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第二章/嘆きの独唱 4

 その日も祥平は七海に追い立てられながら家を出た。先日のことがあって月に合わせる顔がなかった彼は学校を休みたかったが、七海はサボりを許してくれるほど寛容ではなかった。曰く、「学校に行ける何気ない幸せをあなたは知るべきです」とのことだ。

 霞んだ城を遠くに見ながら、祥平は憂鬱な頭を抱えて学校へ向かった。途中で何度も進行方向を反転しようとするも、その度に頭上から厄介な声が降り注いだ。

「何があったのかは知りませんが、休むのは駄目です」

 七海は祥平を見張るために付いてきたのだ。幽霊のくせにやっていることが滅茶苦茶だと思う。

「分かったよ。行くから帰ってくれ。誰かに見られたら、俺は誰もいないところで誰かに話かけるような変人に見えるんだぞ」

「いいえ、朝倉さんが学校に行くところを見届けるまで、私は絶対に離れません」

 祥平の頭上にぴたりとくっついた前世は意外と頑固だった。彼女の透ける身体を仰いでいた彼は、諦めの息を漏らして顔を下げる。

「ならせめて隣にしてくれ。上から話かけられるのは変な気分になる」

 分かりました、と言って七海が浮かんだ身体を下ろして地面に足をつけて歩き始める。その様のあまりの自然さに、祥平は面食らった。幽霊は普通浮いて移動するものだと思っていた彼にとって、その幽霊が足で歩く姿は異様そのものだ。

「出会いの瞬間からいまこのときまで、お前は俺の予想の斜め向こうをいってるな」

「それは褒めてるんですか?」

「さあな」

 幽霊と共に祥平は川べりを歩く。学校に着く時間を遅らせようと、せめてもの抵抗としてその歩みはゆっくりとしたものだった。

 不意に、隣にいた七海の気配が消えた。違和感を感じて振り返ると、田舎の風景に身体を溶け込ませた彼女が俯いていた。

「どうした?」

「いえ、少し……嫌なことを思い出したので」

「ああ、そうか」

 前世の真意に思い至る。彼女は昔のことを考えているのだろう。虐められ、耐え難い苦痛を与えられ、この世に絶望し身を投じた高校時代を。

「もう戻れ。俺はちゃんと学校に行くから。お前がそんなきつい思いをする必要ない」

 七海は首を振った。

「あなたも辛い思いを押し込めてでも学校へ通うように、私も向き合わなければなりません。だから行きます」

「無理するな。それに、俺は別に嫌々通っているわけじゃない」

「朝倉さん、私は成仏したいのですよ。いつまでも未練がましく現世にとどまることは良くないでしょうから」

 祥平は目を伏せる。

「まあ好きにしてくれ。ただ人が見えたら話しかけるなよ」

「はい。それまでは何か話しましょう」

 どこか楽しそうな前世が祥平の傍まで戻ってくる。地に足をつけてスキップする幽霊は見たことがなかった。彼女以外の幽霊など見たことはないのだが。

 七海がビー玉を弾いたような澄んだ声で聞く。

「学校はどうですか?」

「まあ、そこそこ」

「お友達はできましたか?」

「それなりに」

「好きな子はいますか?」

「おらん」

 まるで母親のような追求の仕方だった。ふと、本当の母親は今何をしているのか気になった。若い頃はとある集団を率いていたという母親は、祥平によく学校のことを尋ねたものだった。

「祥平、子どもの世界は舐められたらおしまいだよ」というのが母親の口癖だ。

 いまはもう、息子のことなど覚えていないだろう。寂しいとは感じたが、自分の選んだ道だから彼も忘れることにした。

「七海は俺がいないときはいつも何をやってるんだ?」

 口直しに出した言葉は、実は祥平が気になっていたことだった。互いにすべてを知っているはずなのに、話すことは差し当たりのない世間話が中心だ。深い部分を知るゆえに浅いところが分からなかった。

