第二章/嘆きの独唱 3
教室が黄昏に燃える頃、祥平は身の振り方をまだ迷っていた。月のために動くべきか放っておくか、決心がつかなかった。志乃に頼まれたという事実が、小骨が喉に刺さったような気持ち悪さを産んで心に残り続けているから、投げ出すこともできない。
「どうしたの?」
思考に沈んでいた祥平は、突然後ろから声を掛けられて思わず机を蹴って立ち上がった。背後に立っていた志乃が祥平の反応に目を丸くしていた。
「ごめんね、驚かせて」
「い、いや、大丈夫。それで、どうした?」
「うん、少し疲れてるように見えたから。もしかしたら、朝の話のせいかなって思って」
志乃が申し訳なさそうに言った。
結局変わってないな、と祥平は思った。彼女はいつだって人のことばかり考えている。そんな彼女だから、祥平は命を賭してでも守りたいと思うのだ。
「大丈夫だよ。別のことを考えてただけだ。学生の本分は悩むことだからな」
余計な心配はさせたくなかったから、祥平は息を吸うように嘘をついた。腰を折った志乃が顔を覗き込む。彼女の表情には笑みがなかった。
「そっか。辛いなら言って。多少のことはできるから」
本当に大丈夫だ。
志乃の頭に伸びそうになった手を止めて祥平は無理やり笑った。彼女がいつも湛える笑みを消した時、祥平は彼女の頭を撫でるのが習慣だった。以前までの関係ではなくなってしまった以上、そんなことは二度とできない。
彼ができることは、志乃の笑みを消さないことだった。彼女が正しいのだと、彼は信じて疑わなかった。だから、彼は月の力になることにした。
「もういくよ。変な心配かけて悪かったよ」
「いいよ。大変なこと頼んじゃったから」
「なんとかするよ。だから安心してくれ」
それが志乃の頼みであれば、それが志乃の未来に繋がるのであれば、もう迷わない。
志乃と別れた祥平は教室を出て合唱部へ向かう。
例えいらぬお節介だとしても、それが道を作ることもある。祥平も志乃のためにずっとそうしてきたのだ。相手が変わったところで、いまさら何を迷うというのか。
特別校舎に入り、合唱部が練習の場にしているという空き教室へ行く。目的地が近くなると、合唱部の発声練習が聞こえてきた。どうやら考え込んでいる間に部活動の時間になってしまったようだ。今度はアプローチを変えて月ではなく合唱部員に話を聞くつもりだったのだが、活動の邪魔をしてまで話すことではなかった。
祥平は踵を返して図書室へ向かう。部活が終わるまで時間潰しをしようと思った。
図書室で適当な本を読んでいると、部活動が終わる時間になった。意外と熱中してしまった推理小説を本棚に戻して合唱部の練習場まで行く。
空き教室に着くと、丁度部活が終わったところなのか合唱部員らしき女子生徒たちが中から出てくるところだった。遠巻きにその様子を見ていた祥平は、その中に湊の姿を見つけるや近づいて声をかけた。
「柏木、ちょっといいか?」
「ん、こんなところにまで出張ってくるとは驚きだよ。どうしたんだい?」
気取った口調に苛々するが、なんとか呑み込んで続ける。
「代表と話がしたい。そうだな、部長を紹介してくれ」
「例の件か、いいよ」
快諾した湊に連れられ中に入ると、彼は部長を呼んだ。やって来たのは小柄な女子生徒だった。何が楽しいのか、アーモンド型のくりっとした目を蘭々と輝かせている。
「なに、湊くん」
「彼、朝倉祥平っていうんだけど、君と話したいみたいなんだ、時間をくれるかい?」
女子生徒が値踏みするような視線で祥平を見つめ、何度か頷いたあと親指を立てた右手をぐっと前に押し出した。
「合格!」
なにがだ? 祥平は意味が分からず顔をしかめる。
「私、彼氏いないよ!」
なおも意味不明な発言をする彼女から視線を外し、湊を見やる。彼はくつくつと笑っていた。
