第二章/嘆きの独唱 2
七海に起こされた祥平は、身支度を整えて逃げるように家を出た。彼女は幽霊のくせに遅刻をすることを嫌うから、ぎりぎりまで惰眠を貪る祥平を早い時間に起こすのだ。ただでさえ寝つきの悪い祥平は、眠くて仕方なかった。
制服の袖から、風がするりと身体に入り込む。肌寒かった。冬の気配が近づき始めた朝の日差しは、一週間前までやる気を出していた太陽とは思えないほど弱弱しい。気温の落差に身体の歯車が変になりそうだった。
アパートを出てすぐの川べりを歩く。遠くに覗く城を見ながら学校へ向かっていると、途中で栗色の女子生徒がのんびりと歩く後姿を見つけた。
志乃だった。分かった途端に回れ右をしたくなった。どうしてこんな朝早い時間に彼女がいるのだろうか。どうでもいいから道を変えようと考えたところで、絶妙なタイミングで彼女が振り返った。超能力でも持っているのだろうか、あまりにも間が悪かった。
遠目でも分かるほど、にこやかに微笑んだ彼女が小走りに近づいてきた。なぜ無視してくれないのか、と祥平は嘆いた。
「おはよう、朝早いね朝倉くん」
「ああ、そういう紗枝倉もな」
もう逃げられないから、腹を括って冷静に返した。それでも、心の震えは止めることができなかった。
「ようやく話せたね。一週間ぶりかな」
志乃が嬉しそうに笑う姿を見て、祥平はこの一週間の行動が間違っていたのではないかと不安になる。隣に並んだ彼女が乱れた髪を耳にかける。
「そうだったか?」
そうだよ、と志乃が祥平を見上げる。黒淡白石の瞳には憂いがあった。
「どうしてか私が話しかけようとすると、いつも朝倉くんっていなくなるから。本当に嫌われたのかと思ったよ」
「たまたまだよ。そんな巡り合わせもある」
「それならいいの」
まなじりを下げた志乃が、アルカイックに微笑む。祥平は上着のポケットに手を突っ込んだ。
淀みなく流れる川のせせらぎを受け止めて何気ない会話をしながら歩いていると、志乃が意を決したように祥平へ告げた。
「ねえ、ひとつ頼みごと、してもいいかな?」
「内容によるけど、言ってみな」
「月のこと、頼める?」
お前もか……。問いただしそうになるのを寸でのところで止める。なんだ、いま月が流行なのかと馬鹿馬鹿しいことを考えた。
「朝倉くん?」
志乃が上目遣いで名前を呼ぶ。彼女の声はいつだって心の琴線に触れるから、頼みごとは何としても受けたかった。
「分かった、でも内容は?」
柔らかく表情を崩した彼女が、昨日の湊と同じことを祥平に語った。仕組まれているのか、単に両者ともお人よしなのかと、志乃の説明を聞きながら考える。後者に決まっている。
「お願いできる?」
志乃の問いに祥平は首を縦に振って答えた。
「一応、俺に頼む理由を聞いてもいいか?」
「月が、朝倉くんのことが好きだから」
予想外の答えが返ってきて祥平は面食らった。湊の理由付けよりも衝撃的な告白だった。いや、志乃の口から発せられたことが嫌だったのかもしれない。
「たった一週間で女を惚れさせる妙技はもってない」祥平はぶっきらぼうに言う。
「一週間で恋に落ちない、なんてことも言い切れないよ」
志乃が祥平の前に立ちはだかった。歩みを止めて見下ろすと、彼女は真剣な表情で彼を見つめていた。嘘を言っていない目だった。そもそも、彼女は悪意ある嘘はつかない。言うのは易しい嘘だけだった。
「……根拠は?」
「見てれば分かるよ、親友だから」
まぶたを閉じた志乃が手を伸ばして祥平の胸に触れる。彼女は何かに耐えるように一度唇を真一文字に結んでから続けた。
「想いに答えろなんて言わない。だけど、お願いだから月を助けて」
助けて。その言葉が持つ切実さが妙に引っかかった。薄氷のように不確かな現実のすぐ下には、人ひとりを飲み込むには十分な絶望が口を空けて待っていることがある。いまの、祥平のように。
「合唱部の他に何かあるのか?」
志乃が、分からない、と小さく言った。
「分かった、動いてみるよ。でもあまり当てにするなよ?」
ここへ戻って来たのは、志乃を助ける為だから。鬼火のように心で燻る祥平の灯火は、志乃の生きる未来を糧に灯っている。
◇◆◇
机を挟んで対面した渉との会話を取り落としながら、祥平は自然と向いてしまう視線の先にいる志乃の姿を眺めていた。まだ彼女が元気に学校生活を送っているところを間近で見られることに慣れていなかった。
志乃は、この二日で二回も話題に上がった月と楽しそうに昼食を取っていた。こうして遠巻きに観察しているだけでは、月が問題を抱えているようには見えなかった。
「志乃と冬川、どっちだ?」
珍しく弁当を食べている渉が、にやにやしながら聞いた。彼は中学の頃から弁当を持参したことが殆どない。母親が朝に弱いのだ。だから彼はよく、料理は上手いんだから低血圧をなんとかして欲しいとぼやいていた。
「何がだ?」
「お前が惚れてる相手だ」
渉が煮物の人参を咀嚼しながら顎で二人を指す。祥平は疲労の混じる息を吐いた。
「惚れただのなんだの、学生はそれだけか?」
「学生の本分だな。だから大抵は興味がある。で、どうなんだ?」
心底興味があるとでもいうように、渉が身を乗り出してにやけ面を近づける。その顔面を手の平で押し退けてやりながら、祥平は、色恋ひとつにここまで興味を示せる能天気な渉が羨ましかった。二ヶ月後に死ぬ祥平に、恋も何もない。
