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序章 異界、大日本帝国-1

 晴天の夜明け、空には絵の具で刷いたかのようにうっすらと青みがかかり、東方には朝焼けの朱が美しく差し込み始めている。

 空気は冴えわたり、月も、星もまだはっきりと見えている。


 西暦一九四六年秋、第二次世界大戦、日本帝国海軍で言うところの太平洋戦争の終結から一年が経過した長野県。

 朝もやのたなびく山中に草木へ紛れるようにして一台の鋼鉄の車両がエンジンを停止し鎮座していた。

 日本帝国陸軍、九七式中戦車。チハとも呼ばれる。小型、軽量な戦闘車両だ。

 車体は土地色、草色、枯れ草色を不規則に使って塗り分けられた、いわゆる迷彩塗装の施された防弾鋼板で組まれていた。

 表面に土埃を浮かせ多くの傷が刻まれたそれは、この車両が辿ってきた遍歴の長さを物語っている。

 その上に乗っている砲塔にはずんぐりとした短い砲身を持つ五十七ミリ戦車砲と、砲塔上面から張り出した手すりのような環状の鉢巻アンテナがあって、他とは見間違えることのない独特な形状を示していた。

 砲塔上には車長用の展望塔が配置されており、その天蓋は解放されている。


 そこから顔を覗かせているのは、ゴーグルを載せた戦車帽を身に付けた十七歳の少年戦車兵、畑野大地だった。

 枯れ草色の軍服の襟に縫い込まれた階級章は伍長を示す、赤地に黄色の線一本と星一つ。

 大地は下士官だった。

 その目は、山の斜面にある沢へと向けられていた。そこには湧水があるのだ。


「本当に獲物は来るのかえ?」


 ほの暗く冷えた朝の空気の中、聞こえたのは古風な言葉遣いの、しかし明るい声だった。

 東の方角に登ろうとする暁に似て温かく、身体と意識の両方に沁み入る。


 大地に向けて車内、右手の視察用装甲扉を開けた操縦手席から場違いに小鳥のように可愛らしい声をかけたのは、アウレーリア・バーゼルトという幼女のように見える女性だ。

 ゆるく編み込んだ銀糸の髪に濃い紫の瞳は幼さも相まって舶来の人形のように美しく、一見して西洋人とも思える。

 その容姿と時代がかった物言いとの対比が大地にはとても印象深く感じられた。


 彼女は終戦と前後するようにして日本に現れるようになった異界の住人、天人だった。

 年端もゆかぬ子供のように見えるが齢は千を超えると聞く。

 人というよりは神に近い存在だった。


 大地は彼女の問いに確信を持って答えた。


「あそこの沢には鹿の足跡があった。水場にしているのは間違いない」


 それは前日に確認済みだった。

 水辺についた足跡の他にも、木の枝や石を踏んだ跡、破れたクモの巣やかき乱された落ち葉などが痕跡として役立つ。

 踏まれた草や折られた木の枝などは移動方向を示すと同時に、緑から枯れて茶色に変色していく度合いで獲物がいつごろそこを通過したかの見分けがつく。

 こういった観察力は戦場の偵察でも役に立つものだった。


「鹿は日中、森の中で休んでいるんだが、明け方や夕暮れになると動き出す。夜明け前から張っていれば間違いなく来るはずだ」


 その言葉には大地の革の編上靴と革脚絆で固められた足元から、アウレーリアとは違った鈴を鳴らすような凛と澄んだ声で答えがあった。


「大地さんのご実家は、猟師のお家なんですよね」


 荷田楓、定規で線を引いたように真っ直ぐで長く艶やかな黒髪が印象的な稲荷大明神の巫女だ。

 年は十四歳だという。

 大地が車内に目を落とせば、すっきりと整った顔立ちが見て取れる。

 楓はその性格を表すかのように控えめに微笑んで見せた。

 彼女は車体左正面に装備された機関銃の射手兼通信手が乗るべき席に古風な、それでいて真新しい緋色の袴を穿いた足で後ろ向きにぺたんと正座していた。

 ほっそりとした首筋に巻かれているのは、喉の振動を直接拾うことで酷くうるさい戦車内でも通信が可能な喉頭マイクだ。


 戦車に巫女装束で乗る楓といい、ぞろぞろとした長衣で乗るアウレーリアといい、陸軍少年戦車兵学校で厳しい教育を受けた大地にはとんでもないことのように思える。

 だが、そもそもうら若い女性を上からの命令とはいえ戦車に乗せている時点で、大地の常識を超えているためどうしようもないとも言える。

 狭い車内でその辺に頭をぶつけても大丈夫なよう、大地が被っているフェルト製の戦車帽ぐらいは身に着けて欲しいところだが。