「ごめんごめん、そういう話じゃないんだ。朝倉が話したいことはまた別だよ、織部」
湊が言うと、えー、と織部は残念そうな声を上げた。ころころと表情が変わる子だった。
「それで、なんの話?」
頬を膨らませた織部が問う。祥平は短く息を吸った。
「冬川のことだ。できれば周りに聞かれたくない」
「オーケイ」と天真爛漫娘のように頷いた織部が大声を出した。「はいはい、みんな出てって〜。今から私告白されるから、気を効かせてね〜。はいそこ! いったいった!」
「あ? おい、何言ってんだ!」
祥平が抗議の声を出した時にはもう遅かった。残っていた合唱部員が祥平に奇異の視線や、頑張れなどの声援を浴びせ、ぞろぞろと教室から出て行ってしまった。
早速頭が痛くなった。隣にいる漫才でも見ているように腹を抱えていた。
「どういうことだ」
「手っ取り早いでしょ?」
すごむ祥平に織部があっけらかんと返す。知らぬ間に一般常識が変わってしまったような気分になった。どうも自分の周りには癖のある者が多いようだ。
「まあいい。単刀直入言う、冬川を合唱部に戻してほしい」
途端に織部が困った顔をした。彼女の仕草を注意深く観察するが、嫌悪感は見つけられなかった。
「それは私たちも同じ。早く戻ってきて欲しい」
「どういうことだ? 冬川とは仲が悪いんじゃないのか?」
織部が真顔になったかと思うと、違うと言って苦笑する。
「あの子の歌が凄すぎたんだよ。だから私たちもなんだか声を掛けづらくなって、そうこうしてる内にあの子が耐えきれなくなったんだろうね。いまみたいになったんだ」
私たちのせいだよ、と織部が表情を曇らせる。
「ただのすれ違いか。おい柏木、聞いた話と違うぞ」
間違った情報を齎した湊を睨みつける。彼は肩をすくめた。
「ボクは基本的にピアノのピンチヒッターみたいなものだから、事情に精通しているわけでもないさ。でも大体は合ってたろう?」
湊の風になびく柳のような態度に、祥平は胃が痙攣するほど腹が立った。
まあまあ、と織部が場を取りなす。
「あの子が戻ってくるのは私たちも歓迎する。でも、たぶん知ってると思うけど結果はこの通り。いまだひとりで練習中」
祥平はあごに触れながら思案し、慎重に口を開く。
「合唱部の見解は分かった。戻るかどうかは冬川次第。織部部長、ひとついいか?」
「泉でいいよ。私も名前で呼ばせてもらうから。いいよね?」
「どうとでも」適当に答えて祥平は続ける。「冬川が戻ってきたら、前みたいなことにならないようにしてくれ。折角戻ってきても同じじゃ冬川が可哀想だ」
「もちろん。私は同じ轍は踏まない女だからね」
合唱部部長、織部泉がにかっと笑った。祥平は、裏表のない笑顔を向けた彼女をひとまず信頼することにした。
「そうか。頼む」
その後、祥平は彼女らと二言三言話して教室を出た。暗くなった帰り道を歩いて自宅に戻る。狭い部屋に入ると、ベッドの上にぷかぷかと浮いて窓の外を眺めていた七海が振り返った。
「おかえりなさい。今日は遅かったですね」
「用があったからな」
荷物を放り出して祥平は答える。
いまはもう、幽霊と平然と話すことが当たり前になっていた。彼にとって、七海は死の象徴であり人生に現われた逃れられない墓標だ。だから、彼女にもっと辛く当たっていいはずだった。それができないのは、彼女もまた人の世の被害者だと知っているからなのか、単に彼自身がお人よしなのかは分からない。
祥平は、志乃が泣き叫ぶあの日の姿を見て以来、人が苦悩し、涙を流す様を見ることが苦手になった。どうしたって志乃のあの姿を思い出してしまうからだ。きっと、これが原因なのだろうと思った。ただでさえ七海は今にも消えそうな姿をしているのだから、これ以上追い詰めるようなことを彼にはできなかった。