「どっちでもない。綺麗だから見てただけだ」
投げやりに答えると、渉が目を大きくした。
「なんだ?」
「いや、昔はもっとムッツリだったくせに、東京から帰ってきたら意外とストレートに言うようになったもんだと思って」
「三年ありゃ人は変わる」
「へえ、東京では女の子と遊びまくりか?」
「片手で数えられる程度に」
箸の先で冷凍物の焼売を突ついて口に放り込む。まずかった。無駄に朝早く起きたのだから、もう少しまともな弁当を作れば良かったと後悔した。渉を見ると、口を開けた間抜け面を晒していた。ころころと表情が変わる奴だ。
「お、お前……俺がナンパで苦労している間にご、五人も……」
「正確には四人だな、五人だったか?」
適当に答えつつ月を見る。弁当箱を空にした彼女は、包みに仕舞って席を立つところだった。彼女は昼食を終えるといつも第二音楽室に直行することを祥平は知っていた。
「志乃ひと筋だと思ってたのに、志乃が泣くぞ?」
渉が天井を仰いで嘆いた。味気ない弁当を閉じて手拭いで包んだ祥平は、うんざりしながら答えた。
「俺のことなんて忘れてるよ」
何か言いたそうな渉を置いて、月が消えた教室を出る。第二音楽室に向かうと、月が壇上に立っていた。祥平に気づいた彼女が首を傾けて強い口調で言う。
「あら、今日は昼休みも来たの? 悪いけど、今日は発声だけのつもりだから大して面白くないわよ」
月の態度は普段通り辛辣だ。志乃が言ったことは何かの間違いだろう。好きな相手には優しくなるはずだ。
「話があって来たんだ。少し時間を貰えるか?」
くすくすと月が笑う。
「なあに? 告白かしらね」
朝聞いた志乃の言葉を思い出して、どきりとした。恋愛関連に頭が引きずられていた。
「そういう話じゃない。部活の話だ」
ああ、そういうこと。月の態度が急変した。彼女が不機嫌さを隠そうともせずに眉をひそめ、扉を色白の細い手で指差した。
「柏木くんの差し金かしら。もしそうなら話すことはないわ。出ていって」
「おい、俺はまだ何も言ってないぞ」
「否定しないのだから、そういうことでしょう? いいから出てって。そんな話、聞きたくもない」
ぴしゃりと言われて、祥平は言葉を続けることができなかった。
たぶん、助ける相手が志乃だったら、相手を無視してでも話すことができた。嫌われようが罵られようが、がむしゃらに突っ切ることができた。
何をやっているんだろうと思った。志乃を救う為に戻ってきたのに、別の女を救おうとしてその対象に怒りを向けられている。やっていることがちぐはぐだった。
祥平は、その実二ヶ月先までやることがない。運命の日に死ぬことしかできないから、何かで心の空白を埋めないと黒い感情が入ってきそうで必死だ。
外側から己を見つめ直したとき、嫌な理解が訪れた。
祥平は、自分の心を守るために月を利用しているのだ。
「分かった、邪魔したな」
月に背を向けて第二音楽室を出る。教室へ戻る廊下を歩きながら、これからどうするべきか考える。
やることはやった、でもだめだった、他を当たってくれ。そんな風に二人に言えば納得してくれるだろうか。
「よう、どうだった?」
俯いていた顔を上げると、神妙な顔をした渉がいた。なぜ彼がここないるのか分からなかった。
「なんのことだ?」
「とぼけるなって。冬川のことだよ。うまくいったか?」
背筋に冷気が走った。心臓が脈動して頭に血が上る。ただでさえ人相の悪い目つきが研ぎ澄まされいくのを感じた。
どうしてどいつもこいつも俺の行動に気を配ってやがる。
「渉、何を知ってる? いまの俺は最高に機嫌が悪いぞ。半端な受け答えはするなよ」
おおこわっ、と渉が大仰に驚いて見せた。不愉快極まりない。
「湊から聞いてたんだよ。ちっと相談されてな」
「ならなんで俺を前に立てるんだ。お前らの方が冬川と仲良いだろ」
「言ったさ」渉は表情に苦笑いを滲ませた。「でも俺たちじゃあいつを動かせない。なら第三者を入れるしかないだろ? そこで祥平だ」
祥平はなんと返すべきか分からなくなって歩き出した。渉が追いかけて来るが無視する。
彼らは友人想いだ。だが、お節介だ。親切も度を越せば毒に変わる。月の反応も当たり前だと思った。きっと彼女もこのままではいけないと感じている。だからこそ、周りから追い立てられてやり場のない鬱屈とした思いが溜まり、動けなくなる。そして今度は祥平が出てきて、更に苦悩が沈殿する。これでは負の連鎖だ。
誰にも語ることのできないものを背負ってしまったからこそ、月の苦しみが分かってしまった。
「おい、祥平。怒ったのか?」
渉に肩を掴まれ祥平は立ち止まる。
「誰にでも触れられたくないものはある。それを無理やり触ろうとするのは、化膿した傷口に塩を塗るようなもんだろ。少しはあいつの身にもなれ」
首だけで振り返り祥平は吐き捨てて再び歩き出す。だが途中、はたと気づく。優しい志乃が、あの、人の心を読むのが誰よりも上手い志乃が、こんな当たり前のことに気づかないだろうか。
祥平は窓の外へ視線を投げる。眠気を誘う日差しを浴びながら考える。
分からない。
三年で人は変わる。祥平が死を決意したように、彼女も変化したのだろうか。