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第二章/嘆きの独唱 1

 部活動へ走る生徒たちの波間を縫って、祥平は第二音楽室へ向かう。暗がりの校舎の中を歩きながら、今日もまたあの歌声を聴くことができるのだと思うと心が少し軽くなる。歌声はまだ聴こえてこなかった。立て付けの悪い第二音楽室の扉を遠慮なく開き、中に入る。

「あら、また来たの? 随分と暇なのね」

 壇上に立っていた月が、鬱陶しそうに言った。普段通りの挨拶だった。彼女は、祥平がこの部屋に来るといつも遠慮のない毒を吐く。最初は面食らってばかりだった祥平も、いまとなってはもう慣れてしまった。

 祥平は軽く手を上げて手近な席に座る。

「邪魔はしないからあんまり邪険にしないでくれ」

「そう思うのなら透明人間にでもなって欲しいのだけれど。まあいいわ」

 数度咳払いをした月が発声練習を始めた。尖ったところのない、柔らかい水のような声がすんなりと耳に入る。祥平はまぶたを閉じて月の美声を聴き入る。

 いつしか、月の歌を聴くことが祥平の中で日課になっていた。彼にとって、彼女の歌はひとつの救いだった。死ぬためだけに過ごす残り三ヶ月の暗闇を、彼女の歌だけが月明かりのように仄かに照らしてくれる。

 いつも月は邪魔者に対するような言葉を投げかけてくるが、それでも最後は歌ってくれた。

 発声を終えた月が細長く息を吸う。時が凍るような一瞬の静寂の後、世界を作り変える歌が始まった。音楽に詳しくなかった祥平も、一週間以上彼女の歌を聞いていれば、それが何なのか分かるようになってきた。

 ふと、いつもは透明な歌声の中に、氷のように冷たい何かが混じっているような気がした。

「ねえ、部活はやらないの?」

 歌を終えた月が、珍しく声を掛けた。普段は一度発声に入ろうものなら時間まで歌に熱中していることが多かったから、祥平は答えに窮した。

「あ、ああ。もうそんな時期でもないだろ。高校二年の十一月なんて。いまさら入ってどうするんだよ」

「まあそうだけど。普段は何をやっているの? まさか、趣味のひとつもないなんて言うわけじゃないでしょうね?」

「ご明察。いまはなんにも」

「つまらない男ね」

 月があきれたように言った。自然と正していた姿勢を崩して、祥平は背もたれに寄りかかる。いまは落ち着いてはいるものの、彼も荒れていた時期はあった。最愛の幼馴染を失い、生きる意味すら分からなくなり、死の恐怖に捕らわれていた頃、ある種の不良のような生活を送っていた頃もあった。

「ああ、そうだな。つまらないな」

 苦いものを吐き出すように返すと、途端に月が慌て始めた。

「ちょっと、そういうのやめて。いえ、ごめんなさい。言い過ぎたわ」

 月らしくない殊勝な言葉に、祥平は思わず笑った。傲慢な口調が多い彼女だったが、根は悪いわけではないのだと思った。

「気にするなよ。一応昔は色々やってたんだ。単に飽きただけだよ」

「色々って、女遊びとか?」

 そういえばそんな時期もあったな、と思い出す。とても志乃には言えない消したい過去のひとつだった。

「多少は」

「やんちゃだったのね、あなたも」

 そう言って表情を和らげた月が、再び歌い始める。今度は聖歌だった。天国へ通ずるような歌に溺れながら、祥平はこの三年間をほんの少しだけ回想する。

 ずっと、志乃に会いたかった。一言だけでいいから、彼女と言葉を交わしたかった。それすら叶わない場所にいた祥平は、孤独の寂しさを消し去るために、彼女に似た女性を探していた。顔が似た子や声が似た子、雰囲気や性格が似た子と付き合い、すぐに違うのだと気づいて別れた。そのたびに自分の浅ましさに吐き気がし、記憶の中にある志乃を汚しているようで気が狂いそうだった。