なあ、と祥平は小さく彼女を呼ぶ。
「なんでしょう?」
七海がきょとんとして祥平を見た。声をかけたのにどう言うべきか迷って、暫しの間彼は無言になる。彼女は続きを急かさず浮いたまま待ち続けていた。やがて、彼が言葉を選んで問う。
「部活の人間関係に馴染めない子がいるんだ。どうすれば、部活に戻れるようになるんだろうか」
「お優しいですね」七海が目じりを下げて宙を滑り、祥平にすぐ前まで近づく。「でもあまり急いては駄目ですよ。その子が女の子か男の子かは分かりませんが、少なくとも、戻れ戻れと正論を押し付けられては苦痛です。氷を溶かすように、時間をかけてじっくりと。優しく暖かく接することが一番の近道だと私は思いますよ」
「そうか」
月よりも酷い立場にあった七海の言葉は説得力が詰まっていた。
「そうか、そうだよな。たった一日二日で心の問題を解決できるものじゃないよな」
「理想を伝えるのではなく、ただ一言。その人が望む言葉をかけてあげれば、きっとその人も救われるはずですよ」
望んだ言葉が欲しい。苦悩に追い立てられる者は、皆そんなことを求めている。祥平とて、もう救われていいのだと誰かに言ってもらいたかった。それが志乃を殺す悪だと理解していても、ほんの一瞬、心に張った靄が消えてさえくれるのならばと心底思うことがある。きっと、月もそうなんじゃないだろうかと思った。
「明日は休みです。ゆっくり休んで考えを巡らすのも良いでしょう」
「ああ、ところでもうひとつ聞きたいことがあるんだ」
「なんでしょう?」
喉の渇きを覚えた祥平は台所へ向かう。
「どうして俺は人の記憶を消せるんだ?」
昔から疑問に思っていたことだった。
人の記憶を消す。これはどう考えても人の身に余る力だ。一種の超能力といってもいい。乖離した現実を生きる祥平にとっても、この力はあまりにも不可解だった。
蛇口を捻って水色のグラスに水を並々と注ぎ、一気にあおる。ふわふわと浮く七海が、フローリングに足をつけた。
青白く輝く前世が、両手を胸に添えて厳かに告げる。
「魂が不完全だから、欠陥を補完するために不思議な力が宿る――私はそう考えています。そして、あなたが望んだからこそ得たのだと」
祥平は思わず笑った。
記憶を消すことを望んだだと? ありえない。そんなこと、一度たりとも願ったことはない。志乃が虐待を受け始めた時期と、この力を自覚した時期が一緒だったなど、ただの偶然だ。これが、最善のはずがない。
祥平は見つめていた空になったグラスをシンクの中に置く。
「ファンタジーだな」
「私の存在もあなた方の運命も、似たようなものではありませんか」
七海の答えに、祥平は返す言葉もない。
◇◆◇
祥平は、宛てのない己が人生の道を行く様に、休日の昼間を散歩で潰していた。三年ぶりともなれば、町の景観は少しばかり変わっていた。志乃と再会した教会はどこか煤けたように見えたし、小さい頃毎日のように通った駄菓子屋は跡形もなく消え去り、昔はまばらに人がいた商店街は、軒並みシャッターを下ろして錆びた店構えを祥平の瞳に曝す。砂漠に飲み込まれる果ての大地のように、町は徐々に寂れていっているように見えた。以前、母親が借金ばかりをこさえる市長の文句を言っていたことがあった。きっと今もやりたい放題なのだろう。
それでも、この町のあちこちに志乃との思い出の欠片が落ちている。ひとつひとつを拾い上げるたび、心の奥が懐かしさでひび割れた悲鳴を上げる。喉にこみ上げてくる何かを飲み下すのは、大なり小なり苦痛を伴った。三年経ったいまも後悔に苛まれているのだと痛感せざるを得なかった。
だが、祥平にとって幸いだったのは、欠片が眠るこの町でいままで志乃が記憶を取り戻す不幸がなかったことだ。それが彼にとっての不幸であることは、最早受け入れるしかない。だからこそ、一度この町を去り、彼女から苦しみや悲しみ、不安といった人が持ち得る過去の産物を奪った罪を償えるのだと思う。