「そうですねえ」

 七海が下唇に指を添えて唸った。

「雲を見ています」

「楽しいか?」

 もちろん、と七海が答えた。

「変わる景色を見ているのは楽しいですよ。変わらないものはないと実感できます。それに、朝倉さんの帰りを待つ時間はいいものです」

「そりゃ良かった」

 退屈していないなら良いことだ。

「俺はお前を救ってやれない。だからまあ、俺にできるのは退屈を紛らわせてやることくらいだ」

「気にしないで下さい。朝倉さんと暮らす毎日は楽しいですよ。それだけで私は救われています」

「そうか」

 学校の校門が目の前まで近づいていた。隣で歩く七海が宙に浮いた。

「それでは朝倉さん。いってらっしゃい。私は家に戻ります」

「ああ、いってくるよ」

 七海の薄い身体が花火のように弾けた。宝石をばら撒いたように青白い光の粒が宙へ消えて行く。最後の一粒まで無くなる様を見届ける。

「派手な退場の仕方だ」

 苦笑した祥平は校門をくぐって昇降口に入る。下駄箱の前で立ち尽くす月の姿があった。間が悪いな、と彼は思った。

 何食わぬ顔で声をかけるべきか、先日の言葉について謝罪すべきか咄嗟に判断がつかない。惑う視線の先にいる月は、祥平の姿に気づいた様子も見せずに、手に持った灰色の紙に目を落としている。彼女は笑っていた。だが、その表情には拭いても消えないシミのような疲れが滲んでいた。

 いまの月の姿は、祥平にとって見るに堪えなかった。彼は、自分以外の誰かが悲しんでいる様を見るのが苦痛なのだ。はっきりとした負の感情をこれ見よがしに見せられると手を出さずには入られない。

「冬川、どうした?」

 頭に纏わりつく思考の糸を切り離して月の傍に歩み寄る。彼女は何も言わずその場で佇んでいた。不審に感じた彼はもう一度声をかけようとして、言葉を失った。

 月が見ていたのは何の変哲もない紙だった。だが、その表紙全面に、まるで呪詛のような何かがびっしりと書き込まれているのだ。

 祥平は、その紙のおぞましさに凍りついた。息すらも呪い殺す紙には、月の悪口が書かれていた。ひとつやふたつではない。元は白かった紙を灰色に染めるほど執拗に書き込まれていた。

 人の醜さを余すことなく染込んだ紙を握っていた月が、ようやく顔を上げて祥平を見た。彼女の瞳には光がなかった。誰しもが持ち、生きているのだと証明する生ある彩光が消えていた。

 祥平は、そんな光景を見たことがあった。三年前、世の誰もが祝福されるはずの聖なる夜に、うっそうと闇が生い茂るこの学校の屋上で、幼馴染が見せた表情と同じだった。

「おはよう。早いのね」

 祥平は何も答えない。答えられない。彼の視線の先を辿った月が呪いの紙を見て、恥ずかしそうに笑った。

「ああ、見ちゃったのね。大したことないのよ。別に、慣れてるから」

 月が語る。滑るように出るとはこのことかと思うほど細い声だった。

「ほら、やっぱり学校だしこういうことだってあるのよ。それはそうよね、こんな狭い場所にこれだけの人数集めたら、どんな子だって鬱憤のひとつも溜まるもの」

 なんでもない、退屈な日常を綴った日記を読み上げるような気楽さで月が続ける。

「やっぱり因果応報よね。私もさんざん好き勝手やってきたし、こういうのもしょうがないかなって。それにしても、よく飽きもしないで毎日毎日書けるものよ。私だったら最初の一枚も書き上げられないわ。大したものよね」

 気づかなかった。気づけなかった。こんな呪いの手紙を毎日受け取らされていたなど、思いもしなかった。その間、自分は一体何をしていた? 歌をせがみ、不用意な言葉で余計に傷つけていた。

「ねえ、あなたもそう思うでしょう?」

 世界は、悪意に満ち溢れ過ぎている。

「いつからだ」

 掠れた声で祥平は聞いた。

「さあ、朝倉くんが転校してきたあたりからかしらね。実はあなたを好きな子が勘違いしてやってるのかも、なんてね」

 月は引きつった笑みを祥平に向けた。彼女の苦痛を堪えた笑みが、彼の感情の天秤を容易く振り切らせた。

 下駄箱を出て階段を三段飛ばしで駆け上がる。リノリウムの廊下に靴底を力一杯叩きつけながら走る。行き先などなかった。ただ、手当たり次第に犯人を探すことだけを考えていた。二年の教室が集まる二階に辿り着き、階段近くにある教室を覗く。朝早いにも関わらず、生徒がひとり席に座って教科書を広げていた。歯の根が震えるような怒りを携えて中に入る。

