恋路の妙味
恐らく、多分、きっと、Maybe、1日でお客さんが二番目位に多いのはバスではないかと私は思う。
通勤通学の時間帯は殊更忙しく朝5時位から客を乗せ始め、運び、降ろす。この流れを夜の10時位まで続けて、1日が終わる。
さて私がこの仕事をする理由だが、最早忘れた。今現在私の脳内は桃色的空間に支配されている故に一般的な仕事の素晴らしさだとか楽しさを語れる自信がない。
このままゆけば私は桃色に彩られたロードオブピンクについて語りだしそうだ。
彼女は駅からとあるバス停までの区間を決まった時間に乗ってくる。目は綺麗で、唇は潤っており、頬は見ただけでもやはらかにみえ、細い華奢な手足に、何より滑らかで美しい黒髪の乙女だ。明眸、朱唇、蛾眉、曼理、皓歯の整った麗し人で恐らく花も恥らい月も隠れてしまう程である。その人はきっと心も美しく、おとしやかで品行方正で純情可憐であろう。その微笑みは一笑千金の価値があり道行く数多の人々の記憶に焼き付き悩殺し、日々の生活に日本社会に多大な支障をきたしたに違いない。
「ありがとうございました」
いつものように終点の駅に着いて乗客を降ろしていると一人の乗客がしれっと空き缶を運転席に置き去ると言う蛮行に出た。あまりの事に怒りが心頭に発した私は我を忘れ怒髪が天を衝く形相でこの腐れ外道を罵倒しよう、としたのだがなんと次の瞬間、なんとも名状し難き美女のようなものが(いや美女以外の何者でもないのだが)何とも慈愛に満ちた優しい手でそっ…と空き缶を持っていこうとする。
私は咄嗟に脳内で装備を整え、緊急出撃をせむとする何とも恐ろしい罵詈雑言の数々を慌てて辺境に追いやり、彼女に何か声を掛けようと言葉の引き出しをあさったが、その前に彼女は菩薩の笑み、アルカイク・スマイルを私に投げかけ降りていった。
これが私と彼女の出会いである。それ以来私の脳は彼女の横顔だとかうなじだとかの視覚情報を保存する事に専念し始め全く使い物にならなくなっていた。仕事では些細なミスをするわ、人をはねかけるわ、同業者のバスとぶつかりかけるわ、脳内桃色になるわ散々である。
ただ、幸いにも全て大きな事にはならず、今尚仕事という言い訳の名の元に彼女を送迎することを許されている。
ここで読者は私に対し大きな疑問を投げかけるであろう。投げかるハズだ。いや、むしろ投げかけろ。
そう、だからなに?と言うことだ。
別に読者は私が彼女に対して抱く桃色的不毛な感情だとか、彼女の良さを書き連ねるあまりに変態的ストーカーの自伝みたくなってしまった私の文章を読みに来てる訳ではない。
もしそんな個人の妄筆を楽しみたいという人がいたなら精神科の受診を強くお勧めする。あなたは病んでいるぞ。
さて、精神科行き病み読者を除いた多くの読者が望んでいるのは進展である。ハッピーエンドにしろ、バッドエンドにしろ、物語である以上は"オチ"がなければならない。 多分。
夏真っ盛りの某日に事は起きた。
夏とは度しがたいもので、寒さは着込めば何とかなるが暑さは脱げばどうにかなるわけではない。汗はかくし、日焼けはするし、化粧は落ちるし、暑いし、地獄である。となれば夏場に私が不調であることは自明の理である。
更には私の運転するバスの冷房がなんと壊れてしまったのだこれが更に私を不調にする。
次にその時バスに彼女を含む乗客と共にイレギュラーが乗っていた。やわらかく言えば浮浪者、分かりやすく言えばホームレスだ。
彼の者は悪辣なる悪臭を放ち、バスを言葉だけではない完全無欠の絶対的な地獄へと変貌させ、乗員乗客を阿鼻叫喚の渦へと巻き込んだ。
そして時は来たれり。
意識が朦朧とするなか、鼻腔の隅から隅までを突き抜け人間の鼻を破壊せしめんとする悪臭と太陽のダイレクトアタックに抵抗していた私の心が遂には砕け散ろうとした、その時だ!なんと、反対車線前方からトラックが見事に蛇の動きそっくりの蛇行運転でこちらに突っ込んでくるではないか!
そして私は生涯初めて空間が、世界が大きく震えるのを観測し、気を失った。
目を覚ませば天は白く、一定のリズムで電子音がする。深く息を吸えば私が世界でセロリの次に嫌う匂いがした。
間違いない、病院だ。不安と絶望で押し潰されるかに見えた私の心はその前に不思議と暖かい感触を感じる。
ふと目をやれば、なんと麗しの黒髪の乙女が目を潤ませ私の手を握りしめこちらをじっ…と見詰めている。
私は何となくふと、「あ、死んだわ」と思ったが彼女は私が意識を取り戻した事に気が付くと、菩薩の笑みを浮かべた。
「やっと目を覚ましてくれた…」
乙女は涙ながらに語り始めた。
あの時、どうやら私はトラックを緊急回避しようとしてガードレールに突っ込みバスを横転させたのだ。幸いにも死者はなく怪我人も皆ほとんど軽症で済んだという。
又、今回の事故はトラックの運転手の責任という事で私に罪は無いらしい。
そして何より重要なのはここからである。
私と彼女の出会いは私の記憶よりも前にあった。
彼女は大学の受験期の大事な時に電車で痴漢にあったという。それを休みに出掛けていた私が助けたそうな。それ以来、彼女は地球上の男全員を嫌いになり私に想いを寄せていたとかなんとか。
「私と…お付き合いしていただけませんか?」
これ以降の私と彼女の恋の妙味を書くことはあえて控えさせて頂く。成就した恋ほど書くに値しないことはない。
かくして物語は大団円を迎えハッピーエンドとして終わらせて頂く。
ちなみに賢い読者なら違和感にお気付きになったであろう。
お気付きになってない読者はもう一度よく注意して読まれると良い。