通りがかりにアイボリー色の建物が見えた。全十四部屋の小さなアパートだった。高校入学と同時に志乃が住むことになったアパートだと、先日渉から聞いた。そこにあるのは、祥平の知らない志乃の歩んできた道だ。
着実に時は流れて止まらない。幼馴染の少女は、過去を奪われると同時に過去を振り切ったのだ。祥平はいまだ立ち止まり続けているから、志乃と道を同じくすることができない。それでいいと思うのに心が寂しさで震えた。感情に蓋をすることは、スイッチをオンオフするほど簡単ではなかった。
底冷えする感覚に身体が軋んだ。秋晴れが注ぐこの町は季節感を見失うほど温暖なのに、寿命が間近の彼の身体は希薄になる一方だから、ひとりで生きる現実を直視するのが怖くてたまらない。
「なあ祥平。お前、両親はどうしたんだ?」
午前中、携帯電話の着信音がなって電話を出ると、変哲のない言葉の応酬をした後、渉にそう聞かれた。
「なんだいきなり。もちろん置いてきたよ。だからいまは一人暮らしだ。それがどうした?」
「いや、なんかさ……」
渉は言い淀みながらもこう続けた。
「志乃のこともあったし、まさかお前の家でもなんかあってこっち来たんじゃないかって、ふと思って。いや、気にするな。変に勘ぐっちまったな、ごめん」
その後、少し会話をして電話は切れた。
渉は祥平と志乃の過去だけでなく、いま何かが起きていることに薄々勘付いている。祥平にとってそれは嬉しいことでもあり、しかし、危険な兆候でもあった。まさか祥平が実の両親の記憶を消したことまで思い至るほど突拍子もない考えを巡らせるはずはないが、それでも、志乃という実例がある以上は、行き着く先の可能性としてあり得ない話ではない。
まるで四面楚歌だな、と祥平は思った。
水面下で何かが起こり、はっとしたときにはもう何もかもが取り付かない事態になっていて、修復することもできない状況に突き落とされる。そんな未来ばかりが浮かんで恐ろしい。
昔、これよりも遥かに酷い電話がかかって来たことがあった。
二年前のことだった。その日、祥平は志乃の面影を見た少女と別れたばかりで、僅かな傷心と大きな罪悪感を胸に抱く中、自室のベッドの上でそれを聞いた。
――ねえ、私……お母さんに捨てられちゃった
それは、志乃からの電話だった。記憶を失い、祥平のことなど欠片も覚えていないはずの彼女が掛けた最初の電話が、母親の蒸発を語る言葉だった。誰に掛けているとも知れぬ電話の中、彼女は淡々と自分の置かれた状況を語り、最後には声を押し殺しながら泣いていた。
あのときほど動転したことはなかった。あの、前世に死を宣告され、志乃が死にたいと泣き叫んだあの日よりも祥平は狼狽し、己の無力さに打ち震えた。
志乃はなぜ電話を掛けて来たのだろう。祥平はいまでもこう考えることがある。携帯電話に入ったアドレス帳の中で適当に選んだものがそれだったのか、朝倉祥平という名前に記憶を超えた何かを感じたのか、それとも――記憶は戻っていたのか。
何にせよ、あれから志乃が電話を掛けてくる事はなかった。残っていたアドレスは、渉に頼んで消してもらったからだ。祥平の疑問は、未来永久答えが提示されることはないだろう。
きっと、そんなことで心中を渦巻かせていたからだろうか、視界の端で腰まで届く黒髪の少女の姿を捉えたとき、声を掛けずにはいられなかった。
「冬川」
私服姿の月は、駅前のロータリーで佇む祥平を横切る寸前で足を止めた。大学生と言われても納得するほど大人びた姿をした彼女は、彼の姿を見つけると面倒な奴に見つかったと言わんばかりに顔を歪めた。さすがに祥平も彼女の態度に傷ついたが、いまは誰かと話したかったから我慢した。
