Sと成功
「Sと群像」シリーズ #9
やってしまった。
いや、やった!私には「勇気」があったのだ。少年の頃に忘れた、漫画の中の英雄は私の中に生きているのだ。
その考えはしかし、同時に私を責め立てた。どうして殺さなかったのか?娘が受けた苦しみを、何故この女にはすんでのところで躊躇ったのか、と。それは、私が打ち消すことが出来ないほど膨らんでいた。それは私が最初に抱いた、やってしまったという思いに集約されていた。
彼女は動かなかった。それは死体を連想させた。私は彼女が実際に死んでいる姿を想像し、高揚した。
先生が私を殺そうとするのは、納得できる。でもならどうして今殺さなかったの?中途半端な行動は、結果的に相手の警戒心を煽るだけというのは、ごく当たり前のことだ。私は自分の首を押さえつけた先生の手の熱がまだ残っているのを、うつ伏せになりながら浸っていた。先生は何も言わず、立っている。見えないけれど、息遣いはそこにあった。
私は先生が好きだった。20年前のあの日、先生は私のいる拘置所を訪れ、私にさまざまなことを尋ねた。私はその時、先生の、若くてさわやかな、いかにも未来の希望に満ちているような顔の奥底に秘められた攻撃性を感じたのだった。そして先生に愛されたい、と思った。けれどもそれは、2つの理由によって叶わないのは自明だった。
1つは、簡単なことだ。私は成長しない。中学生の時の姿のまま、私は20年間、変わっていく世界の中で取り残されているのだった。
事件から8年後、私は精神的な屈折を克服したと判断され、出所した。その後も病院に通うようになったが、誠都と会うのに障害になるほどのものではなかった。また、私はメイクや髪型、服装によってある程度年齢をぼやかすことが可能であることを学んだ。誠都と共に、日本各地を転々とする生活は悪くなかったし、彼は私に依存していたのは心地よかった。年の離れた兄妹という設定は、希薄な近所づきあいには十分なものだった。12年が過ぎた今年、先生は私に関する本を出した。それを読んだ誠都は、私に先生と会うことを持ちかけた。本当は殺人を犯していない、私のことを思ってのことだったのかもしれない、と今では思う。
2つ目は、先生には妻がいたことだった。そしてその妻との子供がいることは、私には先生が手に入れられないことを突きつけていた。悔しくてたまらなかった。
だから、今は幸福なのだった。先生は私を憎み、私を見ている。私だけを、見ている。私は成功したのだ。