。なぜなら結局、『開』の文字があったのは最初のトンネルだけだったから。もちろんモンスターも、その痕跡すら見つけられなかった。
心の中で言った。いくつもあった怪奇現象の中で唯一本物を引き当てた海斗達に対して。
ご愁傷さま。そしてお大事にと。
その時は考えていた。もうこれで怪奇現象って奴はしばらく起こらないだろう。まあ俺も最初はハウンドドックに出くわしたりしたし、今後もたまにこういうことがあるのかも……なんて。
けれど原因不明の事件はその後も多発した。大和町だけじゃない県内全て。さらには日本全国でも。そんな中、迷宮探索に慣れてきた俺は上級ダンジョンをいくつか攻略していた。原因不明の事件と言っても人が消えたというケースは海斗達以降ない。楽観的に考えていた。ネットと世間を騒がしてる怪事件にモンスターやダンジョンは関係ないって。
そんなこんなで海斗を助け出した日から1週間後。
『その日』はやってきた。




