Sと先生
「Sと群像」シリーズ #1
「少女S事件」が出版されてから1ヶ月。しばらく私はテレビ・オファーに追われていた。それも数週間もすれば落ち着き、悠々自適、平穏無事な日々が再びやってきた。
私は近所のスーパーから、今日は惣菜のコロッケをつまみにビールを飲もうなどと考えながら帰路についていた。
「ん?」
芹沢、の表札の下にある郵便受けに、これ見よがしに刺さっている茶封筒。
どうせ不動産か何かだろうと引き抜き、ロックを開いて残りのチラシを取り出した。
誰もいないとわかっているけれど玄関を開けるとつい口にしてしまうただいまの挨拶と同時に思い起こされる3年前に事故死した妻の顔は、靴箱の上に飾られている写真よりも少し老いている。
一人暮らしにはもったいない広さのリビングは、妻と大学のために下宿した娘がいた時からも十分なものだったから当たり前なのだが、それでも中年男の孤独を助長させるにはあまりに普遍的で、日常に紛れ込んだナイフだった。
ビニール袋をダイニングテーブルに置き、私はチラシを捨てようとキッチンの奥に向かった。そして改めて茶封筒を見ると、しっかりとのり付けされていることに気がついた。不動産なら、こんなことはない。宛名も差出人もないこの封筒のいびつさが、私の頭にこびりついた。
破らないようにゆっくりとのりを剥がし中身を広げると、丁寧な字が並べられた手紙が2枚、三つ折りになっていた。
その手紙が、その文字列が、私自身を酷く動揺させていた。少女Sからだった。私は、リビングのソファーに座ることさえ忘れて、薄暗いキッチンの隅で立っていた。
「お久しぶりです、先生。」
文字を消化しようと、口が微かに動いていた。先生。彼女は私のことを先生と呼んだ。何故かは知らない。いつだったか、私は彼女に理由を聞いたことがあったが、先生だからだよ、としか返されなかったのだった。
彼女が成長しているのはありありと見て取れた。当時から頭が悪いわけではなかったが、まるまるとした字や、子供独特の言い回しなどは無くなり、20年という時の流れが長いということを認識した。
彼女は、私の本を読んで懐かしくて手紙を書いたらしかった。手紙の最後に、こうあった。
「また話がしたいです。どちらでもいいので、暇な時に連絡してください。
××××@××××.ne.jp
×××××××××××」