「どうしてこんなところにいるのよ。まさか、つけてきたわけじゃないでしょうね?」
口調は乱暴だったが、彼女の声には怯えが含まれていた。校内では強気の態度ばかり見てきた祥平にとって、いまの彼女の態度は新鮮味があった。
「そんなわけないだろ。散歩してたんだ。冬川はどうしたんだ?」
「今日はアルバイトがあるから。なんとなく、早く来てみただけよ」
「ああ、例の喫茶店か」
言った瞬間、しまったと思った。月の顔色がみるみる内に青くなり、後ずさりながら祥平との距離を離していく。
いくらなんでも警戒し過ぎだろう。
「おい、勘違いするな。柏木に聞いただけだぞ?」
「そういうことなら早く言って」長い息を吐き出した月が痴態を恥じたか、頬を赤らめる。「ほら、私それなりの容姿しているから、ストーカーとか怖いじゃない?」
「俺はお前のその自意識過剰加減が怖いよ」
月は、たまにこうして一般人が吐かないような自信に裏づけされたことを言う。一週間近くを過ごして、それが彼女なりのごまかし方だと分かってからは、多少は可愛げがあるものだと思えるようになっていた。かといって、それが万人にそう思わせるわけではないから、改めるべき癖なのだろうとも感じた。
このあたりに解決の糸口があるのかもしれない。
「そう、そうよね」
風に消える綿毛のように儚い微笑を月が顔面に貼り付ける。これも、祥平が指摘した後に見せる表情だった。
月の光沢のある黒髪が風になびく。淡い女の匂いが祥平の鼻腔を撫でた。陶酔しそうな香りに少しめまいがした。
「ねえ、朝倉くん。時間があったら少し付き合ってくれない?」
月の言葉の意味をはかりかねて、祥平は声を詰まらせる。
「ん、ああ、いいけど。どうした?」
「昨日のこと、謝りたいから」
祥平は困惑した。月らしくない態度や言葉を立て続けに浴びれられて、耳がおかしくなったのかと思った。
「謝られることは何もないだろ。あれは俺が浅慮だったんだ」
「そう言ってもらえるのはありがたいけど、私が納得できないのよ。私は、変わりたいから」
「変わりたい?」
駅を通り過ぎる新幹線が耳障りな甲高い音を響き渡らせる。
月は問いには答えず、さあ、と言って歩き出した。未だ彼女のことが分からない祥平は、問いを投げそうになる口を閉じて彼女の後を追う。隣に並ぶと、彼女は駅前にある喫茶店に行こうと言った。彼女が働く場所だった。
「今日は私がもつから、気にしないで頼んで」
店内に入り席に着いたところで、メニューを差し出した月が言った。
「金なら俺も多少は持ってるぞ?」
「言ったでしょう。謝りたいって」
頬杖をついた月が苦笑する。
「別にいいさ。俺も悪い。おあいこってことにしとこう」
メニューを見つめながら答える。今日も黒糖珈琲にしようかと思案しかけたところで、月がとんでもないことを言った。
「ねえ、どうしてあなたは私に付きまとうのかしらね」
「ああ? 俺が、冬川にか?」
言い返したものの、内心では冷や汗をかいていた。確かに、客観的に見れば祥平は月に付きまとっているように感じるだろう。自分でもよく分からない執着が、彼女へと向かわせている。何も願わないと誓ったはずが、気がつけば彼女の歌声を求めてやまない。深く考えると何かとても嫌なものを呼び起こしそうになるから、彼はそこで思考を止めた。
「一応否定はしておく。だが迷惑なら消えるよ」
どうせ学校など通う必要もない。祥平は運命の日まで死ぬために生きること以外に役目はない。
「違う、そうじゃなくて……いえ、言い方が悪かったわ。ごめんなさい」
しろどもどろになった月の声が細くなった。今日の彼女はとことん下手に出るつもりらしい。
「変に気を使うなよ。先に何か頼もう」
