大寒波
東京都、港区に位置する気象庁本庁。
その心臓部であり、日本各地のありとあらゆる気象観測システムの運用監視を行っている観測現業室にて。
「…………」
男が1人、地域気象観測システム――『アメダス』から送られてくる計器の情報を映し出したモニターを凝視していた。
「なんか急に寒くなって来ましたねぇ。こりゃあ朝の予報は大外れっすね……数値の動きはどうですか、和久井さん? 」
男の名は和久井秀俊。
気象庁での勤続20年を超えるベテラン職員の1人。ホルダーでもなく、チャンネルも今は合っていないものの観測現況室の長を40代という若さで任されている。
測定機器の誤作動を誰よりも早く察知する『人間レーダー』と呼ばれるほどの洞察力を持ち合わせているのに加えて、常に冷静沈着で仕事ぶりも丁寧で正確なことから上司からも部下からの信頼も厚い……そんな男が今
「どうしたんです、和久井さん? 顔、真っ青ですよ? 」
絶句していた。話しかけられる声にも反応できずに。
(あり得るのか……こんな……こんなことが? ……こんな現象が!? )
疑っていた。正面にある画面を映す自分の目を。
悲鳴を上げていた。声にはならない、心の奥底から湧き出すような。
偏に目の前に示された現実から逃避したいがために。突きつけられた計測値から目をそらしたいがために。
だが和久井は知っていた。
計器に誤作動は無いことを。
異変の規模が徐々に拡大していることを。
そして、この異変は始まりに過ぎないであろうことを。
今ここで気づいた者が動かなければ『被害の大きさ』は過去類を見ないほどに膨れあがることになる。その確信があった和久井は呑気に両腕を撫でさする部下の名を呼ぶ。
「城島、今すぐ大臣に直通回線で連絡だ」
「はい……え? 今なんて? 」
「我らが国土交通大臣に直接だ。急げ。時間が無いぞ」
「…………へ? 」
「こう伝えてくれ。【超常特別警報】の発令が可及的速やかに必要だと」
まだ事態の深刻さを理解していない城島に今『何が』起きているのかをわからせるために。
「……!? ち、ちょ、超特ってッッ!? 」
「早くしろ! 行け! 」
「は、はい! 」
和久井の大声に気圧されて足早に去っていく部下。その足音を背中越しに聞きながら椅子にどっかりと座り直す和久井。怒鳴り声をあげた余韻で震える男の口元には静かな自嘲が現れていた。
「はっ……『早くしろ』か。まるでまだ『対処が間に合う』ような言い草だ……」
直前の部下に食ってかかった凄まじい剣幕はどこへ行ったのやら。一転して男は強張った全身を脱力させて背もたれに体重を預けてきると、うわ言を呟き始める。
「今日一日温かい陽気になるという予報は外れ、東京の気温は5分前から急落しました」
口から漏れ出てきたのは天気予報士の真似事。決して狂ってしまったわけではない。それは男にとって受け入れがたい現実をどうにか受け入れるための習慣の様なものだった。
「東京千代田区の観測所では零下3度……江戸川区と横浜がマイナス8度……そして羽田の観測所は……――――『測定不能』」
男は既に察していた。
「誰か教えてくれ……いったい今日一日で何人死ぬ? 」
何の予兆も、きっかけも無しに発生した異常な規模の大寒波によって首都圏は冷気で閉ざされることになることを。
首都機能が麻痺すれば日本全土を巻き込んだ大惨事が起こりうることを。
最後に、発生源であると思われる羽田から距離が近すぎる港区にこの瞬間にもいる自分たちはこの『災い』から逃れることは出来ないということを。
(原因は分からない……俺にはこれ以上どうすることもできない……だから……頼む……)
男は祈っていた。
(誰でもいい……誰か……東京を……日本を……助けてくれ……)
この突如発生した危機から救ってくれる救世主が現れることを。ただ純粋に、強く、ひたすらに願った。
暖房が効いた部屋の中で、白い息を吐き出しながら。
乾燥と冷気でひび割れた皮膚から血を流しながら。
薄れゆく意識の中、どこか遠くから聞こえる『大怪獣の怒りの咆哮』のような爆発的音量の重低音を耳にしながら。
――男は最後にゆっくりと目をつぶった。