「おや、祥平くんだ。どしたの?」

 合唱部部長の織部泉が、爽やかな笑顔を見せた。

 この女がやったのか、それとも別の誰かか。どうでもいい、必ず見つけて地べたに額を擦り付けさせてやる。

 祥平は泉を見下ろす。

「冬川の下駄箱に嫌がらせの手紙を出したのは誰だ?」

「はい?」

 泉はきょとんとしたように首を捻った。祥平は彼女の机に拳を振り落とした。鈍い音が二人だけの教室に響く。それが癇に障ってもう一度殴りつける。

 泉が慌てて祥平を静止する。

「ちょっとちょっと、事情が飲み込めないんだけど?」

「だから、冬川の下駄箱に変な手紙が入ってた。心当たりがあるなら言え」

「いや、ないって。まずは落ち着きなよ。というか、それホント?」

「だからそう言ってる」

 ベタだなあ、と呟いた泉が腕を組んだ。ちらりと祥平を見上げてため息した。

「心当たりはない。これはホント。因みにうちの部でもいない。だから私に聞かれても分からない」

 そうか、とだけ呟いて祥平は踵を返す。

 誰だ。誰がやった。いまいる生徒をひとりひとりしらみつぶしに脅迫していくか? 頬を叩いて壁に叩き付ければすぐにでも見つかるさ。

 乾いた笑いが生まれた。それはいい。きっとすぐに見つかる。いい案だとさえ思った。月を傷つける奴は、死んでしまえばいい。

 笑いながら足を踏み出すと腕を引かれた。笑みを治めて歩みの邪魔をした人物を見やる。

「待った。まさかいまいる生徒全員に聞くつもり?」

「他に方法がないだろ」

「土日にやってたらどうするのさ。もうちょっと頭働かせようよ」

「だが……」

「だっても何もなし! そんな手当たり次第にわざわざ伏せたいことを聞いて回るの? 君がそこまで頭悪いとは思わなかったな」

 再び頭に血が昇りかけるが、不意に冷静さを取り戻しうな垂れる。

 何をやってるんだ俺は。確かにこれじゃあ冬川の痴態を宣伝して回るようなものだろう。

 落ち着くと、己の底の浅さが浮き彫りになった。思えば三年前も感情に振り回されたから志乃の記憶を奪ってしまったのだ。他にいい方法があったかもしれないのに、それしかないと思い込んで行動してしまった。事態が転がり始めたときほど冷静にならなければならない。

「悪かったよ。かっとなっちまった」

 祥平は頭を下げて泉に謝罪した。

「まあ私も気にしておくから、あんまり無謀に動かないでよ」

「ああ、肝に銘じておく」

 冷えた頭を従えて教室を出る。のそのそと廊下を歩きながら外を見ると、陽光に金色が反射したような気がして、視線を上げた。中庭を挟んだ特別校舎の屋上に、金髪の少年と栗色髪の少女が向かい合って立っていた。

「あれは、渉と志乃か?」

 こんな朝早くから何を話しているのだろうか。目を凝らすと、志乃が渉に詰め寄っているようにも見えた。疑問に思うが頭から振り払う。いまは月のことが最優先だった。


 ◇◆◇


 体育後の倦怠感の混じった身体のまま祥平は教室へ戻っていた。クラスメートたちは、廊下いっぱいに広がりながら、先の授業で各々が見繕った女子生徒の容姿について語っているところだった。それを遠巻きに見ながら馬鹿馬鹿しいと感じるが、取り巻く環境が違ったらあの輪の中に入っていたのかと考え、普通の生活を送る彼らが羨ましくなった。

「お前は誰がよかったんだ?」

 金髪をハリネズミのようにはねさせた渉が祥平の肩を叩いた。うっとおしかった祥平はその手を払う。

「んなもん見てない」

「つれないな。これぞ青春だろう」

「女の姿をジロジロ見て品評する行為のどこに青春があるんだ」

「でも贔屓はいるんだろ?」

 思わず振り返ると、にやにやとした渉と目が合った。朝方に遠くで見た、あの深刻そうな顔とは打って変わったいやらしさだった。

 祥平は疲労の取れない息を出す。

「おらん」

 食い下がろうとする渉を無視して教室へ戻り、学生服に袖を通す。

 眩暈がした。天と地が逆になり渦巻くような不快感を覚え、立っていられなくなって椅子に腰を落とす。頭が妙に重くて額を抑える。冷や汗が頬を伝った。

 疲れているのだろうか。それとも――寿命が近づいている証拠か。

 うすら寒いものを感じた。己の道程の先にある未来を見つめたくなくて、鞄の中から弁当を取り出す。

 チャイムが空々しく鳴る。もう昼休みだった。

 珍しく弁当を持ってきた渉が祥平の前の席にどかりと座った。包みを開きながら渉が声を潜める。

「なあ、聞いていいか?」

「ん、内容によるな」

「今度の冬休みは実家に帰るのか?」

 祥平の眉がぴくんと動く。

「先の話だ。まだ考えてない」

 そうか、とだけ呟いた渉が弁当箱の蓋を開いた。無言で弁当を突つく渉をぼんやりと眺めていると、にわかに教室が騒がしくなっていた。目を向けると、着替えを終えた女子生徒が戻って来ていた。祥平はその中に月の姿を見つけた。彼女は時折憂いのある表情を表しながらも、志乃と話し込んでいた。