 ――祥平くんは欠片も私を見ていない。ううん、きっと朝倉くんは誰も見ていない。友達も、教師も、きっと両親でさえ。

 最後に付き合った子は、祥平にそんなことを言った。笑ってしまうほどの正論だった。いまの彼は、両親ですらその記憶を消してしまったのだから。

「朝倉くん、志乃と何かあった?」

「は?」

 今度も唐突に話を振られて抜けた声が出た。いつの間にか聖歌を終えた月が、壇上に置かれた机に肘をついて祥平を見下ろしていた。

「し……紗枝倉がなんだって?」

 思わず名前で言いそうになって、すぐに言い直す。月が目を細めた。

「いえ、ただあの子、妙に朝倉くんの話をするから何かあったのかと思って」

「そういやお前ら親友だったな」

「で、真相は? まさか、変なことしたんじゃないでしょうね?」

 疑念の混じった視線を月が投げる。祥平は何でもないと示すように両手をあげた。

「身に覚えがないな。好かれる要素も嫌われることもした記憶がない」

 ほんとに? と月が信じていないような声色で言う。

「本当だ。紗枝倉の幼馴染の渉と俺がよくつるんでるから、単に目に入るだけだろ」

「そう? それならいいんだけど」

 納得したのか、月がようやく矛を収める。祥平は内心が表情に出ないように取り繕うことに必死だった。本当に身に覚えがなかった。祥平は机に肘を立てて指を組み、その上に額を乗せる。嫌な汗が頬を垂れた。

「紗枝倉は、なんて?」

「あら、気になるの?」

「そりゃ、男だしな」

 転校初日の昼休みから、祥平は極力志乃と接触しないようにしてきた。彼女が声をかけそうな雰囲気を察知するたびに席を外し、彼女の視界にすら入らないように慎重に行動してきた。いっそ自分のことは存在しないものだと思ってほしいとさえ願うほど、彼は欲望を抑えてきた。

 だから、志乃が朝倉祥平のことを誰かに話すなど、あってはならないことだった。

 月が艶やかな下唇を指で押さえて宙を仰ぐ。

「そうねえ、朝倉くんはいじわるだとか。ぜんぜん話してくれないだとか。渡会くんや私ばっかりずるいとか」

「なんだそれは」

「さあ? 確かにあなたと志乃が話してるとこ、見たことないから。ほんと、なんででしょうね」

 まあいいわ、と月がぞんざいに返したとき、第二音楽室の扉が開いた。入り口を見た月の顔が青ざめる。つられて祥平も見やると、口の中いっぱいに苦いものが広がった。

 転校初日に志乃と仲睦まじく話していた柏木湊だった。彼は祥平に視線を向け、すぐに月を見てため息した。

「そんな顔されると、少し傷つく」

「ご、ごめんなさい。悪気はないの」月が詰まった謝罪をする。

 全体的に女のような容貌をした湊が教室に入ってくる。

「ごめん、少し邪魔するよ」

 祥平に断った湊が月の前に立った。彼女は明らかに狼狽していた。何がなんだか分からない祥平は、二人の姿を遠巻きに見ることしかできない。

「冬川、こう何度も何度も来るのは迷惑かもしれないけれど、少しは考えてくれないかな? 戻ってきた方が君もいまよりずっといいはずだよ」

 なんだ、痴話喧嘩か、と祥平は思った。

 月が視線を逸らして不貞腐れたように返す。

「戻る場所なんて、いまさらないわよ」

「そんなことはない。本当はみんなだって待ってる。だから戻ってきてくれないかな? みんなで聖夜祭を迎えたいんだ」

 湊の言葉を受けて、きっ、と月が睨み付ける。この一週間の中で一度も見たことのなかった、彼女の怒りと悲しみの表情だった。

「聞こえのいいこと言って、どうせあなたも同じなんでしょ。私はいつだって厄介者よ。いまも、昔も!」

 感情を撒き散らした月は荷物を掴んで廊下に走り出した。

「待つんだ冬川!」

 伸ばした湊の手も声も置き去りにして、月が靴底を鳴らして教室から居なくなった。しばらくそうしていた湊は、途中で祥平がいることに気づいたのか、ばつの悪そうな顔をして腕を下ろした。

