迷宮での死
戦うのには膨大な体力がいることを『五色の迷宮』の中を彷徨ってから初めて知った。だからポイントが余れば優先的に[持久力]に振り分けるようにしているし、迷宮内の移動は基本的に歩きだった。現に『迷路の迷宮』でもここまでずっと歩いてきた。
すべてはモンスターとの戦闘に体力を温存するために。
"来たるべき瞬間"に力を出し尽くすために。
「間に合え! 」
駆け出すのに迷いは無かった。
【疾走】スキルも使った。
出し惜しみはしなかった。
体力を振り絞り、全力で声のする方へ走った。
「クソッ! 」
しかし今俺が居るのはただの迷宮じゃない。
ここは人を惑わし罠にはめる【迷路の迷宮】──最上層。
「またか……! 」
逸る気持ちを一々遮る行き止まり。足を一歩踏み入れた途端、崩落する道。道半ばで両脇から倒れこむ壁。ダンジョンはあの手この手で俺の行く手を阻んだ。
「くっ……このぉッ……! 」
時間は容赦なく過ぎ去っていった。
立ちふさがる障害は数えきれない程あった。
こうして迷っている間にも悲痛な叫びはどんどん大きくなっているっていうのに。
「あれは!? 」
このままでは埒が明かないことを察した俺が視界にとらえたのはさきほど倒れてきた壁の一枚。比較的に壁だった原形が残っているだけでなく他の壁が下に挟まって完全には倒れ切らず、急勾配の"即席の坂道"が出来ている。
現状を整理しよう。上級の迷路は初級・中級のものと違って壁と天井がつながってない。壁と天井の間には十分すぎるほど広い空間がある。だったら迷路の概念を無視した"特大のズル"が可能なはずだ。
「……やるしかねえ」
倒れた壁の上に飛び乗る。乗ってみても改めて角度はかなり急だ。それに崩れかけのためか想像以上に脆い。一歩踏みしめただけで今にも、崩れ落ちてしまいそうだ。
けれど、ためらってる暇はもう無い。
やるんだ!
行け!
「うおおおおおおおおおおおおおおおお! 」
声を上げて【疾走】する。倒れた壁に乗り上げ下から上へ。坂道を一瞬で踏破する。
壁の端を蹴って踏み出すのは『飛べ! 』と頭の中で合図するのと同時。8m近いたっぷりの助走をもってして、走り幅跳びの要領で跳び上がった。
その間、心の中では祈り続けた。
頼む。届け……届け! 届いてくれ!
「ッ! 」
結果、願いは届く。右手の指先が届く。壁の上端に。目標地点の足下に。壁に激突する寸前に。
止まっていた呼吸を取り戻した俺は400近い[力]のステータスを発揮して、自分の身体を引き上げた。
「第一関門は……これでクリア」
壁の厚さは下で見上げていた時の印象と違って意外に薄く、側面に立つのはかなり怖い。だが今この瞬間も誰かが戦っている。声を上げて助けを求めている。それなら、どうにかして助けたい。
こんな場所で生きて出会えたのだから。
『見過ごせない』と心の奥底が訴えていたから。
「……! 」
壁の上から見下ろした景色は壮大だった。端が見渡せないほどに広がる迷路。思い出すのは富士山から見下ろした樹海の広大さ。迷路が森だとすれば壁は木。気の遠くなるような量の同じ形、大きさの巨大壁が不規則に並んでいる。
「……あそこか」
目指すべき目標はすぐに見つかった。迷路の奥まった一点。いかにも"上級層"の中心でありゴールだと言わんばかりの開けた空間。そこから黒い土煙が立ち上っている。
ここからあそこまでの直線距離で1キロメートルは余裕でありそうだ。
果たして間に合うのか……?