 あの顔が示す感情が、体育による疲労だけならいいのだが。

 気持ちの悪さが抜けた頭を軽く振って、祥平も弁当箱を開いた。中身をしばらく見つめて、今日ももう少しまともなものを作れば良かったと後悔する。見事に冷凍食品の嵐だった。元々落ち込み気味だった食欲がみるみるうちに下がっていく。弁当箱を閉じたくなった。

 弁当箱を前に唸る祥平に影が刺した。顔を少し上げると、栗色の髪を揺らした志乃が弁当袋を掲げていた。

「一緒、していい?」

 アルカイックに微笑む志乃をほうけた顔で見つめる祥平は反応が遅れた。

 これは、良くない。

「おう、今日も友達いないのか?」

 弁当をかきこむ渉がもそもそと答えた。

「またそんなこと言う。怒るよ?」

 むすっとした志乃が、お邪魔するねと言って祥平の隣の席を引いて座る。

「ほら、月も早く」

 志乃が首だけで後ろを見て月に声を投げる。月は「はいはい」とおざなりに答えて鞄の中を漁っていた。

 平然を取り繕っているが、祥平は内心気が気ではなかった。針のむしろがすぐそこまで迫っているのだ。厄介ごとばかりが山積していく。

「そうだ、一昨日は月と喫茶店にいたでしょ?」

 志乃がいきなり核心のひとつに切り込んできた。武器はおろか盾も持っていない祥平は、肯定することしかできない。

「ん、ああ。そんなこともあったか」

「随分仲良くなったね」

 志乃が意味ありげな笑みを浮かべる。祥平は、最近彼女の言葉の意味が分からなくなってきているような気がした。三年も経っているせいだろうか。

 志乃が袋から弁当箱を取り出すと、不意に彼女の目の焦点が虚ろになった。さり気なく視線をくべると、紅色の弁当箱の上に黒い髪が一本乗っかっていた。栗色の髪をした志乃のものではなかった。

「順調なようで結構」

 渉が渋い顔をしながら言った。一瞬、志乃が眉を潜めたように見えた。渉が彼女の背後をちらちらと見ていた。

「俺のことはいいだろ」

 それよりも冬川のことだ。続く言葉は喉の奥で殺した。言ってどうなることでもないし、泉に釘を刺されたとおり喧伝して回る必要もない。そもそも、こんな人目のある場所で話す内容でもなく、今まさに当人が来る時に話すなどあり得ない。

 だからやるべきはこの場から如何にして逃げるかだ。月に志乃との関係を見られたくはないし、志乃と湊のことも考えたくはない。

 さて、どう逃げるか。

 昼休みの喧騒に身を委ねながら逃走方法の閃きを待っていると、月の到来が遅いことが妙に気にかかった。視線をずらして彼女を見る。彼女は自席に座り鞄を開けたままの格好で固まっていた。

 嫌な予感がした。

 眼前で会話を投げ合っている二人に断って祥平は月に近づく。朝と同じく、彼女は彼に気づく気配も見せずに、鞄に穴を開ける勢いで視線を集中させていた。

「どうした。何かあったか?」

 声を落として祥平は聞く。月は視線はそのまま、ぴくりと肩を震わせると、何かを隠すように鞄を閉じた。

「少し、気分が悪いみたい。保健室へ行くわ」

 か細い声で言った月が鞄を持って立ち上がる。

「おい、どうしたんだ」

 祥平の静止も聞かずに月がよろよろと歩き出す。追いかけようとするも、彼女の背中がそれを拒否しているように見えて声すら掛けられなかった。彼女が教室から出ていく姿を見送って席に戻る。

 心底自分が情けなかった。

「何かあった?」

 祥平の様子を訝しんだか、志乃が神妙な顔を寄せた。彼女の髪から微かにゴムの香りがした。

「具合が悪いみたいだ。保健室に行くってさ」

 そう、とだけ志乃が返した。いまにも泣きそうな顔だった。

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