店員を呼んで、祥平は黒糖珈琲を頼んだ。月も同じものをと告げ、ほっと息をついた。
沈黙が漂う。何か話すべきだが、話題が思いつかない。そういえば、彼女との時間を過ごす時はいつも歌を聞いていた。こうして面と向かって話すことは殆どないから、間を持たせるためにグラスに口をつける。
手持ち無沙汰なのか髪を弄っていた月が口を開く。
「奇妙な関係ね。私は歌って、あなたはそれを聞いて。たったそれだけの仲。面白いと思わない?」
「まあな」
「歌を聞いてて楽しい?」
そうだな、呟いて祥平は天井へ目を向ける。くるくると回る天井扇が眠気を誘った。
「楽しいとかじゃない。ただ、聞いてると救われる」
月の歌の話題になると、嘘をつくことができない。祥平は、彼女の歌に高貴な何かを見たのだ。人の意識を攫い、抗う間もなく桃源郷まで連れて行く。彼女の歌は、祥平のように闇を抱える者に響く切実さがあるのだ。
「あなた、この話題になると恥ずかしいことを真顔で言うわね」
呆れたように言いながらも、月は嬉しそうだった。彼女にとって欲しい言葉は、歌を褒められることなのだろうか。何にせよ、こう正面から指摘されると祥平としてもばつが悪い。
「分かってるんだから言わないでくれ。これでもそこそこ恥ずかしい」
「いいじゃない。そこまで私の歌に惚れ込んでくれた人はいないから」
まあ、といやらしい笑みを浮かべて月が続ける。
「だからといって、教室にいる間も熱く見つめられても困るのだけれど」
勘違いだ。祥平はその言葉を喉の奥で殺した。
「美人がいれば自然と目が行くさ」
「一応褒め言葉として受け取っておくわ」
そこでようやく珈琲がやって来た。持って来た小柄な店員が、意味あり気な視線を祥平に注いだあと、月へにこりと微笑して去って行った。
物凄い勘違いをされた気がした。
「これからどうする? 歌でも聞きたい?」
「ここで歌う気か? さすがに他人の振りするぞ」
くすくすと月が笑う。
「酷いわね、違うわよ。カラオケに誘っているの。仕事の十八時まではまだ時間があるし」
壁に掛けられた洒落た時計を見ると、まだ三時間近くはあった。一対一のリサイタルでも開いてくれるというのだろうか。なかなか嬉しい誘いだ。
「そんな歌いっぱなしで喉痛めないか?」
「何言ってるの。あなたも歌うのよ」
「は?」
祥平は目を剥いた。彼は歌うのは苦手だった。得難い貴重な誘いから一転、彼女の言葉が彼にとっては悪魔が差し出す手のように感じた。
「あー、なんだ、突然不意に唐突に用事を思い出した気がする」
「あら、歌は苦手? でも駄目よ。聞かせてばかりじゃ私がつまらないもの」
「そうは言ってもな、歌うのはちょっと……」
祥平は昔から音痴だ。これは志乃も同じで、昔から合唱コンクールは恥をかく場だった。もしかしたら、志乃も月の類稀な歌声に惹かれたのかもしれない。
「私が教えてあげてもいいのよ?」
「それは魅力的だな。だけどこれ以上生き恥を晒したくないんだが」
「渋るわね。俄然聞きたくなってきたわ」
ふと、窓の外に目が留まった。視界に入った光景が信じられなかった。駅前を志乃と湊が楽しそうに話しながら歩いていたのだ。祥平は石像のように固まる。
待て、どうして俺は動揺している。
志乃が祥平の記憶を失ってから三年経つ。男のひとりやふたり、付き合うことがあっても不思議ではない。祥平とてそうだったのだから、彼女が何もなく過ごす都合の良い現実がある保証などないはずだった。それに、二人は別に付き合っていた過去すらないのだ。
だから、祥平は心の乱れがどこから来たのか分からなかった。
志乃の視線が祥平を通り過ぎる。彼女は彼に気づいた様子もなく視界から消える。祥平の中に産まれた靄は増長するばかりで、消える気配を見せない。
「朝倉くん? どうかした?」