「ごめん、邪魔どころの騒ぎじゃなかったね」

「別に俺は構わないんだが、なんなんだ一体?」

 うーん、と唸った湊が頭をひとつかく。

「少し付き合ってくれないかな? 朝倉」

 祥平は眉をひそめる。

「名乗った覚えはないんだがな」

「聞いたんだ。志乃と渉から、少しだけね」

 いまはもう祥平は志乃の名を呼ぶことが叶わないから、湊が彼女の名を語ることが気に食わなかった。醜い感情だと思った。

「駅前の喫茶店に行こう。いい店があるんだ。おごるよ」

 湊に促されて、祥平はしぶしぶ首を縦に振った。月のこともそうだが、この男のことはある程度知っておきたかった。湊についていく形で第二音楽室を出る。昇降口に向かう途中、長い黒髪に顔が隠れた女子生徒とすれ違った。

 外に出ると、空はまだ薄い青色が支配していた。傾いた日が、二級河川の水面を金塊を転がしたように輝かせている。夜になると電気代を無駄に消費する見慣れた城が、下校途中の生徒たちを見下ろしていた。

 城下町を歩きながら湊が話す。

「聞いたよ。どうやら君が志乃のことを避けているみたいだってね」

 言葉に詰まる。あからさまにしているつもりは無かったのに、志乃にはお見通しのようだった。いや、本当に志乃か?

「それで、何を言いに来た」

「それは今日のと別。単純に気になったから言ってみただけだよ」

 考えの読めない男だ。祥平は前を向きつつ湊を盗み見る。女と見まごう顔をしているというのに、その瞳に秘められた感情の強さは男のそれと同じだ。

「んなことを今日の昼休みに話してたのか? 物好きだな」

 皮肉たっぷりの言葉を受けた湊はきょとんとすると、間を置いて面白そうに笑った。

「なんだかんだ言って見てたんだ。どうやら単純に志乃が嫌いって訳じゃなさそうだ」

「誰の差し金だ? 下手に探ろうとするな。不愉快だ」

「誰だと思う?」

 湊が飄々と笑う。その表情に苛立ちながらも祥平は考える。ひとりだけ思い当たる人物がいた。

「渉か……」

 渉は馬鹿のように見えて実際馬鹿だが、頭の回転自体は悪くない。特に、情報を仕入れるという点では祥平を軽く凌駕するところがある。そもそも、あからさまに気になるであろう、志乃の記憶喪失について知っている祥平に、渉が追求のひとつもしないのは不自然だった。

 だが、祥平の思考をあざ笑うかのように、湊が面白おかしく驚く。

「おや、思いも寄らない名前が出て来たね。その辺に何かがありそうだ」

 食えない男だと思った。湊は明らかに、志乃と自分に何かがあることに勘づいている。 だが何故、何を気づく?

 考えはまとまらず円環に閉じ込められたように答えは出ない。

「さて、着いたよ。中に入ろうか」

 気がつけば駅前にいた。湊が指しているのは新しく出来た喫茶店で、昔は飲み屋だった場所だった。出入り口のガラス戸から中を覗くと、学生や社会人、付近の商店街の住人と多くの人で賑わっていた。以前は注意深くしていなければ見つからなかったような店だったが、店が変わると打って変わって目立っていた。

 湊に連れられ中に入ると、心地のよいクラシック音楽が耳に滑り込んでくる。可愛らしい店員に連れられて唯一の空席に座ると、湊がメニューを差し出した。目を落とすと表紙に「フェアリーテイル」と英語の筆記体で書かれていた。