 その上で鉄と油と土、そして火薬の硝煙の匂いしかしないはずの戦車に、女性特有の甘やかな香りが立ち込めるのは健全な男子である大地には何とかして欲しかった。

 九七式中戦車チハは軽量、小型である代償に車室は狭く閉塞感すらあるだけに余計に。


 ともあれ、故郷の山里を思い起こしながら大地は答える。


「俺の実家は東北の山奥だからなぁ。土地が痩せていて、戦車兵学校に入るまで米の飯なんか食べたことが無かったくらいだ」


 ヒエやアワが主食……

 実際、軍隊に入って、または戦争に伴う配給制度が始まったことで初めて米が食べられたという者は珍しくない。

 零細農家出身者にとって、腹いっぱい飯が食えて服がもらえてベッドで寝ることのできる軍隊は天国のような場所だった。


「だから農作業のできない冬になると食い扶持を稼ぐため、山に入って猟をするんだ。鹿の肉は基本淡泊だが、わずかに独特の風味がある。それがクセになる味わいになって本当に美味いぞ」


 鹿肉にはもみじという別名があり、もみじ鍋として鍋物に利用されていた歴史を持つが、現在ではその他にも様々な料理に使われている。

 焼き肉に角煮、カリッと揚がった竜田揚げ、シチューなど味付けによって千差万別に変化する。

 大地の言葉に、アウレーリアが舌なめずりでもするかのように笑った。


「ほう、左様か。魚の干物に卵や豆でたんぱく質を補う日本の食事には、そろそろ飽いてきたところじゃ。期待しておるぞ」


 一方、楓はささやくような、それでいて良く通る柔らかな美声で、


「私はお揚げさえあれば十分ですけどね」


 と、いかにも稲荷大明神の巫女らしいことを言う。

 そして食べ物の話題が出たところで何とはなしに空腹を感じた大地がそれを自覚するかどうかの瞬間に、


「そうそう、稲荷寿司を作ってきたので食べませんか?」


 するりと自然に、大地の意識へと滑り込んで来るかのように楓がささやいた。

 いつの間にか心の奥まで寄り添うかのような距離の近さに大地は思わず楓を見返す。

 だがしかし、彼女は大地の様子を訝ることもなく、それどころか微笑んで見せた。

 そして楓は背後から取り出した竹皮の包みを開けると稲荷寿司を大地に向けて差し出した。

 この笑顔にはどうにも勝てない気がして、大地は一つうなずくとこう答える。


「ああ、助かる。今日は夜が明ける前に出て来たから、まだ何にも食べてないんだよな」


 九七式中戦車チハは車体前方上部に前照灯を持っているので日の出前の行動にも問題はなかったが、さすがに食事までは手が回らなかったのだ。

 大地は感謝と共に、楓の小さく白い手から稲荷寿司を受け取る。

 稲荷寿司は甘辛く煮た油揚げの中に酢飯を詰めた寿司の一種だが、


「私の生まれた地方では、お狐様の耳の形が普通ですよ」


 俵型ではなく三角の稲荷寿司に疑問を覚えたときには既に答えを告げられている。

 その察しの良さに狐につままれたような気持ちになりつつも、そんな地域差もあるのかと感心しながら口にする大地だったが、

 具が入ってる?


「あ、それ私も逆にびっくりしましたよ。東の方のには具が入ってなくて、最初に食べたときは何てケチんぼなお稲荷さんなんだろう、って」


 大地が驚くのとほぼ同時に、先読みしたようにさらりと楓が言う。

 またもや胸の内の声に出さない呟きに答えられたようで、大地はそんなに自分は分かりやすいのかと思う。


 だがそれとも、とひやりとした疑念が過ぎった。

 人の心を読む人外の存在。

 目の前の小柄な少女からはその整い過ぎているとも思える目鼻立ちのせいか、どこかこの世ならぬ者の気配がするような気がした。


 楓は透明な笑みを浮かべて大地を見る。

 その瞳、口元は涼しげで、かといって澄ましているわけでもなくただ穏やかだった。

 まるで、大地の疑念など些細なことだとでもいうように。


「あー、うん、具が入っているのも美味いな」


 大地は気を取り直し、目新しい食べ物を味わうことにした。

 万が一、楓がそういう存在だとしても…… それはそれでいいか、という気になったのだ。

 大地は戦車の操作に関すること以外ではそんな風にこだわらないところがあった。

 それが良いことなのかそうでないのかは分からなかったが。

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