月に呼ばれ、飛んでいた意識が戻る。
「いや、何でもない」
「そう? ところで朝倉くん、聞きたいことがあるのだけれど」
「なんだ?」
「志乃とどういう関係なの?」
祥平の心が動揺の津波で荒れ狂う。
「なにがだ?」
平然と返したつもりが声が震えてしまった。この話題は最悪だった。志乃の記憶に亀裂を入れる可能性があるものは、すべて排除しなければならない。なのに、その決意を祥平自身が一番に裏切っている。彼は、己の欲を満たすために学校へ通い、月の歌を欲していた。自身を犠牲にする覚悟が本当にあれば、彼はすぐにでもこの町を離れることが最善だった。なにもかもがめちゃくちゃだから、明確な危機が迫ると慌てふためくのだ。
「いえ、この前のこともあるけど、お互いに意識し合ってるみたいだから。どうなの?」
「何もない」
祥平は吐き捨てる。そう、何もない。無かったことにしなければならない。それだけが志乃を救う道なのだ。
「ほんとに? あなたが志乃に向ける視線も何かある感じだし」
「何もない」
これ以上は言えないと言外に含める。心臓は狂ったように脈打ち、だというのに末端が冷たくてしょうがない。
志乃が記憶を取り戻すことが怖いのだ。彼女の泣く姿がフラッシュバックのように脳内に浮かび上がる。祥平が知る限り、志乃が泣いたのは三年前のあのときと、彼女の母親が蒸発したときだけだ。
「あら、なら志乃にも聞いてみましょうか?」
落ちていた顔を上げる。月がおちょくるように笑っている。
どうする。やめろと言うか? 言ったら関係があると暴露するようなものだぞ。だが放っておいたら本当に言うかもしれない。そうしたらどうなる? 志乃が記憶を取り戻したら、また、また彼女が……。
死にたい――
志乃の叫びが頭の中で響き、血の気が引いた。
それは駄目だ。それだけは言わせてはいけない。志乃が、志乃が壊れる。彼女の泣き叫ぶ様など、もう見たくない。
祥平は落ちかけた顔を上げて手の平を月に見せる。
「分かった、分かったよ。白状する。あいつのことが気にかかってるんだよ。だから紗枝倉に勘ぐるのはやめてくれ」
「ふうん、気になるわね。それはどういう意味?」
「みなまで言わせるな。意味なんてそうあるもんじゃないだろ」
納得しろ。
恥ずかしがる高校生を演じながら、祥平は祈るように月を見つめた。彼は嘘をついている訳ではない。志乃のことはこの世の誰より気に掛かる。だが、それは恋愛ではなどではなく、彼女の未来であり、すぐ先に迫った生き死にの岐路だ。
窓の外に見つけた光景も、それで生まれた心地の良くない感情の揺れも忘れることにした。
納得しろ、冬川月。高校生らしく、ああこの人はあの子が好きなんだと勘違いしろ。
「つまり、朝倉くん。あなたは……いえ、ごめんなさい。踏み込みすぎたわね」
先ほどまでの態度とは変わり、月は殊勝にも追求の矛を収めた。針のむしろだった祥平は、気づかれないように安堵の息を吐き出す。
目を逸らしてメニューの端に指を這わせていた月が、ぐっと拳を握ったかと思うと伝票を取って立ち上がった。
「ごめんなさい。少し、用事を思い出したわ。ここは持つから、その、ごめんなさい」
「え、あ? おい!」
祥平が静止の言葉を投げる間もなく月はレジへと行ってしまう。追いかけようと腰を浮かせたそのとき、自分の吐いた言葉の残酷さに愕然とした。
――月が、朝倉くんのことが好きだから。
顔を覆って椅子の背にもたれかかる。志乃の言葉が真実だという確証はない。それでも、もし真実の的を射抜いていたとしたなら、祥平の台詞は月にいかばかりの傷を負わせてしまっただろうか。
「どうしてこう、いつもうまくやれないんだ……」
見上げた先にある天井扇は、祥平の心中など知らず回り続ける。運命の暗示するようにくるくると。