 嫌な名前だった。店員を呼んで、湊に勧められた黒糖コーヒーを二人分頼む。

「きれいどころばかりだな」

 忙しなく店内を行き来する店員たちを見やって祥平は言った。

「どうやら顔で選んでるらしい、と専らの噂。まあ、冬川に聞いたから間違ってはないだろうけど」

「あいつ、ここで働いてるのか?」

「そう、随分前からね。エプロン姿の冬川も悪くないよ?」

 湊はグラスに入った氷をからんと鳴らす。祥平は呆れに似たため息を漏らした。

「あいつと喧嘩別れした後に働いている店に来るその神経が分からないな」

「もちろん、今日は休み。それくらいは考えて行動してるよ」

 含み笑いを浮かべた湊がグラスに口をつける。腹に一物を抱えた表情が不気味だった。

「親しいのか? それともただのストーカーか?」

「前者だよ、当然」

 にこにこと人の良さそうな顔をして湊が答える。とても信頼できそうにない言葉だった。

 店員が黒糖コーヒーを持って現れた。なるべく彼から目を逸らさないよう、受け取ったそれを口に含む。仄かな酸味と独特の甘い味が口の中に広がる。意外と旨かった。

 それより、と彼が軽薄な笑みを消して指を組む。

「そろそろ本題に入ろうか。実は朝倉にお願いがあるんだ」

「ついさっき会ったばかりの俺に? お前が? 一体なんだ」 

「内容は単純だよ。冬川を合唱部に戻して欲しいんだ」

 祥平は自然と目を細める。

「どういうことだ?」

 湊が軽く咳払いをし、声を潜めた。

「冬川はあまり合唱部の部員と上手くいってないんだ。だから部内の雰囲気を悪くしないよう、冬川はひとり第二音楽室で練習してる。でもこんなことが続くと、より一層部員と冬川の溝が深くなる。だから早い内に戻って欲しいんだ」

 確かに、たったひとりで歌の練習をする彼女の行動を不審に思ったことがあったが、そんな背景があったとは気がつかなかった。絶世の歌が聴けるという目先の利益に飛びついていたから、周りが見えていなかったのかもしれない。

「内容は分かった。聞きたいことがふたつある」

 どうぞ、と湊が促す。

「ひとつ。なんで俺に頼む? 俺は一週間程度前に引っ越してきたばかりの新参者だぞ? 俺より遥かに長い付き合いで仲の良いお前の方がいいだろ。もうひとつ。どうしてそこまで他人の問題に踏み込もうとする? 言い方は悪いが、友達とはいっても違う部活の話じゃ関係ないだろ」

 うん、と湊がひとつ頷いて答える。

「いま冬川が心を開いているのが朝倉だから。もうひとつはボクも冬川と同じ合唱部員だから。答えになってるかい?」

 祥平は首を振る。湊は根本から勘違いしていた。月は最終的には歌ってくれるとはいえ、基本的には祥平のことを鬱陶しがっているのだ。

「なってない。あいつが俺に心を開いてるって? どこをどう見りゃそうなるんだ」

「なんていうかな」湊が困惑気味に頬をかく。「どう言ったらいいのか分からないけど。朝倉は冬川の容姿に対してじゃなく、純粋に歌に惚れて近づいたから、かな」

 祥平の中にある警報機が作動する音が聞こえた。得体の知れないものに対する怒気を孕んだ視線で湊を睨みつける。

「お前、どうしてそういうことが分かる?」

「見れば分かるよ。大体冬川に近づく男は容姿に惹かれる奴が殆どだからね」

「俺は冬川と一緒にいた場面をお前に見られた記憶がないんだがな?」

 湊は一拍間を開けたあと、唇の両端を吊り上げた。

「それについては黙っておこう」

 一言一句がいちいち苛立つ男だ。笑みを絶やさず考えていることが読めないこの男に力を貸すのはいささか躊躇いがある。だが、祥平にとって月の歌は、もはや唯一縋れるものといっていいほどの存在になっていた。どうしてこんなにもあの声に惹きつけられるのは分からないのに、心が彼女の歌を欲して止まない。

 もし、このまま何もせず、彼女の歌声が陰っていくとしたら、きっと二ヵ月後まで堪えることができそうにない。

 考えた末、祥平は湊の依頼に承諾した。湊はこれまでの胡散臭い表情を消し、ほっとしたように、始めて黒糖珈琲を飲んだ。

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