そうして思考していると気が付いた。酷使に酷使を重ねた【疾走】のスキルレベルが5になり、新たな『技』を手に入れたということを。
『全力疾走:【疾走】がレベル5になると使用可能。使用後3分間の[敏捷]と[器用]を2倍にする。使用後10分間は【疾走】を使用不能になり、体力を多く失う。これの倍率は【疾走】の基礎的な倍率補正と重複する。』
「『全力疾走』! 」
使うのに躊躇いはなかった。走った。壁の上を飛び越えて。助走に確保出来る距離は最大でも幅の5m。飛ばないといけない距離は最大で20m以上。本来ならば物理的に不可能な移動を、通常の3倍状態の[敏捷力]が強引に可能にする。
疾走。
跳躍。
着地と同時に壁を蹴り上げさらに加速。
それをひたすら繰り返す。最初は動き過ぎる体に戸惑いがあったけど徐々に慣れていく。足の回転が速くなる。動作が最適化される。脳はもっと速くと急き立てる。心はどうか間に合ってくれとただ願う。
こうして果てしないと思われた距離はあっという間に掻き消えた。広間はもう目と鼻の先。距離にして400mもない。ここまで近くなると聞こえる。巨大なモンスターが暴れる音と人々の発する『鬨の声』が。
俺も声を上げようとした。今から助けに行くと。自分の力が通じるかは分からない。それでも少しでも勇気づけられるかもしれないと。
「……………」
しかしそうすることは出来なかった。
目の前で起こった出来事に感情も、視線も、意識も、声も全てを奪われてしまったから。
前も戦闘中に、こんな風にゆっくりと時間が流れることがあった。意識の集中が高まり、自分でも驚くほどの能力を出せることがあった。五色の迷宮の最後の鬼との戦いがまさにそうだった。
そして今も、時間が引き延ばされたようにゆっくりと流れている。100mほどの高さまで突如として地面を突き破って生える石柱。とてつもない量の土砂と土煙が空中に巻き上げる中で、俺は見た。
宙を舞う人。
中世の騎士のような全身鎧を纏っている五体。
そんな見るからに重そうな身体が石柱の突き上げによって弾かれて、折れた。
真ん中から真っ二つに。
当然、へし折れた物体は迷宮内に働いている重力によってゆっくりと地面に引き戻される。
「……ッッッ!! 」
走った。もう無駄であることを知りながら。既に手遅れであることを察していながら。あの人が地面にそのまま叩きつけられるのを黙って見ることはどうしても見過ごせなかった。
結果、俺は間に合った。弾丸のように一直線に身体の落下地点に向かい、ギリギリで受け止めることに成功した。ものすごい力が両腕と全身にのしかかる。
「あぁ……」
……これは、ダメだ。
手に持った感触でどれほど酷い状態なのかが良く分かった。鎧に包まれている筈の身体には全く力が入ってない。まるで人形を持っているみたいだ。
「……ぁ……あっ……」
「!? 」
突然、血まみれの右手が動く。震えながらゆっくりと上げられたその手を取ると、鎧の人物は――――男はしゃがれた小さな声でこう言った。
「……誰……か……あの、方……たす――け――」
握った手から力が抜けた。
それからもう二度と鎧の男が動くことはなかった。
衝動に駆られてトンネルに行き、モンスターに出くわし、ダンジョンに迷い込み、そこから脱出し、今は自分の意思でダンジョンに再び入っているという現状で――俺はこの瞬間まで無視し続けていた。
あの時、『五色の迷宮』第四階層で見つけた白骨化した遺体。彼か彼女かも分からないあの人がどんな風に、どんな経緯で、どのような思いを抱いたままあの場所で亡くなったのかを。ゲームみたいな世界の中で煙となってポイントになるモンスターと違って『人』は永遠にあのまま居残り続けるという事実を。迷宮の中には明確な『死』があるということを。
『彼』を地面に置いて立ち上がる。
広間を見回す。改めてそこは広めの野球場くらいの大きさだった。状況が悲惨であることはすぐに分かった。すぐ横でうずくまっている鎧を身にまとった集団。一目見たらわかるほどに消耗している。中には明らかに手足が曲がってはいけない方向に曲がっている人もいる。両足で立ち上がれている人は片手の数にも満たない。全員が全員、満身創痍な彼らは声すら発さずに黙ってこちらを見つめていた。
俺が何か声をかけようとした矢先、全身に鳥肌が立った。背後の土煙の向こうから何かが見ている。何かとてもおぞましいモノが。
振り返り、目をやると煙が徐々に晴れていき、俺の眼はソイツの姿を捉える。
「……」
ピエロの様な衣装を着た、青で染まった痩せぎすの巨体が宙に浮いている。胡坐をかき、膝の上で頬杖をついてこちらを見下ろすその表情はニタニタといやらしく笑っていた。
原因不明の胸騒ぎに従った俺は、真っ赤な目とヤギの様なねじくれた二対の角を持つモンスターに向かって【鑑定】を行った。
『メイズ・ロード・デーモン Lv.54
力: 0
敏捷: 0
器用: 0
持久力: 0
耐久: 3419
魔力: 4200 』
目に飛び込んで来た異常なステータスに言葉を失う。鑑定スキルを持ってから、そのレベルの高さも、4桁を超える基礎能力も一度も見たことが無かった。
驚愕。困惑。恐怖。いろんな感情がないまぜになったまま静止した俺に対して──
「ケケケ」
──青い悪魔は声を上げ、スッと左手を横に払う。
「な!? 」
青い腕の動きに伴って、発生した地響き。
"合図"に従って始動した、立っていられないほどの揺れ。
突き破られた硬い床面。吹き上がった粉塵。轟音と共に盛り上がった大地から現れたのは10mの壁に匹敵する二体の巨体の岩石像――『Lv.47 ダンジョン・ガーディアン』。
「ひっ──」
鳴き声一つ出さずに姿を現した巨大な影に息をのむ声が聞こえた。
背後で音一つ立てずにいた一団から漏れ出た恐怖の音が耳に届いた。
勇気を振り絞って立ち向かうのに、それ以上の理由はいらなかった。
「これからは俺が相手だ」
『全力疾走』の反動が徐々に出始めた身体に鞭打って、背中のケースからバットを引き抜いて、ホームラン予告するように、宙に浮かぶ悪魔に突きつけ、戦意を示す。
すると悪魔はその様子を見て大口を開いて嗤いだす。
俺が走り出したのと『ダンジョン・ガーディアン』が吠えたのは同時。
戦いの火ぶたは互いの否応なく切って落とされた。